秋田駅からは、羽越本線で南下 羽後本荘・象潟・酒田方面へ
秋田駅(あきたえき、秋田県秋田市)を出ると、ここからは羽越本線(うえつほんせん)に従って、日本海側に沿って新潟方面へと向かいます。
羽越本線(うえつほんせん)とは、秋田県と新潟県を結ぶ線路です。
羽:出羽国(でわのくに)・秋田県と山形県
越:越後国(えちごのくに)・新潟県
昔は、路線名を決めるときは、旧国名の頭文字をそれぞれ取ったものも多かったといえます。
羽越本線は、途中で山形県最高峰の鳥海山(ちょうかいさん)や、日本海の海の景色がとても綺麗な路線でもあります。
秋田駅を出発
秋田駅を出ると、羽後本荘駅(うごほんじょうえき、秋田県由利本荘市)・象潟駅(きさかたえき、秋田県にかほ市)・酒田駅(さかたえき、山形県酒田市)・余目駅(あまるめえき、山形県東田川郡庄内町)、そして鶴岡駅(つるおかえき、山形県鶴岡市)の方面へと向かいます。
秋田駅から一駅進んだ羽後牛島駅(うごうしじまえき)の近くには、青春18きっぷユーザーの強い味方である快活CLUB秋田牛島店があります。完全鍵付個室がナイト8時間パックで2,110円です。
しかし駅からやや離れているため、夜と雪道の場合は少し気をつけて向かいましょう。
また快活CLUBは、秋田駅からバスで行ける範囲にある秋田新国道店もありますので(こちらも完全鍵付個室がナイト8時間パックで2,110円)、こちらも検討してみましょう。
羽後牛島駅を過ぎると、秋田市の代表的な川である雄物川(おものがわ)を渡ります。
羽後本荘駅(由利本荘市)に到着
日本海側に沿って南下すると、羽後本荘駅(うごほんじょうえき、秋田県由利本荘市)に着きます。
秋田県由利本荘市(ゆりほんじょうし)は、2005年に周辺の町が合併して出来た、新しい市です。また、江戸時代には、後述の象潟(きさかた)を管轄していた、本荘藩(ほんじょうはん)が置かれていた街になります。
市名は由利本荘市(ゆりほんじょうし)ですが、駅名は羽後本荘駅(うごほんじょう)になります。
慣れるまではやや紛らわしいですが、「駅名には旧国名がつくことが多い」ということを覚えておけば、駅名の方が「羽後本荘」だと比較的容易に判断することができるでしょう。
ちなみに羽後(うご)とは、秋田県のことです。
一方、羽前(うぜん)とは、山形県のことです。
明治時代になって、出羽国(でわのくに)は「羽前」「羽後」に分割されたのでした。そして昔は「京都に近い順」に「前」「中」「後」が決められていました。
例えば越後(えちご:新潟県)、越中(えっちゅう:富山県)、越前(えちぜん:福井県)のような感じです。京都に近い順に「前」「中」「後」になっていますね。
ここまでも何度か述べてきた通り、秋田県と山形県は大昔は「出羽国(でわのくに)」といっていました。
出羽国(でわのくに)は「羽州(うしゅう)」ともいいます。
その出羽国を、明治時代に2つに分けたのが「羽前」「羽後」というわけです。
象潟(きさかた) かつて松島のような島と海があった!?
