熊本県八代市の歴史・地理を、わかりやすく解説しています!
観光や歴史に詳しくない方にも、やさしく解説してゆきます!
前回、八代市の地理・観光などについて解説
前回で、熊本県八代市の地理・観光などについて解説してきました。
また、九州新幹線や、新八代駅の概要などについても解説しています。
詳しくは、前回の記事(以下の記事)をご覧ください。

今回は、主に八代市の歴史の話題
今回は、主に八代市の歴史について解説してゆきます。
本サイトは「旅行を究極まで楽しむ」ことを目的としており、歴史をしっかり勉強することで、観光もさらに楽しいものになると考えております。
やさしく解説してゆきますので、頑張って勉強してゆきましょう!!
室町時代の八代市
鎌倉幕府が滅亡したあと、後醍醐天皇による「建武の新政」がはじまりました。
このとき、後醍醐天皇にとても忠実に尽くした武将である、名和長年の子である
- 名和義高
が、八代の地を与えられました。
後醍醐天皇に仕えた、名和長年とは?
名和長年とは、
- 鎌倉時代の終わりに、
- 島根県の隠岐島に(鎌倉幕府に逆らった罰で)流罪になっていた後醍醐天皇が、隠岐島から脱出するのを助け、
- 鎌倉幕府の滅亡と、建武の新政のために貢献した人物
になります。
名和長年について詳しくは、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

名和永年の子が、室町時代の八代を治めることに
この名和長年の子が、
- 八代の土地を与えられ、
- 室町時代における八代市のトップとして、支配するようになった
というわけです。
まあ、ここではとりあえず
- 室町時代の八代市長は、名和長年の子だった
と覚えておけばよいでしょう。
「古麓城」を拠点にした、名和長年の息子
そして長年の子は、古麓城とその城下町を築いたのでした。
古麓城は、現在の鹿児島本線・肥薩おれんじ鉄道線の駅である
- 八代駅(熊本県八代市)
のやや南東にある、先ほど紹介した球磨川のほとりにあった城です。
八代をめぐる、名和と相良の戦い
こうして室町時代の八代のトップとして支配した名和氏は、
- 東隣の球磨郡を支配していた、相良氏と
と、室町時代を通じてたびたび争うことになりました。
まあ「お隣同士」だと、どうしても意見の食い違いでイザコザというものがあるものです。
相良氏の拠点・球磨郡とは?
球磨郡とは、八代市の南東の山間部にあたるエリアであり、人吉市を中心とするエリアのことです。
ちょうど肥薩線が通るエリアでもあります。
今でも、人吉市のやや北東に、相良村という村があります。
ここから「名和 VS 相良」の構図へ
つまり、
の戦いになったわけです。
その結果は、相良氏の勝ちとなりました。
室町時代後半の1504年に起きた戦いの末、ついに相良氏が名和氏を八代の地から追い払ってしまいました。
そして、相良氏は八代へ、本格的に進出してゆきます。
相良氏の天下になった、八代の地
名和氏を追い払って八代の地に入ってきた相良氏は、まず本拠地を先述の古麓に移すことにしました。
つまり古麓の主が、
- 「名和」から、「相良」に変わった
というイメージです。
住民からすれば「市長が入れ替わった」というようなイメージですね。
徳淵津(港)を中心に、栄えていくように
そして、現在の八代市役所のやや南にある、球磨川沿いに作られた港である
- 徳淵津
が、大陸・中国との貿易港として、大いに栄えたのでした。
当時の九州は、外国に最も近い場所です。
当時は、九州は外国からの玄関口だった
現代では航空機が発達しているため、日本の玄関口は
- 「成田空港」
- 「関西国際空港」
などになります。
しかし、当時の日本の玄関口といえば長崎などをはじめとする、九州の西海岸エリアです。
八代も、同じような海外との玄関口として発展してきました。
港で働く人も増える
また、貿易をするとなると港で働く人達(人手)がたくさん必要になります。
そのため、住む人が多くなりこうした港のエリアは栄えやすくなり、徳淵港のある八代市も大きく栄えていきました。
内陸部へと移っていった徳淵港
ちなみにこの徳淵港は、今ではかなり内陸部にあるため、当然ですがもはや港としては使われていません。
昔は当然ながら、海沿いにあった立派な港だったというわけです。
なぜこうなったのかというと、
- 球磨川の運んでくる土砂が溜まっていったことによって、陸地がどんどん出来てゆき、海側に陸地が広がっていったこと
- 江戸時代の干拓(ダム・水門で水を意図的干上がらせ、陸地・農地を作ること)によって、陸地が拡大していったこと
などから、徳淵港は相対的にどんどん内陸部に移っていくみたいになっていった、というわけです。
