南九州の旅2 新水俣→出水 水俣と、出水兵児の歴史を探る

南九州の旅について、わかりやすく解説してゆきます!
水俣の観光・地理・歴史などを、やさしく解説してゆきます!

  1. 新水俣駅に到着 「肥薩おれんじ鉄道線」で、水俣駅へ
    1. 水俣駅(水俣市)に到着
    2. 漁業と株式会社チッソで栄えてきた、水俣市
  2. 四大公害病の一つ・水俣病
    1. 水俣病は、どのようにして起きたか
    2. 高度経済成長の代償として、避けられなくなった「公害病」
    3. 水俣とともに発展してきた会社「チッソ」
    4. 1つ大きな工場ができると、街はそれに伴って大きく発展する
    5. チッソの企業城下町として、栄えてきた水俣市
    6. 高度経済成長期の日本を支えた、チッソの「塩化ビニール」
      1. 高度経済成長期の日本になくてはならなかった、塩化ビニール
      2. 今の日本の主要なインフラのほとんどは、高度経済成長期に作られた
      3. そんな重要なインフラの材料を当時の水俣のチッソは作っていた
    7. 水俣市は、チッソの存在なしでは語れない街になっていった
    8. 水俣病の原因となった「メチル水銀」
      1. メチル水銀により、水俣の海と魚が汚染
    9. 水俣病の恐ろしい症状
      1. 発狂したネコが、街中で大暴れした
      2. 人の神経系を侵してしまう、水俣病
      3. 同じような水俣病の症状が、かつて新潟でも起こった
      4. 実は我々人間は、普段からメチル水銀を取っている
      5. しかし限度を超えるメチル水銀を取ってしまうと、病気になってしまう
    10. 水俣病により、漁業が禁止になった
    11. 1997年には、水俣病の安全宣言が出される
    12. 水俣病をめぐる差別
      1. 風評被害と戦った、水俣の農業
    13. 「安全宣言」により、漁業が再開
    14. 今後の水俣市と、公害から学ぶこと
      1. 現代では、水俣の水質は大きく改善されている
      2. 高度経済成長期には、「公害」という大きな代償を生み出した
      3. 大切なのは、再び差別を海だ出さないこと
    15. YouTube「大人の教養TV」で、水俣病についてより詳しく学ぼう
  3. 再び九州新幹線で、鹿児島方面へ 出水駅を過ぎ行く
  4. 薩摩の武士の見本・出水市
    1. 水がよく湧き出るから「いずみ」
      1. ドラえもん発祥の地・射水(富山県)とは異なる
    2. ツルが飛んでくる出水市
    3. 薩摩国に属する、出水市
    4. 「人は正しいことをしなければならない」出水兵児の教え
      1. なぜ強い武士のチームが必要だったのか
      2. 全国2位の石高を持っていた 薩摩藩
      3. なぜ薩摩藩は、大きな石高を持っていたのか?
      4. 江戸時代、幕府に警戒された薩摩藩
      5. 「一国一城令」がある中で、八代に城が築かれるほどの、薩摩藩への警戒ぶり
      6. 薩摩と肥後の間で(事実上の)対立があったからこそ、薩摩の強い武士チームが必要だった
      7. 明治時代に入り、薩摩藩からは偉大な人が輩出
    5. 出水の若い武士たち「出水兵児」
      1. 出水兵児の「掟」
      2. 受け継がれていった、出水の教え
  5. 次回は、川内駅(薩摩川内市)へ

新水俣駅に到着 「肥薩おれんじ鉄道線」で、水俣駅へ

前回から

  • 新八代駅しんやつしろえき(熊本県八代市)

をスタートした南九州の旅は、九州新幹線で

  • 新水俣駅しんみなまたえき(熊本県水俣市)

に着きます。

新水俣駅(熊本県水俣市)

新水俣駅(熊本県水俣市)

新水俣駅(熊本県水俣市)

新水俣駅(熊本県水俣市)

水俣駅(水俣市)に到着

新水俣駅からは、肥薩おれんじ鉄道線にて、水俣駅みなまたえき(熊本県水俣市)に向かいます。

肥薩おれんじ鉄道線・水俣駅(熊本県水俣市)

肥薩おれんじ鉄道線・水俣駅(熊本県水俣市)

