鹿児島中央を出発 日豊本線で北東・隼人方面へ
鹿児島中央駅(かごしまちゅうおうえき、鹿児島県鹿児島市)を出ると、今回からはいよいよ日豊本線(にっぽうほんせん)に乗って、九州の東側に向かってゆきます。つまり、宮崎県・大分県の方面へと向かってゆくわけです。
ちなみに気を付けたいのが、博多からずっと九州の西海岸に沿ってきた鹿児島本線の終点と日豊本線の終点は、鹿児島中央駅の一つ隣である鹿児島駅になります。どうしても鹿児島中央駅の方が中心駅・ターミナル駅のようなイメージがあるため、ここは勘違いしないように気をつけておくとよいでしょう。
今回は鹿児島駅(かごしまえき、鹿児島県鹿児島市)→姶良駅(あいらえき、鹿児島県姶良市)→隼人駅(はやとえき、鹿児島県霧島市)へと進みます。そして
この途中、雄大な桜島が、窓の右側に聳え立ちます。
隼人駅からは肥薩線(ひさつせん)に乗り換えて、吉松駅(よしまつえき、鹿児島県姶良郡湧水町)へと進みます。
日豊本線(にっぽうほんせん)とは、その名のとおり、日向国(ひゅうがのくに:宮崎県)と豊前国(ぶぜんのくに:福岡県東部)を結ぶための路線であり、それぞれの頭文字「日」「豊」をそれぞれ取った名前になります。つまり、福岡県・大分県・宮崎県・鹿児島県を経由する、九州の東海岸沿いに進む路線です。正確には、小倉駅(福岡県北九州市小倉北区)と、鹿児島駅(鹿児島県鹿児島市)を結ぶ路線になります。
鹿児島本線と日豊本線との分岐駅・鹿児島駅
鹿児島中央駅から東へわずか1駅ゆくと、鹿児島駅(かごしまえき、鹿児島県鹿児島市)に到着します。そしてこの鹿児島駅こそが、先述の通り鹿児島本線・日豊本線の境界駅になります。
鹿児島駅はまだじゅうぶん鹿児島市内(都会の範囲内)にあるため、もちろんそこそこ大きな重要駅ではあるのですが、やはりスケール的には鹿児島中央駅の方が大きいため、先述の通り、どうしても鹿児島中央駅の方が鹿児島本線・日豊本線の「境界駅」であるというふうに勘違いしてしまいがちです。
実際に、北西の鹿児島本線・伊集院駅(いじゅういんえき、鹿児島県日置市)・川内駅(せんだいえき、鹿児島県薩摩川内市)、および東の日豊本線・国分駅(こくぶえき:鹿児島県霧島市)へと向かうほとんどの列車が、鹿児島中央駅からの発車(始発)になっているからです。
なので、正式な境界駅はあくまで鹿児島駅ではあるのですが、実際の運行上の境界駅は鹿児島中央駅だというふうに理解しておくとよいでしょう。つまり鹿児島中央駅が、事実上の鹿児島本線・日豊本線の境界駅であるというふうに言っていいと思われます。
鹿児島駅の近くの海岸には、前々回解説したフランシスコ・ザビエルの上陸碑があります。ザビエルはスペインからはるばると海を渡ってきて鹿児島に上陸し、日本ではじめてキリスト教の布教を行ったわけですが、いざ実際に布教活動をやってみると、仏教勢力との対立などもあって、なかなか布教が進まなかったことは、前々回も解説した通りです。詳しくは、以下の前々回の記事をご参照ください。
南九州の旅3 川内→伊集院→鹿児島中央 薩摩の魅力と歴史に迫る
また、「我は海の子」という唱歌をよくご存知だと思いますが、この唱歌の作者が鹿児島市出身だというふうに言われているため(諸説あり)、同じく鹿児島駅の近くの海岸にはこの唱歌の「歌碑」が建てられています。ちなみに「我は海の子」は1910年に発表された文部省唱歌です。同時期の1900年に発表された鉄道唱歌と似ていますね。
鹿児島市のベッドタウン・姶良市
桜島を右にして、姶良カルデラ(あいらカルデラ)と呼ばれる海に沿って進むと、姶良駅(あいらえき、鹿児島県姶良市)に着きます。
鹿児島県姶良市(あいらし)は、鹿児島市のベッドタウンとして発展している人口約77,000人の市です。ベッドタウンとは、例えば昼間は鹿児島市の職場に通勤して、夜は姶良市の自宅に帰ってきてベッドで眠る、というようなイメージの街のことです。例えば姶良市に、家賃がより安くて良い物件・広い部屋など(様々なメリット)がある場合は、あえて鹿児島市に住むよりも姶良市に住む、という選択肢もあるというわけですね。都会は便利なぶん、どうしても家賃が上がってしまうケースも多いため、あえて少し都会から離れた閑静(かんせい)なベッドタウンに住む、という選択肢も存在するわけです。
姶良市は、鹿児島湾(別名:錦江湾/きんこうわん)の奥側に位置しています。この鹿児島湾の奥側の海のことを、姶良カルデラ(あいらカルデラ)といいます。「カルデラ」とは、火山が大爆発したときに、中身が噴出し陥没してできた、巨大な空洞のことです。「カルデラ」とはポルトガル語で「大きな鍋」を意味します。まさに「大きな鍋」のような形をした空洞、という意味ですね。
