南九州の旅2 新水俣→出水 水俣と、出水兵児の歴史を探る

新水俣駅に到着 「肥薩おれんじ鉄道線」で、水俣駅へ

前回から新八代駅(しんやつしろえき、熊本県八代市)をスタートした南九州の旅は、九州新幹線で新水俣駅(しんみなまたえき、熊本県水俣市)に着きます。

新水俣駅(熊本県水俣市)
新水俣駅(熊本県水俣市)

新水俣駅からは、肥薩おれんじ鉄道線にて、水俣駅(みなまたえき、熊本県水俣市)に向かいます。

肥薩おれんじ鉄道線・水俣駅(熊本県水俣市)
肥薩おれんじ鉄道線・水俣駅(熊本県水俣市)

熊本県水俣市(みなまたし)は、熊本県最の南部にある街です。詳しくは後述しますが、水俣湾という海の幸に恵まれて歴史的に漁業が盛んであり、またチッソという大きな会社によって支えられてきた街ということで知られます。

四大公害病の一つ・水俣病

水俣(みなまた)の話題となると、どうしても避けて通れない話題が、いわゆる四大公害病の一つ「水俣病(みなまたびょう)」になります。

「水俣病」という言葉が地域にとってマイナスなイメージになることは重々承知ではありますが、義務教育で習うほどの重要な項目・知識である以上、ここは何卒ご了承・ご賢察いただきますよう、よろしくお願いいたします。

水俣病(みなまたびょう)とは、1950年代~1960年代にかけて発生した、いわゆる「四大公害病」の一つです。その発生原因や経緯については、後で詳しく述べてゆきます。

1960年代は日本は高度経済成長期といって、街中にどんどん工場がたくさん進出してきました。というか、自治体(街)が次々に企業や工場を誘致していったのです。そうすると街の税収アップにつながり、働く人も増え、人口も増えて結果的に街が発展していくからですね。
工場が増えたことにより、日本はたくさんの工業製品であふれるようになり、人々の生活はとても便利なものになってゆきました。これによって、日本は豊かになってゆきました。
しかしその代償として、どうしても公害というものが免れなくなりました。
工場の煙突から出る煙によって空気は汚れてしまい、また当時の日本は川はみな汚れてしまい、海は汚れてしまいました。

水俣とともに発展してきた会社「チッソ」

水俣市の街並み(熊本県水俣市)

水俣(みなまた)の地は、江戸時代までは「ごくごくふつうの漁村」に過ぎませんでした。
つまり人々は、水俣湾に泳いでいるお魚を釣って、それを食べたり、売ったお金を稼いだりして、人々は生活をしていたのです。

しかし、明治時代の終わりに「チッソ」という会社が水俣に登場したことがきっかけで、水俣の街は大きく変貌して成長していくことになるのです。

水俣市のシンボル・チッソ株式会社(熊本県水俣市)

明治時代の終わりの1908年、日本窒素肥料株式会社(にほんちっそひりょうかぶしきがいしゃ)の水俣工場が開設されました。
工場ができれば、そこで働く人が増えます。働く人が増えると、人口が増えて街に税金を納める人がたくさん増えるため、街がどんどん発展していくのです。新しい道路が作られていったりして、街がより便利で豊かになるというわけですね。

水俣市はこの「チッソ」の企業城下町として発展してきたという歴史があります。企業城下町とは、街に住む人のほとんどが「ある大企業」の従業員と、その家族で構成されているような街のことをいいます。いわば、街全体が「ある大企業」を中心に成り立っている街、ということができるでしょう。

企業城下町の例を挙げると、トヨタ自動車の企業城下町である愛知県豊田市(とよたし)や、日立製作所の企業城下町である茨城県日立市(ひたちし)などがあります。これらは「街の名前」が「企業の名前」になってしまっているため、凄いパターンです。