やがて象潟駅(きさかたえき、秋田県にかほ市)に至ります。
象潟(きさかた)は、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の旅における、最も北端にあたる場所です。
つまりこの象潟を最北端に、松尾芭蕉の以降の旅程は北陸地方をずっと南下していくことになります。
そして最後は、ゴールの岐阜県・大垣(おおがき)に至り、大垣から江戸(東京)に戻ったというわけですね。
象潟(きさかた)は今でこそ陸地ですが、江戸時代の当時はなんと海であり、たくさんの島があった「入り江」だったわけです。
そして、入り江にたくさんの島々が浮かぶ、とても綺麗な景勝地だったということです。
その景色はまるで日本三景・松島(まつしま)ともよく似ており、
「東の松島・西の象潟」
とまで謳(うた)われるほどの、実際に松島と並ぶ景勝地としてよく知られていたそうです。
なので松尾芭蕉は、象潟に来た時にはまるで日本三景・松島(まつしま)に来たかのような感想を抱いたそうです。
というか、本当に海の上にたくさんの島があるようなイメージだったようです。
日本三景・松島については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
松尾芭蕉の「おくのほそ道」が江戸時代に刊行された後は、それに影響を受けた後輩の文人(や歌人)たちがまるで「聖地巡礼」のように象潟を訪れるようになったといいます。
江戸時代のリッチな旅のトレンドだった、象潟
江戸時代、象潟(きさかた)にはるばると訪れた旅人たちは、以下のように観光を楽しみました。
まずは、この場所で舟を雇います。これは遊覧船のようなイメージであり、舟をこぐための専門の人にギャラを払って、海にこぎだすというような段取りでしょうか。
船を手配できたら、次に、船で海に漕ぎ出して、水の上を遊覧します。
そしていずれかの島に上陸して、名産のシジミを肴(さかな:酒のつまみ)にして、酒を飲みながら「和歌」や「俳句」などをオシャレに詠むのです。
当時はこれこそがまさに、風流でおしゃれな遊びとみなされていました。これが出来る人はカッコよくてお金もある、と思われたのでしょう。
中には遊女(ゆうじょ:今でいうレンタル彼女のようなもの)たちを連れて、象潟の各島に上陸し、そこで派手に豪遊した文人らもいたそうです。つまりお金があれば、島の上でハーレム(たくさんの女子に囲まれてウハウハ状態になること)のような感じだったことでしょう。いつの時代も、これこそまさに男性の夢といった感じですね。
どんどん陸地化してゆき、景観が失われる象潟
しかしこれだけの景観を誇った象潟も、江戸時代後半にかけてどんどん海の水が干上がってゆき、陸地となり、今では完全に消滅してしまいました。
たとえば雨などによって土砂が海の底にどんどん溜まって(堆積して)いってしまい、海の底がどんどん浅くなってゆきます。やがては海底が上に露出して陸地になっていくわけです。このようなことが、江戸時代後半に次々に起きていったのです。
加えて、ただでさえ浅い海の底が
「栄養だらけ→海草だらけ」
という状態になります。
これを富栄養化(ふえいようか)といい、プランクトンが異常発生などした場合、海草がそれらを食べまくって、湖が緑だらけになってしまいます。
こうなると本来生えなくていい植物まで生えてしまうので、生態系が乱れるなど大変なことになります。
その増えすぎた海草が、しだいに陸に露出してきてしまい、「湿原」が発生することになります。
これを湿性遷移(しっせいせんい)といいます。
これらも、象潟に海が無くなり、陸地化が進行していった理由の一つになります。
現代に残っている、様々な昔の史料(古い本)などによれば、江戸時代半ばの18世紀に入ったときには、既に象潟湖(きさかたこ)の水が無くなってきており、もはや陸地化が急速に進んでいたそうです。