肥薩おれんじ鉄道線・水俣駅(熊本県水俣市)

肥薩おれんじ鉄道線・水俣駅(熊本県水俣市)

漁業と株式会社チッソで栄えてきた、水俣市

熊本県水俣市みなまたしは、熊本県最の南部にある街です。

詳しくは後述しますが、水俣湾という海の幸に恵まれて、歴史的に漁業が盛んだったのでした。

また、チッソという大きな会社によって支えられてきた街ということで知られます。

四大公害病の一つ・水俣病

水俣みなまたの話題となると、どうしても避けて通れない話題が、いわゆる四大公害病の一つである、「水俣病みなまたびょう」になります。

「水俣病」という言葉が地域にとってマイナスなイメージになることは、重々承知ではあります。

しかし、義務教育で習うほどの重要な項目・知識である以上、ここは何卒ご了承・ご賢察いただきますよう、よろしくお願いいたします。

水俣病みなまたびょうとは、1950年代~1960年代にかけて発生した、いわゆる「四大公害病」の一つです。

その発生原因や経緯については、後で詳しく述べてゆきます。

水俣病は、どのようにして起きたか

1960年代は日本は高度経済成長期といって、街中にどんどん工場がたくさん進出してきました。
というか、自治体(街)が次々に企業や工場を誘致していったのです。
そうすると街の税収アップにつながり、働く人も増え、人口も増えて結果的に街が発展していくからですね。

高度経済成長の代償として、避けられなくなった「公害病」

このように、工場が増えたことにより、日本はたくさんの工業製品であふれるようになり、人々の生活はとても便利なものになってゆきました。
これによって、日本は豊かになってゆきました。

しかしその代償として、どうしても公害というものが免れなくなりました。

工場の煙突から出る煙によって空気は汚れてしまい、また当時の日本は川はみな汚れてしまい、海は汚れてしまいました。

水俣とともに発展してきた会社「チッソ」

水俣市の街並み(熊本県水俣市)

水俣市の街並み(熊本県水俣市)

水俣みなまたの地は、江戸時代までは「ごくごくふつうの漁村」に過ぎませんでした。
つまり人々は、水俣湾に泳いでいるお魚を釣って、それを食べたり、売ったお金を稼いだりして、人々は生活をしていたのです。

しかし、明治時代の終わりに「チッソ」という会社が水俣に登場したことがきっかけで、水俣の街は大きく変貌して成長していくことになるのです。

水俣市のシンボル・チッソ株式会社(熊本県水俣市)

1つ大きな工場ができると、街はそれに伴って大きく発展する

明治時代の終わりの1908年、日本窒素肥料株式会社にほんちっそひりょうかぶしきがいしゃ水俣工場が開設されました。

工場ができれば、そこで働く人が増えます。
働く人が増えると、人口が増えて街に税金を納める人がたくさん増えるため、街がどんどん発展していくのです。
さらに新しい道路が作られていったりして、街がより便利で豊かになるというわけですね。

チッソの企業城下町として、栄えてきた水俣市

水俣市は、この「チッソ」の企業城下町として発展してきたという歴史があります。

企業城下町とは、街に住む人のほとんどが「ある大企業」の従業員と、その家族で構成されているような街のことをいいます。

いわば、街全体が「ある大企業」を中心に成り立っている街、ということができるでしょう。

企業城下町の例を挙げると、

  • トヨタ自動車の企業城下町である、愛知県豊田市とよたし
  • 日立製作所の企業城下町である、茨城県日立市ひたちし

などが存在します。

これらは「街の名前」が「企業の名前」になってしまっているため、凄いパターンです。

高度経済成長期の日本を支えた、チッソの「塩化ビニール」

チッソは、当時の高度経済成長期にあった日本において重要な塩化ビニールとよばれる物質・材料を作っていた会社でした。

高度経済成長期の日本になくてはならなかった、塩化ビニール

塩化ビニールは、自動車の部品や、水道の配管電気の保護管看板・文房具など、当時の日本を支えるあらゆるインフラの材料に使われていました。
しかも耐久性(=壊れにくい性質)に優れていて、また絶縁性(=電気を通しにくい性質。
感電防止に役立つ)にも優れていたために、とても重要な材料でした。

