東北・日本海側の旅6 羽越本線・酒田→余目→鶴岡 最上川と庄内の繁栄の歴史に挑戦

酒田を出て、最上川を渡り、余目駅に到着

酒田駅(さかたえき、山形県酒田市)を南下し、山形県で最長・最大の川である最上川(もがみがわ)を渡ると、陸羽西線(りくうさいせん)との分岐駅である余目駅(あまるめえき、山形県東田川郡庄内町)に着きます。

余目駅(山形県東田川郡庄内町)

最上川に沿った、陸羽西線

陸羽西線(りくうさいせん)は、山形県で最長・最大の川である最上川(もがみがわ)に沿った路線になります。

最上川(陸羽西線の車窓より)(山形県)
陸羽西線の車窓より

陸羽西線は、余目駅を東に分岐して、やがて新庄駅(しんじょうえき、山形県新庄市)に至ります。

山形県最長・最大の最上川

最上川(もがみがわ)は、山形県最長・最大の川であり、また山形県民の歌(事実上の県歌)にも唱われるほどの、山形県にとってはとても重要な川です。また、複数の県にまたがらず、一つの県のみで完結する川としては、日本一長い川でもあります。参考までに、日本一長い川である信濃川(しなのがわ)は、長野県・新潟県といった具合に複数県にまたがっています。

最上川は、古くから水上交通の要でした。
昔はまだ貨物列車もトラックも無かった時代でしたから、船で荷物(お米が中心)を載せて運んだ方が効率が良かったためですね。
その舟で、山形盆地などで産出されたお米や、木材などを運んでいたのです。

最上川から水を引っ張ってきた、灌漑(かんがい)工事の歴史

かつて最上川からは、灌漑(かんがい)といって、農業に必要な水を、田んぼに引っ張ってくる作業・工事がとても重点的に行われてきました。特に鎌倉時代に入ると、本格的に灌漑を行ってゆくための用水路(=水が通る道)の整備・工事が始まってゆきました。

もしこの「灌漑設備」がないと、もはや自然の雨などに頼るしかなくなります。そうなると、天候によって収穫高が大きく左右されるようになるため、飢饉(ききん)にも見舞われやすくなります。また、灌漑が無いと川の近くでしか田畑ができない、という状態にもなります。そうなると、川の近くの土地をめぐって、奪い合いの争いが勃発してしまい、そうなると国の治安が乱れてしまう可能性もあるのです。なので、灌漑はとても重要なことなのでした。そして灌漑のために、最上川の水を引っ張ってくるこもはとても重要なのでした。

灌漑が発達するまでは、主に川や湖などから水を引っ張ってくるぐらいだったのですが、それだと先述の通りあまり効果が無かったのでした。
なので、より広い範囲にわたって、大規模な農地に対して大容量の水を供給するために、たとえば堤防(小規模なダム)などを作って「塞き止め」によって水を貯めるなどを行うことによって、より大量の水を田畑に流し、供給することが可能となってゆきました。

江戸時代になってからの庄内地方

江戸時代になるにつれて、最上川(もがみがわ)が流れる地域の人々や農村は、どんどん堤防や用水路などを作ってゆきました。これにより、より大容量の水を田畑に対して流せるようになってゆきました。江戸時代にもなると人口がどんどん(爆発的に)増えていったため、より沢山のお米を生産する必要があったのです。なので、田畑にもより大量の水の供給が必要になってくるのというのは、ある意味では必然的なことだったといえます。

江戸時代になると、庄内(しょうない)地方の管轄・管理・支配は、最上義光(もがみ よしあき)がトップとして君臨する山形藩(やまがたはん)が担当することとなりました。
そして義光(よしあき)は、まずは庄内地方の田んぼや畑に対して、先述の通りより大容量の水を供給していくため、灌漑(かんがい)整備を進めていくことになるのです。

そして義光(よしあき)の下で、川から取ってきた大容量の水を通すための用水路を、当時の人々らの手によって一生懸命に掘っていったわけですね。

そして、こうした灌漑のための用水路は、当時はある程度の高低差がないと水が流れませんでした。それは水は平坦な場所ではまともには流れないからです。なので用水路には、ある程度は傾斜が必要でした。つまりこのときの用水路は、より低い土地である庄内平野(しょうないへいや)に対して水を引っ張ってきて、水を流れ下りさせ、農地に水を供給するための用水路でした。

庄内平野(しょうないへいや)は、最上川の下流地域に広がる、先述の余目駅(庄内町)を含むエリアの平野です。庄内平野は全国的にみても、かなり上位の米の名産地です。江戸時代には、灌漑で庄内平野の多くの田畑に対して、よりたくさんの水が行き届くようになったのでした。

