糸魚川の観光・歴史について、わかりやすく解説してゆきます!ヒスイ・糸魚川静岡構造線・フォッサマグナなどについても解説してゆきます!
今回は、東北・日本海側の旅シリーズのエキストラ編
前回で、新潟駅(にいがたえき、新潟県新潟市)にまで到達しました。
今回は、前回までやっていた東北・日本海側の旅シリーズのエキストラ編(番外編)です。
長野の松本・東京に至るまで、是非お付き合いください。
新潟駅から、糸魚川・東京へのルートあれこれ
糸魚川までは、まずは信越本線で直江津へ
新潟からは、信越本線(しんえつほんせん)にて直江津駅(なおえつえき、新潟県上越市)まで向かいます。
の順で、東京まで帰還します。
東京への帰還までが、エキストラ編(番外編)です。
新潟から直江津までの移動が便利な、特急しらゆき
新潟から直江津までは「特急しらゆき」が便利です。
特急「しらゆき」は、「えちごトキめき鉄道・妙高はねうまライン」の区間に乗り入れて、
- 上越妙高駅(じょうえつみょうこうえき、新潟県上越市)
- 新井駅(あらいえき、新潟県)
にまで至ります。
信越本線を使った、新潟から直江津までのルート
新潟→新津→三条→長岡→柏崎→直江津の路線については、以下の記事にて解説しているため、ご覧ください。
【新潟→新津】

【新津→三条】

【三条→長岡】

【長岡】

【柏崎】

【米山】

【柿崎・犀潟】

【直江津】

青春18きっぷ ルール大幅改定に注意
青春18きっぷは、2024年冬から大幅に利用既定が変わり、連続した5日間でしか利用できなくなりました。
なので「任意の日だけを選んで乗車」ということができなくなりました。
そのため、基本的に土日にしか休みの取れないであろう、サラリーマンの方々にとっては、ややキツイ仕様となりました。
これにより、恐らく多くの大人の方々が、青春18きっぷ利用を断念せざるを得なくなってくるでしょう。
青春18きっぷの代わりに、普通乗車券を使うという選択肢
なので今後は、代わりに「普通乗車券」の利用もご検討いただきたいと思います。
我々が普段乗っている普通乗車券は、100キロ以上になると「途中下車」ができるようになります。
距離が長くなるほど、有効日数が長くなる
また普通乗車券は、距離が長くなるほど「2日間有効」「3日間有効」のように、有効日数が長くなってゆきます。
これにより、夜に途中の街に着いたら途中下車して、宿泊したあと、再び列車に乗るということができます。
そのため、このようにすれば「青春18きっぷ」と同じような使い方ができます。
さらに、特急券を買えば特急列車に乗ることも可能です。
ただし普通乗車券は、青春18きっぷと違い、来た道を(同じ券で)戻ることはできませんので注意しましょう。
直江津駅からは、「日本海ひすいライン」で糸魚川へ

えちごトキめき鉄道・直江津駅(新潟県上越市)
直江津駅(なおえつえき、新潟県上越市)からは「えちごトキめき鉄道・日本海ひすいライン」という路線に乗り、西の糸魚川(いといがわ)方面へと向かいます。
元々はJR線だった、えちごトキめき鉄道
えちごトキめき鉄道・日本海ひすいラインは、元々はJR北陸本線の一部でした。
しかし、2015年の北陸新幹線・金沢延伸(長野駅~金沢駅間の開業)により、それまで活躍していた在来線の特急列車は、その役割を終えることになりました。
そして、今度は新幹線に長距離輸送の役割をゆずることになりました。
すると、必然的に特急列車は廃止という形となります。
特急列車が廃止されたからといって、在来線まてわ廃止すると地元の人は困る
特急料金の存在は、JR社にとっては大きな収入源であったために、特急列車が廃止になると、在来線は大きな赤字のリスクとなります。
そうなると、JR社としては赤字になりやすい在来線は廃止してしまいたいところですが、それだと今度は地元の人々の移動手段が減って困ってしまいます。
そのため、「第三セクター」という「民間とも国の機関ともとれるような組織」へと経営が移管されたのでした。
えちごトキめき鉄道も、その第三セクターの組織体となります。
「ひすい」とは、糸魚川の名物のこと
「ひすい(翡翠)」とは、後述する糸魚川(いといがわ)の名物の宝石のことです。
詳しくは、本記事の後半にて解説します。
「えちごトキめき鉄道」の由来
ちなみに「えちごトキめき鉄道」の由来についてです。
「えちご」は、新潟県のかつての古い国名である「越後国(えちごのくに)」からきています。
国(くに)とは、奈良時代の律令制におけるエリア分けで、現代でいう「都道府県」に該当します。
そして、
- まるで心がウキウキするような様子を表す「ときめき」という用語
- 新潟県・佐渡島(さどがしま)のシンボルである鳥「トキ」
をかけて、「トキめき」というわけです。
糸魚川駅に到着
日本海ひすいラインを西へ進み続けると、やがて、糸魚川駅(いといがわえき、新潟県糸魚川市)に到着します。

