大船渡線・陸前高田市の観光・歴史を、わかりやすく解説します!
震災の津波から生き残った、奇跡の一本松についても解説しています!
大船渡線で、岩手県・陸前高田市へ 東日本大震災のあとをめぐる旅

大船渡線(岩手県)
今回は、東北・岩手県・宮城県を結ぶ大船渡線に乗って、岩手県・陸前高田市の奇跡の一本松を訪れる旅について書いてゆきます!
つまり、2011年3月11日に起きた東日本大震災で、甚大な被害に遭った場所を訪れるということになります。
まずは、一ノ関駅をスタート
まずは岩手県一関市の、東北本線・一ノ関駅(いちのせきえき、岩手県一関市)からスタートします。
一ノ関駅については、これまで本サイトでも何度も解説しておますので、以下の記事をご覧ください。



一ノ関駅前・大槻三賢人像の前より(岩手県一関市)
大船渡線への分岐駅・一ノ関駅
一ノ関駅は、今回メインで扱う大船渡線への分岐駅でもあります。
また上記の記事でも紹介している通り、一関市は岩手県最南端の市でもあるため、岩手県への「南からの入り口」ともいうべき、重要な街です。
また東北新幹線の駅もあるため、東京などの首都圏と日帰りで往復することも可能です。
加えて仙台・盛岡のそれぞれの大都市にも近いため、交通の便も非常に良い街でもあります。
とても広い、岩手県一関市
そして一関市は、これまで周辺の町村と合併を繰り返してきた歴史があるため、市のエリアがとても広いです。
なので、今回メインで乗る大船渡線も、大半の駅が一関市のエリアということになります。
一関市は、岩手県内で2番目に広い面積を持つ市です。
大船渡線の旅 一ノ関市をずっと過ぎてゆく
大船渡線は、一ノ関駅を出ると、ずっと市街地を大きく迂回します。
しかし一ノ関駅の次の駅は、一関市街地からはかなり離れた
- 真滝駅(岩手県一関市)
となり、真滝駅までは駅が存在しません。
一関市街地の近く・関が丘に、駅はない
ここで、途中で「関が丘」という住宅地・団地の近く(横)を通るのですが、私(筆者)はここで、
とか、個人的に勝手に思ったりするのでした。
しかし恐らく、一関市の住民の大半の方々は自動車をお持ちだと思うので、もし単に「関が丘」の団地から一関市街地にまで出るために「列車を使う」というニーズは、ほぼ無いものと思われます。
そもそも昼間の時間帯は、真滝駅でも2時間に1本しか列車がありません。
そのため、もし「関が丘駅(仮)」で列車を待っていたとして、その間に自動車または自転車で一関市街地に着いてしまうことでしょう。
したがって、一関市街地に近い「関が丘」のエリアには駅が存在していない(そもそも、駅建設の声自体が上がらない)というわけですね。
真滝駅からは、広大なのどかな田園地帯へ
真滝駅を過ぎると、今度は一関市の広大なエリアの、のどかな田園地帯の中を進んでゆきます。
そして、
- 途中の陸中門崎駅からは北へ大きく迂回し、
- 日本百景の猊鼻渓の横を通ったあと、
- 摺沢駅・千厩駅を過ぎてゆきます。
- そして新月駅を最後に、岩手県一関市のエリアは終わり、
- 今度は宮城県気仙沼市に入り、やがて気仙沼駅に至ります。

大船渡線の景色(岩手県~宮城県)
岩手県の三陸海岸までを結ぶ、大船渡線

大船渡線(岩手県~宮城県)
大船渡線は、現在では気仙沼駅までの路線ではあります。
しかし、かつては気仙沼駅からさらに北東の、
- 陸前高田駅(岩手県陸前高田市)
- 盛駅(岩手県大船渡市)
までを結ぶ路線でした。
盛駅は大船渡市の駅なので、大船渡線というわけですね。
東日本大震災の津波により甚大な被害を受けた大船渡線
この気仙沼駅~盛駅の区間は、2011年3月11日に発生した東日本大震災において発生した津波により甚大な被害を受けてしまい、線路はみんな津波に流されてしまいました。
そのため、それ以降は鉄道は復旧することなく、不通となってしまいます。
代わりにBRTで運行
その代わり、2013年からは「大船渡線BRT」として、バスが代わりに運行されています。
BRT(Bus Rapid Transit)とは「バス高速輸送システム」のことであり、JR東日本が運営するバス路線になります。
BRT区間は、正式に鉄道事業を廃止へ
そして2019年になると、不通となっていた区間について「鉄道事業をもはや廃止します」という届け出が、国土交通省に対して正式に提出されたため、2020年には正式に廃止となったのでした。
これにより、未来永劫鉄道として復活することは無くなったのでした(もちろん、今後もし日本の人口が爆発的に増えて鉄道がまた必要になれば、話は別かもしれませんが・・・)。
「ドラゴンレール」の愛称で呼ばれる、大船渡線

