羽越本線・酒田~余目の鉄道旅と、鳥海山の地理・歴史などについて、初心者の方にも、わかりやすく解説してゆきます!
鳥海山のふもとをゆく
羽越本線を南下し、秋田県と山形県の県境あたりにくると、窓の左側には
- 鳥海山
という、まるで富士山のように大きく美しい山が登場します。

鳥海山(羽越本線の車窓より)
鳥海山とは?
ここで鳥海山とは、山形県と秋田県にまたがる、標高2,236mの活火山です。
山頂は、山形県に属しています。
そのため、山形県で最も高い山になります。
出羽の郷土富士「出羽富士」鳥海山
山形県と秋田県は、昔「出羽国」と呼ばれていたため、出羽富士とも呼ばれます。
まるで富士山のような美しいルックスのため、そう呼ばれるわけです。
いわゆる「郷土富士」とよばれるものです。

鳥海山(羽越本線の車窓より)
なお、山頂となる最高標高2,236m地点は、山形県側にあります(遊佐町)。
鳥海山は、果たして本当はどっちの県の山なのか!?
鳥海山は、表向きは山形県の最高峰(=最も高い山)となっています。
しかし、秋田県側にも広範囲でまたがっているため、どちらの県の山なのか、議論が分かれています。
もちろん、
- 秋田県民にとっては「秋田県の山だ!」という主張になりますし、
- 山形県民にとっては「山形県の山だ!」という主張になります。
これは、
に似ています。
山梨県では「富士山は山梨県のものだ」という主張は絶対であり、異論は禁止となるようです(^^;
そして、秋田・山形両県、そして静岡・山梨の両県は山の所在をめぐってお互いにライバル関係にあることが多いです。
鳥海山に存在する大物忌神社
鳥海山に鎮座ある大物忌神社は、 出羽国一宮として崇められてきました。
一宮とは、その国で最も格式の高い神社のことです。
大物忌神とは、鳥海山に宿るとされる神様です。
鳥海山の山頂が吹き飛んでできた!?飛島
ちなみに山形県酒田市の西・日本海に浮かぶ島である、 飛島には、
という説があります。
すなわち、これが飛島の由来だというのです。
鳥海山の鬼の首が飛んでできた島!?
また、
- かつてその昔、鳥海山に住む鬼が、神さまから罰を受けたときに、
- ふっ飛んできた「鬼の首」によって出来た島だ
という言い伝えもあります。
つまり、鳥海山から「鬼の首」が”飛”んできて出来た”島”だから飛島というわけですね。
飛島に祀られている小物忌神社は、鳥海山の大物忌神社とは対となる関係をなしている、という説もあります。
鳥海山から出てくる資源

鳥海山
かつてたくさん「石」が掘り出されていた
1980年代後半から、鳥海山の南側の麓にある吉出山という山において、業者による採石の仕事が始まっていました。
つまり山を削って石を取り出して、建物などの材料とするべく販売し、利益を得るためです。
そして近年になって、石をたくさん掘るために大規模な掘削(山をけずること)工事が行われるようになりました。
しかし堀り過ぎて、山がギザギザに・・・
しかしその結果として、山がギザギザになり、景観が大きく損なわれてしまうようにもなりました。
つまり、千葉県の鋸山のように、山がギザギザした形になったわけです。
鋸山のようにそのインパクトを生かした観光名所になればよいのですが、地元の人々がそれを望んでいない場合は、ギザギザした山の景観は、基本的には好ましくないわけです。
石の掘りすぎで、川が汚れてしまった
また石を掘ると、どうしても川が汚れてしまいます。
すると水資源の汚染も懸念されることになってしまいました。
なので山形県・遊佐町の町民等が、採掘事業の中止を求めるという事態となっています。
こうした町の問題は「街の利益・発展」と「自然環境」のトレードオフ(=片方の利益を追求すると、もう片方が損なわれる)の関係となるため、難しいところです。
酒田駅(酒田市)に到着
かつて北前船の拠点だった、山形県酒田市
象潟駅からさらに南下すると、山形県に入り、やがて酒田駅(山形県酒田市)へ着きます。