相良氏の天下も終わり 島津氏の支配下に
しかし、戦国時代の終わりの1582年になると、相良氏は南の薩摩・大隅地方から勢力を伸ばしてきた島津氏に屈服してしまい、島津氏の下につくことになりました。
そして相良氏は、それまで名和氏に代わって支配してきた八代から撤退することになったのでした。
そこからの八代は、島津氏の天下となっていくのです。
しかし秀吉の「九州征伐」で、島津氏は降伏
しかし結局は、島津氏の天下までも奪われてしまいます。
それは1587年に豊臣秀吉の天下統一のために行われた「九州征伐」によって、島津氏も八代の地を追われてしまうことになったのでした。
豊臣秀吉は、全国を統一して日本のすべての土地を我が物にするため(カッコよくいえば、戦乱の世の中を終わらせて日本を平和にするため)、九州にもどんどん攻めていったのです。
それで八代の地から、島津氏を追い出してしまったのです。
江戸時代になり、加藤清正の天下へ
しかし豊臣秀吉も1598年に病死してしまい、江戸時代になると日本は徳川家康の天下となりました。
その後の熊本(元々は「隈本」)は加藤清正を代表とする、加藤氏の天下となりました。
八代の支配者・まとめ
つまりまとめると、八代市の歴代の天下・支配者は、
の順番になったわけですね。
※ただし、後述する佐々成政や小西行長などのように、上記以外の武将以外に他にもまだ存在します。
かつて熊本県最大の都市だった、八代市
戦国時代の八代の人口は、5万人にものぼりました。
戦国時代の日本の人口は約1,200万人でしたから、当時の人口感覚で5万人というのは、かなりすごい人口です。
単純に今の日本の10分の1ですから、今でいうと50万人にもおよぶ人口規模です。
現在の八代市の人口は約12万人ですから、いかに当時の八代が重要な都市であり、また「熊本最大の都市だった」というのがわかります。
秀吉の八代支配、そして佐々成政の失敗と肥後国人一揆
秀吉は島津氏を八代の地から追い出すと、1587年、肥後国(熊本県)の各地を佐々成政に与えて、支配を任せてゆきました。
無理に検地に立ち入り、住民を怒らせた佐々成政
佐々成政は、豊臣秀吉からは
と言われていたのですが、既に病気だったために、検地を焦ってしまいました。
まぁ、検地という名目で許可も信頼関係もないまま、無理やり地元民の土地に入ったのでしょう。
これが「土地権の侵害だ」として、豊臣秀吉から権利を保証されていたはずの国人(地元の人々のこと)たちからの不満を招いてしまい、1587年に肥後国人一揆が起きたのです。
もし、これを現代で例えると?
これを今で例えると、
- 税務署の職員が、裁判所の令状もなく、
- いきなり強制的に税務調査(=脱税をしていないかどうかを確かめるための調査)のために、
- 無理やり(強制的に)会社の敷地内に立ち入った
というようなイメージでしょうか。
つまり、いかに公務員とはいえ、現行犯あるいは(税務署職員も警察官であっても)裁判所に対して令状を請求して持っていかなければ、他人の敷地内に無断かつ強制的に入ることは、憲法違反および住居侵入罪にあたります。
公務員は権限が大きく、濫用すると人権侵害にあたることも
公務員は、職務上その権力がとても大きくなっています。
例えば、
- 警察官や自衛官のように「武器を使える」
- 消防士のように「ビルに侵入できる」
- 政治家や議員のように「税金の使い方を決められる」
などです。
このように、公務員の権限はその使い方を間違えると、誤って国民の権利を侵害してしまう、ということにもつながってしまうわけです。
そのため、公務員の権力は憲法や法律によって、さまざまな制限がかかっているのです。
公務員が国民に対して「権利を行使する」ためには、相当たる事由・法的根拠が必要
例えば、武器を使うことが認められのは「本当にやむを得ないと認められるとき」だけです。
また、住居に侵入していいのも
- 「真にやむを得ない場合(人の命がかかっているとき)」
- 「現行犯のとき(犯人に逃亡のリスクがあるとき)」
- 「裁判所の令状があるとき」
などの正当な理由があるときだけです。
また、法律や条例を作るときも、何重にもチェックや審査が入ります。
つまりこのように、権力の濫用を防ぐために、公務員だからといって何でも出来るというわけではないのです。
江戸時代も、武士による「みだりな切捨御免」は厳罰の対象だった
江戸時代も、もし武士が「切り捨て御免」という行為・権限を濫りにやってしまうと、幕府から厳罰を受けたといいます。
つまり武士が相手を切り捨てるのに、相当な理由があったのだと証明できないと、武士は厳罰を受けたのです。
豊臣秀吉による「検地」とは?