高度経済成長期の日本を支えた、チッソの「塩化ビニール」

チッソは、当時の高度経済成長期にあった日本において重要な塩化ビニールとよばれる物質・材料を作っていた会社でした。塩化ビニールは、自動車の部品や、水道の配管電気の保護管看板・文房具など、当時の日本を支えるあらゆるインフラの材料に使われていました。しかも耐久性(=壊れにくい性質)に優れていて、また絶縁性(=電気を通しにくい性質。感電防止に役立つ)にも優れていたために、とても重要な材料でした。

当時の高度経済成長期の日本は、次々に社会インフラ(電気や水道・自動車などの、生活に必要な基盤)を作っていった時代です。今の日本のインフラ・我々の生活基盤は、この時代にその基礎が作られたといっても過言ではないのです。そんな重要なインフラを作る材料をチッソは作っていたのですから、それはそれは飛ぶように売れてゆき、また大きな利益を上げることができたというわけです。これによって、チッソの社員たちの生活はみな豊かになり、延(ひ)いては水俣の街全体も豊かになっていったのでした。

このようにして水俣市は、チッソの存在なしには成り立たないような街になっていっていたのでした。
地元では、チッソの存在が大きくなりすぎて、もはや住民は逆うことができないような重要企業にまでになっていました。
逆にいえば「チッソの業務が止まる=水俣市の経済が止まる=人々は食えなくなくなる」といっても過言ではないような状態・状況となっていったのです。

企業城下町は、そのシンボルとなる企業が倒産してしまうと、その街全体が崩壊してしまうというリスクがあるのです。

水俣病の原因となった「メチル水銀」

先述の通り、チッソは塩化ビニールを製造・販売して、多大な利益を挙げていた会社でした。しかし、この塩化ビニールの製造に、チッソでは水俣病の原因となったメチル水銀を使っていたのです。

メチル水銀を含んだ工場の廃液(排水)が、水俣湾の海へと流してしまったことによって、魚が汚染されてしまいました。水俣では歴史的にたくさんの魚を食べて人々が暮らしてきたことは先述の通りですが、人々がこの汚染された魚を食べてしまったことで、水俣病にかかってしまったのでした。

水俣病の恐ろしい症状

水俣病は、先述の通り、水俣湾に排出されたメチル水銀を含んだお魚を、人々が食べたことによって生じた公害病です。

また、人々が罹患(りかん)する以前にも、発狂したネコが街中で大暴れするという現象が生じていたため、「魚が原因なのでは?」という疑惑が浮上し、魚を調べてみたら案の定、それが原因ということが判明したのでした。

水俣病にかかってしまうと、体を動かすための神経系がやられてしまうため、手足がしびれたり、口もきけなくなってしまう、というような症状が出てきます。メチル水銀には、ヒトの神経系を侵してしまう作用があるためです。我々の体は、この「神経」を伝って、脳から「動くように」という指令が電気のように伝わってゆき、はじめて体が動くようになっています。その大事な「神経系」がメチル水銀によって侵されることで、手足がしびれて動かなくなったりするのです。わかりやすい例でいうと、「麻酔」を打ったときにしびれるような感覚がありますよね。あれは痛みを消すために、あえて(わざと)「神経」を侵しているからです。あのような「麻酔」みたいな感覚に常にやられるような感じで、体が思うように言うことがきかなくなり、水俣の人々は苦しんだというわけです。

このような水俣病と全く同じ原因・全く同じ症状の患者が、新潟県の阿賀野川(あがのがわ)の下流にあたる地域でも発生しました。
こちらは新潟水俣病、または第二水俣病とも呼ばれます。

メチル水銀は、実は自然界にごく普通に存在しているそんなに珍しくはない物質であり、また魚介類でメチル水銀を含まないものはないのです。
そのため、実は人間は日頃から、魚からメチル水銀を取っていたりするのです。
日常の食事などから取るメチル水銀の量が、一定の(常識的な)範囲内であれば、体の外に問題なく排出されるため、特に大きな問題は起こりません。