つまり「姶良カルデラ」は、大昔は「火山の巨大な噴火口」だったわけです。その巨大な空洞に海水がたまって出来たのが、現在の「姶良カルデラ」というわけです。そして、後に「姶良カルデラ」の南側の位置にできた「子火山」が、桜島というわけです。
霧島市・隼人駅に到着 肥薩線との分岐駅
姶良駅を出てさらに東へ進むと、やがて肥薩線(ひさつせん)との分岐駅である隼人駅(はやとえき、鹿児島県霧島市)に到着します。
鹿児島県霧島市(きりしまし)は、西は薩摩地方(薩摩半島)、東は大隅地方(大隅半島)という、両者のちょうど間にある重要な位置にあります。なので、霧島市は古くから「交通の要所」として栄えてきた歴史があります。
また、やや北に鹿児島空港が存在することで、その(鹿児島市への)途中の通り道となるという重要な地域でもあります。
ちなみに霧島市の山側に存在する鹿児島空港は、鹿児島市からはちょっと遠いため、「この点」だけ取ればかなり不便な場所にあります。しかし、山ばかりの(山地が多い)鹿児島県にあっては、ここに作るしかある意味仕方なかったようです。
鹿児島空港は、元々は鹿児島市にあったのだそうです。しかしその時は滑走路が約1,500mと短く、これだとジャンボジェット機などの大きな飛行機を飛ばす(着陸させる)ためには不適切な空港でした。大きな飛行機ほど、十分に滑走しないと、離陸できないためです。そのため3,000m級の長い滑走路を持つ空港を建設するべく、ある意味仕方なく今の(霧島市)の位置に、空港を作ったとのことです。しかしながら、確かに鹿児島市へのアクセスは悪いですが、霧島市・霧島神宮・大隅半島などへの他の鹿児島県への重要地点へのアクセスは良いという位置にあります。また、鹿児島県における重要各都市には、空港からの直通バスが出ているなど、利便性がはかられています。
霧島市には、いわゆる「日本百名山」の一つである火山群・霧島山(きりしまやま)や、その火山の「お湯」の恩恵である霧島温泉があります。
霧島山(霧島連峰)は、日本で最初に新婚旅行を行った坂本龍馬が、新婚旅行でやってきた場所として知られます。また霧島連峰は、最も高い山(最高峰)である韓国岳(からくにだけ:標高1,700m)と、高千穂峰(たかちほのみね:標高1,574m)という代表的な山からなります。たくさんの山からなるので「連峰」というわけですね。
そして霧島市には、大隅国(おおすみのくに)の一宮かつ官幣大社(かんぺいたいしゃ)である鹿児島神宮が鎮座しています。
かつて九州に暮らしていた人々「隼人」「クマソ」
大昔の九州南部には、隼人(はやと)・熊襲(くまそ)と呼ばれる民族が住んでいました。つまり北海道でいうアイヌ民族や、東北地方にいた蝦夷(えみし)などの人々と同じようなものだと思ってもらえればよいでしょう。いわば、九州版アイヌです。
この隼人・クマソの人々は、歴史的に大和朝廷(=今の奈良県にあった、古墳時代頃~奈良時代までにかけて存在した、日本の政治の中心機関です)と、度々争いを起こしてきました。それは、大和朝廷としては、なんとか隼人・クマソたちを抑えて、九州南部を思い通りに支配したかったからです。しかし、隼人・クマソ達がこれに反抗・抵抗したために、朝廷との間でたびたび争いが起きていたわけです。
これはまるで、北海道(蝦夷地)において蠣崎氏(かきざきし)や松前藩(まつまえはん)などといった和人(日本人)が、アイヌ民族たちとしばしば争ってきたという歴史に似ています。また、朝廷が東北地方の蝦夷を鎮(しず)めるために、しばしば東北地方に「陸奥守(むつのかみ)」と呼ばれる武士を派遣して争ってきたのと似ています。さらにいうと飛鳥時代に阿倍比羅夫(あべの ひらふ)が、北海道にいた蝦夷(えみし)たちを征伐しに向かったのにも似ています。
そして大和朝廷は少しでも隼人・クマソを弱体化させるために、九州の他のあちこちの地域から、わざと鹿児島県の地域へ大量に人々を移住させてきたのでした。それはおそらくですが、隼人・クマソたちを好き放題させないように監視したり、また大和民族(=世の中の大多数の日本人)と隼人・クマソを結婚させてその血を薄めていこう、などの意図があったのではないかと思われます。つまり、日本人への「同化政策」ということです。これは今の価値観からすれば、ちょっと理不尽なことかもしれません。現在のアイヌ民族も、日本人との結婚・交配が進んでいった結果、純粋な(日本人の血が混じっていない)アイヌ民族はかなり減ってきているのです。