後述のように、最後には象潟湖は象潟地震(きさかたじそん)に伴う地盤隆起(じばんりゅうき:地面が下から突き上げられ、標高が上がってしまうこと)によって完全に消滅することになりました。
そして干上がって陸地になった部分は、やがて農民によって田んぼや畑へと変えられ、別の形で有効活用されていくわけです。
そして海水が干上り、たまたま高い陸地で「山」となった「島」は、後に人の手によって切り崩されることになって、消滅していきました。
象潟湖の陸地化の進行によって、綺麗な景観が無くなっていくと、先述の象潟湖での
「ちょっと豪華で風流な遊び」
すらも難しくなってゆきました。
海水の深さがどんどん浅くなっていったことで(特に干潮時は)、象潟湖に船で海に漕ぎ出すという行為が、そもそも困難になってゆきます。
海の底が浅いと、そもそも船が出せないためですね。
また、海へと繋がる湖口(入り江の入り口)が、土砂が積み上がることによって閉じられてしまうことがありました。
つまり入り江の「入り口」部分が、土砂が積み重なってしまい、「せき止め」されてしまったのです。
こうなると海水と湖水が混ざらなくなるため、次第に湖の水質が「汽水(=塩が混じる)」からやがて「淡水(=真水)」へと変化してゆきます。
すると、名物のシジミすら生息できなくなり、採れなくなってしまいます。
海水の塩分が薄くなり、真水(まみず)の湖のような感じになってゆくと、シジミの生息数が減少してゆき、シジミを採取しにくくなります。
こうしてシジミ料理も楽しめなくなってしまいました。
これにより、シジミを酒のつまみにして「飲めや歌えや踊れや」ということもできなくなります。
先述のようにレンタル彼女(遊女)を連れて、美女たちと象潟の島でワイワイと踊り狂う、ということもできなくなったのでした。
いつの時代も共通の「男の夢・ロマン」が失われた瞬間でもあったわけですね。
次々に失われる海 本荘藩の取った対策は
もちろんこうした状況を、象潟(きさかた)地域を管轄・支配していた本荘藩(ほんじょうはん)も、黙って見ていたわけではありませんでした。本荘藩とは、先述の通り江戸時代に由利本荘市(ゆりほんじょうし)を拠点にしていた藩ですね。
本荘藩は、象潟の海水が「干上がって陸地になっていく」という危機に、様々な手を尽くし、対策をしてゆきました。
まずは、せめてもの景観維持のための「植林」です。
江戸後半になると、象潟の入り江周辺に住んでいた百姓たちには、せめてもの景観維持のために「松」や「杉」などの木々を植林するように命じたのでした。
もちろんこれだけでは根本的な解決にはならないとは思いますが、海がどんどん無くなり、日本三景・松島のような景色ではなくなっていくと、観光客や旅人が減ってしまい、長期的に考えると大ダメージになるからですね。
せっかく来てくれた旅人たちを愕然(がくぜん)させないための工夫です。
そんな中、象潟の荒廃は、もはや改善されることはありませんでした。
とうとう業を煮やした本荘藩は、再度命令を発することにします。
それは、象潟入り江の近くに「田んぼ」や「畑」を耕したり、新たに埋め立て地を作ったりすることを「絶対禁止」にしたのです。
これらの本荘藩の様々な政策によっても、象潟の陸地化の進行を食い止めることはできませんでした。
もはや「自然現象には勝てない」というか、なるべくしてなるわけなので、どうにもこうにも仕方がない状況でした。
入り江(海)の底には、雨などが降るとどんどん土砂がたまっていくので、それによって海がどんどん浅くなってゆき、陸地へと変わっていくのです。
やがて江戸時代の後半にも、様々な旅人たちが象潟を訪れていますが、彼らの旅行記録によれば「もはやこの時点で、かなりの景観が崩壊してしまっていた」という様子が記されています。
つまり、島はくずれ、海水は無くなり、陸地と化した土地には今や「田んぼ」「畑」になってしまっていると書かれています。