えちごトキめき鉄道・糸魚川駅(新潟県糸魚川市)
新潟県糸魚川市(いといがわし)は、新潟県の最西端に位置する市です。
つまり広い広い新潟県の最西端にある街、ということですね。

糸魚川の街並み(新潟県糸魚川市)
海の眺めが綺麗な、糸魚川の景色

糸魚川の海(新潟県糸魚川市)
糸魚川駅から少し北へゆけば、とても綺麗な海の眺めがあります。
上越地方に位置する、糸魚川
糸魚川市は、上越地方(じょうえつちほう)に属する街です。
新潟県は広いので、大きく分けて三つのエリアにわかれています。
- 上越(じょうえつ):新潟県南西部
- 中越(ちゅうえつ):新潟県中部
- 下越(かえつ):新潟県北東部
昔の日本の首都・京都に近い順に、「上」「中」「下」となっています。
決して地図上の上下ではありません。

糸魚川の景色。(新潟県糸魚川市)
糸魚川と静岡を南北に通る、糸魚川静岡構造線
今回は、ガチガチの「地学」の話になります。
理科の話になりますので、心して学んでゆきましょう。
つまらんと思う人も多いかもしれませんが、なるべくわかりやすく解説しますので、是非最後までご覧ください。
糸魚川から南に延びる構造線
糸魚川から南へは、はるか南の静岡県静岡市(しずおかし)にかけて、日本列島の地質を東西に分断する「構造線(こうぞうせん)」というものが伸びています。
これを糸魚川静岡構造線(いといがわしずおかこうぞうせん)といいます。
地面の「ずれ」である構造線
構造線とは、いわば「地質のズレ」のことです。
例えば、有名なものに、「中央構造線」というのがあります。
かつて日本列島がぶつかりあった時に生まれた、中央構造線
中央構造線とは、日本の中央を横につらぬく、巨大な(地質上の)線のことです。
- 大昔、南から北へ移動してきた(日本列島の原型となる)島と、
- ユーラシア大陸とがぶつかって日本列島の原型が出来たときに、
- ぶつかった衝撃で出来た、大きな古傷の跡が、中央構造線
ということになります。
地震の原因にもなりうる構造線
このように、中央構造線は「古傷」なだけにデリケートな地質であり、ズレようものなら「地震」が起きたりするのです。
これは、ヒビの入った廃墟ビルが崩れやすいのと同じです。
なので、中央構造線は「地震の原因の一つ」ともいえるでしょう。
日本列島は、いかにして出来たか
大昔の日本列島は、中央構造線よりも南側は、大昔はかつて太平洋に浮かんでいた「島」の一部だったのです。
それに対して、中央構造線よりも北側の部分は、大昔はかつてユーラシア大陸の一部だったということです。
すなわち、
- これらが合体して、
- 氷河期が終わってから海面の高さが上がり、
- これによって日本列島がユーラシア大陸から切り離され、
- 現代の日本列島が出来た
というわけです。
ちなみに、北側のことを「内帯(ないたい)」
南側のことを「外帯(がいたい)」といいます。
余談ですが、今の日本人の祖先は、
- 南の島からやったきた、南方系の人
- 北のユーラシア大陸からやってきた、北方系の人
に分けられます。
南と北の人が、それそれ交配を繰り返してゆき、今の日本人が出来上がっています
中央構造線よりも後にできた、糸魚川静岡構造線
糸魚川静岡構造線は、中央構造線よりも後の時代に出来ました。
先に「南の島」がユーラシア大陸にぶつかったときに日本列島の原型と「中央構造線」が出来たのでした。
さらに、後の時代になってから「東西のプレート(※)」がぶつかったときに、糸魚川静岡構造線ができた、というイメージです。