今の日本の主要なインフラのほとんどは、高度経済成長期に作られた

当時の高度経済成長期の日本は、次々に社会インフラ(電気や水道・自動車などの、生活に必要な基盤)を作っていった時代です。

今の日本のインフラ・我々の生活基盤は、この時代にその基礎が作られたといっても過言ではないのです。

そんな重要なインフラの材料を当時の水俣のチッソは作っていた

つまり、そんな重要なインフラを作る材料をチッソは作っていたのですから、それはそれは飛ぶように売れてゆき、また大きな利益を上げることができたというわけです。

これによって、チッソの社員たちの生活はみな豊かになり、いては水俣の街全体も豊かになっていったのでした。

水俣市は、チッソの存在なしでは語れない街になっていった

このようにして水俣市は、チッソの存在なしには成り立たないような街になっていっていたのでした。

地元では、チッソの存在が大きくなりすぎて、もはや住民は逆うことができないような重要企業にまでになっていました。

逆にいえば

  • 「チッソの業務が止まる=水俣市の経済が止まる=人々は食えなくなくなる」

といっても過言ではないような、そんな状態・状況にまでなっていったのです。

企業城下町は、逆にいえばそのシンボルとなる企業が倒産してしまうと、その街全体が崩壊してしまうというリスクがあるのです。

水俣病の原因となった「メチル水銀」

先述の通り、チッソは塩化ビニールを製造・販売して、多大な利益を挙げていた会社でした。

しかし、この塩化ビニールの製造に、チッソでは水俣病の原因となったメチル水銀を使っていたのです。

メチル水銀により、水俣の海と魚が汚染

このメチル水銀を含んだ工場の廃液(排水)が、水俣湾の海へと流してしまったことによって、魚が汚染されてしまいました。

水俣では、歴史的にたくさんの魚を食べて人々が暮らしてきたことは先述の通りです。
しかし、人々がこの汚染された魚を食べてしまったことで、水俣病にかかってしまったのでした。

水俣病の恐ろしい症状

水俣病は、先述の通り、水俣湾に排出されたメチル水銀を含んだお魚を、人々が食べたことによって生じた公害病です。

発狂したネコが、街中で大暴れした

また、人々が罹患りかんする以前にも、発狂したネコが街中で大暴れするという現象が生じていたため、
「魚が原因なのでは?」
という疑惑が浮上し、魚を調べてみたら案の定、それが原因ということが判明したのでした。

人の神経系を侵してしまう、水俣病

水俣病にかかってしまうと、体を動かすための神経系がやられてしまうため、手足がしびれたり、口もきけなくなってしまう、というような症状が出てきます。

メチル水銀には、ヒトの神経系を侵してしまう作用があるためです。

我々の体は、この「神経」を伝って、脳から「動くように」という指令が電気のように伝わってゆき、はじめて体が動くようになっています。
その大事な「神経系」がメチル水銀によって侵されることで、手足がしびれて動かなくなったりするのです。

わかりやすい例でいうと、「麻酔」を打ったときに、しびれるような感覚がありますよね。
あれは痛みを消すために、あえてわざと「神経」を侵しているからです。

あのような「麻酔」みたいな感覚に常にやられるような感じで、体が思うように言うことがきかなくなり、水俣の人々は苦しんだというわけです。

同じような水俣病の症状が、かつて新潟でも起こった

このような水俣病と全く同じ原因・全く同じ症状の患者が、新潟県の阿賀野川あがのがわの下流にあたる地域でも発生しました。

こちらは新潟水俣病、または第二水俣病とも呼ばれます。

実は我々人間は、普段からメチル水銀を取っている

メチル水銀は、実は自然界にごく普通に存在している、そんなに珍しくはない物質です。
また、魚介類でメチル水銀を含まないものはないのです。
そのため、実は人間は日頃から、魚からメチル水銀を取っていたりするのです。

日常の食事などから取るメチル水銀の量が、一定の(常識的な)範囲内であれば、体の外に問題なく排出されるため、特に大きな問題は起こりません。

人間の体は、意外と丈夫に出来ているというわけですね。

しかし限度を超えるメチル水銀を取ってしまうと、病気になってしまう

しかしながら、一度に大量のメチル水銀を摂取した場合は、体の外に排出しきずに、体内に蓄積されてされていってしまいます。
その結果、水俣病のような重症を引き起こす場合があるのです。