さらには、入り江の「入り口」に土砂が堆積(たいせき)してしまって塞がれているのも原因であるため、そこを広げるための工事をするべきでは、という意見まで述べられたりもしています。
象潟地震により、完全消滅
極めつけは、1804年に起きた巨大地震である「象潟地震」が発生し、これによってとどめがなされました。
この地震により地盤が隆起(=地面が上に突き上がる)してしまったのです。つまり地震により陸地が押し上げられ、海の底が数メートル高くなってしまったことで、元から水深の浅かった象潟湖(入り江)は完全に干上がってしまったのです。
これにより、美しい海・象潟は完全に消滅してしまいました。
この地震のため、干あがって出来た土地を、せっかくなので有効活用しようという動きがでてきました。
いわゆる「ピンチはチャンス」というものです。
それは、新しくできた陸地に対して新田開発を行うことで、よりたくさんのお米を生産し、それによって藩の財源を増やそうとする計画ができたのです。
しかし干上がって出来た新しい陸地は、かつての海底になります。つまり塩分をたっぷり含んだ、海の底だったわけです。
そのため、稲を育てようとしても「塩害」によってやられてしまい、なかなか稲作はうまくいきませんでした。
そのため本荘藩は、もともと海面に出ていた象潟の「島(現:山)」を削って、掘ったときに出てきた土砂で地面を埋めたて、塩を含まない地面を作り上げました。
これが、今では元々あった象潟の島が存在しない理由になります。山を削って、そのときの土で田畑を埋め立てしたわけです。
これにより、塩分を含まない地面が出来、ようやく稲作も軌道に乗っていくことになったのでした。
人々の努力もむなしく、自然の力とともに消滅してしまった象潟ですが、少しでもその昔のあとを偲(しの)ぼうと、今でもたくさんの観光客が象潟を訪れるわけです。
また、象潟は松尾芭蕉に代表される、多くの有名な(松尾芭蕉に影響を受けた)文人たちが訪問した場所でもあります。なので、いわゆる「聖地巡礼」という目的で人々が訪れる場所でもあるのです。
鳥海山
羽越本線を南下し、秋田県と山形県の県境あたりにくると、窓の左側には鳥海山(ちょうかいさん)という、まるで富士山のように大きく美しい山が登場します。
鳥海山(ちょうかいさん)は、山形県と秋田県にまたがる、標高2,236mの活火山です。山頂は山形県に属しているため、山形県で最も高い山になります。
山形県と秋田県は、昔「出羽国(でわのくに)」と呼ばれていたので、出羽富士(でわふじ)とも呼ばれます。
まるで富士山のような美しいルックスのため、そう呼ばれるわけです。
いわゆる「郷土富士(きょうどふじ)」とよばれるものです。
なお、山頂となる最高標高2,236m地点は、山形県側にあります(遊佐町)。
鳥海山は、表向きは山形県の最高峰(=最も高い山)ではあるのですが、秋田県側にも広範囲でまたがっているため、どちらの県の山なのか、議論が分かれています。
もちろん秋田県民にとっては「秋田県の山だ!」という主張になりますし、山形県民にとっては「山形県の山だ!」という主張になります。
これは富士山が「静岡県の山なのか」「山梨県の山なのか」論争に似ています。
山梨県では「富士山は山梨県のものだ」という主張は絶対であり、異論は禁止となるようです(^^;
そして、秋田・山形両県、そして静岡・山梨の両県は山の所在をめぐってお互いにライバル関係にあることが多いです。
鳥海山に鎮座ある大物忌神社(おおものいみじんじゃ)は、出羽国(でわのくに)一宮(いちのみや)として崇められてきました。一宮(いちのみや)とは、その国で最も格式の高い神社のことです。
大物忌神(おおものいみのかみ)とは、鳥海山に宿るとされる神様です。
ちなみに山形県酒田市(さかたし)の西・日本海に浮かぶ島である飛島(とびしま)には、かつて鳥海山の山頂部が火山の大噴火によって吹き”飛”んできて、そのときの土砂で出来た”島“だ、という説があります。これが飛島(とびしま)の由来だというのです。