大船渡線(岩手県~宮城県)
1992年にJR東日本は、大船渡線の愛称を公募したのでした。
そこで、当時は故・鳥山明さん作のアニメ「ドラゴンボールZ」がとにかく大人気だったこともあり、「ドラゴンレール」という案が集まってきたのでした。
これは、
- 後述するように大船渡線の曲がりくねった線形が、まるで「ドラゴンボール」に出てくる神龍(シェンロン)の形にそっくりであること
- それに加え、しかも大船渡線の沿線においても、昔から龍の伝説があったこと
から、まさにピッタリだということで「ドラゴンレール大船渡線」と決定しました。
ドラゴンボールの神龍(シェンロン)とは?
ちなみに神龍(シェンロン)とは、作中において「どんな願いも叶えてくれる竜」のことです。
これは、たとえ死んだ人であっても生き返らせることができます。
シェンロンは「ドラゴンボール」とよばれる球体を7つ集めることで現れます。
ドラゴンボールは、世界中に散らばって転がっている状態となっています。
そのため、そのまま探すのは容易ではなく、「ドラゴンレーダー」とよばれるアイテムを使って探すことになります。
なぜ竜の形をしている?それは大正時代の「政治事情」にあった!
では、大船渡線はなぜこんなドラゴンレールと呼ばれるような形になったのか。
それは大正時代の政治問題がかなり関係してきています。
大正時代、とにかく鉄道は重要だった
昔は、特に大正時代は、まだ自動車が一般的でなかったために、人々の移動手段として鉄道は特に重要でした。
鉄道は明治時代の1872年に始まったわけですが、それ以降は鉄道はものすごい勢いで発展してゆき、多くの人が利用するようになりました。
大正時代、鉄道の誘致の失敗は許されなかった
そうなると、多くの人々が集まる「駅の周り」はとても発展していくことになります。
逆に、鉄道の誘致に失敗して、自分達の町に「駅」が存在しないと、自分達の町は衰退のリスクがありました。
- 社会的な孤立を深めてしまい、地域社会から取り残され、発展が阻害される可能性
- 観光客が減少してしまう可能性
また、もし隣の「駅がある町」に人々が集まる「活況」を奪われてしまうと、自分達の町は衰退するリスクすらあったのでした。
当時、どこも鉄道の誘致に必死だった
したがって、大正時代には全国のあちこちの町が、自分達の町に鉄道が通るようにしようと、駅の誘致に必死だったのです。
こうした中で、大船渡線でも各地から駅の誘致合戦が繰り広げられたのでした。
それも地元の政治家の力を頼って、政治の力で線路と駅を誘致するという活動が繰り広げられたのでした。
まっすぐのルートにするのか、それとも 摺沢を通る大回りのルートにするのか
当初の計画では(当然といえば当然かもしれませんが)、陸中門崎駅から千厩駅へと真っ直ぐに抜けることになっていました。
ちなみに、陸中門崎は
- 「りくちゅうかんざき」
と読みます。
「もんざき」ではないので、注意しましょう。
しかし、この陸中門崎駅から、北へ大きく迂回して、
- 摺沢駅(岩手県一関市)
を経由するという案がもちがったのです。
これも、地元の誘致合戦が関係しています。
千厩をスルーするルート案
岩手県出身の原敬が率いる立憲政友会のサポートによって、摺沢の地元の政治家が
- 摺沢を経由して、
- 千厩を通らずに、
- 直接、大船渡へと向かう
というように、計画が変更されたのでした。
困った千厩 懸命の誘致活動から成功へ
しかし、これでは千厩の町では困ります。
なので千厩の町では、憲政会の政治家の力に頼って、駅の誘致活動を展開するようになってゆきました。
やがて千厩からの支持をベースにした憲政会が選挙において勝利すると、千厩の政治家の意見が反映されるようになったため、千厩を通るように、再び計画が変更されたのでした。
そして、こうした紆余曲折を経た結果、現在のような「ドラゴンレール」ともいえる線形となったのでした。
【当初の案】
- 陸中門崎→(まっすぐ)→千厩
※最もシンプルな案
【立憲政友会の案】
- 陸中門崎→摺沢→千厩はスルー→大船渡
※摺沢の町を「ひいき」したような形のルート
【憲政会の案】
- 陸中門崎→摺沢→千厩
※現代の形。
千厩にも配慮したルート。
これが「ドラゴンレール」の形。
「我田引鉄」の代表例に
今でこそ「ドラゴンレール」という雅称がついていますが、当時は「鍋弦線」などと揶揄されていました。
そしてこれは、いわゆる「我田引鉄」の代表例とされています。
「我田引鉄」という言葉は、簡単に言うと「自分達のエゴで、鉄道を引いてくる」というような意味合いの言葉です。
もちろん、マイナスの意味の言葉です。
この「我田引鉄」は「我田引水」という言葉からきています。
これは、自分の田んぼに水を「我先に」と引っぱってきたりしたりすることです。
「ドラゴンレール」の線形は正解だったのか
このように大船渡線は、大正時代にさまざまな議論が重ねられた結果、線路は北へ大きく迂回する形になってしまいました。
なので大船渡線は、気仙沼・大船渡などの三陸海岸地域と、一ノ関駅といった内陸部の地域を「最短で結ぶ」という機能は、残念ながら果たすことは出来ないという形になりました。
観光地・猊鼻渓に近く、観光客を多く運べた
しかしこの線形により、「日本百景」にも選出された観光地である猊鼻渓の近くを経由することになりました。
これで、猊鼻渓を訪れたいという観光客を乗せるための観光路線としての役割を果たすことができるようになったのでした。
石灰石という資源を、たくさん運べたメリット
さらに、猊鼻渓の近くで採れる石灰石という(日本では貴重な)資源を運ぶための貨物路線としても活用する需要ができたため、こうした役割も果たすことができたのでした。
なので「ドラゴンレール」とも呼ばれる北へ大きく迂回するルートは、必ずしもマイナス面ばかりではありませんでした。
トータルではやはり、デメリットの方が大きかった
しかしながら、トータルではやはりデメリットの方が大きかったというものでした。
例えば、鉄道であれば一ノ関駅から千厩駅までは、実に40km近くの距離があります。
しかし自動車でならば、国道284号経由でおよそ24kmの道のりであり、車ならばかなりのショートカットになります。
これが後に「鉄道が自動車に負けていく」ことの要因となってしまうのてす。
国鉄時代には「急行列車」の設定があったりして、それなりに素早く移動することも可能でした。
つまり昔の大船渡線は、宮城県仙台市~岩手県一関市と、三陸の太平洋側の各都市との間を素早く結ぶための路線として、当時はそれなりに重要な交通手段でもあったのでした。
高度経済成長期になり、鉄道は車に徐々に負けるように
しかし鉄道(大船渡線)は、時代とともに自動車に負けるようになってくるのです。
時代とともに先述のような「線形の悪さ」が大きなデメリットとなってしまい、線路と並行する「高速道路」や「より綺麗で広い道路」が、次々に建設・整備されていくのです。
また、便利な自動車も一般家庭にどんどん普及していくようになります。
すると、鉄道(大船渡線)は次第に自動車に負けていくようになっていくのです。
そして今や「高速バス」などに、ほとんどその機能やシェアを奪わる形になっています。
気仙沼駅に到着 ここからはBRT(バス)にて、陸前高田へと移動
やがて、大船渡線の終着駅である、
- 気仙沼駅(宮城県気仙沼市)
に到着します。
ここからはBRT(バス)に乗り換えて、陸前高田へと向かいます。