※それぞれ、オホーツクプレートとアムールプレートといいます。詳しくは後述します。
地球を覆う岩盤「プレート」
地球は、生きています。
そして、地球上にある大陸は「プレート」と呼ばれる大きな岩に乗せられて、移動したりしています。
「プレート」とは、地球を覆い尽くす、巨大な岩でできた平面・板のようなもののことです。
大陸移動説の元になった「プレート」
地球上には、約10個ものプレートが存在しています。そして、それぞれがお互い動いています。
それらのプレートが、お互いにぶつかったり、離れていったりしているのです。
「大陸移動説」も、このプレートの発見により証明されたのでした。
元々、アメリカ大陸とアフリカ大陸はくっついていた
元々はアフリカ大陸とアメリカ大陸は、くっついていたのでした。
それが、移動によってお互いに離れてしまい、今のような地図の形になったのです。
アフリカ大陸は、大西洋をはさんで、アメリカ大陸にまるでパズルのようにくっつくことがわかると思います。
プレートが下の方に沈み込んでいって、「海溝」ができる
プレートが移動してお互いにぶつかりあうと、行き場を無くした片方のプレートは、相手方のプレートの下の方に沈んでいきます。
こうして、海底がどんどん下に食い込んでいくわけです。
こうして深くなった海底が、「海溝(かいこう)」とよばれるものです。
海溝のうち、浅いものを「トラフ」と言う
このとき、海溝(かいこう)のうち、浅いものを「トラフ」といいます。
海溝やトラフにおいては、プレートの移動によって海底があまりに下へと押し下げられ過ぎると、限界が近づいてきます。
すると、ある時突然バネのように、大陸や地面が上に跳ね上がってしまいます。
これが「地震」です。
2011年に起きた東日本大震災も、「太平洋プレート」と「オホーツクプレート」の間にある日本海溝において、発生しました。
Google Earthで見れば、その「海溝」や「トラフ」などの様子は一目でよくわかります。
日本は4つの「プレート」が交わる、世界でも珍しい「地震大国」
地球には、約10枚のプレートが存在するわけですが、日本にはそのうちなんと4つものプレートが存在し、交わり合っています。
北アメリカプレートとは?
・北アメリカプレート(オホーツクプレート)
はるか北東の北アメリカから、南西へ伸びているプレート。◯西端は糸魚川で、アムールプレートとぶつかる。
アムールプレートとは
・アムールプレート
西のユーラシア大陸から、東へ伸びているプレート。◯東端は糸魚川で、オホーツクプレートとぶつかる。
フィリピンプレートとは
・フィリピンプレート
南のフィリピンあたりから、北へまるで西日本を押し上げるように、伸びてくるプレート。
太平洋プレートとは
・太平洋プレート
はるか東の太平洋から、東北地方の三陸沖(さんりくおき)にかけて、まるで東日本を左(西)へ押しつけるように伸びてくるプレートです。◯東日本大震災の原因となったプレートです。
なぜ日本列島は、曲がった形になっているのか
日本列島が「カクっと曲がったような弓形」になっているのは、
- この太平洋プレートが右から、
- フィリピンプレートが下から、
それぞれ列島に押し付けているから、というのが要因としてあります。
そして昔は、あまりに押し付けられすぎて、列島が真っ二つになったことがありました。