また、かつてその昔、鳥海山に住む鬼が神さまから罰を受けた際に、ふっ飛んできた「鬼の首」によって出来た島だ、という言い伝えもあります。つまり、鳥海山から「鬼の首」が”飛”んできて出来た”島”だから飛島(とびしま)というわけですね。
飛島(とびしま)に祀(まつ)られている小物忌神社(こものいみじんじゃ)は、鳥海山の大物忌神社とは対(つい)となる関係をなしている、という説もあります。
鳥海山から出てくる資源
1980年代後半から、鳥海山の南側の麓(ふもと)にある吉出山(←すみません、読み方わかりません・・・)という山において、業者による採石(さいせき)の仕事が始まっていました。つまり山を削って石を取り出して、建物などの材料とするべく販売し、利益を得るためです。
そして近年になって、石をたくさん掘るために大規模な掘削(くっさく:山をけずること)工事が行われるようになりました。しかしその結果として、山がギザギザになり、景観が大きく損なわれてしまうようにもなりました。
つまり、千葉県の鋸山(のこぎりやま)のように、山がギザギザした形になったわけです。
鋸山のようにそのインパクトを生かした観光名所になればよいのですが、地元の人々がそれを望んでいない場合は、ギザギザした山の景観は、基本的には好ましくないわけです。
また石を掘ると、どうしても川が汚れてしまいます。すると水資源の汚染も懸念されることになってしまいました。
なので山形県・遊佐町(ゆざまち)の町民等が、採掘事業の中止を求めるという事態となっています。こうした町の問題は「街の利益・発展」と「自然環境」のトレードオフ(=片方の利益を追求すると、もう片方が損なわれる)の関係となるため、難しいところです。
酒田駅に到着 かつて北前船の拠点だった、山形県酒田市
象潟駅からさらに南下すると、山形県に入り、やがて酒田駅(さかたえき、山形県酒田市)へ着きます。
山形県酒田市(さかたし)は、江戸時代の大金持ちだった河村瑞賢(かわむら ずいけん)により造られた海のルートである西回り航路(北前船/きたまえふね)の拠点でした。昔は長距離トラックや航空輸送などもなかったので、舟で荷物を運んだ方が一番効率が良かったのです。そして農民から年貢(税金)として徴収された大量のお米も、こうした海のルートを通じて、舟で天下の台所・大坂へと運ばれます。
西回り航路(北前船)は、西へと船で米を運ばれ、日本海側を移動します。
やがて山口県下関市の関門海峡(かんもんかいきょう)から瀬戸内海に入り、そこから東へ進み大坂(大阪)に向かいます。
そんな大回りしなくても、福井県(敦賀あたり)から内陸部に入り、琵琶湖・淀川(よどがわ)を通じて、大坂に入ればいいんじゃない?みたいな感じで、本州を縦断してショートカットする経路も考えられるわけですが、山岳地帯の地形が難しく、さすがにそれは実現しませんでした。明治時代になると貨物列車がメインとなったため、余計にその必要性は無くなりました。
出羽国の中心地・酒田
酒田には、かつて平安時代に朝廷が出羽国(でわのくに)の国府(こくふ)として築いたとされる城輪柵(さく)跡があります。
国府(こくふ)とは、その国の中心機関のことであり、現代でいう県庁のようなものです。
柵(さく)とは、昔の東北地方でよくみられた、いわば敵の侵入を防ぐバリアーを張り巡らせた軍事拠点のようなものです。いわば「お城の簡易バージョン」ともいえます。あくまで「政治拠点」としての性格が強く、西日本でいう「お城」ほどの防御力はありませんでした。
1672年に河村瑞賢(かわむら ずいけん)が、先述の「西廻り航路(北前船/きたまえふね)」を確立すると、その拠点である酒田の町はますます栄えていくようになります。船がたくさん寄るようになると、港で働く人たちがたくさん増えます。人が増えると住民にサービスを提供する商店なども増えるようになるため、ますます町は大きくなっていくわけです。
