都心から気軽に行ける、埼玉日帰り観光
今回は、埼玉県さいたま市、また浦和の調神社(つきじんじゃ)に行ったときの話をします。
前回も所沢市・川越市の埼玉日帰り旅行について書きましたが、今回も都心から気軽に行ける日帰り旅行について書いていきたいと思います!
東北本線・浦和駅(さいたま市)に到着
まずは、東北本線(または宇都宮線)・浦和駅(うらわえき、埼玉県さいたま市)に到着します。
浦和については、鉄道唱歌 奥州・岩城編にも歌われている通りです。以下の記事において、鉄道唱歌の歌詞および浦和の基本的な知識についても解説していますので、ご覧ください。
浦和に浦はない?大昔の浦和は「海」だった
「浦和に浦は無けれども」と歌われているように(先述の鉄道唱歌より)、確かに浦和に浦(海)はありません。しかし、大昔の浦和は「海」だったのでした。
その大昔、浦和には奥東京湾(おくとうきょうわん)という海がありました。
これは、現在と大昔では海岸線が異なっていたためです。つまり海面の高さが違っていたため、海の水が深い内陸部(浦和の位置)まで入り込んでいたわけですね。
後述する通り、江戸時代まではさいたま市には見沼(みぬま)という大きな沼があり、これは奥東京湾の一部であるとされています。現在さいたま市の北東部にも見沼区(みぬまく)という地名が残っていますよね。
「浦和」と「見沼区」の由来となった、見沼 今は干拓で存在しない
江戸時代までは、浦和(うらわ)およびさいたま市見沼区(みぬまく)の由来となった、見沼(みぬま)という大きな沼がありました。
見沼(みぬま)は、大昔の海だった奥東京湾の一部であり、また江戸時代の享保の改革において、後述の通り干拓(かんたく)によって埋め立てられてしまったため、今では見沼は存在しません。
先述の通り、縄文時代にはさいたま市の一帯には奥東京湾の海水が入り込んでいました。つまり、ここは「海」だったというわけです。
昔は海だったため、この地の周辺には「貝塚」が点在しています。つまりここの海で縄文人たちが、貝を採って食べて捨てていたということがわかるというわけです。
浦和にも、浦があったんですね!
奥東京湾は、弥生時代に入ると海水がどんどん減ってゆき、海岸線が後退していきます。この現象を海退(かいたい)といいます。こうして陸地が多くなってゆき、(内陸部に)残された海の部分は沼となってゆきます。そして、さいたま市のやや北東地地域は、見沼(みぬま)などの多数の沼が連なっている、広大な沼地となっていったのでした。
大宮の有名な神社である氷川神社(ひかわじんじゃ)は、この見沼にいるとされる「水の神様」を祀(まつ)ったことから始まった、とする説があるそうです。
大宮の氷川神社(ひかわじんじゃ)は、島根県・出雲国(いずものくに)にある斐伊川(ひいがわ)の上流で、ヤマタノオロチを倒してクシナダヒメと結婚したスサノオという神様を祀(まつ)る神社です。氷川(ひかわ)という名前は、斐伊川(ひいがわ)からきてきます。斐伊川は、JR木次線(きすきせん)に沿って流れる川でもあります。
出雲の斐伊川については、以下の記事でも解説しているため、ご覧ください。
山陰鉄道唱歌 第30番 奥出雲へと通じる、斐伊川 ヤマタノオロチを討った、スサノオの武勇
そして見沼の近辺(さいたま市)には、氷川神社のほかに、中氷川神社(現在の中山神社)・そして氷川女体神社といった複数の神社があります。
氷川女体神社(ひかわにょたいじんじゃ)は、先述のスサノオの妻であるクシナダヒメを祀る神社になります。
江戸時代の見沼の干拓
江戸時代に入ると、それまではずっと手付かずであった見沼の干拓(かんたく)が始まったのでした。干拓とは、水を干上がらせて、陸地を造ることです。これによって田圃(たんぼ)が増えるために、新田開発の手段として江戸時代にはよく行われました。江戸時代は戦争が無くて平和な世の中であり、平均寿命が伸びて人口が爆発的に増加していました。そのため、大量のお米が必要となり、新田開発が必要になったのです。なので、沼や湖を干上がらせて陸地(田んぼ)を作る干拓がどんどん行われていくようになったのでした。