江戸時代に灌漑が進んでいった結果、庄内地方の農産物の生産力は大幅に向上していくことになってゆきます。庄内平野の農地は急速に拡大してゆき、食べる人(=消費者)も働く人(=労働人口)もたくさん増えてゆくことになってゆきました。それに伴って、平野には集落(=人々の住む村・町)がどんどん作られてゆき、町が発展していったのでした。

江戸時代のはじめにあたる1622年には、庄内地方において最上騒動(もがみそうどう)という内輪揉めが起きてしまいました。これによって、現在の鶴岡市(つるおかし)に本拠地を置いていた庄内藩(しょうないはん)のトップ(藩主)・最上氏(もがみし)は、江戸幕府からの罰を受けて改易(かいえき:不祥事などが原因で左遷されること)されることになってしまいました。

最上氏がいなくなってしまった後の庄内地方は、酒井氏(さかいし)という一族が庄内藩のトップとして庄内藩を支配してゆくことになってゆきました。
そして、ここまでもずっと進められてきた灌漑(かんがい)などの整備・工事は、幕末に至るまで、引き続き庄内藩の下でバージョンアップを行ってゆき、進められていったのでした。

しかし、その後も大雨や台風などによる洪水は何度も起こりました。江戸時代全体を通じて、おおよそ7年に1度というかなりの頻度で洪水が発生してしまい、庄内平野は最上川の氾濫などで水浸しになってしまい、多くの人々を苦しませました。
そのため、河川の工事を行うための、大小の普請(ぶしん)が行われることになりました。それは、藩がお金を出しあって、川に堤防を築いたり、川の幅を広くしたり、川を(急カーブを減らして)真っ直ぐにするなど、大雨で増水したときに氾濫しにくい川にするたの工事をやっていったわけです。

現代の川が氾濫しにくくなっているのは、こうした昔の人々の犠牲・努力・苦労のもとに存在しているものなのですね。

最上川と松尾芭蕉

最上川(もがみがわ)は、江戸時代に松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅でも通った場所でもあります。

松尾芭蕉は、日本三景・松島を見たあとは、宮城県から現在の仙山線(せんざんせん)のルートで山形県に入り、立石寺(りっしゃくじ)を訪れたあと、新庄(しんじょう)から最上川を下ってゆき、日本海側・庄内平野に出てきてから酒田・象潟(きさかた)を訪れています。これは前回も解説した通りです。

松尾芭蕉は象潟(きさかた)を最北端にして、その後は北陸地方をずっと南下してゆき、ゴールである岐阜県大垣市(おおがきし)に至った後、江戸(東京)に戻っています。

風も強い庄内平野

庄内平野(しょうないへいや)は、風がとても強いので、風力発電も盛んです。

庄内地方には「清川だし」という名の強い風が吹き、「日本三大悪風」の一つだと言われてきました。

昔は、あまりにも強風過ぎて、農作物にも悪影響を及ぼしてしまうなど、歴史的にとても忌(い)まわしい風だとして人々からは嫌われてきました。しかしそれを逆手に取り、「これだけ強い風なのだから、これを風力発電に生かしていってやろう!」という真逆の発想のもと、庄内平野では風力発電がたくさん行われてゆくことになったのでした。そして平野には、風車がどんどん建設されていくことになったのです。

鶴岡に到着 庄内藩の本拠地

余目駅から南下すると、やがて鶴岡駅(つるおかえき、山形県鶴岡市)に到着します。

鶴岡駅(山形県鶴岡市)

山形県鶴岡市(つるおかし)は、月山(がっさん:標高1,984m)・羽黒山(はぐろさん:標高414m)への拠点となっているほか、江戸時代には庄内藩(しょうないはん)の本拠地として栄えてきました。

庄内藩(しょうないはん)は、江戸時代に現在の鶴岡市を本拠地として、現在の庄内地方を知行(ちぎょう:支配すること)していた藩です。

別表記で、荘内藩(しょうないはん)とも書きます。

庄内藩は先述の通り、酒井氏(さかいし)という一族が、江戸時代の最後まで一貫して統治し続けました。そして庄内藩の藩庁(はんちょう:「県庁」や「市役所」のような場所)は、鶴岡市にある鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)に置かれました。

酒井氏は譜代大名(ふだいだいみょう:関ヶ原の戦いで、徳川家に味方をした大名)であり、また譜代大名は比較的転封(てんぽう)された大名が多い職種ではありました。しかし酒井氏の場合は、確かに何度か転封の危機は何あったものの、後述する「住民たちからの必死の引き留め」などが実を結んで転封が一度も無かったという、数少く珍しい譜代大名の一つでもあります。

