
今回は、大分の旅行・観光・旅行について解説していきます!
歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう、わかりやすく解説してゆきます!
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かつて「府内」と呼ばれた大分市
前回で、大分駅(おおいたえき、大分県大分市)に到着しました。


大分県最大の都市にして、県庁所在地
大分県大分市(おおいたし)は、大分県の県庁所在地であり、また人口約47万人を要する大分県最大の都市でもあります。
豊後国の国府が置かれた地
大分市には、大昔には豊後国(ぶんごのくに)の国府(こくふ)が置かれていました。
豊後国(ぶんごのくに)とは、大分県の北部の一部地域を除く、大分県の大部分の地域のことをいいます。
一方、たとえば大分県北部の中津市(なかつし)の場合は、大分県ではありますがこちらは豊前国(ぶぜんのくに)の領域にあたります。つまり大分県の北部地域だけ、豊前国の領域になっているわけです。
こうした一部例外もありますので、注意しましょう。
国府(こくふ)とは、その国における政治の中心機関のことであり、現代でいう都道府県庁にあたります。
かつて「府内」と呼ばれた大分
このように豊後国の「国府」がおかれていたため、大分市はかつて「府内(ふない)」と呼ばれていました。
これはまるで全国各地にある「府中(ふちゅう)」と似ている地名ですね。
「府中」も、大昔に国府がその地に置かれていたことに由来する地名です。
今でも大分市内には、江戸時代に築かれた「府内城(ふないじょう)」があります。
戦国時代、大友氏によって発展してきた豊後・大分

大分の地は、鎌倉時代~戦国時代のあたりの期間には、大友氏(おおともし)の城下町として発展してゆきました。
キリシタン大名・大友義鎮(大友宗麟)
戦国時代には、キリシタン大名であった大友義鎮(よししげ)/またの名前を大友宗麟(そうりん)によってキリスト教を保護されながら、日本においてキリスト教を布教していくための中心地となりました。
南蛮貿易の拠点・大分
また、大分は南蛮貿易(なんばんぼうえき)によってポルトガルやスペインからの商品や文化などが大量に入ってくる拠点だったのでした。
そのため、大分市ではスペインやポルトガルの文化の影響を強く受けた南蛮文化(なんばんぶんか)がスタートすることになりました。
南蛮(なんばん)とは、当時でいうとポルトガルやスペインなどの国のことです。
つまり当時でいう「南蛮人」とはポルトガル人やスペイン人のことであり、日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエル(スペイン出身)もその一人になります。
大きく栄えた、南蛮貿易
こうしてポルトガル・スペインとの間で、南蛮の特産物と日本の特産物をトレード(物々交換)するという、いわゆる南蛮貿易が行われることになります。
この南蛮貿易を行うことで、お互いが利益を得ていたわけです。
例えば「銀」は貨幣や原材料として、とても役立つものでした。
そのため、銀をとても欲している国に対して銀を売れば、当然それは儲かることになります。
そして日本では銀がよく採れたので、「よく採れるものを、欲しがっている国に売る」ことで、まさしく需給バランス(需要と供給のバランス)がマッチするというわけです。
このように、日本では主に銀や海産物などをポルトガル・スペインにどんどん輸出してゆきました。
その一方で、その対価として日本は鉄砲・弾薬・生糸などの当時としてはとても珍しく貴重なものを仕入れてゆきました。
ましてや当時の日本は「戦国の世の中」であり、少しでも強くて新しい武器が欲しくてたまらない時代です。
そんな中、ヨーロッパの最新武器である鉄砲が日本にもたらされれば、それは売れるに決まっています。
ポルトガルは、このように日本はとてもマーケットとして相応しい(=自国の製品を売れば、よく買ってもらえる)と考えていたのでした。
そのため、日本との貿易をするべく、はるばると海を渡ってやってきたのでした。
ヴァスコ・ダ・ガマによって拓かれた航路
ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマという冒険家によって、アフヴァスコ・ダ・ガマリカ大陸を大回りしてインドにたどり着く、という航路を開発・発明していました。
それはやはり、時代とともに、船の性能や「航海技術」などが発展してきたから、こうした大航海が出来るようになったのでしょう。
もし安易に船を出してしまったら、すぐ海上で遭難したり、嵐に巻き込まれたり、逆風で進めなかったり、海賊に襲われたりしますからね。
しかし時代とともに、航海の技術は上がってゆき、こうした技術を駆使して、ポルトガル人ははるばると日本にやってきたのです。
そしてそのポルトガル人こそが、日本史上初のヨーロッパ人の訪日だったのです。
そしてスペインも、それに続いて日本に来るようになっていました。
キリスト教を推し進めた、大友宗麟
大友宗麟(そうりん)は、フランシスコ・ザビエルと会っていました。
そのため、そのときにキリスト教の良さ・素晴らしさに感嘆し、「キリシタン大名」となったのでした。
一時は九州を「キリシタン王国」にしようという、壮大な構想まであったようです。
なぜ大友宗麟は、キリスト教を推し進めたのか?