江戸時代初期の1629年、関東地方を治める郡代(ぐんだい。今でいう市長あたり?)のお役人(お偉いさん)が、まずはたくさんの新田に対して、水を供給していくための工事にとりかかります。なぜなら、いくら田圃(たんぼ)を増やしたところで、水がないと稲は育ちませんからね。なので水を供給するための用水路の工事に取りかかったわけです。
まずは多くの新田が開発されてきた地域である、芝川(しばかわ:見沼区を今でも流れている川)の下流地域にあたる、現在の川口市にあたる地域の水を確保するために、約800メートルにもおよぶ「八丁堤(はっちょうづつみ)」とよばれる堤防(ダム)を建設して、水を溜めてゆきました。
八丁堤(はっちょうづつみ)とは、長さが八丁(約800m)あるダムであることから、この名前がつきました。現在でも武蔵野線・東浦和駅の近くに、その跡地があります。
一丁(一町)とは、今でいう約109mに該当します。
このダムを作って溜まった水による貯水池は、見沼溜井(みぬまためい)と呼ばれました。この見沼溜井から、灌漑(かんがい)用の水を引っ張っていったわけです。灌漑(かんがい)とは、農業に必要な水を引っ張ってくることです。
芝川(しばかわ)とは、見沼に注ぎ、さらには見沼から流れ出て荒川(あらかわ)に注いでいた川を原型とする川です。
見沼は、八代将軍・徳川吉宗(よしむね)のもとで行われた享保の改革において、1728年に干拓されて、見沼田圃(みぬまたんぼ)になりました。つまり、沼の水を干上がらせて、田んぼに変えたわけです。これによって沼は無くなり、陸地(田んぼ)になったわけですね。
ちなみに芝川は、下流部も舟が通れるように改修されて、江戸と干拓地とを繋ぐための「船が通れるルート」としても用いられたのでした。つまり江戸と舟で結ぶ「水のルート」にもなったわけです。これによって、見沼の地域で採れた大量のお米が、江戸に向けて運びやすくなったというわけですね。
こうして見沼を干拓した後は、大金持ちの商人(むしろ、今でいう株式会社)たちによる「投資」もどんどん行われていった関係で、次々に新田開発が進んでゆきました。やがては、東京ドーム約200個分にもおよぶ広大な「見沼田圃(みぬまたんぼ)」が完成してゆきました。
それ以後、この見沼地域は肥沃(ひよく)な穀倉地帯(たくさんの農作物が取れる地域)となってゆき、とても大きな生産力を誇っていったのでした。
戦国時代にかけて、戦場になった浦和
「見沼」の話で前置きがかなり長くなりすみません(^^;
では果たして、戦国時代のさいたま市はどんな感じだったのでしょうか。教科書や歴史の授業でも、なかなかあまり習う機会は少ないと思います。
まず戦国時代の関東地方では、京都の応仁の乱にも負けじと劣らず、たくさんの戦乱が起こっており、対立や仕返しなどを繰り返すような争いが、あちこちで勃発していました。さいたま市の地域もその例外ではなく、その戦乱の舞台となっていったのでした。
戦国時代の関東地方では、室町幕府側の「足利氏」と、室町幕府に反逆をする「足利氏(関東側)」、そして関東の足利氏と対立する「上杉氏」の争いが主体となってゆきます。
1455年に関東管領(かんとうかんれい)・上杉氏が鎌倉公方(かまくらくぼう)・足利氏に討たれるという「享徳の乱」が勃発すると、関東地方は本格的に戦国時代へと突入してゆきます。つまり京都でいう「応仁の乱」と同じです。現さいたま市のエリアは、古河公方(こがくぼう:茨城県古河市へと逃げた足利氏)の側と、関東管領(上杉氏)側との対立の場ともなったのでした。
鎌倉府(かまくらくぼう)とは、室町幕府が、かつて鎌倉幕府のあった「鎌倉(神奈川県鎌倉市)や関東地方を監視するために置いた機関です。鎌倉府のトップは鎌倉公方(かまくらくぼう)と呼ばれ、京都にある室町幕府のトップである足利氏の子孫が鎌倉公方を世襲してゆきました。しかし時間が経つにつれ、京都の室町幕府と対立してゆきます。
関東管領(かんとうかんれい)とは、先述の鎌倉公方を補佐するための役職です。上杉氏(うえすぎし)が世襲してゆきました。しかし時間が経つにつれ、その鎌倉公方とも対立するようになってゆきます。その後は神奈川県の後北条氏(ごほうじょうし)と対立して負けてしまったため、越後(新潟県)に逃れます。これが越後のスーパーヒーロー・上杉謙信のはじまりです。
