箱根について、わかりやすく解説!【前編】

今回から、全二回にわたって箱根について解説してゆきます!

基礎編:そもそも、「箱根」とは?

幼い頃から、テレビや雑誌で頻繁に見て聞いてきた「箱根(はこね)」。

けど、そもそも箱根って何だっけ

  • どこか旅行地・観光地・温泉地のイメージがある
  • お正月の箱根駅伝のイメージがある
  • 関東地方のどこかの山のイメージがある

箱根は、神奈川県の西にある山です。関東地方の、東京都の西に神奈川県があって、その神奈川県の西端あたりにある山のエリアですね。

ちょうど、神奈川県と静岡県の間にある、高くて険しい山岳地帯です。
その山の上に、芦ノ湖(あしのこ)というとてもキレイな湖があるので、その湖の回りにたくさんの旅館温泉などが出来ていくのです。
東京からも比較的近く、気軽に行ける観光地ということで、古くから多くの人々が箱根を訪れてきました。

江戸時代までのようにまだ新幹線や鉄道・高速道路も無かった時代は、江戸(東京)~駿河(しずおか)へ抜けるためには、この険しい山岳地帯を徒歩で越えなければならないという、とても危険な難所として知られてきました。

なので「箱根八里(はこねはちり)は天下の険(けん)」などと言われてきました。

滝廉太郎(たき れんたろう)という明治時代の作曲家「箱根八里」という曲の冒頭で、「箱根の山は天下の険(けん)」と歌われています。

基礎編2:箱根に行くには?

まずは、小田原駅(おだわらえき、神奈川県小田原市)からのスタートです。

私(筆者)が実際にたどった箱根芦ノ湖へのルート

  • 小田原駅→箱根登山電車・箱根湯本行き
  • 箱根湯本駅→箱根登山電車・強羅(ごうら)行き→小涌谷駅
  • 小涌谷駅→バス(箱根関所跡行き)→芦ノ湖

小田原駅へは、JR東海道線か、あるいは東京・新宿から小田急線(おだきゅうせん)で向かうなどの方法がメジャーでしょう。小田急線ならば、小田原駅より少し先の箱根湯本駅(はこねゆもとえき、神奈川県足柄下郡箱根町湯本)までは直通しています。しかし、後述の通り箱根湯本駅からは「きつい坂道を登る列車(箱根登山電車)」に乗り換えなければなりません。

箱根登山電車・小田原駅(神奈川県小田原市)

小田原駅からは、箱根登山電車に乗り換えて箱根湯本駅までゆき、箱根湯本駅からはさらに強羅(ごうら)行きに乗り換えです。
ただし東京・新宿方面から小田急の特急列車で乗ってきたのであれば、小田原駅からは箱根湯本駅まではそのまま直通しています(小田原駅での乗り換えは必要無し)。

箱根湯本駅の周辺は、とても風流な温泉街になっています。
この景色を堪能するだけでも、十分に箱根にやってきたという満足感があります。

箱根湯本駅から強羅方面へは、一気に勾配(坂道)がきつくなって山をどんどん登っていくため「山登りが得意な専用の車両」に乗り換える必要があります。つまり「強羅(ごうら)」ゆきの列車に乗り換えることになります。

この「山登り」の区間は、国内第2位の80‰(パーミル)というとてつもない坂道です。ちなみにパーミル(‰)とは、1000m進むと何m登るかについて表す指標です。日本一勾配のきつい列車は、静岡県・大井川鐵道(おおいがわてつどう)の90‰であり、線路の間に歯車を付けて登っていく「アプト式」が採用されています。

私の場合は強羅までは行かず、途中の小涌谷駅(こわきだにえき、神奈川県足柄下郡箱根町小涌谷)で降りて、ここからバスで芦ノ湖(あしのこ)までゆきました。みなみにバス小田原駅から出ており、箱根湯本駅も経由するため、全く乗り換えをしたくない場合は小田原駅からずっとバスに乗ってくるという選択肢もアリです。また、箱根湯本駅からバスに乗り換えて芦ノ湖まで向かうという選択肢もあります。強羅駅からロープウェイという選択肢もあるでしょう。

小涌谷駅(神奈川県足柄下郡箱根町小涌谷)

この山をぐんぐん登っていくのは、まさにそれこそ山登り区間で有名な「箱根駅伝5区」のイメージです。

箱根登山電車は、先述の通り80‰という、ものすごい急な坂をひたすら登ってゆきます。スイッチバック(=「人」の形をして折り返す形の線路です。あまりにも勾配がきつく高低差が激しい地形のときに、距離をかせいですこしでも列車が坂道を登る負担を減らすために、こうしたスイッチバックが設けられます)もたくさん(3回)登場します。