また、当時大友氏が力を入れていた先述の南蛮貿易を優位にするためには、「キリスト教を保護しておけば、キリスト教徒の多い南蛮人の皆さんとトレードするときに優位・有利だったから」という考えかたもあります。
もしキリスト教を保護しなかったら、当時の日本にとっては欲しくてたまらない鉄砲・弾薬・生糸などを売ってもらえない、というリスクもあったかもしれませんからね。
キリスト教が広がり過ぎて、「バテレン追放令」へ
しかしキリスト教が日本であまりに広まり過ぎてしまったため、神社やお寺を破壊して回るという事件が起きまくってしまいました。
そのため、豊臣秀吉によって「危険だ」と判断され、九州征伐のあった1587年にバテレン追放令が出されてキリスト教は禁止されてしまったのでした。
「大分(おおいた)」の由来 すべって転んで大分県!
「大分(おおいた)」という地名の由来は、大むかしの豊後・大分のことを書き記している貴重な歴史史料・豊後国風土記(ぶんごのくにふどき)によれば、以下のように書かれています。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父親である第12代天皇・景行天皇(けいこうてんのう)が、神話の時代にこの地(豊後・大分)を訪れたことがあったそうです。
その時、なんと景行天皇は大分名物・ザボンの皮にすべって転んでしまい、
「おおー!いたー!!」
と叫んだことに由来しています。
さらに、語尾に九州弁の「~けん」が混じって、「大分県(おおいたけん)」となったのです。
もちろん嘘です!!
(変なジョークすみません・・・)
いや、真面目に解説すると、景行天皇は
「広大なる哉(かな)、この郡は。
よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべし」
訳:とても広いなぁ、この地域は。よって「多き田の国(おおきたのくに)」と名付けよう
と言って名づけた、ということです。
つまり「碩田(おおきた)」が
後に「大分(おおいた)」と書かれるようになったとされています。
多き田→おおきた→おおいた
というわけですね。
なお「べし」には、一人称だと「~しよう」という「意思」の活用があります。
このことから、大分平野には、大昔からすでに田んぼが広がっていたということがわかると言えます。
景行天皇とは?
ちなみに景行天皇(けいこうてんのう)とは、日本の第12代天皇であり、またヤマトタケルの父親です。
飛鳥時代の推古天皇(すいこてんのう)が第32代天皇ですから、相当に古い時代の天皇ということがわかります。
だいたい、4世紀頃の天皇とされています。
かつて大昔、南九州にはクマソとよばれる民族が暮らしており、クマソの人々はしばしば大和朝廷と対立していました。
そのクマソの征伐のために、景行天皇は九州まで来ていたのです。
大分の名物・ザボン
ザボンとは、大分名物の柑橘類(かんきつるい)の一種です。柑橘類とは、ミカンなどに代表される、おいしい果物のことをいいます。
「風土記」とは?