妊婦さんに対しては、胎盤たいばん(妊娠中に子宮の中に作られるクッションのようなものです。
いわゆる「へその緒」から、赤ちゃんに対してエネルギーを供給する役割があります)を通じて、メチル水銀が供給されてしまい、お腹の赤ちゃんに影響が出てしまうリスクがあります。

そのため、マグロなどのメチル水銀の量が多い魚の摂取については、ある程度の注意喚起が行われるということになっています。
つまり妊婦さんは、魚介類を食べるときは充分に注意しなければならないということです。

水俣病により、漁業が禁止になった

水俣病の発生により、1958年以降は漁業が禁止となってしまいました。

これにより、それまで漁業でお金を稼いでいた人々にとっては致命的となり、水俣の漁業は壊滅状態となってしまいました。

1997年には、水俣病の安全宣言が出される

しかし後述するように、1997年には「安全宣言」が出されたため、それ以降は漁業は解禁(許可)となっています。

また、水俣湾でメチル水銀によって汚染されてしまった魚介類が、他の地域(海)へと流出してしまうことを防ぐために、仕切りのための(バリアーのような網)が設置されました。

しかしこちらも、1997年の「安全宣言」によって、この網は撤去されています。

水俣病をめぐる差別

水俣湾は、このように多くの犠牲者が出てしまったことで「死の海」とも呼ばれるようになってしまいました。

このため「水俣」の名前は、世界的規模で「負のイメージ」を帯び、さまざまな風評被害を受けることになってしまいました。

後述する「大人の教養TV」によると、

  • 水俣病が「伝染病(ウイルス感染によるもの)」だという誤ったデマが流れ、患者の家に向かって消毒液が散布された
  • 「あそこの家は水俣病患者だ」などという噂が近所に広まり、また就職や結婚などで差別を受けた
  • 「水俣の学校」というだけで、部活の試合をさせてもらえなかった

という、様々な痛ましい事象が起こったのだということです。

風評被害と戦った、水俣の農業

そして漁業のみならず「農業」までもが風評被害に遇ってしまい、水俣の農家は大打撃を受けてしまいました。

ここまでくると、さすがに国としても放っておけないため、様々な対策に乗り出すことになったのでした。

そしてチッソは水俣病の裁判に負けてしまったため、被害者・患者に対して多額の損害賠償を負うこととなり、経営危機に陥ってしまったといいます。

「安全宣言」により、漁業が再開

水俣市より(熊本県水俣市)

先述の通り、1997年7月、当時の熊本県知事が水俣湾の「安全宣言」を行いました。

これにより、この年の10月から、それまで禁止されていた漁業が再びスタートされることになりました。

水俣の地は、明治時代まではずっと「漁業」で生計を立ててきた人が多かった「漁村」「港町」だっただけに、再び漁業が久しぶりにできるようになったことは、地元の人々としては本当に嬉しかったことでしょう。

今後の水俣市と、公害から学ぶこと

水俣市より(熊本県水俣市)

水俣市より(熊本県水俣市)

現代では、水俣の水質は大きく改善されている

水俣市では、水俣病の経験を踏まえて「環境を大切にする」というモットーのもとに、街を挙げて全力で環境の改善に努力してきました。

その結果、水俣の環境は著しく改善されてきています。

高度経済成長期には、「公害」という大きな代償を生み出した

高度経済成長期によって、人々の生活は本当に便利で豊かになりました。
自動車が大量に生産され、便利な工業製品も大量に生産されてきました。

しかしその代償として、「公害病」が生まれてしまいました。
空は煙突の煙で汚れてしまい、海や川の水が汚染されていったことで、多くの人々が無念にも犠牲になってきたことを、決して忘れてはならないのです。

大切なのは、再び差別を海だ出さないこと

そして大切なのは、「差別を再び起こさないこと」です。

水俣病は、最初はなかなかその原因が解明されずに知れ渡らなかったのでした。
しかし、そのために、当初は「伝染病だ」などと根拠のない原因を疑われてしまい、まるでウイルスと同じ扱いをされてしまって消毒液を吹っ掛けられる、というような痛ましい差別もあったことでしょう。

いつもこのサイトでも述べていますが、差別というのは「相手のことをよく理解していないこと」から起こります。

中途半端に得た知識だけで、勝手に相手を「イメージ作り」して偏見を持ってしまうことで、そこからはじめて差別やいじめというものが起こってしまいます。
断片的な情報だけを信用するのではなく、その原因について自ら正しい知識を得ることが、差別や偏見をなくすためにはとても重要です。

YouTube「大人の教養TV」で、水俣病についてより詳しく学ぼう

ここまで水俣病について学んできて、いかがだったでしょうか。

水俣病についてさらにわかりやすく、また詳しく学ぶには、私(筆者)がよく観るYouTubeチャンネル「大人の教養TV」(登録者数75万人)が、是非ともオススメです!

