青森の第一回から続けてきた東北・日本海側の旅シリーズは、今回の新潟でゴールということにします。しかし、おまけ・エキストラ編で糸魚川(いといがわ)・大糸線(おおいとせん)も書いていく予定です。
新発田駅から白新線で、新潟駅へ
前回で新発田駅(しばたえき、新潟県新発田市)に到着していましたが、新発田駅からは白新線(はくしんせん)に乗り換て、新潟駅(にいがたえき、新潟県新潟市)へと向かいます。
ここまで通ってきた羽越本線(うえつほんせん)は、新発田駅から先は、新潟駅のやや南の新津駅(にいつえき、新潟県新潟市秋葉区)までの路線になります。羽越本線でそのまま行くと、基本的には新津駅での乗り換えが必須になるため、新潟・吉田(よしだ:新潟よりもさらに西の駅です)方面へ向かうのであれば、白新線の方が便利だからです。
ちなみち白新線(はくしんせん)の由来ですが、これは新潟駅のすぐ西に白山駅(はくさんえき)という駅があり、昔の建設当初は白山駅~新発田駅を結ぶ予定の路線だったため、「白新線」という路線名になっています。これを知らないと、なかなか想像つきませんよね。ちなみに白山駅は、現在は新潟駅~柏崎駅(かしわざきえき、新潟駅柏崎市)を結ぶ、越後線(えちごせん)の駅になっています。
新発田駅を出て新潟方面へ向かうと、阿賀野川(あがのがわ)という大きな川を渡ります。阿賀野川ははるか内陸の福島県・会津(あいづ)地方のかなり奥の方から流れる川であり、全国第10位の長さを持つ川です。そして磐越西線(ばんえつさいせん)に沿って流れる川であり、県によって川の名前が変わります。
福島県:阿賀川(あがかわ)
新潟県:阿賀野川(あがのかわ)
です。
そして先述の羽越本線における、新発田~新津間には阿賀野市(あがのし)という自治体があり、阿賀野市には白鳥だらけの湖である瓢湖(ひょうこ)があります。瓢湖にはたくさんの白鳥が訪れるので、人気があります。
ほどなくして、新潟駅(にいがたえき、新潟県新潟市)に到着です。
新潟の歴史を、以前よりもさらに深掘り! 名高き新潟港は、どのようにして誕生したか
新潟の歴史において、例えば「沼垂駅(ぬったりえき)」「万代橋(ばんだいばし)」などの基本的な知識については、以下の記事でも解説しておりますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 北陸編 第42番 鉄道の町・新津と秋葉山 亀田を過ぎ、やがて新潟(沼垂)へ
鉄道唱歌 北陸編 第43番 沼垂駅(当時)を降りて、信濃川を渡る かつて1km近くあった万代橋
鉄道唱歌 北陸編 第44番 信濃川を渡れば新潟市 たくさんの舟が行き交っていた街
今回は、新潟の歴史について、前回よりもさらに深掘りしていこうと思います。しかし、なるべく旅行初心者の方にもなるべくわかりやすく、噛み砕いて説明していこうと思います。
「新潟(にいがた)」という地名が歴史の記録に出てくるようになるのは、戦国時代ころからようやく、という感じです。昔の日本では今の新潟県を「新潟」とは呼んでおらず、「越後(えちご)」というのが基本でした。
「新潟」という記載がある最も古い史料は、1520年の「越後過去名簿」という書類になります。つまりそれ以前に書かれた歴史書には、「新潟」という言葉がどこにも出てこないため、大昔の人々によって「新潟」と呼ばれていたという根拠がとこにも無いというわけです。
今では「開港五港(ごこう)」と呼ばれる名高き新潟港は、この戦国時代ころから存在していたものと思われます。本当に最初期の新潟港は、同じく新潟に存在する蒲原津(かんばらみなと)・沼垂湊(ぬったりみなと)と合わせて、「三か津」と呼ばれていました。
ちなみに蒲原(かんばら)とは、現在の新潟駅から約500mほど北東の地域であり、沼垂(ぬったり)とは新潟駅のやや東の地域になります。そして戦国時代までは、この蒲原・沼垂の方が港としてはメインだったのでした。