酒田のその繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」ともいわれました。大阪の堺(さかい)は、どの大名からの支配も受けない「自治都市」として栄えていたわけですが、酒田もそれを参考にして自治都市として栄えていたのでした。酒田の町は「三十六人衆」という自治組織により運営されていました。つまり防御専門の武士達がいたわけです。
酒田も影響を受けた自治都市・堺については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 関西編 第60番 堺市に到着!「ものの始まり」の街 貿易・水運・鋳造の歴史
1689年には、松尾芭蕉が「おくの細道」の旅で酒田に訪れています。
最上川で2005年に起こった、羽越本線脱線事故
酒田駅を出てさらに余目(あまるめ)・鶴岡(つるおか)方面へ向かうと、山形県最長の川である最上川(もがみがわ)の橋を渡ります。ここは残念ながら、2005年に悲惨な脱線事故が起きた場所になります。つまり福知山線脱線事故があった年の、冬の時期に起きた事故ということになります。
羽越本線脱線事故(うえつほんせんだっせんじこ)は、2005年12月25日に、羽越本線・砂越駅(さごしえき)~北余目駅(きたあまるめえき)間にある最上川(もがみがわ)の橋で、突然吹いたとてつもなく強い風によって発生した、列車脱線事故です。
秋田発・新潟行きの特急「いなほ号」がこの橋を通過した直後に突風に襲われてしまい、結果的に全車両が脱線してしまいました。
この事故により先頭車両に乗っていた5人が死亡し、32人が重軽傷を負うこととなりました。
事故の発生した2005年12月、寒い冬の山形県庄内(しょうない)地方では、例年と比べてもかなり激しい吹雪(ふぶき)が、しかも毎日のようにずっと続いていました。
つまり2005年はかなり風が強かった年であり、そして毎日のように厳しい吹雪に見舞われていたわけです。
事故発生当日の夜18時には、酒田市で落雷までもが観測されており、大気の状態が非常に不安定という、かなりの悪天候となっていました。
そして事故発生当時、酒田市では「横なぐりの雨」が降っていたようです。
雨が横に降るわけですから、相当に強い風だったことがわかります。
それでなくても日本海側は、とにかく風が強い地域です。とりわけ庄内地方は、風車を使った風力発電までもが出来るほどの地域なので、かなり風の強い地域ともいえます。
事故の直接の原因は「突風」とされています。つまり「竜巻(トルネード)」のように、突然とてつもなく吹く強い風だったということです。
当時現場の周辺に住んでいた住民たちからも、
「今までかつて体験したことがないような、ものすごい風だった」などという証言が出ています。
さらに、
「周辺の防砂林(=風によって吹き付けてくる砂が、住宅地に入ってくるのを防ぐための林)の松の木が倒れている」
などという目撃情報から、竜巻クラスの突風が吹いたことは明白になってきます。
こうした強すぎる風により、列車ごと吹き飛ばされてしまった、という説が有力になってきたわけです。
その風速はなんと40メートル(m/s)以上にも及んだと推定されています。
ちなみに風速15mもあれば、向かい風に沿って歩くのも厳しいレベルであり、もはや台風レベルです。
風速30mにも達すると、もう相当な強風になります。
列車ごと吹っ飛ばした風速40mというのが、いかに強い風だったかということがわかります。
しかし事故当日は、気象庁が観測した最大瞬間風速は21.6m程度であり、JR東日本の風速計でもだいたい20m程度、という結果でした。
つまり、この時はまさか風速40mもの突風が吹くとは、誰も予想することができなかったのです。
なので、誰の手によっても予測はほぼ不可能であり、事故はもはや人間の能力では避けられなかった状態だったものだと結論づけられました。
運転士の過失はあったのか?