そのときに出来た海峡を、フォッサマグナ(大きな溝)といいます。こちらは後で詳しく解説します。
「駿河トラフ」と「南海トラフ」は、北西のアムールプレートに、南のフィリピンプレートが北上してきて、海底に食い込むという形で出来たトラフです。
東日本大震災の原因となった日本海溝は、
- オホーツクプレートに太平洋プレートが(西へ移動して)ぶつかり、
- オホーツクプレートの海底の下へ食い込んでゆき、
- 下へ下へと押し下げられて
出来た海溝です。
糸魚川静岡構造線は、アムールプレートとオホーツクプレートがぶつかっている間に存在している構造線です。
なので、糸魚川の西と東とで、それぞれ別の大陸由来の地質である、というわけです。
もちろん、素人の目にはどちらもただの石ころ(または岩)にしか見えないわけですが(^^;
いやこれは、ある程度は専門的な知識を持った人が鑑定しないと、どちらの大陸由来の石(岩)なのかは正直わかりにくいといえるでしょう。
こうした構造線やトラフは、移動してくる両者(プレート)がぶつかる場所になります。
そのため、先ほどから何度も触れてきているように「地震の原因」になりやすいです。
世界でも稀な、プレートが多い日本
日本は、このように「4つのプレートがぶつかりあっている」という、世界にも稀(まれ)にみる地形にある国です。
これだけ多くのプレートがあるため、日本は地震がおこりやすい「地震大国」になっているというわけです。
糸魚川静岡構造線(いといがわしずおかこうぞうせん)は、
↓
北アルプス
↓
長野県の諏訪湖(すわこ)
↓
静岡市の安倍川(あべかわ)付近
にまで至る、とてつもなく長く大きな、断層の線です。
日本一深い駿河湾と、駿河トラフ
安倍川のさらに南には、駿河湾の「駿河トラフ」があります。
駿河トラフは、先述の通り、
- 「アムールプレート」の下に、
- 北上してくる「フィリピンプレート」が下に食い込んでいく
ことで出来た、海底の大きな窪みのことです。
富士山を見下ろす駿河湾は、この「駿河トラフ」があるために、水深2,500mにもおよぶ「日本一深い海」だということです。
そして、深い海でも充分に暮らしていける丈夫な体を持っている深海魚がたくさん住んでいるわけです。
この「下への食い込み現象」が限界に達してしまい、これ以上下へ食い込めなくなります。
すると、押さえつけられている地面が「我慢の限界」に達し、反動で一気に上に押し上がってしまい「地震」が起こります。
まるでバネのように、地面が跳ね上がるのです。
これが、いずれ来ると恐れられている「駿河トラフ地震」とよばれるものです。
また「南海トラフ」は「駿河トラフ」の西側の延長線上にあります。
したがって、これは関西地方を中心にいずれ来ると予想されている「南海トラフ地震」の原因ということになります。
日本に住んでいる限り、どこでも地震は起きる
日本に住んでいる限り、どこにいても地震というものは怖いものです。
なので、日頃からの「防災」「減災」に努める必要があります。
- 水や食糧などの蓄えをしておくこと
- いざというとかに、逃げるための場所(学校や「高台」など)を把握しておくこと
- 津波が起きたときに、津波が到達すると予想される範囲や、あるいは避難場所についても把握しておくこと
なども重要です。
あなたがお住まいの自治体が出されているハザードマップや避難の心得などを、常に日頃から意識しながら確認しておくとよいでしょう。
糸魚川静岡構造線を西端とする「フォッサマグナ」