風土記(ふどき)とは、だいたい奈良時代ころにできた、その当時の記録を書き記して、天皇に対して献上された書物のことです。
現存しているものは他人によって書き写された写本(しゃほん)のみであり、原本は古すぎて存在していません。
しかしこの「書き写し」の作業のときに「時の権力者」によって都合よく書き換えられたとされる内容もあり、内容の信憑性(しんぴょうせい)に疑問を持つ考え方もあります。
私は、色々な方法で県名を覚えていた
私は子どものころ、「すべって転んで大分県」と覚えていました。
あと「遠くにある島だから徳島県(←遠く島県)」とか。
徳島県のある四国は、本州からみて遠くにあるから「徳島県」なんだと信じていました(※実際には違います)。
他にも「山はあるけど山梨県(やまなしけん)」というバージョンもあります。
山梨県は富士山や北岳(きただけ)といった日本のトップ2の山々があるのに、なぜか山梨県(山無し県)といいます。
大分の歴史(鎌倉時代~現代)
鎌倉時代、京都から大友氏が派遣されてくる
大友氏は、鎌倉時代に豊後国(ぶんごのくに:大分県)のに派遣されてきました。
つまり、京都からはるばると豊後・大分の地に「監視・管理・統治」などの目的のためにやってきて、この地域に土着(どちゃく:その土地に定着して住むこと)したというわけです。
室町時代、大分川のほとりに「館」を構える
室町時代に入ると大友氏は、本拠地として大分川の河口付近に、館(やかた:お城の簡易バージョン)を構えたのでした。
この川は、大分市出身であり元HKT48の指原莉乃(さしはら りの)さんが幼少期にお父さんによく連れて来られて遊んだ川だということです。
「府内」のはじまり
この館こそが、まさしく大友氏の支配による「府内」のはじまりでした。
町の名を府内(ふない)とした由来は、先述の通り豊後国の国府があったからですね。
戦国時代の大友氏 九州の半分以上を支配する強者に 薩摩・島津氏との対立
戦国時代の府内(大分市)は、大友氏によって栄華を築きあげ、最盛期にはなんと九州の半分以上の領域を支配するという、まさしく絶大な力を誇っていました。
一方、薩摩・鹿児島では、島津氏(しまづし)というこれまた強い人達が支配していました。
個人的なイメージでは、九州の「大友氏」「島津氏」は、本州における「武田氏」「上杉氏」みたいなイメージです。武田氏・上杉氏は、戦国時代における最強のツートップでした。
当初こそ大友氏・島津氏は仲良かったのですが、徐々に対立関係となってゆきます。
「耳川の戦い」で島津氏に敗れ、一時衰退
やがて大友氏は、前々回解説した宮崎県での戦いである「耳川の戦い(みみがわのたたかい)」などに代表される薩摩・島津氏との度重なる争いに敗れてしまい、大友氏は衰退していくことになります。
耳川の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
大友氏は豊臣秀吉の味方に 島津氏を降伏させる
しかしながら、大友氏はこのあと豊臣秀吉の味方につくことになりました。
これにより、1587年の豊臣秀吉による九州征伐に協力し、今度は逆に島津氏が降伏してしまいました。
日本初の病院「府内病院」
そして有名なキリシタン大名・大友義鎮(よししげ)(またの名前を宗麟/そうりん)のもとで、西洋の影響を受けた日本初の病院である「府内病院(ふないびょういん)」が開設されるなどしてゆきました。
これにより、南蛮(ポルトガル、スペイン)の文化をどんどん受け入れてゆきました。
こうして、戦国時代の府内(大分市)は栄えてゆきました。
1586年「豊薩合戦」により、町が炎上・壊滅状態に
府内(大分市)は、1586年に起きた豊薩合戦(ほうさつがっせん)において薩摩・島津氏が攻めてきたため、これにより町が炎上してしまい、壊滅状態に陥ったといわれています。
豊後(大分)・薩摩(鹿児島)との戦いなので、「豊薩合戦(ほうさつがっせん)」というわけです。
しかし先述の通り、その後大友氏は豊臣秀吉の見方についたため、翌年の1587年の九州征伐により、島津氏は豊臣秀吉に降伏しています。
「文禄の役」でのミスで、大友氏は罰として改易に
大友義鎮(宗麟)のあとをついだ大友義統(よしむね)は、1593年の豊臣秀吉による朝鮮半島での戦いである「文禄の役」において「敵前逃亡」という失態・ミスをやらかしてしまっために、罰として改易(かいえき:どこかへ飛ばされること)されてしまいました。
これにより大友氏は、大分(府内)の地域からはいなくなってしまいます。
府内藩の成立 福原氏→竹中氏の天下へ
その後、1597年に府内(大分市)を与えられた福原氏(ふくはらし)は、府内城(大分城)の築城を開始したのでした。
そして、江戸時代には府内藩(ふないはん)が成立します。
ただし、福原氏もそのあとには改易(かいえき:左遷)されてしまったので、新しく竹中氏(たけなかし)という一族が、府内(大分市)の地域を支配をしてゆくのでした。
明治維新 府内藩から大分県へ
明治時代になり、廃藩置県が行われると、府内藩あらため府内県(ふないけん)が発足しました。
この府内県が、のちに大分県に合併され、現代に至ります。
大分駅付近の立体交差事業
近年になって、大分駅付近の立体交差事業が行われてきました。
つまり、大分駅周辺の交通量が多いエリアを、高架の上を列車が走るようにさせるよう工事することです。
なぜ「高架化」するのか?