ちなみに「津(つ)」「湊(みなと)」「港(みなと)」は基本的にどれも同じような意味ですが、「津」であれば本当に大昔の、小さな舟(木で出来た舟)がそこそこ泊まっているような、まるで小さな漁村というイメージです。そして「港」というと「本当に現代的な大きな船が泊まっているような港湾都市」みたいなイメージですかね(若干筆者の主観も混じっています)。もちろん、現代の新潟市・新潟港は立派な港湾都市です。
話がズレましたが、新潟津(新潟港)が戦国時代に新しく出てきてからは、それまでの既存の蒲原津(かんばらつ)は衰えてしまいました。それ以降は、新しくできた新潟津(新潟港)の方が中心的な港となってゆきました。
戦国時代の、新潟港の権益をめぐる争い
戦国時代も後半にあたる1580年になると、新発田氏(しばたし)という一族が、新潟の港を占拠してしまいました。しかし新潟といえば、越後の神様というべき存在である上杉家(うえすぎけ)がいました。あの「戦いの神様」とも呼ばれ、戦国時代に無敵を誇った上杉謙信(けんしん)が有名ですね。
そんな上杉氏が、新潟港を我が物顔で乗っ取ろうとする新発田氏のやりたい放題を、黙って見ているわけにはいきません。
ここに上杉景勝(かげかつ:上杉謙信の後継者)と、新発田家との間で抗争が始まったのでした。
新発田 VS 上杉 の戦いです。
しかし1586年になり、それまで新発田家に味方していた新潟・沼垂(ぬったり)の町民たちが、上杉(うえすぎ)の側へと寝返った(味方についた)のです。これはもしかしたら住民たちの新発田家への反発や、上杉家への尊敬の念などがあったのかもしれません。その結果、上杉側は新潟・沼垂(ぬったり)の地域を再び制圧し、平和に治めることができたのでした。
一方、この戦いに敗れ、新潟津(新潟港)を失ってしまった新発田氏は、ついには翌年の1587年に滅ぼされてしまいます。
すると上杉氏にとっての邪魔者がいなくなった越後国(新潟県)は、上杉景勝(かげかつ)によって統一されることになりました。
まさに当時の越後・新潟県は上杉の天下だったわけです。ただし後の1598年に豊臣秀吉の命令によって福島県・会津(あいづ)に、石高を大きく増やされた上での栄転となります。しかし「関ヶ原の戦い」で徳川家に逆らった罪で、江戸時代には大きく石高(こくだか)を減らされて山形県・米沢(よねざわ)へと飛ばされてしまったのです。
江戸時代には長岡藩の管轄だった新潟港
江戸時代に入ってからの新潟港は、現在の新潟県長岡市(ながおかし)にあたる長岡藩(ながおかはん)の領土・管轄下におかれるようになりました。つまり、江戸時代の新潟県(越後国)の中心地は、新潟市ではなく長岡市だったということです。そして長岡藩が、新潟港の管理・管轄を行っていたのでした。新潟港を人々に使わせてあげる代わりに、料金を取って、その収入が長岡藩の利益となっていたわけです。
つまりそのビジネスモデルは、新潟港を船乗り・働く人々・荷物を載せたり下ろしたりする人々にとって満足にいくような港にするために、港のバージョンアップ・改修・修理などをしたりして、新潟港を利用する人の顧客満足度(?)を高めます。その代わり、港の利用料金を徴収してゆき、それが新潟港を所有する長岡藩の利益となるわけです。
現代の港でも、港湾管理者が、利用する船から使用料を徴収しています。港湾管理者が、船にとって満足できるような港を提供するために、または港の安全性を維持するために、港の整備・維持・修理・バージョンアップなどの仕事をすることの対価というわけです。
江戸時代に大量増産した、新潟の田・お米
江戸時代は、新田開発が盛んに行われていた時期でした。それは戦国の世が終わって争いがなくなると、平均寿命が伸びて人口爆発がおきるようになり、人々(世の中)はたくさんのお米を必要とするようになってくるからです。江戸時代にはこうした「人口増加」などの背景から、どの藩もせっせと田んぼを耕し、農地を増やし、川などから水を引っ張ってきて稲の生産量を増やしてゆきました。こうして、越後平野(えちごへきや)の生産力もどんどん増加してゆきました。