YouTubeで「大人の教養TV 水俣病」で検索すれば、一発で出てくると思います。

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このチャンネルではドントテルミー荒井さんという方が、水俣病についてとてもわかりやすく解説されています。
私(筆者)がここで解説しているものよりも、荒井さんの方がはるかにわかりやすく説明されているので、是非、オススメします!!

再び九州新幹線で、鹿児島方面へ 出水駅を過ぎ行く

水俣駅からは再び肥薩おれんじ鉄道線にて新水俣駅に戻り、再び九州新幹線に乗ります。

やがて鹿児島県に入り出水駅いずみえき(鹿児島県出水市)に着きます。

薩摩の武士の見本・出水市

鹿児島県出水市いずみしは、鹿児島県の北西部にある、人口約5万人の市です。

水がよく湧き出るから「いずみ」

出水は「でみず」でも「いみず」でもありません。
いずみ」です。
「泉」と同じ読みですね。

慣れるまでは、ちょっと読みにくいですね(私だけでしょうか)。

語源は、昔からとても湧き水がよく出てきていた土地だから、というエピソードに由来しています。
つまり、「いずみ」と同じ意味ですね。

昔はダムや水道などの便利なインフラは無かったため、昔の人にとって「水が湧き出る場所」はとても貴重だったことから、「出水」という地名がついたのでしょう。

ドラえもん発祥の地・射水(富山県)とは異なる

ちなみに富山県に「射水いみず」という地名があるため(=ドラえもん発祥の地・高岡市の隣)、私はそちらとイメージが被って混同してしまい、いまだに「出水」の読み方を「いみず」と間違えてしまいます(^^;
すみません。

ツルが飛んでくる出水市

また出水市は、ツルの渡来地としても知られています。
つまり冬は、この南の暖かい出水市で過ごすというわけです。

ツルは、夏は涼しいシベリア地方や、北海道の釧路湿原くしろしつげんなどで過ごします。
しかし冬になると、緯度が低くてより暖かい出水市までやってくるのです。

薩摩国に属する、出水市

出水市は、いわゆる薩摩国さつまのくにのエリアに属します。

薩摩国とは、鹿児島県西部にあたるエリアのことです。
一方、鹿児島県東部は大隅国おおすみのくにといいます。

「鹿児島県=薩摩」のイメージが強いと思いますが、実際にはこの2つの国からなっている点に注意しましょう。

「人は正しいことをしなければならない」出水兵児の教え

薩摩藩の北端地域にあたる出水いずみは、隣の肥後藩ひごはん(熊本県)と国境を接するという、重要な地でした。

お互いの紛争から守るためのガードの拠点ということもあって、出水では薩摩藩を守るための最強の武士チームを育成してゆきました。

なぜ強い武士のチームが必要だったのか

ではなぜ、薩摩・肥後の国境にあたるこの地域に、強い武士チームが必要だったのか。

それはやはり、江戸幕府が薩摩藩を警戒していたから、「それに備えて」というのが理由の一つとして挙げられるでしょう。

  • 肥後藩は、どちらかというと「幕府寄り」であり、
  • 薩摩藩は、どちらかというと「幕府の敵」

というようなイメージです。

なのでこの「肥薩国境ひさつこっきょう」は、軍事的にお互いにらみ合いするような、重要かつ緊迫した位置付けにあったというわけですね。

全国2位の石高を持っていた 薩摩藩

薩摩藩は、江戸時代において全国二位の石高こくだか(簡単にいえば、藩が持つ経済力のこと)を誇っていました。

これは、全国一位の加賀藩かがはん(石川県金沢市)の103万石に次ぐ、約75万石にもおよぶ経済力・財力を誇っていたのでした。

わかりやすくいうと、薩摩藩は全国二位のお金持ち藩(大藩)ったのです。

なぜ薩摩藩は、大きな石高を持っていたのか?