その目的は、踏切を少しでも減らして、渋滞を減らすためです。
大きな駅の周辺はたくさんの列車が走るため、踏切(ふみきり)が存在すると、つねに遮断機が降りた状態になるため、車はいつまでも踏切がわたれず、渋滞の原因となってしまいます。
しかし、線路の「高架化」によって自動車が走る車道と立体交差させれば、踏切の数を減らし、線路をまたぐ(線路の下をくぐる)道路が増やせるわけです。
例えば、「線路の北側の町だけが栄えてしまって、南側は廃れる」といったような、片方の地域だけが栄えるという、全国各地でもありがちな問題をも解消することがでるわけです。
久大本線・由布市
久大本線(きゅうだいほんせん)は、大分とはるか西の福岡県久留米市(くるめし)を結ぶ路線です。「久留米」と「大分」を結ぶ路線なので、「久大本線」というわけですね。
久大本線の沿線上には、筆者が好きなAqours(アクア)の曲「HAPPY PARTY TRAIN」の舞台となった、豊後森機関庫(ぶんごもりきかんこ)もあります。

湯布院温泉の街・由布市
大分県由布市(ゆふし)は、温泉地として名高い由布院温泉(ゆふいんおんせん)の存在する観光都市であり、また別府市と並んで大分市のベッドタウンとしての性格も持っています。
かつて大友氏とともに戦った、大神氏
鎌倉時代以降に、それまでの朝廷からの国司(こくし:国のトップである公務員)に変わって、守護大名の大友氏が入国してきました。これは先述の通りです。
つまり平安時代から鎌倉時代になって、豊後・大分の支配が「公務員」から「武士」に変わったようなイメージですね。
それにともない、大友氏に関係ある一族の武将らと、元々豊後・大分に住んでいた大神氏(おおがうじ)の武将らが、衝突したこともあったそうです。
最初に住んでいた大神氏と、後から入ってきた大友氏のあいだに、政治のやり方をめぐって争うのは、わかる気がします。
1586年、薩摩の島津軍が、豊後国(大分県)を侵攻してきました。これは先述の豊薩合戦(ほうさつがっせん)です。
そのとき、大友氏とそれまで敵だった大神氏(おおがし)は今度は協力しあい、そして湯布市の地元の農民までもが合わさってともに戦い、なんとか薩摩・島津軍を撤退させています。
デトロイト・メタル・シティの聖地・犬飼
ここからは個人的な趣味について語らせてください!
わたしが昔ハマっていた漫画に「デトロイト・メタル・シティ(DMC)」という漫画があります。
雑誌「ヤングアニマル」で2005年から2010年にかけて連載された漫画であり、ゴボウ男とよばれる主人公・根岸崇一(ねぎしそういち・23歳)が、デスメタルバンドを嫌々やらされてるにもかかわらずにヨハネ・クラウザー二世(クラウザーさん)として才能発揮するというギャグ漫画です。
大分駅から南西には、豊肥本線(ほうひほんせん)という、はるか西の熊本市へと続く路線が分かれています。
豊後国・大分県と、肥後国(ひごのくに)・熊本県を結ぶ路線なので、「豊肥本線」というわけですね。途中で阿蘇山(あそさん)のエリアも通ります。
豊肥本線から西へ、
- 滝尾駅(たきおえき)
- 敷戸駅(しきどえき)
- 大分大学前駅
と過ぎて、大野川に沿ってゆくと、やがて犬飼駅(いぬかいえき、大分県豊後大野市)に着きます。
犬飼町(いぬかいちょう:大分県豊後小野市)は、作者の若杉公徳(わかすぎ きみのり)さんの出身地なので、主人公の根岸崇一(ねぎしそういち)ことクラウザーさんの出身地という設定なわけです。
犬飼には、漫画でも出てくる「あべよしストア」もあります。
私も漫画が絶頂期だった当時、DMCの聖地巡礼で犬飼駅に行ったことがあります!犬飼駅は、2008年に上映された映画(松山ケンイチさん主演)においてロケ地にもなったので、思い出したらかなり懐かしいです。
次回は、別府へ
次回は、大分駅を出て別府(べっぷ)方面へ向かいます。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
この記事が良いと思った方は、よかったら次の記事・前回の記事も見てくださいね!
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