箱根登山電車・上大平台信号場のスイッチバック(神奈川県足柄下郡箱根町)

またバスや車で登っていく場合も、すごい登り坂が頻繁に登場する上に、急なヘアピンカーブも頻繁に出てくるため、車酔いする人はかなり酔うでしょう
それだけ険しくて困難な道です。

昔の旅人たちは、江戸~京都を移動するために、この険しい箱根の山を徒歩で越えていったのです。今のキレイに舗装された道路と違って道はぬかるんでおり、もちろんスマホもGPSも存在しないような時代ですから、遭難したら途方にくれるしかないですし、山賊に襲われるというリスクもあったことでしょう。

まさに箱根の山は「天下の険(けん)」なのでした。

箱根駅伝の勝敗を握る5区を制する者が「山の神」と言われるのもわかる気がしますね。

険しい箱根の山を登ってくると、やがて芦ノ湖(あしのこ)に着きます。

箱根・芦ノ湖(神奈川県足柄下郡箱根町)

箱根の歴史 古くからの箱根八里

ここからはガチガチの歴史の話になりますが、なるべくわかりやすく解説するため、是非ついてきてくださいね!

江戸時代までの箱根の道は、江戸~京都を徒歩で移動する「東海道」のメインルートだったわけです。つまり、旅人たちが徒歩で約20日かけて向かっていた道「東海道」のルートだったわけです。しかし今では東海道新幹線で約2時間程度で京都まで行けますし、また箱根の山を通らなくても熱海~三島間にある全長約8kmにもおよぶ新丹那トンネル(しんたんなトンネル)であっというまに山を抜けてゆきますから、文明の進化というものはスゴいですよね・・・

しかし、大昔・奈良時代あたりのメインルートは箱根経由だったわけではなく、箱根のやや北側を通る足柄峠(あしがらとうげ)を経由していたのでした。これを足柄路(あしがらじ)といいます。

この足柄ルートは、箱根と御殿場線との間にあるルートてす。御殿場線・谷峨駅(やがえき、神奈川県足柄上郡山北町)の南にある、矢倉岳(やくらだけ:標高870m)との南側のふもとを通ります。

つまり奈良時代あたりは足柄峠がメインルートであり、箱根はあくまでバックアップルートだったのでした。

足柄峠(あしがらとうげ)においては、縄文時代や奈良時代・平安時代あたりに使用されていたと思われる、土器のかけらが発見されています。
つまり足柄峠は、縄文時代の人々が使っていた土器か出てくることから「ここが既にその当時から多くの人々が通ってきた交通の要衝(ようしょう)であった」ということがわかるわけです。

そして大昔は、この足柄峠よりも東の地域を「坂東(ばんどう)」と名付けました。そして、朝廷のあった奈良や京都から坂東に向かう人々にとっては足柄峠が入口となったのでした。

足柄峠(あしがらとうげ)は相模国(さがみのくに:神奈川県東部)と駿河国(するがのくに:静岡県東部)との国境にあたるため、簡単には人が往来できないように、不審者などを取り締まる目的で足柄関(あしがらのせき)という関所(せきしょ)が置かれていたのでした。

関所(せきしょ)」とは、古くから不審者や犯罪者などが逃げないように取り締まっていた場所のことです。関所は主に険しい峠道や「国境(いまでいうと「県境」)」あたりに置かれることが多く、ヤバい人が逃げたりしないように、ここを通過する前に取り締まっていたのでした。現代でも「県境」にあたる山奥の道路には、関所の跡地があちこちに残っています。

一方、箱根側のルートにも、箱根関所(はこねせきしょ)がありました。この箱根関所は、現代ではさまざまな史料を参考にしながら再現された「元の形」で復元されており、観光地となっています。

箱根関所は、先述の「足柄関」とともに、関東を防衛するためのバリヤーとしての役割を担っていたのでした。
例えば、平安時代の939年に起きた「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」のときには、関東地方でやりたい放題やっていた平将門(まさかど)が箱根に対して兵を派遣して、箱根関所を封鎖しようとしたのでした。

平将門は、平安時代に関東地方で好き放題暴れまくっており、関東地方のあちこちのリーダーを次々に倒していったため自らを「新皇(しんのう)」と名乗りました。つまり天皇を差し置いて、自分が日本一番エライと言い出したのです。しかし朝廷としてはこれを放っておくわけにはいかないため、関東地方に兵を送りました。結果、平将門は鎮圧され負けてしまいました。