今や新潟県は、日本一のお米の産地です。それは「食の宝庫」ともいわれる北海道(全国第2位)すら凌いでいるのです。
新潟港は、江戸時代に「北前船(きたまえふね)」が寄って停泊する港としても、大いに賑わい、発展してくることになりました。
江戸時代の大金持ち商人であった河村瑞賢(かわむら ずいけん)は、日本海の海のルートである北前船(きたまえふね)を開拓・整備してゆきました。北前船は「西回り航路」ともいいます。それは日本海をぐるっと大回りし、山口県・関門海峡(かんもんかいきょう)から瀬戸内海(せとないかい)に入り、天下の台所・大坂(大阪)へと至るルートです。昔は貨物列車や高速トラック等がなかったため、舟で大量の荷物を運んだ方が効率が良かったためです。また、各地で徴収された年貢米(税金)は、こうした北前船に載せられて、大坂へと運ばれていったのでした。
新潟港は、北前船のルートにおける各地の港の中では、日本海側では屈指の港にまで発展するに至りました。つまり日本海側ではトップクラスの港ということであり、多くの舟が立ち寄る場所になっていたのでした。舟がたくさん来るということは、荷物を載せたり(下ろしたり)、舟を修理したりといった、港で働く人たちが増えることにもつながります。また、舟人などが泊まるための宿場やお店なども増えてゆきます。こうして港町が発展してゆくというわけです。
幕末に起きた、新潟港をめぐる様々なトラブル
江戸時代の後半にあたる1768年、長岡藩による御用金(ごようきん)を原因とする一揆である新潟明和騒動(にいがた めいわそうどう)が発生します。
御用金(ごようきん)とは、幕府や藩が各地・住民らに対して、何らかの理由で(理由をつけて)徴収するお金のことです。それは緊急時の対策や災害時の支援など、様々な名目をつけて徴収するお金のことです。
今回の場合は、当時火災や洪水などで財政難に陥っていた長岡藩が、新潟町(今の新潟市)に対して多額の御用金を請求したことが原因でした。当時は新潟港にもあまり船が来てくれない(利用者が少ない)ことにより新潟の町も不景気に陥っており、長岡藩に対してなかなか御用金が支払えませんでした。これに対して藩は「反逆行為」だとして、新潟港の町民を処罰してしまったのです。これにより、藩に対する町民たちの反感を招いてしまい、一揆を起こされてしまったというわけです。
これはある意味、年貢を課されすぎて、百姓一揆などがおこってしまうのと一緒ですよね。いつの時代も、理不尽な要求というのは誰にとっても受け入れられませんし、反感を招いてしまうものです。
江戸時代後期、新潟港では密輸(みつゆ)が行われていたことがバレてしまい、幕府は新潟港の規制を強化することになります。
密輸(みつゆ)とは、本来貿易してはいけないものを貿易することです。わかりやすい例が、日本の法律では許可されてない(けど外国では許可されている)物を輸入したりすること等です。
つまり、新潟港で勝手に密輸をやっちゃったので、港を所有する長岡藩は幕府の怒りと不信感を買ってしまったということです。
この不祥事がきっかけで、長岡藩は罰として当時財政的に厳しかった川越藩(かわごえはん:埼玉県川越市)への転封(てんぽう:左遷させること)をさせるという案が持ち上がったのですが、前々回解説したとおり庄内藩(しょうないはん)の猛反対にあい、実現とはなりませんでした。
江戸時代後期の1843年には、新潟町(現在の新潟市にあたる地域)を「幕府領」にしました。つまり「天領」ということであり、長岡藩の管轄・所有ではなくなったということを意味します。これを「新潟上知」といいます。理由はおそらくですが、先述の不祥事のために、幕府の長岡藩の不信感が増したことにも原因があることでしょう。当時はただでさえ、外国船が日本近海に出没していたような時期です。世界中で船の性能が向上し、日本にも開国や貿易を迫るように、外国船がたくさん接近してくるような時代に突入していました。もし新潟港で密輸でもやらせてしまったら、外国から最新鋭の武器などを輸入されてしまい、幕府の脅威になる可能性もあったはずです。なので幕末に、幕府は新潟港を幕府の所有にしたのかもしれません。