奈良時代はじめの720年に隼人は、大和朝廷からの使者である大隅守(おおすみのかみ:大隅地方を制圧しておくための職人)を殺害してしまい、これがきっかけで(律令国家の支配に対する)反乱が起きたのでした。つまり、ついに隼人が朝廷に逆らい、反乱を起こしたというわけです。「朝廷の偉い人」が「隼人」の人間に殺されたわけですから、それは朝廷としては黙っているわけにはいきません。全力で隼人を制圧しようと、九州に兵を送り込んできます。
大和朝廷は、大伴旅人(おおともの たびと)を隼人征伐のリーダーに任命し、九州に派遣して、隼人の反乱を鎮圧してゆきます。
その後、奈良時代中期から後期には、朝廷による大隅国の支配は安定してきました。
そして平安時代の800年には、日本の他の地域と同じように、公地公民制による九州の住民の支配・政治が定着してゆきました。公地公民制とは、「生まれたら国から田んぼが(無理やり)与えられ、死んだら国に返す」という、ありがたいような、迷惑なような(理不尽な)制度です。田んぼがある意味無理やり与えられるため、3%に該当する税金(租税/そぜい)を国に収めないといけません。いわゆる租庸調(そようちょう)という税制の一つですが、これらの税負担が重すぎたため、国から与えられたら田んぼを放り出して逃げ出す人々が多かったため、トータル(全体)では公地公民制はうまくいきませんでした。
ともあれ、このように、平安時代には南九州・大隅国も「正式な日本の一部」として、本州と同じように支配されていったのでした。一方、北海道は明治時代になるまでは蝦夷地(えぞち)という外国扱いであり、「日本の一部」ではありませんでしたから、九州が日本の一部になるのはかなり早かったということができます。
九州男児は、かなりアツイ性格の持ち主として語られることが多いです。それはやはり、隼人(はやと)という遠い先祖のアツイ血を、どこかで引いて受け継いでいるからなのかもしれません。また、「隼人(はやと)」は日本人男性の名前として、現在でも使われています。
隼人駅と熊本県・八代をむすぶ「肥薩線」
隼人駅は、肥薩線(ひさつせん)との分岐駅でもあります。
肥薩線は、隼人駅をはるか北西に進み、熊本県八代市(やつしろし)に至ります。
明治時代の終わりの1901年に、鹿児島駅~隼人駅から(さらに北西へと)延ばすような形で、線路の工事が始まりました。そして2年後の1903年に、吉松駅(よしまつえき、鹿児島県姶良郡湧水町)までの区間が開通したのでした。
一方、反対側の八代(やつしろ)側からは、南東方向に工事を進めて線路を延ばしてゆき、1908年に内陸部の山岳地帯にある街の駅である人吉駅(ひとよしえき、熊本県人吉市)までが開通しました。
さらに翌年の1909年には、残りの中間部分である人吉駅~吉松駅の区間が開通したために、ここで全体が一つに繋がりました。これにより、八代駅~鹿児島駅の全区間が「鹿児島本線」として全通したのでした。
つまり明治時代までの鹿児島本線は、現在のように西海岸沿いではなく、内陸部の険しい方(現在の肥薩線)がメインだったということですね。
しかし後の1927年に、八代(やつしろ)~鹿児島の海岸沿いに、新しい鉄道路線が開業します。つまり、こちらが新しく現在の鹿児島本線となったわけです。
すると旧・鹿児島本線の区間は、肥後国(ひごのくに:熊本県)と、薩摩国(さつまのくに:鹿児島県)を結ぶ路線であることから「肥薩線(ひさつせん)」と名前が改められたのでした。
さらに1932年、隼人駅~鹿児島駅の区間が新たに日豊本線(にっぽうほんせん)の一部として組み込まれたのでした。つまり、現在の日豊本線と同じ形になったわけです。
このため、残った八代~隼人の山岳区間は、「肥薩線」という路線名にもかかわらず、薩摩国の領域を通らない路線ということになりました。隼人駅は大隅国(おおすみのくに)の領域であり、薩摩国は鹿児島県西部の領域であるため、肥薩線は(名前に関係なく)薩摩国を通らない路線である、というわけです。つまり、「肥薩線」の名前がそのまま残されて、現在に至るというわけですね。
肥薩線を北上 吉松駅に到着
隼人駅を出て肥薩線で北上すると、表木山駅(ひょうきやまえき、鹿児島県霧島市)・大隅横川駅(おおすみよこがわえき、鹿児島県霧島市)を過ぎてゆきます。
やがて、吉都線(きっとせん)との分岐駅であら吉松駅(よしまつえき、鹿児島県姶良郡湧水町)に到着します。
次回からは、吉松駅から吉都線(きっとせん)に乗り換えて、小林(こばやし)・都城(みやこのじょう)方面へ向かいます。つまり、宮崎県へと入ってゆきます。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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