その平将門が、京都の朝廷からやってくる兵を食い止めるために、箱根関所を封鎖しようとしたわけです。

足柄ルートは、平安時代の800年に富士山が噴火したときは、火山灰が降ってくる被害などを考えて、1年間道の使用を停止させられたのでした。
その代わりに、バックアップルートとして箱根ルートを整備して使ったのでした。

その後、メインルートとなる足柄路が再開され、箱根路は再びバックアップルートとしての「支道」となったのでした。

箱根路はとてもキツい坂道ではありましたが、足柄路よりも距離が短いため、ある意味ショートカット路線ではありました。そして時代とともに、箱根ルートを通る方が足柄ルートよりも主流になっていくのです。

鎌倉時代以降は、箱根のルートは確かに急勾配ではあったのでしたが、距離が短いショートカット路線だったため、やや北の「足柄ルート」よりも多く使われるようになったのでした。

古くから防御の拠点として重要だった箱根

箱根峠・足柄峠はこのように時の大名やツワモノたちによって、それぞれ防衛の拠点とされていました。

交通の便利が悪い峠道ということは、逆にいえば防御力が高い(侵入してくる敵を防ぎやすい)というとうことです。つまり箱根のように険しい峠道であれば、箱根を越えてこようとする敵軍に対して、事前に箱根で防御を固めておけば敵を防ぎやすいからですね。

「関東」とは、「関所の東」という意味

関東」という言葉の語源は、「所の」という意味です。

それは例えば岐阜県の不破関(ふわのせき。天下の分け目「関ヶ原(せきがはら)」がある場所)だったり、三重県の鈴鹿関(すずかのせき)などの古くからの関所があり、それらの関所の東の地域という意味で「関東」という言葉が使われてきたということです。

大昔は、不破関(関ヶ原)よりも東、あるいは鈴鹿関よりも東の地域ことを、「関東」といったようです。つまり尾張(愛知)や駿河(静岡)といった地域も、いちおうは「関東」とみなされていたわけですね。

関所の西側にあたる奈良・京都・大阪などの地域は「関西」というわけです。

現代の「関東地方」は、まさしく箱根関所よりも東側の地域というようなイメージですよね。

建武政権をめぐって争った「箱根・竹ノ下の戦い」

鎌倉幕府が滅亡した後の1336年、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の建武政権に対して不満を持った武士たちによる反乱である「箱根・竹ノ下の戦い」が箱根で行われました。

箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、「建武の新政」時代の1336年に足利尊氏の軍と、後醍醐天皇の命令によって出動した新田義貞(にった よしさだ)の軍との間で箱根で行われた戦いです。
つまり、箱根における「足利尊氏 VS 後醍醐天皇(新田義貞)」の戦いです。結果を先に言うと、足利尊氏の勝利であり、後醍醐天皇による建武政権が衰退・崩壊するきっかけにもなりました。

後醍醐天皇は、当時鎌倉にいて建武政権に逆らってくる足利尊氏を討つため、新田義貞という後醍醐天皇に忠実な武士のツワモノを箱根まで派遣しましたが、これに失敗してしまい、この敗北が先述の通り建武政権が崩壊していく一つのきっかけとなりました。
 
ちなみに竹之下(たけのした)とは、現在の静岡県小山町(おやまちょう)・竹之下の周辺のことをいいます。御殿場線・駿河小山駅(するがおやまえき)や足柄駅(あしがらえき、静岡県駿東郡小山町竹之下)のあるあたりです。

箱根・竹ノ下の戦いは、なぜ起こったか 建武政権の崩壊のはじまり

箱根・竹ノ下の戦いが起こった元々の原因は、後醍醐天皇による「建武の新政」にスタートします。

1333年に鎌倉幕府を打倒して成立した「建武政権」でしたが、これは公家ばかりを優遇して、武士を不遇な扱いをするという政策の数々に対して、武士たちは不満を募らせていったのでした

そして鎌倉時代に執権(しっけん)という職を独占して事実上のトップだった北条氏(ほうじょうし)は鎌倉幕府滅亡とともに滅んだわけですが、その北条氏の残党による武装蜂起が、どんどん相次いで起こってゆくのです。

北条氏の残党は諏訪氏(すわし:長野県・諏訪湖あたりを支配していた一族)などの味方に助けられながら武装蜂起して、かつての鎌倉幕府のプライドを取り戻すべく、鎌倉奪還のためにどんどん暴れ回ってゆきます。