明治時代、新潟港は「開港5港」の1つに
1858年に締結された日米修好通商条約によって、幕末に開港された「開港5港」の一つとして、新潟港は日本海側における外国人にとっての日本の玄関口の1つとなりました。開港5港とは、函館・横浜・新潟・神戸・長崎の5つになります。
しかし10年後の1868年に、新政府軍と旧幕府側との争いである戊辰戦争(ぼしんせんそう)が勃発します。とりわけ、新潟県で起きた戊辰戦争の一部を北越戦争(ほくえつせんそう)といいます。ちなみに「北越(ほくえつ)」とは、越後国(新潟県)の北部、という意味です。
1868年7月の北越戦争において、新潟の町は戦場となってしまい、戦災によって市街地は消失してボロボロの状態となってしまいました。そんなボロボロの状態で、明治維新を迎えることとなりました。後述のように太平洋戦争(大東亜戦争)のときは空襲の被害に遭わず、市街地が無傷の状態で終戦を迎えたのとは対照的です。
明治時代になると、1870年には越後国・長岡藩を改め「新潟県」が新たに発足します。そして新潟町(当時)は、新潟県の県庁所在地となりました。やがて新潟町は1889年に新潟市となり、現代に至ります。
新潟市の憩いの場ともいえる白山公園(はくさんこうえん)の開設や、第四銀行といった大きな銀行が設立されてゆき、さらには新潟県会(現代の県議会)の開設などがど次々に行われてゆきました。このようにして、近代的な機能を備えた(明治の新しい日本らしい)街へと進化・発展していくことになります。
明治時代の後半になると、新津油田(にいつゆでん)における、機械による掘削(くっさく:地面や岩などを削って掘ること)が本格化してゆきます。つまり機械の力を使って、石油をガッポリ掘ってやろう!ということですね。これによって新潟県は国内でも珍しい、石油の採れる場所になります。
大正時代になると、新潟市の南部にあたる新津町(にいつちょう)は「石油の町」として栄えてゆきました。
そして日本を代表する「国内最大の油田」となり、新潟では石油産業がどんどん発達していくことになります。しかし当時はまだまだ石炭が主流の時代であり、石油が本格的に一般的になるのは1960年代頃からはじまった「エネルギー革命」からになります。
ガソリンスタンドでお馴染みのENEOS(エネオス)も、元々は新潟県が発祥となります。
1930年代、上越線の開通 東京~新潟の交通が圧倒的便利に
昭和に入り、1931年になると、上越線(じょうえつせん)が全通します。
これによって、東京~新潟の所要時間が11時間→7時間と大幅に短縮されることになりました。
それまでのルートは軽井沢・長野・直江津経由の「鉄道唱歌 北陸編」で歌われているまさしくそのルートであり、当時は約11時間かかっていました。
しかし、群馬県と新潟県の間にある、上越国境(じょうえつこっきょう)となるの長大トンネル(清水トンネル:全長9,702m)が開通したことにより、関東地方と新潟県が一直線で結ばれることになったのでした。
上:上野国(こうずけのくに)群馬県
越:越後国(えちごのくに)新潟県
で、「上越」です。新潟県上越市の「上越」とは意味が異なりますので、注意しましょう。
上越線の開通により、東京~新潟の移動が4時間短縮され、約7時間となったわけです。
ちなみに清水トンネルは、川端康成の小説「雪国」の有名な冒頭にある「国境の長いトンネル」のことであるとされています。
満州国との連絡拠点になった、新潟市
翌年の1932年(昭和7年)には、中国の東北部に満洲国(まんしゅうこく)が建国されます。
満州国(まんしゅうこく)とは、前年の満州事変(まんしゅうじへん)で、わざと「自作自演」で満州の鉄道を爆破させて、これを「中国軍の仕業(しわざ)だ」などと言い掛かりをつけ、それに対する「仕返し」という名目で満州を占領して、出来た国です。