さいたま市の北東にある岩槻城(いわつきじょう)は、関東管領側の上杉氏の家臣である太田道灌(おおたどうかん)の親子による築城であるとする説と、それと対立する古河公方側の築城であるとする説とがあります。
太田道灌(おおたどうかん)は、江戸城や川越城を造った人物でもあります。徳川家康は、あくまで江戸城を改修(大幅なバージョンアップ)をしたのであり、江戸城を初めて造ったわけではない(太田道灌が造った)ので、勘違いしないように注意しましょう。
その後、関東地方における上杉氏の力はどんどん消耗してゆき、衰退してゆきます。先述の通り、相模・伊豆の後北条氏(ごほうじょうし)の勢力が次第に拡大することとなったため、上杉氏は越後・新潟県へと逃れたのです。そして上杉謙信の誕生です。
後北条氏はどんどん影響力をつけてゆき、神奈川県のある南側からどんどん北上してきて、埼玉県にまで侵入してくるというイメージとなりました。このころからさいたま市は、岩付(岩槻)太田氏の勢力と、南からやってくる後北条氏の勢力の接点となってゆきました。
やがて1546年に起きた川越夜戦(かわごえやせん)にて、後北条氏の北条氏康(うじやす)の軍が勝利します。川越夜戦は、前回も解説した埼玉県川越市(かわごえし)で起きた戦いであり、「日本三大奇襲」とも呼ばれます。あと二つは毛利元就の「厳島の戦い」と織田信長の「桶狭間の戦い」です。ちなみに、源義経による「一ノ谷の戦い」も、三大奇襲の一つとされることもあります。
川越夜戦は、攻めてくる側の後北条氏が、守る側の上杉氏を、たくみな方法で油断させ、夜になって一気に奇襲をかけて勝利したのでした。
こうして武蔵国(埼玉県・東京都)における後北条氏の勢力拡大は、さらに本格化してゆします。
そのような状況において、やがて1564年には太田氏が父・北条氏康の味方につくようになります。つまり、大田氏は後北条氏の側についたのです。
その結果、関東地方の一帯は後北条氏の天下におかれることとなりました。少なくとも豊臣秀吉が出てくるまでは、です。
しかし1590年には、豊臣秀吉による小田原征伐(神奈川県小田原市の、小田原城を攻めた戦い)において、後北条氏は秀吉によって滅ぼされてしまい、またさいたま市の岩付城(岩槻城)も陥落してしまいました。
これにより、後北条氏によるさいたま市の支配は終わり、豊臣秀吉の命令により、代わって徳川家康が関東地方の領地を与えられ、徳川家康が関東入りしました。これが江戸幕府のきっかけとなってゆきます。
江戸時代のさいたま市
江戸幕府を開いた徳川家康は、関東における支配をどんどん強く固めていくことにします。そのため江戸の近くには、幕府が直接支配する(藩ではない)幕府領や、また徳川家にとって信頼できる(裏切って幕府に反乱を起こす心配のない)武士である旗本(はたもと)・譜代大名(ふだいだいみょう)らを、どんどん多く配置してゆきました。
こうした江戸時代の「幕藩体制」を強化していくなかで、さいたま市に置かれた藩としては、岩槻城(いわつきはん)を藩庁(はんちょう:藩の中心機関)とする岩槻藩(いわつきはん)がありました。
つまり、現在のさいたま市のうち、さいたま市岩槻区(いわつきく)にあたる大部分は、岩槻藩の領地だったというわけです。しかし、さいたま市のその他の地域は、幕府が直接支配する「幕府領」や、旗本が保持する「旗本領」などが中心になっていたため、「藩」による支配とはいえない状況でした。さいたま市は江戸に近いため、藩をおかずに幕府が直接支配した方が都合がよかったわけですね。
つまり江戸時代のさいたま市は、岩槻藩だけが唯一の城下町だった、ということです。
またこの岩槻藩にあった岩槻宿は、徳川将軍による日光参詣や、また岩槻藩の大名さまが参勤交代のときに江戸と往復するための経路として用いられた「日光御成街道(にっこうおなりみち)」の宿場町でした。日光御成道とは、徳川歴代将軍が栃木県の日光(にっこう)に参拝するために整備された道のことです。日光には徳川家康が埋葬されているため、その偉大なる家康さまを拝むためにも、後世の徳川歴代将軍にとって日光参拝はとても重要だったのでした。