フォッサマグナとは 今の日本列島の形は、いかにして出来たか
糸魚川には「フォッサマグナミュージアム」というものがあります。
先ほど少し「フォッサマグナ」について紹介しましたが、先述の糸魚川静岡構造線は、しばしば「フォッサマグナ」と同じように紹介されます。
たとえば
というような記述ですが、これは半分正解で、半分誤りです。
これは糸魚川静岡構造線についての説明・記述であり、この糸魚川静岡構造線と「フォッサマグナ」は、厳密には違うものです。
ラテン語で「大きな溝」
フォッサマグナとは、ラテン語で「大きな溝」を意味します。
マグナ=大きな
日本列島の真ん中には、かつて大昔「大きな溝」がありました。
もちろん今では陸地になっていて、この大きな溝は存在しません。
日本列島は、先述の「中央構造線」のところで解説した通り、大陸と「南から北上してきた島」がぶつかって出来ています。
それがやがてユーラシア大陸から切り離され、今でいう日本海が出来ています。
このとき、今の日本列島のように、まだ「カクッと折れ曲がった弓形の島」ではありませんでした。
どちらかと、斜め右上に伸びる「四角い(?)島」でした。まあ、今の日本列島のように、美しい弓形の島ではなかったわけです。
日本列島は、プレートにより無理やり曲げられた
それが、南から北へ押し上げてくる「フィリピンプレート」と、東から西へ押し出してくる「太平洋プレート」によって、日本列島はカクッとへし曲げられてしまったのです。
この無理やり「曲げられた」ことにより、日本列島は真ん中部分がちぎれてしまい、間に大きな海峡ができてしまいました。
この日本列島が真っ二つに割れたことでできた溝(大きな海峡)を、フォッサマグナというわけです。
このフォッサマグナの海峡ですが、
- 南西側の島の東海岸が「糸魚川静岡構造線」
- 北東側の島の西海岸が「柏崎千葉構造線」
になります。
柏崎千葉構造線とは
柏崎千葉構造線(かしわざき・ちばこうぞうせんは)は、新潟県柏崎市(かしわざきし)から、南東の千葉県に向けて伸びる構造線です。
もちろんこの海峡(フォッサマグナ)は一時的なもので、長い年月をかけて、陸地になっています。
なので現在では存在せず、静岡県・山梨県・関東地方・長野県などの陸地になっています。
フォッサマグナが陸地になった理由
ここで、海峡(フォッサマグナ)が陸地になった理由はさまざまです。
例えば、
- 川が運んできた土砂が、海に流れすぎて、
- 土砂が海底にたまってゆき、
- 海が徐々に浅くなっていくことで、
- 海底が露出してきて、陸地になったりしてゆきます。
他にも色々理由はあると思います。
さらに、上記のプレートが日本列島を押し(押さえ)続けていくと、内陸部が押し付けられてゆき、今度は「山」が隆起してゆきます。
富士山のある静岡県東部や、山梨県・長野県も、もともとはフォッサマグナの海底にあったというわけですね。
以上をまとめると、糸魚川・静岡よりも東側にある、関東地方をも含む巨大な地域にあったとされる「大きな溝(海峡)」のことを、フォッサマグナというわけです。
なので、糸魚川静岡構造線は「フォッサマグナの一部」であり、もっというと「フォッサマグナの西側の線」ということになります。
ナウマン博士によって発見された フォッサマグナ
フォッサマグナは明治時代に、ドイツ人地質学者であり「お雇い外国人」の一人だったナウマン博士が、この
「大きな溝」を発見したのでした。