まあ、めちゃくちゃな理由で勝手に造られたという国ですね。
しかしこれが日本の「自作自演」だということは国際社会からもアッサリとバレてしまったので、国際社会からの批判を受けることになります。
一応日本も、批判を避けるために、満州国のトップには中国王朝からの王様を担ぎ出してきて、いかにも中国の一部である(日本が侵略したわけではない)という体裁をとりました。
このようにして一応、建前上は「日本は侵略しておらず、中国の一部だ」として世界からの批判を免れようとしたのでしたが、誰がどう考えても満州国は日本によって占領された、傀儡(かいらい。あやつり人形のこと)政権であることは明白でした。
これは建前(タテマエ。英語:Tatemae)を使って表向きをごまかそうとするという、いかにも日本人らしいテクニックです(※ディスる意図はありません)。
しかし「タテマエ文化」の存在しない海外の人々からすれば、こんな小細工は残念ながら通用しないわけです。
「建前」は英語で「Tatemae」であり、つまりそれに該当する英語が無いのです。つまり「建前」とは日本独特の文化であり、アメリカ人などが日本で生活するとこの「建前」が理解できず、とても苦労するそうです。
例えば「たくさん食べてね!」と言われると、日本人ならば「これは建前だな」と判断して、空気を読んで食べすぎるのを遠慮するわけですが、アメリカ人の子供や私(筆者)のような発達障害(ASD)の人は、この「たくさん食べてね!」を本当に真に受けてしまい、遠慮なく全部食べてしまって、後から怒られる・嫌われるというパターンです。
私(筆者)も「建前」が全く通用しないので、空気を読むことが苦手で子供の頃からどれだか怒られたかわかりません(^^;
(※一応補足しておくと、英語で「建前」はpublic stance(=表向きの立場)などの表現があり、アメリカでも(日本ほどではないものの)建前文化は存在しているようです。)
話がだいぶズレましたが、このようにして国際的な批判を浴びつつも、満州国は出来上がりました。当時は昭和恐慌の時代であり、この恐慌を打破するためには「満州を手に入れるしかない!(満州は我が国の生命線)」というスローガンが、当時の絶望した日本国内に漂っていたのでした。「貧すれば鈍する」という言葉があるように、人間は切羽(せっぱ)詰まると、愚かな行動や判断をするようになるものです。
新潟港は、その満州国に最も近い港として機能していました。
当時は航空機がまだ充実していませんでしたから、船で外国へ行くというのが一般的だったからです。
ともあれ満州をなんとか占領した日本は、満州国を「日本の一部」としてどんどん強くしていく必要性があったので、満州との交通・輸送力をどんどん強化してゆきました。
そして先述の通り、前年に上越線が開通していたことに加え、政府は新潟~満州を結ぶ「日満航路(にちまんこうろ)」を開設しました。国の命令で建設する航路なのですから、国の税金・予算がこれでもかと惜しみ無く投入されていくわけで、よほどの気合いの入れようです。
ここでもしお金(軍事費)をケチったら、戦争に負けて国が滅ぶことを意味するというような時代だったからです。
こうして新潟港は「東京から鉄道で満州に最も近い、日本海側の港」となりました。こうして東京~新潟~満州という、一大軍事ルートが出来上がったわけです。
太平洋戦争 無傷・無人で戦争を終えた新潟市
1941年12月8日の真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)がきっかけで開戦した太平洋戦争(大東亜戦争)は、1942年6月のミッドウェー海戦で敗北してからは、戦局がどんどん悪化してゆきます。そして、1944年7月にサイパン島が陥落したことが原因で、日本列島は一気にピンチになります。それは、もしサイパン島の飛行場が米軍のものになると、B29といった大型爆撃機がサイパン島から飛べるように飛行場・滑走路が大型化し、B29が日本本土にまで飛んでこられるようになるからです。そうなると、日本列島がB29による空襲の範囲に収まってしまうということになります。