酒田駅(山形県酒田市)
西回り航路(北前船)の拠点・酒田
山形県酒田市は、江戸時代の大金持ちだった河村瑞賢により造られた海のルートである、 西回り航路(北前船)の拠点でした。
昔は「船」がメインの手段だった
昔は長距離トラックや航空輸送などもなかったため、舟で荷物を運んだ方が一番効率が良かったわけです。
そして農民から年貢(税金)として徴収された大量のお米も、こうした海のルートを通じて、舟で天下の台所・大坂へと運ばれます。
西回り航路(北前船)とは?
ここで西回り航路(北前船)は、西へと船で米を運ばれ、日本海側を移動します。
やがて、
- 山口県下関市の関門海峡から瀬戸内海に入り、
- そこから東へ進み、大坂(大阪)に向かいます。
みたいな感じで、本州を縦断してショートカットする経路も考えられるわけですが、山岳地帯の地形が難しく、さすがにそれは実現しませんでした。
明治時代になると貨物列車がメインとなったため、余計にその必要性は無くなりました。
出羽国の中心地・酒田
酒田には、かつて平安時代に朝廷が出羽国の国府として築いたとされる城輪柵跡があります。
国府とは、その国の中心機関のことであり、現代でいう県庁のようなものです。
「柵」とは?
ちなみに柵とは、昔の東北地方でよくみられた、いわば敵の侵入を防ぐバリアーを張り巡らせた軍事拠点のようなものです。
いわば「お城の簡易バージョン」ともいえます。
あくまで「政治拠点」としての性格が強く、西日本でいう「お城」ほどの防御力はありませんでした。
河村瑞賢、西廻り航路の確立
1672年に河村瑞賢が、先述の「西廻り航路(北前船)」を確立すると、その拠点である酒田の町はますます栄えていくようになります。
船がたくさん寄るようになると、港で働く人たちがたくさん増えます。
また、人が増えると住民にサービスを提供する商店なども増えるようになるため、ますます町は大きくなっていくわけです。
「西の堺、東の酒田」
酒田のその繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」ともいわれました。
大阪の堺は、どの大名からの支配も受けない「自治都市」として栄えていたわけです。
しかし、酒田もそれを参考にして自治都市として栄えていたのでした。
酒田の町は「三十六人衆」という自治組織により運営されていました。
つまり防御専門の武士達がいたわけです。
酒田も影響を受けた自治都市・堺については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

1689年には、松尾芭蕉が「おくの細道」の旅で酒田に訪れています。
最上川で2005年に起こった、羽越本線脱線事故
酒田駅を出てさらに余目・鶴岡方面へ向かうと、山形県最長の川である最上川の橋を渡ります。
ここは残念ながら、2005年に悲惨な脱線事故が起きた場所になります。
つまり福知山線脱線事故があった年の、冬の時期に起きた事故ということになります。
羽越本線脱線事故とは?
羽越本線脱線事故は、2005年12月25日に、羽越本線のうち
- 砂越駅
- 北余目駅
の間にある最上川の橋で、突然吹いたとてつもなく強い風によって発生した、列車脱線事故です。
秋田発・新潟行きの特急「いなほ号」がこの橋を通過した直後に突風に襲われてしまい、結果的に全車両が脱線してしまいました。
この事故により先頭車両に乗っていた5人が死亡し、32人が重軽傷を負うこととなりました。
例年と比べ激しい吹雪が、毎日のように続いていた
事故の発生した2005年12月、寒い冬の山形県庄内地方では、例年と比べてもかなり激しい吹雪が、しかも毎日のようにずっと続いていました。
つまり2005年はかなり風が強かった年であり、そして毎日のように厳しい吹雪に見舞われていたわけです。
夜18時には、落雷までもが観測される、かなりの悪天候だった
また、事故発生当日の夜18時には、酒田市で落雷までもが観測されており、大気の状態が非常に不安定という、かなりの悪天候となっていました。
そして事故発生当時、酒田市では「横なぐりの雨」が降っていたようです。
雨が横に降るわけですから、相当に強い風だったことがわかります。
それでなくても日本海側は、とにかく風が強い地域です。
とりわけ庄内地方は、風車を使った風力発電までもが出来るほどの地域なので、かなり風の強い地域ともいえます。
事故の直接の原因となった「突風」
なお、事故の直接の原因は「突風」とされています。
つまり「竜巻(トルネード)」のように、突然とてつもなく吹く強い風だったということです。
当時現場の周辺に住んでいた住民たちからも、
などという証言が出ています。
さらに、
などという目撃情報から、竜巻クラスの突風が吹いたことは明白になってきます。
風速40メートル(m/s)以上にも及んだ強い風
こうした強すぎる風により、列車ごと吹き飛ばされてしまった、という説が有力になってきたわけです。
その風速はなんと40メートル(m/s)以上にも及んだと推定されています。
ちなみに風速15mもあれば、向かい風に沿って歩くのも厳しいレベルであり、もはや台風レベルです。
風速30mにも達すると、もう相当な強風になります。
列車ごと吹っ飛ばした風速40mというのが、いかに強い風だったかということがわかります。
誰にも予想することができなかった強風
しかし事故当日は、気象庁が観測した最大瞬間風速は21.6m程度であり、JR東日本の風速計でもだいたい20m程度、という結果でした。
つまり、この時はまさか風速40mもの突風が吹くとは、誰も予想することができなかったのです。
したがって、誰の手によっても予測はほぼ不可能であり、事故はもはや人間の能力では避けられなかった状態だったものだと結論づけられました。
運転士の過失はあったのか?
この列車には、当時29歳の運転手と、車掌の2名が乗務していました。
2005年12月の事故発生当日、列車は秋田駅を発車した時点で、既に1時間1分の遅延となっていました。
そして途中の「風の強い区間」では、あえて遅い時速25kmで走行しており、運転手は減速することにより、安全確保のための措置をとっていたことが後にわかっています。
「自らの判断」で、時速約100km程度まで減速走行していた
その結果、事故直前の酒田駅を発車した時点では、既に1時間8分にまで遅延が拡大していました。
事故が発生した時も、本来であれば時速120kmで走行するところを、運転士は「自らの判断」により、時速約100km程度まで減速して走行していたことが、事故後の調査でわかっています。
つまり、かなり運転士の方はかなり賢明な判断をされていたことがわかります。
一方、同じく2005年に起きた福知山線脱線事故のように、焦った運転士は遅延回復のために無謀なスピードアップをやってしまうことがあります。
しかし今回は、無理なスピードアップや遅延回復のための挽回行為などといった、いわゆる「安全性を無視した無謀な運転」を行ったというような形跡はみられなかったといいます。
福知山線脱線事故については、以下の記事でも解説しておりますので、ご覧ください。