日本は先述の通り「4つのプレートがからむ世界でも珍しい地域」になります。
そのため、ドイツ人のナウマン氏からすれば、日本の独特な地形を見て
などのように、日本人にとっては当たり前過ぎて気づかないようなことに気づいたというわけですね。
あのナウマン像は、この明治時代のドイツ人学者・ナウマン博士の名前から取られているわけです。
糸静線の自然
糸静線沿線の主な山や高地には、
- 白馬岳(しろうまだけ)
- 乗鞍岳(のりくらだけ)
- 上高地(かみこうち):長野県松本市
- 赤石岳(あかいしだけ):南アルプス
- 身延山(みのぶやま):山梨県
など、名だたる名山たちが連なっています。
またこの構造線の沿線には、仁科三湖(にしなさんこ)と呼ばれる
- 青木湖(あおきこ)
- 中綱湖(なかつなこ)
- 木崎湖(きざきこ)
があります。
長野県では、諏訪湖(すわこ)も構造線が通ります。
この諏訪湖が、構造線の西側と東側の境目・境界線になっています。
糸魚川市では、大規模な断層が、地上に露見・露出している箇所があります。
これは糸魚川市のやや南側にある、フォッサマグナパークという場所にあります。
糸魚川の「水運」「交通」の歴史
では、ここから糸魚川の歴史についてみてゆきましょう。
糸魚川(いといがわ)の歴史は、はるか昔・縄文時代にまでさかのぼります。
糸魚川は、かつて日本列島から朝鮮半島までにも及ぶ、宝石「ヒスイ」の交易(※)の発祥の地域でした。
※交易:他の地域と物々交換・トレードをして、儲けること。
北前船のルートとして栄えた、糸魚川
糸魚川は、江戸時代には豪商・河村瑞賢(かわむら ずいけん)によって開発された北前船(きたまえふね)、またの名前「西回り航路」の往来による海上交通の拠点として栄ました。
北前船(きたまえふね)は、
- 山形県の酒田(さかた)から日本海をぐるっと大回りして、
- 山口県下関市の関門海峡(かんもんかいきょう)から、
- 瀬戸内海(せとないかい)に入り、
- やがて大阪(大坂)へと至っていた
という、江戸時代の船のルートです。
昔は大量の年貢米(税金)などを、天下の台所・大坂へと運ぶ必要があったわけです。
しかし、なにせ貨物列車や高速トラック等も無かったような時代なので、船に大量の荷物を載せて運んだ方が効率が良かったというわけです。
そのときに使われた海上ルートが北前船(きたまえふね)であり、「西廻り航路」ともいいます。
糸魚川は、東西南北の交通の要衝 だった
また糸魚川は、
- 西は、越中国(えっちゅうのくに:富山県)
- 南は、信濃国(しなののくに:長野県)
- 東は、越後国(えちごのくに:新潟県)
- 北は、先述の「北前船」
との、それぞれの物流の拠点としても栄えてきました。
糸魚川は、富山・長野・新潟それぞれのちょうど間の位置に存在しています。
そのため、モノを運ぶ人たちにとっては宿泊・休憩などの目的にちょうどいい場所に存在している町、ということですね。
糸魚川の名物 ヒスイ
糸魚川の名産といえば、なんといっても「ヒスイ(翡翠)」です。
世界最古のヒスイの産出地・糸魚川
糸魚川は、ヒスイの産出地としては国内屈指の生産量を誇ります。
また糸魚川は、世界で最も古い、ヒスイ文化の発祥地でもあります。
「日本最古」というのならばまぁわからなくもないですが、「世界最古」というのはすごいです。
イメージ的には、何千年も昔から存在していたメソポタミア文明などに、「世界初」の座を既に取られていそうなものですからね。