しかし新潟市はB29による大規模空襲は、ずっと受けてきませんでした。
ところが広島・長崎に原爆が投下された後の1945年8月11日、とうとう新潟にも原子爆弾が投下される恐れが高くなっているとして、市民対して緊急疎開(そかい:安全な田舎などに逃げること)が布告されるようになります。
というのも、当時既に広島・長崎に原爆投下されていたため、新潟市が次のターゲットになることは十分考えられたからです。それは先述の通り、新潟市はまだ空襲も行われていない無傷の状態だったため、アメリカ軍にとっては原爆の威力を実験・検証するのにとても適していたためです。
近隣の長岡市は既に大空襲(長岡大空襲)を受けており、街が既に壊滅状態にあったため、アメリカ軍にとって長岡市に原爆を投下する意義はほぼありませんでした。なのでまだ大空襲を受けていなかった新潟市は、原爆投下の格好のターゲットとなる可能性があったのでした。
なぜなら、当時のアメリカにとって原爆投下は
「世界に対する見せしめのため」
「核兵器の威力を計測・検証するため」
「今後の核実験の参考にするため」
などの様々な目的・思惑もあったため、既に壊滅状態にあった長岡市などの街に原爆を投下したとしても原爆の正しい破壊力が計測できず、意義が薄れてしまうというわけです。
なので、まだ空襲を受けていない新潟市が原爆投下のターゲットになることは、十分に考えられたのでした。
そのため、子供を含む市民たちはみんな遠くへ疎開してしまったため、新潟市街地はほとんど無人の状態となってしまいました。
しかし結局、後述の理由により原爆の投下はなんとか免れました。そして市街地は無人に近い状態で終戦を迎えることになりました。そして新潟市街地(街並み)も、無傷の状態で終戦を迎えたことになります。
もし日本政府が「ポツダム宣言」を受け入れずにそのまま戦争継続していたら、新潟市も原爆投下のターゲットになっていたかもしれません。
ちなみにアメリカによると、実際に新潟は原爆投下の候補地の一つとしての案はあったそうです。
しかし、
「新潟は工業地域・小さな工場のある地域・人々が居住地域がそれぞれ互いに離れている(一点集中していない)ため、原爆投下の対象としては不適当である」
などの理由から、最終的に原爆投下の候補からは外されることになったのでした。
原爆は一点集中型の攻撃ですから、市街地がお互いに離れておらずに密集しているほど、大きな効果を発揮します。
なので工業地帯と住宅地が大きく離れていた当時の新潟市街地は、原爆投下による効果は薄く、不適切だと判断されたということです。
戦後の新潟県は、田中角栄(たなか かくえい)という偉人政治家が出たこともあり、1982年の上越新幹線の建設や、関越自動車道(かんえつじどうしゃどう)といった高速道路ができたこともあり、東京~新潟のアクセスは格段に向上していき、新潟市は今や日本海側のとても重要都市となっています。
まとめ 歴史を知ると、観光も楽しくなる
今回は特に歴史の話ばかりになってしまい申し訳ありませんでしたが、ここまで新潟市の歴史を振り返ってきて、私自身も新潟市の歴史についての見方がかなり変わり、かなり興味深くもなりました。
あなたの何らかの参考になれば幸いです。
今回で東北・日本海側の旅シリーズは終えたいと思いますが、エキストラ編で糸魚川(いといがわ)・大糸線(おおいとせん)についても書いていく予定てす。
今回はここまでです!
お疲れ様でした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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