「私よりも先に、お客さまの救助をお願いします」勇敢な運転士の行動
そして事故が発生した後、運転士はすぐに無線で救助のための要請を行い、車掌と自分の2人で、消防が到着するまでの時間をなんとか耐え抜き、必死になって救助作業を行ったのでした。
そのとき、運転手自身も重傷だったといいます。
そして運転士は、なんと消防隊員が到着した時、
と言い、懸命になって救助作業を続けたといいます。
なんとも素晴らしい勇士でしょうか。
どんなベテランでも、事故の発生は不可避だった
また、他の(羽越本線の)運転歴が20年に及ぶベテラン運転士も、インタビューにおいて
と語っています。
つまりベテランの自分が運転していたとしても、あの事故を防ぐことはできなかったであろう、という意味です。
それもこの事故の原因は、運転士の経験不足・能力不足・安全への不注意などでは決してなく、誰も予想できなかった突風によって起こされた事故だったわけです。
「ドップラーレーダー」の実用化による、強風予知システムの発展
しかしながら、いくら予測できなかったとはいえ、同じ事故を二度と繰り返さないための対策が、とても重要になってきたのでした。
そのため、今後の対策として「ドップラーレーダー」の運用を開始することになりました。
その後数年をかけて、全国の気象台にもドップラーレーダーを次々に設置してゆき、さらには一般の気象予報(天気予報)においても普通に使えるようにしていく、という壮大な計画が始まったのでした。
「防災研究所」の設立
そしてJR東日本は大きな予算をかけて、未然に自然災害事故を防止する対策について研究するための施設である「防災研究所」を設立したりもしました。
また、2年後の2007年には余目駅の屋上に1億円もの予算をかけ、JRグループとしては初めて(というか、鉄道事業者としても初)のドップラーレーダーを設置しました。
このドップラーレーダーは、(強風を)探知をすることが可能な距離がなんと約30キロメートルもの広範囲におよぶという、優れものでした。
これは、事故につながる強風を事前に検知するための、第一歩になります。
突風を予知するための研究
また、突風を予知するための研究には、
- 庄内地方の各地に設置してあるドップラーレーダーや、約25ヵ所にも及ぶ観測地点などから得られた様々なデータを解析し、
- シミュレーションしてゆく(つまりコンピューターなどで解析して、事故につながる強風でないかどうかを判定してゆく)ことで、
- 突風が発生するに至るまでの詳細なメカニズム(法則・原理など)を解明してゆく
というものでした。
つまり、過去のさまざまな(風に関する)データを統合して計算してゆけば、 「この日には強風が発生するだろう」 ということが予測しやすくなったということです。
これにより、かつては予測不可能だった突風の探知が、より高い精度で実現してゆくことになりました。
防風柵などの設置
さらにこの事故の対策として、防風柵なども設置することになりました。
つまり、強風が列車に当たらないようにするための柵を設置していった、ということです。
こうして約100億円もの予算をかけて、強風による列車事故を防ぐための仕組みが次々に打ち出されていくことになったのでした。
現代の我々の鉄道の安全運行は、こういった過去の悲惨な事故と、それを対策していこうという人々の努力や取り組みによって実現していることを忘れてはならないのだなぁ、と実感させられます。
次回は、余目駅へ
やがて、陸羽西線との分岐駅である、余目駅に到着します。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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