人間の体は、意外と丈夫に出来ているというわけですね。

しかしながら、一度に大量のメチル水銀を摂取した場合は、体の外に排出しきずに、体内に蓄積されてされていってしまいます。その結果、水俣病のような重症を引き起こす場合があるのです。

妊婦さんに対しては、胎盤(たいばん:妊娠中に子宮の中に作られるクッションのようなものです。いわゆる「へその緒」から、赤ちゃんに対してエネルギーを供給する役割があります)を通じて、メチル水銀が供給されてしまい、お腹の赤ちゃんに影響が出てしまうリスクがあります。そのため、マグロなどのメチル水銀の量が多い魚の摂取については、ある程度の注意喚起が行われるということになっています。つまり妊婦さんは、魚介類を食べるときは充分に注意しなければならないということです。

水俣病の発生により、1958年以降は漁業が禁止となってしまい、それまで漁業でお金を稼いでいた人々にとっては致命的となり、水俣の漁業は壊滅状態となってしまいました。しかし後述するように、1997年には「安全宣言」が出されたため、それ以降は漁業は解禁(許可)となっています。

また、水俣湾でメチル水銀によって汚染されてしまった魚介類が、他の地域(海)へと流出してしまうことを防ぐために、仕切りのための(バリアーのような網)が設置されました。しかしこちらも、1997年の「安全宣言」によって、この網は撤去されています。

水俣病をめぐる差別

水俣湾は、このように多くの犠牲者が出てしまったことで「死の海」とも呼ばれるようになってしまいました。
このため「水俣」の名前は、世界的規模で「負のイメージ」を帯び、さまざまな風評被害を受けることになってしまいました。

後述する「大人の教養TV」によると、

・水俣病が「伝染病(ウイルス感染によるもの)」だという誤ったデマが流れ、患者の家に向かって消毒液が散布された
・「あそこの家は水俣病患者だ」などという噂が近所に広まり、また就職や結婚などで差別を受けた
・「水俣の学校」というだけで、部活の試合をさせてもらえなかった

という、様々な痛ましい事象が起こったのだということです。

そして漁業のみならず「農業」までもが風評被害に遇ってしまい、水俣の農家は大打撃を受けてしまいました。

ここまでくると、さすがに国としても放っておけないため、様々な対策に乗り出すことになったのでした。そしてチッソは水俣病の裁判に負けてしまったため、被害者・患者に対して多額の損害賠償を負うこととなり、経営危機に陥ってしまったといいます。

水俣病の「安全宣言」

水俣市より(熊本県水俣市)

1997年7月、当時の熊本県知事が水俣湾の「安全宣言」を行いました。
これにより、この年の10月から、それまで禁止されていた漁業が再びスタートされることになりました。
水俣の地は、明治時代まではずっと「漁業」で生計を立ててきた人が多かった「漁村」「港町」だっただけに、再び漁業が久しぶりにできるようになったことは、地元の人々としては本当に嬉しかったことでしょう。

今後の水俣市と、公害から学ぶこと

水俣市より(熊本県水俣市)

水俣市では、水俣病の経験を踏まえて「環境を大切にする」というモットーのもとに、街を挙げて全力で環境の改善に努力してきました。その結果、水俣の環境は著しく改善されてきています。

高度経済成長期によって、人々の生活は本当に便利で豊かになりました。自動車が大量に生産され、便利な工業製品も大量に生産されてきました。しかしその代償として「公害病」が生まれてしまい、空は煙突の煙で汚れてしまい、海や川の水が汚染されていったことで、多くの人々が無念にも犠牲になってきたことを、決して忘れてはならないのです。

そして大切なのは、「差別を再び起こさないこと」です。水俣病は、最初はなかなかその原因が解明されずに知れ渡らなかったために、当初は「伝染病だ」などと根拠のない原因を疑われてしまい、まるでウイルスと同じ扱いをされてしまって消毒液を吹っ掛けられる、というような痛ましい差別もあったことでしょう。