気仙沼駅(宮城県気仙沼市)
バスとはいってもJR東日本の区間なので、7日間11,300円で乗り放題となる「北海道&東日本パス」でも乗ることが出来ます。
また、ここから先は「津波で線路が流された区間」をバスで通っていくため、途中で東日本大震災のときに津波で浸ってしまった区間を通ったりもします。
あの時、ここを津波が襲ったのだと思うと、なんだか当時の惨状が想像されます。
陸前高田市に到着
やがて、陸前高田駅(岩手県陸前高田市)に着きます。
ただしBRT(バス)であるため、「駅」とはいっても、どちらかというと「バス停」に近い感じ・イメージにはなります。
岩手県陸前高田市
「陸前」とは?
ここで陸前とは、今でいう宮城県のことになります。
しかし、昔の「国」の領域と、現在の「県」の領域は必ずしも一致しないため、「陸前」とはいいつつも実際には岩手県の領域になります。
ここは混乱しないように注意しましょう。
- 陸前国:宮城県
- 陸中国:岩手県
- 陸奥国:青森県
全国的に多い地名「高田市」
ちなみに「高田市」は、全国的にみても比較的多い地名になります。
- 高田市 :新潟県(ただし現在では合併して上越市に)
陸前高田市 : 岩手県- 大和高田市:奈良県
- 安芸高田市: 広島県
- 豊後高田市: 大分県
それぞれ市名の重複を避けるために、旧国名(昔の「国」の名前)を冠しているパターンが多いといえます。
また、「たかた」と「たかだ」の二パターンがあります。
YouTubeで人気だった「安芸高田市」
ちなみにこの中で、陸前高田市の他にも圧倒的に知名度が高いのが、やはり広島県の安芸高田市(YouTube登録者数:約20万人)です。
これはやはり、2024年東京都知事選で2位になった石丸伸二前市長による影響が大きいです。
ただ石丸前市長の人気が高すぎたためか、石丸さんが辞めると(2024年11月現在では)YouTubeの登録者数も全盛期の26万人から20万人に減ってしまいました。
また、数億円もあったとされる「ふるさと納税」も激減してしまったようです。
震災で大きな被害を受けた、陸前高田市
話を元に戻します。
陸前高田市は、東日本大震災による津波で大きな被害を受けたため、今後は津波の影響を避けるために、より内陸部へ市役所を移転したりするなど、将来に備えた防災・減災に取り組んでいます。