とても結束の強かった庄内藩 なんども藩主の転封を回避

庄内藩は、藩主(=リーダー)・家臣(=家来)・領民(=住民)の結束がとても固かった藩であったことが特徴的でした。

たとえば江戸時代後期に、現在の埼玉県にあたる川越藩(かわごえはん)の大名・松平氏(まつだいらし)が、自身の藩が財政ピンチに陥っていたのでした。そこで裕福であった庄内藩に目を付け、庄内藩の領地を狙ってやろうと、なんと自分の領地と庄内藩の領地の「トレード」を江戸幕府に対して申し出てきたのでした(かなり身勝手ですね)。

これを三方領知替え(さんぽうりょうちがえ)といい、

川越藩(かわごえはん:埼玉県川越市)→庄内藩(山形県鶴岡市)
庄内藩長岡藩(ながおかはん:新潟県長岡市)
長岡藩川越藩

のように、三角トライアングルの形式での領地替えを提案したわけです(結果は失敗)。もしこれが実現してしまえば、住民が長年慕ってきた酒井氏は新潟県・長岡へ飛ばされてしまい、新しいリーダーとして縁もゆかりもない松平氏が着任してしまう、という庄内藩住民にとっては望んでいない結果・未来が待ち受けてしまう、ということになります。

しかしこれは、庄内藩の住民による転封反対運動によって、なんと幕府からの命令を撤回させてしまったのです。なぜ住民がこれだけ反発したのかというと、上記のような川越藩・松平氏の身勝手な理由と、庄内藩への「不正のでっちあげ」が行われたからです。庄内藩はずっと真面目にやってきたこともあり、言い掛かりをつけられる筋合いなどありませんでした。何よりも、長年の苦労で築き上げあげた庄内藩の豊かな生産力や土地を、川越藩に理不尽な理由で奪われたくなかった、というのが大きな理由としてあったのでした。そのため、庄内藩の人々は立ち上がったのです。

これを天保義民事件(てんぽうぎみんじけん)といいます。天保(てんぽう)とは江戸時代後期の元号の一つで、水野忠邦(みずの ただくに)の時代です。義民(ぎみん)とは、とても良い民という意味です。

しかもこの転封工作は、仲の良い藩主と住民の絆を「わざと」引き裂かせて、藩の勢力を削ぐという、どう考えても嫌がらせ的な部分もあったりしました。しかし団結力の強い庄内藩は、住民と藩主(酒井氏)のゆるぎない絆によって、藩主のトレードを全力で回避したのです。

幕末の戊辰戦争(ぼしんせんしう)では、庄内藩は明治新政府に敵対する旧幕府軍奥羽列藩同盟(=旧幕府軍の東北地方のグループ)につきました。
そのときに、約2,000人の農民・町民たちが、兵に(自ら)志願してゆきました。
しかし残念ながら庄内藩は明治新政府軍に敗北してしまい(※庄内藩は無敗の強さを誇りましたが、同盟の他のメンバーがほとんど負けたため、戊辰戦争トータルでは敗者扱いです)、戦闘では300人以上の死傷者を出しながらも、愛する庄内藩のために最後まで勇敢に戦い抜いたのでした。

その戊辰戦争の敗戦後、勝利した明治政府から敗者である庄内藩主の酒井氏に対して、移転(というか左遷)の処罰が下されました。しかしその時にも、藩の家来や住民たちが協力しあって、なんと30万両(今の価値で、約90億円ほど※)もの献金を集めたのです。
そして、そのお金を明治政府に対して納めることで、なんと庄内藩主を呼び戻しています。
どれだけ藩主を想っていたのでしょうか。

※幕末のレートで、だいたい一両=約3万円で計算。

これを今で例えると、住民が県知事や市長のことを信頼し過ぎ・好きすぎて、政府にお金までを払って県知事や市長を呼び戻すようなものです。
現代では兵庫県知事がパワハラで住民の怒りを買って辞めさせられたりするなど、知事や市長に対しては批判が集まりがちな令和の現代からしたら、ちょっと考えにくいですよね・・・それだけ庄内藩が素晴らしかったということです。

現代でも酒井氏の宗家(本家)は、庄内に住んでおられるそうです。そして、当主は殿(との)と呼ばれることすらあるそうです。それだけ、酒井氏は、庄内地方では人々から尊敬の念を集めているということがよくわかります。

以上からわかるように、酒井氏は、歴史的に領民(住民たち)を手厚く保護していく、という政策が基本姿勢となっていました。
今風にいえば、まさに「住民ファースト」といった感じでしょう。

そして庄内藩が危機に陥った場合においては、武士と住民が1体となって協力していく、という体制が長年にわたって出来上がっていったのでした。

次回は、村上・新発田方面へ

次回は、鶴岡から羽越本線でさらに南下し、村上(むらかみ)・新発田(しばた)、そして新潟方面へ向かってゆく行程となります。

今回はここまでです!

お疲れ様でした!

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