ではなぜ薩摩藩がこれだけお金持ちだったというと、それは琉球王国(現在の沖縄県)との貿易で、大儲けをしていたからというのが一つに挙げられます。

江戸時代のはじめに、薩摩と琉球は戦争をしており、これに薩摩の方が勝利していたため、琉球は薩摩の言いなりになっていました。

なので、琉球に対して不利な(薩摩にとっては有利な)レートで貿易(物々交換)をすれば、薩摩の方が儲かるという仕組みになっていました。
逆に、琉球の側は損をすることになります。

そしてこれがきっかけで、琉球の国内は乱れてゆくことになります。

江戸時代、幕府に警戒された薩摩藩

これだけ薩摩藩は経済的に豊かだったので、江戸幕府は薩摩藩を警戒をするようになります。
なぜなら、その強大な資金力を背景に、江戸まで攻めてこられたら(反乱を起こされたら)たまったものではありません。

しかも薩摩は江戸(東京)と遠いため、じっくり武士たちを育成してから江戸に攻めてくる、といったことも可能だったわけです。

なので、江戸幕府は薩摩藩に対して、愛知県・三重県の間にある木曽三川きそさんせんの工事において、薩摩藩に対して膨大な工事費(人件費・材料費など)の負担を課したのでした。
そのため、工事における事故を含めて、薩摩藩ではかなりの犠牲が出ることになりました。

「一国一城令」がある中で、八代に城が築かれるほどの、薩摩藩への警戒ぶり

そして熊本県の南端にあたる、前回紹介した八代やつしろにも、当時は「一国一城令」でなかなか認められなかった「お城」の存在を認めて軍事力を固めるなど、江戸幕府は薩摩藩に対して、かなりの警戒ぶりでした。

もし薩摩藩が謀反を起こして幕府に攻め入ろうとして北上してきたら、まずは八代で食い止めようとしていたわけですね。

薩摩と肥後の間で(事実上の)対立があったからこそ、薩摩の強い武士チームが必要だった

このようにして、薩摩藩と熊本藩(=幕府寄りの藩)は事実上の対立状態にあったため、熊本に近い出水では武士チームが必要になったわけです。

実際に、幕末になると薩摩藩(・長州藩)と江戸幕府の対立は、現実のものとなりました。
長年にわたって江戸幕府との対立があったため、薩摩藩の不満もたまっていたのかもしれません。

明治時代に入り、薩摩藩からは偉大な人が輩出

やがて江戸幕府を倒した薩摩藩・長州藩の偉い人たちは、明治時代に入って、明治政府の重要職につくようになっていくのです。

話を元に戻しますが、こうした幕末の緊迫状態にあって、熊本県との県境に近いこの地域で、出水の若い武士チームが必要となり、育成されていったのでした。

出水の若い武士たち「出水兵児」

出水の若い武士たちは、出水兵児いずみへこと呼ばれたのでした。

彼らは6歳~20歳の青少年からなる、若い武士たちのチームでした。

兵児へことは、いわゆる青少年からなる武士のことをいいます。

出水兵児の「掟」

この出水兵児をたくましく育てるために、作られたという「おきて」というものがありました。
それは、
出水兵児修養掟(いずみへこ・しゅうようおきて)」
と呼ばれるものでした。

人は正しいことをしなければならない

これは、この掟に書かれた、いわゆる「武士の心構え」を表した内容です。

受け継がれていった、出水の教え

出水の武士たちは、その教えのもとに、当時の強い者として天下に広く知れ渡っていったのでした。
そして彼らは、薩摩藩の武士たちの中でも、高く評価されていったのでした。

その「武士の精神」は、子孫へと代々だいだい伝えられ、受け継がれてゆきました。

今の世の中でも、「人として生きる心構え」としての秀作として、多くの人に語り継がれてゆき、親しまれているというわけです。

次回は、川内駅(薩摩川内市)へ

次回で、九州新幹線・川内駅せんだいえき(鹿児島県薩摩川内市)に着きます。

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。
そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。
再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。
何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

この記事が良いと思った方は、よかったら次の記事・前回の記事も見てくださいね!

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