津波被害防止のため、今ではとても高くて大きな堤防が築かれている(岩手県陸前高田市)
震災の津波から唯一生き残った「奇跡の一本松」

奇跡の一本松(岩手県陸前高田市)
陸前高田市の海岸沿いにある「奇跡の一本松」 は、東日本大震災のときに奇跡的に津波で倒れなかった松の木になります。

奇跡の一本松(岩手県陸前高田市)
かつて「奇跡の一本松」があった海岸沿いには、高田松原という松原がありました。
これは昔、まだ大きな堤防を築く技術が無かった時代に、津波の被害から町を守るために、人々の手によって植えられたたくさんの松によってできた松原です。

津波で破壊された建物(岩手県陸前高田市)
しかし陸前高田市を襲った津波は、そんな松原の松たちを平気でなぎ倒してゆき、その津波は17mもの高さに達したといいます。
つまり電信柱の上にまで届いてしまうようなレベルの高さです。
とれだけ恐ろしい津波が襲ったのか、考えただけでも恐ろしいですよね。

津波で破壊された建物と、奇跡の一本松(岩手県陸前高田市)

被災した学校。震災当時、津波が屋上の高さまで達した(岩手県陸前高田市)

津波の被害に遭った、陸前高田市の景色。(岩手県陸前高田市)
奇跡の一本松は、そんな津波にも耐え抜き、奇跡的に一本だけ残ったのでした。
そして地元の人たちによる懸命な努力によって、奇跡の一本松は保存され、現在にいたります。

奇跡の一本松(岩手県陸前高田市)
おまけ:筆者の自撮り写真

奇跡の一本松前にて(岩手県陸前高田市)
この日は、震災の悲惨さと津波の恐ろしさ、そして「奇跡の一本松」を残すための地元のみなさんの懸命な努力をかみしめながら、観光と勉強になりました!
また「奇跡の一本松」の近くにある「東日本大震災津波伝承館 いわてTSUNAMIメモリアル」において、地元の味を堪能したり、またさまざまな写真などで勉強したりと、とても充実しました!
今回はここまでです!
お疲れ様でした!
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