江戸時代の始めには、浦和御殿(うらわごてん)というご立派な建物がありました。
御殿(ごてん)とは、立派なお屋敷のことです。静岡県の富士山近くにある御殿場(ごてんば)も、元々はエラい将軍様が江戸(東京)と駿河(静岡)を行き来するときに、そこにご立派な建物を築いていたことに由来しています。
「立派なお屋敷がある場=御殿場」というようなイメージですね。
中山道の宿場町・浦和宿
浦和は江戸時代に、中山道(なかせんどう)の宿場町として栄えてきた歴史があります。
中山道(なかせんどう)とは、昔の人が20日間かけて、群馬県・軽井沢・諏訪・塩尻から木曽路(きそじ)を抜けて名古屋、さらには京都へ出ていた道です。詳しくは、以下の記事をご覧ください。
鉄道唱歌 奥州・磐城編 第5番 蓮田・久喜・栗橋の埼玉県北部を北上する
浦和には、中山道3番目の宿場町・浦和宿(うらわしゅく)がありました。
しかし、浦和宿は江戸からは近すぎたため、宿場として利用する客はあまりいなく、どちらかというと「休憩所」としての利用が多かったようです。
明治天皇も、大宮の氷川神社(ひかわじんじゃ)へのご参拝のときに、浦和宿に行在(あんざい:天皇陛下が一時的に滞在されたり、休憩されること)されたようです。
浦和の名物「うなぎ」
浦和駅周辺にはうなぎ店が多く、うなぎ(鰻)の名所となっています。また、浦和は「うなぎ店激戦区」とも呼ばれていたりまします。
浦和には江戸時代には沼が多くて、たくさんのうなぎが採れました。昔は「沼」の存在はとても重要でした。それは生活用水や、先述の通り農作物の用水にとてと使われたからです。しかし時代とともにダムが出来たりすると、それまでの沼は「用済み」となって埋め立てられたり、また先述のように干拓(かんたく)によって田んぼに変えられたりしていったため、当時の沼はおそらくほとんど残っていないことでしょう。
話を戻しますが、その時の「うなぎ」が、旅人たちにとって大変おいしかったようで、繁盛したようでした。
また浦和宿で旅人たちが食べるうなぎはとても貴重であり「うなぎの食い納め」とも言われていました。
中山道においては、ここから先はうなぎを食べられる機会がなくなるため、浦和は「うなぎの名所」になったというわけです。
中山道では、ひとたび浦和を離れると、もう次の「海」といえるような場所は長野県の諏訪湖(すわこ)までは存在せず(しかも諏訪湖は海ではなく「湖」)、そこからは木曽の谷を抜けるまで、ずっと険しい山岳地帯が続くわけです。それだけに、「浦和のうなぎ」はとても貴重だったことでしょう。
調神社へ移動
浦和にある調神社(つきじんじゃ)は、ウサギの神社ともいわれます。月のうさぎは、おもちをペッタンペッタンつきます。なので、もちを「つく」→「つき神社」→「うさぎの神社」になった、ということです。
うさぎは、昔からとても縁起のいい神様の動物だと信じられてきました。
例えば、日本神話において因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)を治した大国主命(おおくにぬし)の故事から、「病気治癒」などにご利益があります。大国主命は、その医学の知識で、ウサギを治したのでした。
また、うさぎは繁殖能力がとても高いことから、安産祈願のご利益があるとされています。さらには、うさぎはピョンピョンと跳ねることから、「飛躍」のご利益があるとされているわけです。
おまけ:筆者の自撮り写真
これは2024年3月に行ったときですが、個人的にちょっと体調不良でいろいろあった時期であり、あるお願い・お祈願をするために行ってきました!
男性の方がとても優しくしてくれたので、嬉しかったです(^^;
今回はここまでです!
お疲れ様でした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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