いつもこのサイトでも述べていますが、差別というのは「相手のことをよく理解していないこと」から起こります。中途半端に得た知識だけで、勝手に相手を「イメージ作り」して偏見を持ってしまうことで、そこからはじめて差別やいじめというものが起こってしまいます。断片的な情報だけを信用するのではなく、その原因について自ら正しい知識を得ることが、差別や偏見をなくすためにはとても重要です。

YouTube「大人の教養TV」で、水俣病についてより詳しく学ぼう

ここまで水俣病について学んできて、いかがだったでしょうか。

水俣病についてさらにわかりやすく、また詳しく学ぶには、私(筆者)がよく観るYouTubeチャンネル「大人の教養TV」(登録者数75万人)が、是非ともオススメです!

YouTubeで「大人の教養TV 水俣病」で検索すれば、一発で出てくると思います。

このチャンネルでは、静岡県浜松市出身のドントテルミー荒井さんという方が、水俣病についてとてもわかりやすく解説されています。

私(筆者)がここで解説しているものよりも、荒井さんの方がはるかにわかりやすく説明されているので、是非、オススメします!!

再び九州新幹線で、鹿児島方面へ 出水駅を過ぎ行く

水俣駅からは再び肥薩おれんじ鉄道線にて新水俣駅に戻り、再び九州新幹線に乗ります。

やがて鹿児島県に入り出水駅(いずみえき、鹿児島県出水市)に着きます。

薩摩の武士の見本・出水市

鹿児島県出水市(いずみし)は、鹿児島県の北西部にある、人口約5万人の市です。

出水は「でみず」でも「いみず」でもありません。「いずみ」です。「泉」と同じ読みですね。慣れるまでは、ちょっと読みにくいですね(私だけでしょうか)。語源は、昔からとても湧き水がよく出てきていた土地だから、というエピソードに由来しています。つまり「(いずみ)」と同じ意味ですね。昔はダムや水道などの便利なインフラは無かったため、昔の人にとって「水が湧き出る場所」はとても貴重だったことから、「出水」という地名がついたのでしょう。

ちなみに富山県に「射水(いみず)」という地名があるため(=ドラえもん発祥の地・高岡市の隣)、私はそちらとイメージが被って混同してしまい、いまだに「出水」の読み方を「いみず」と間違えてしまいます(^^; すみません。

また出水市は、ツルの渡来地としても知られています。つまり冬は、この南の暖かい出水市で過ごすというわけです。

ツルは、夏は涼しいシベリア地方や、北海道の釧路湿原(くしろしつげん)などで過ごします。しかし冬になると、緯度が低くてより暖かい出水市までやってくるのです。

出水市は、いわゆる薩摩国(さつまのくに)のエリアに属します。薩摩国とは、鹿児島県西部にあたるエリアのことです。一方、鹿児島県東部は大隅国(おおすみのくに)といいます。

「鹿児島県=薩摩」のイメージが強いと思いますが、実際にはこの2つの国からなっている点に注意しましょう。

「人は正しいことをしなければならない」出水兵児の教え

薩摩藩の北端地域にあたる出水(いずみ)は、隣の肥後藩(ひごはん:熊本県)と国境を接するという、重要な地でした。お互いの紛争から守るためのガードの拠点ということもあって、出水では薩摩藩を守るための最強の武士チームを育成してゆきました。

ではなぜ、薩摩・肥後の国境にあたるこの地域に、強い武士チームが必要だったのか。

それはやはり、江戸幕府が薩摩藩を警戒していたから、「それに備えて」というのが理由の一つとして挙げられるでしょう。肥後藩はどちらかというと「幕府寄り」であり、薩摩藩はどちらかというと「幕府の敵」というようなイメージです。なのでこの「肥薩国境(ひさつこっきょう)」は、軍事的にお互いにらみ合いするような、重要かつ緊迫した位置付けにあったというわけですね。