この列車には、当時29歳の運転手と、車掌の2名が乗務していました。
2005年12月の事故発生当日、列車は秋田駅を発車した時点で、既に1時間1分の遅延となっていました。
そして途中の「風の強い区間」では、あえて遅い時速25kmで走行しており、運転手は減速することにより、安全確保のための措置をとっていたことが後にわかっています。
その結果、事故直前の酒田駅を発車した時点では、既に1時間8分にまで遅延が拡大していました。
事故が発生した時も、本来であれば時速120kmで走行するところを、運転士は「自らの判断」により、時速約100km程度まで減速して走行していたことが、事故後の調査でわかっています。つまり、かなり運転士の方はかなり賢明な判断をされていたことがわかります。
一方、同じく2005年に起きた福知山線脱線事故のように、焦った運転士は遅延回復のために無謀なスピードアップをやってしまうことがあります。
しかし今回は、無理なスピードアップや遅延回復のための挽回行為などといった、いわゆる「安全性を無視した無謀な運転」を行ったというような形跡はみられなかったといいます。
福知山線脱線事故については、以下の記事でも解説しておりますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 東海道編 第61番 尼崎に到着!池田、伊丹、有馬への分かれ道 そしてあの事故の跡
そして事故が発生した後、運転士はすぐに無線で救助のための要請を行い、車掌と自分の2人で、消防が到着するまでの時間をなんとか耐え抜き、必死になって救助作業を行ったのでした。そのとき、運転手自身も重傷だったといいます。
そして運転士は、なんと消防隊員が到着した時、
「私よりも先に、お客さまの救助をお願いします」
と言い、懸命になって救助作業を続けたといいます。
なんとも素晴らしい勇士でしょうか。
また、他の(羽越本線の)運転歴が20年に及ぶベテラン運転士も、インタビューにおいて
「たとえ突風が原因だったとしても、予測できないものであれば、運転士の力ではどうしようもない」
と語っています。
つまりベテランの自分が運転していたとしても、あの事故を防ぐことはできなかったであろう、という意味です。
それもこの事故の原因は、運転士の経験不足・能力不足・安全への不注意などでは決してなく、誰も予想できなかった突風によって起こされた事故だったわけです。
「ドップラーレーダー」の実用化による、強風予知システムの発展
しかしながら、いくら予測できなかったとはいえ、同じ事故を二度と繰り返さないための対策が、とても重要になってきたのでした。
そのため、今後の対策として「ドップラーレーダー」の運用を開始することになりました。その後数年をかけて、全国の気象台にもドップラーレーダーを次々に設置してゆき、さらには一般の気象予報(天気予報)においても普通に使えるようにしていく、という壮大な計画が始まったのでした。
そしてJR東日本は大きな予算をかけて、未然に自然災害事故を防止する対策について研究するための施設である「防災研究所」を設立したりもしました。
また、2年後の2007年には余目駅(あまるめえき)の屋上(おくじょう)に1億円もの予算をかけ、JRグループとしては初めて(というか、鉄道事業者としても初)のドップラーレーダーを設置しました。このドップラーレーダーは、(強風を)探知をすることが可能な距離がなんと約30キロメートルもの広範囲におよぶという、優れものでした。これは、事故につながる強風を事前に検知するための、第一歩になります。
突風を予知するための研究には、庄内地方の各地に設置してあるドップラーレーダーや、約25ヵ所にも及ぶ観測地点などから得られた様々なデータを解析し、シミュレーションしてゆく(つまりコンピューターなどで解析して、事故につながる強風でないかどうかを判定してゆく)ことで、突風が発生するに至るまでの詳細なメカニズム(法則・原理など)を解明してゆく、というものでした。
つまり、過去のさまざまな(風に関する)データを統合して計算してゆけば、「この日には強風が発生するだろう」ということが予測しやすくなったということです。これにより、かつては予測不可能だった突風の探知が、より高い精度で実現してゆくことになりました。
さらにこの事故の対策として、防風柵(ぼうふうさく)なども設置することになりました。つまり、強風が列車に当たらないようにするための柵を設置していった、ということです。こうして約100億円もの予算をかけて、強風による列車事故を防ぐための仕組みが次々に打ち出されていくことになったのでした。
現代の我々の鉄道の安全運行は、こういった過去の悲惨な事故と、それを対策していこうという人々の努力や取り組みによって実現していることを忘れてはならないのだなぁ、と実感させられます。
次回は、余目駅へ
やがて、陸羽西線(りくうさいせん)との分岐駅である余目駅(あまるめえき)に到着します。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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