少し話がズレましたが、話を戻します。
検地とは、豊臣秀吉が、税金を正しく徴収するために、土地の広さをきちんと測ることです。
それまでは土地を測る基準が
だったため、
- 正しく土地を測るため
- 正しく税金を徴収するため
に、単位や測量のやりかたを統一したのです。
秀吉は、住民から不満を買わないよう、充分に配慮していた
豊臣秀吉は、住民に不満を招かれてしまいまた戦乱の世の中が訪れないためにも、住民(国人)に対してはあくまで万全の配慮をしていたことがわかります。
そして、豊臣秀吉はあくまで肥後国の「地元民ファースト」で、あくまで国人たちの自治(つまり、住民による政治)を保証していました。
秀吉から「3年間は検地はするな」と命令されていた しかし無視
そのために
と佐々成政に命令していたのですが、検地を焦った成政はこの命令に背いてしまいました。
そして、反感を買った国人によって一揆を起こされてしまいました。
命令違反の罰として、処刑に
この一揆は、佐々成政は一人で鎮めることができず、秀吉側からの援軍がかけつけて、ようやく鎮圧できたのでした。
なんとか一揆は鎮圧はしたものの、その責任を負わされ切腹に追い込まれたのです。
成政は謝罪のために、秀吉のいる大阪城までわざわざ赴いたのでした。
しかし、会うことを拒否され、兵庫県の尼崎に閉じ込められて、切腹に追い込まれたのでした。
佐々成政の滅亡、小西行長の天下に
このように肥後国人一揆という失態によって佐々成政が滅亡した後、 新たに熊本県南部のトップとなったのは、小西行長でした。
行長は、この肥後国人一揆の鎮圧において大きな活躍をみせたことから、それが評価されて秀吉により新たな支配者に命じられたのでした。
また行長は、先述の古麓城を廃止することにしました。
そして小西行長は、新たに八代を支配するための拠点として、現在の八代駅のやや西に位置する麦島城を1588年に築いたのでした。
「関ヶ原の戦い」において敗北
しかし1600年の関ヶ原の戦いにおいて、小西行長は、石田三成とともに徳川家に敵対する「西軍」についたのでした。
しかも西軍のトップクラスだったこともあり、敗戦の責任は重大なものとなっていました。
そのため、小西行長は罰として、京都の六条河原(京都駅のやや東の、鴨川にある地域)で、斬首されてしまいました。
加藤清正の天下となった八代
江戸時代になり、八代市では熊本城主・加藤清正が肥後国の領主(熊本県のトップ)となりました。
熊本は元々は「隈本」と書いていたのですが、
- 「隈」の文字に「畏れ多い」という文字が含まれているため、
- 武士としてふさわしくないということで、
- 強いイメージのある「熊」をつけた「熊本」に改められた
という経緯があります。
まとめ・感想
いかがだったでしょうか。
秀吉の命令を無視して、また住民の気持ちを無視して検地を行ってしまった佐々成政の行いについては、色々考えさせられるなぁ・・・と思うばかりでしたね。
逆に、住民の気持ちを考えられる為政者こそが、人々の心を掴むんだなぁ、と思いました。
次回は、水俣市へ
新八代駅を出た新幹線は、新水俣駅(熊本県水俣市)方面へと向かいます。
次回は、水俣市の話題となります!
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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