薩摩藩は、江戸時代において全国二位の石高(こくだか:簡単にいえば、藩が持つ経済力のこと)を誇っていました。これは、全国一位の加賀藩(かがはん:石川県金沢市)の103万石に次ぐ、約75万石にもおよぶ経済力・財力を誇っていたのでした。わかりやすくいうと、薩摩藩は全国二位のお金持ち藩(大藩)ったのです。

ではなぜ薩摩藩がこれだけお金持ちだったというと、それは琉球王国(現在の沖縄県)との貿易で、大儲けをしていたからというのが一つに挙げられます。江戸時代のはじめに、薩摩と琉球は戦争をしており、これに薩摩の方が勝利していたため、琉球は薩摩の言いなりになっていました。なので、琉球に対して不利な(薩摩にとっては有利な)レートで貿易(物々交換)をすれば、薩摩の方が儲かるという仕組みになっていました(逆に、琉球の側は損をすることになります。そしてこれがきっかけで、琉球の国内は乱れてゆくことになります)。

これだけ薩摩藩は経済的に豊かだったので、江戸幕府は薩摩藩を警戒をするようになります。なぜなら、その強大な資金力を背景に、江戸まで攻めてこられたら(反乱を起こされたら)たまったものではありません。しかも薩摩は江戸(東京)と遠いため、じっくり武士たちを育成してから江戸に攻めてくる、といったことも可能だったわけです。なので、江戸幕府は薩摩藩に対して、愛知県・三重県の間にある木曽三川(きそさんせん)の工事において、薩摩藩に対して膨大な工事費(人件費・材料費など)の負担を課したため、工事における事故を含めて、薩摩藩ではかなりの犠牲が出ることになりました。

そして熊本県の南端にあたる、前回紹介した八代(やつしろ)にも、当時は「一国一城令」でなかなか認められなかった「お城」の存在を認めて軍事力を固めるなど、江戸幕府は薩摩藩に対して、かなりの警戒ぶりでした。もし薩摩藩が謀反を起こして幕府に攻め入ろうとして北上してきたら、まずは八代で食い止めようとしていたわけですね。

このようにして、薩摩藩と熊本藩(=幕府寄りの藩)は事実上の対立状態にあったため、熊本に近い出水では武士チームが必要になったわけです。

実際に、幕末になると薩摩藩(・長州藩)と江戸幕府の対立は、現実のものとなりました。長年にわたって江戸幕府との対立があったため、薩摩藩の不満もたまっていたのかもしれません。やがて江戸幕府を倒した薩摩藩・長州藩の偉い人たちは、明治時代に入って、明治政府の重要職につくようになっていくのです。

話を元に戻しますが、こうした幕末の緊迫状態にあって、熊本県との県境に近いこの地域で、出水の若い武士チームが必要となり、育成されていったのでした。

出水の若い武士たちは、出水兵児(いずみへこ)と呼ばれたのでした。彼らは6歳~20歳の青少年からなる、若い武士たちのチームでした。兵児(へこ)とは、いわゆる青少年からなる武士のことをいいます。

この出水兵児をたくましく育てるために、作られたという「掟(おきて)」というものがありました。それは、
出水兵児修養掟(いずみへこ・しゅうようおきて)」
と呼ばれるものでした。

人は正しいことをしなければならない

これは、この掟に書かれた、いわゆる「武士の心構え」を表した内容です。
出水の武士たちは、その教えのもとに、当時の強い者として天下に広く知れ渡っていったのでした。そして彼らは、薩摩藩の武士たちの中でも、高く評価されていったのでした。

その「武士の精神」は、子孫へと代々(だいだい)伝えられ、受け継がれてゆきました。
今の世の中でも、「人として生きる心構え」としての秀作として、多くの人に語り継がれてゆき、親しまれているというわけです。

次回は、川内駅(薩摩川内市)へ

次回で、九州新幹線・川内駅(せんだいえき、鹿児島県薩摩川内市)に着きます。

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

コメント