糸魚川駅前にある「ヒスイ王国館(観光案内所)」(新潟県糸魚川市)
ヒスイって、そもそも何?
ヒスイ(翡翠、英: jade、ジェイド)は、深緑色をした、半透明な宝石の一種です。
つまり濃い緑色の、かなり綺麗で豪華な宝石というですね。
ちなみに英語の「JADE」は、X JAPANの曲名にもなっています。
歴史的にとても珍しく、重宝されてきたヒスイ
かつて世界では、ヒスイは金(ゴールド)以上に珍しくて、かつ重宝されたこともあるような、それほど人気の高かった宝石です。
ヨーロッパでは、なんとヒスイで作られた石斧(いしおの/せきふ)までもが出土しているのです。
大昔のヨーロッパでは、ヒスイ製のオノを用いて、木を切ったりして生活していたのですね。
北海道や沖縄にも運ばれていたヒスイ
現在の糸魚川市にある「ヒスイ海岸」のヒスイの原石は、かつて北海道や東北地方など交易をするのための「品物」「商品」となっていました。
そのため、主に海のルートを通って、舟に載せられて運ばれていたとされています。
そして、北海道から沖縄までに至る広い範囲で、約1,000箇所以上にもおよぶ場所で、ヒスイで出来た加工品(糸魚川のヒスイ製商品)が発見されています。
ヒスイの持つパワー「不老不死」
そんな、あまりにも古すぎて凄いくらいの糸魚川のヒスイ(翡翠)ですが、ヒスイには、なんと「不老不死の力」という、不思議なパワーがあるとされています。
つまりヒスイは、大昔から「縁起のいい宝物」として、日本・海外問わずに重要視されてきたわけです。
古代においては、ヒスイの小さなかけらを、細い糸などでつないで作った玉衣(たまぎぬ)を使って、貴人(エラい人)の遺体全体を覆う、ということが行われてきました。
つまりヒスイは、亡くなった王族をまつるための道具としても使われてきたわけです。
中央アメリカら南米などといった国の王族の墓でも、同じような処置がなされていたことが確認されています。
また、ヒスイはニュージーランドやメソアメリカでにおいて、「おまじないの道具」としても使われていました。
例えばメソアメリカでは、腹痛を和らげる石としても使われていたのでした。
ヒスイの歴史をさらに詳しく
糸魚川のヒスイは、約5億2,000万年前に生成されたと言われています。
いわゆる「古生代」といわれる時期で、まだ恐竜が栄えはじめる「中生代」よりも昔になります。
そんな大昔に、ヒスイの原料が自然の中に生まれたというわけですね。
ヒスイの文化は約7,000万年前からはじまり、それはメソアメリカのオルメカ文化(約3,000年前)や、マヤ文明(約2,000年前)よりもはるかに古い起源をもつというわけです。
こんなに古いというのは凄いです。
現在わかっているいる世界最古のヒスイの加工は、なんと日本・糸魚川において約5,000年前に始まったものです。
「世界初が日本」というのもすごいですし、また5,000年前というのもすごいですね。
これはつまり紀元前3,000年ということであり、日本では余裕で縄文時代です。
この約5,000年前くらいから、糸魚川で産出したヒスイの原石が、北海道や沖縄、ひいては朝鮮半島へと至る範囲へ、広く運ばれてゆきました。
そして糸魚川のヒスイは、装飾品として利用されていました。
そこから糸魚川のヒスイの、「宝石」「まが玉」「おまじない」などの文化が発展していくわけです。
その後、奈良時代ごろになると、ヒスイの利用が歴史から途絶えてしまうのです。
しかもその際、糸魚川を含む日本国内においてヒスイが産出していたこと自体も忘れ去られてしまっていました。
日本の宗教「神道」のアイテムとして用いられたヒスイ
それは奈良時代に入って「仏教」が国内に広まってゆくと、朝廷はそれまで重要とされていたヒスイの利用を、避けるようになってしまったのです。
ヒスイはどちらかというと神様に祈る「神道(しんとう)」の儀式で用いられるアイテムです。
「神道(しんとう)」は、仏教より以前から存在した日本オリジナルの宗教であり、
- 「イザナギ」
- 「天照大神(アマテラスオオカミ)」
- 「大国主命(おおくにぬし)」
などの神様が登場します。
飛鳥時代から仏教が盛んになっていくとヒスイの利用は減少していった
飛鳥時代~奈良時代にもなると、聖徳太子や聖武天皇らが「国の安泰(あんたい)」を願うために、神道よりも仏教を推し進めていくようになりました。
なので、神道のアイテムである糸魚川のヒスイは、仏教とは相容れないものになっていたのかもしれません。
そして、その後ヒスイは急速に日本の歴史から姿を消してゆくことになりました。
そのため、以後の歴史では、ヒスイの文化のみならず、日本国内で産出するということすらも忘却されていったのです。
約1000年間、忘れ去られていたヒスイが昭和になって復活した
なので昭和初期までは、日本国内の遺跡などから出てくるヒスイの勾玉(まがたま)等は、海外から、とりわけユーラシア大陸から持ち込まれたものだと考えられていました。
まさかそれが、日本・糸魚川から産出されたものだとは、誰も当時は夢にも思わなかったわけですね。
しかしそれから1,000年以上の時間が経ち、昭和の時代になって、糸魚川の南西にの地域において、ヒスイの原石が再び発見されたのです。
これにより、これまで日本各地の遺跡から出土してきた、ヒスイを原料として加工された品々たちが、糸魚川原産であったことが証明されたのでした。
つまり海外からの由来ではなかった、ということです。
1938年当時、糸魚川市に在住していた、文学者の相馬御風(そうま ぎょふう)という方が、史書にこう書き記していました。
ヒスイを身につけていた、ヌナカワヒメ
かつて、糸魚川の周辺を治めていたという女性の神様・奴奈川姫(ヌナカワヒメ)が、ヒスイの勾玉(まがたま)を身につけていた、という伝説があったのでした。
勾玉(まがたま)とは、古代から魔よけに使われたきたアクセサリーのことです。
そのため、糸魚川市を流れる姫川(ひめかわ)の付近に「ヒスイの産地がある可能性がある」というふうに考えたのでした。
ヌナカワヒメに由来する、姫川
姫川(ひめかわ)は、この「ヌナカワヒメ」に由来しています。
ヌナカワヒメは、あの出雲大社の大国主命(オオクニヌシ)のお嫁さんとなった神様です。
こちらは次回改めて解説します。
洪水で荒れ狂った「姫川」から名前が生まれた、糸魚川
糸魚川(いといがわ)の由来は、昔に姫川がかなりの氾濫をおこし、人々が厭う(いとう:嫌う)川であったことから、
となったとされています。
早稲田大学の校歌を作詞した、相馬御風
相馬御風(そうま ぎょふう)は、糸魚川の偉人であり、なんと早稲田大学の校歌を作詞した人物でもあります。
あの「わせだ わせだ わせだ」のサビで有名な歌詞は、糸魚川の偉人によって作詞されたのですね。
ヒスイであることが判明 単なる緑色の石ではなかった
当時の研究者は、相馬御風が糸魚川で発見したその石と、ビルマ産のヒスイとを比較し、分析したのでした。
その結果、小滝川で採れた緑色の石は、なんと「ヒスイ」であることが判明したのでした。
つまり単なる「緑色の石」ではなかったということです。
まさか宝石の一種だっとは、みんな驚いたことでしょう。
日本でも、 ヒスイが取れることが証明された
その後もたくさん研究が進んだ結果、日本国内には「ヒスイの産地」が存在することが証明されたのでした。
先述の通り、昭和まではそれまでの常識では
「海外でしかヒスイは産出されない」
とまで信じられていたのでした。
昭和で改めて発見されて、奈良時代以来、ヒスイが復活した
こうしてヒスイは、奈良時代以降にその存在が忘れ去られてから、約1,200年もの長い期間を経て、再び大きな発見をされることとなったのでした。
それまでにも日本では、大昔に利用されていたヒスイの品が出土されてきていました。
それは海外製だとずっと信じられていたわけですが、これをきっかけに「日本産のもの(しかも糸魚川のもの)」であったことが証明されたのです。
これはそれまでの常識をくつがえす、歴史的にとても大きな発見となったのです。
日本の「国石」へと指定
ヒスイは2016年に、日本の「国石」と認定されたのでした。
つまり、国を代表する、国のシンボルとなる石ということです。
そのため、天然のヒスイを持ち帰る行為はさまざまな法律に違反・抵触するおそれがあるので、絶対にやってはなりません。
現在では糸魚川市にある計2ヵ所のヒスイ産地が、国の史跡・名勝・天然記念物に指定されています。
次回は、大糸線で長野・松本へ

糸魚川駅前・ヌナカワヒメの像とツーショット!(新潟県糸魚川市)
写真は、糸魚川駅前にあるヌナカワヒメの像とのツーショットです!この素敵な方が、あの戦いの神・タケミナカタを産んだお母様なのだと思うと、とても素敵な感じがしました!!
今回はここまでです!
お疲れ様でした!
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