やがて北条氏の残党は、各地の「建武政権(後醍醐天皇)に不満を持つ武士たち」をどんどん味方につけてゆき、一度は滅ぼされた鎌倉を再び占領する勢いを見せ、ついには鎌倉を奪還したのでした。つまり、わずか20日の間でしたが、このとき鎌倉幕府が復活したのです。
この一連の戦いを「中先代の乱(なかせんだいのらん)」といいます。しかし後述する通り、のちに足利尊氏によって北条氏は直ちに鎮圧・攻め滅ぼされてしまいます。

北条氏の残党による「鎌倉幕府復活劇」に対し、危機感を感じた足利尊氏は(当時はまだ慕っていた)後醍醐天皇に対して、関東地方へ自分を派遣する命令を出すよう、何度も要請します。

しかし後醍醐天皇は、これを認めるによって尊氏が自立する(フリーの身になる)ことを怖れ、足利尊氏による度重なる出動要請を決して許可することはありませんでした。
しかし尊氏はこれを無視して、ついに無断で関東(鎌倉)へと出撃していくのです。

後醍醐天皇は、仕方なく”追認(=後から認めること)”で尊氏を「征東将軍」に任命したのでした。つまり、尊氏の方がまず先に勝手に飛びだしたのですが、後から後醍醐天皇が仕方なく「関東を征伐する将軍」に就くことを認めたわけです。これは恐らくですが、部下に命令違反されてしまったことが周りにバレると、後醍醐天皇の支配者としての威厳に傷がつくことを恐れたからなのかもしれません。
尊氏が飛び出した結果、先述の通り、一時的に鎌倉を支配していた北条氏(残党)の反乱は、足利尊氏によって鎮圧されたのでした。
これで一応、建武政府に対する不平不満によって起きた反乱は、尊氏の活躍によってここで一旦落ち着いたのです。

しかし今度は、ここから足利尊氏の暴走が始まります。先ほどの「中千代の乱」の戦いの後、足利尊氏は対立関係にあった新田義貞(にった よしさだ)の持っていた関東の領土を、勝手に没収してゆきました。新田義貞や楠木正成などの武将は、あくまで後醍醐天皇に対してものすごく忠実だった武士です。そんな新田義貞と対立して倒すということは、後醍醐天皇を裏切ることを意味します。こうして、足利尊氏はどんどん後醍醐天皇から離れていくという「自立への道」を選んで進んでいくのでした。

これに危機感をおぼえるのが、いうまでもなく後醍醐天皇です。
後醍醐天皇は関東にいる足利尊氏に対して、再三にわたって「京都に帰ってこい」という命令を出します。
しかし自立の意志がとても固かった足利尊氏は、これを無視してゆきます。

足利尊氏はさらに、対立している新田義貞を非難する文書を、送り返し後醍醐天皇に対して送り返すという返事をするのみでした。つまり帰還命令を無視して、新田義貞への悪口・批判文を後醍醐天皇に送り続けたのです。
これに対し新田義貞は、足利尊氏に対する反論の文書を後醍醐天皇へと提出しました。
こうして両者からの「批判文書」を受け取った後醍醐天皇は、慎重に審議をした結果、「新田義貞の訴え・考えを認め、尊氏を却下して討伐する」ことを決定したのでした。こうなると、後醍醐天皇と足利尊氏の対立は避けられません(結果はいうまでもなく、後醍醐天皇は敗れて奈良県の吉野に逃れ、勝った足利尊氏は室町幕府を開きます)。

「箱根・竹ノ下の戦い」のはじまり 足利尊氏と新田義貞の激突

こうして後醍醐天皇は、新田義貞に対して「足利尊氏を討て」という命令を下したのでした。結果は繰り返しになりますが、後醍醐天皇側の敗北となります。

鎌倉にいた足利尊氏は鎌倉を出発し、一方の新田義貞も箱根に向けて進軍してゆきます。こうして、箱根・竹ノ下においてついに両者のバトルが始まってしまいます。

こうして「箱根・竹ノ下の戦い」がスタートしたわけですが、箱根にいた新田義貞の軍は負けて総崩れとなってしまい、退却してゆきました。

その後、尊氏軍はどんどん勢いづいて合戦に勝利してゆき、新田義貞側にいた敵兵が次々に尊氏軍に寝返っていったたため、足利尊氏が勝利しました。

このように連戦連勝の足利尊氏軍は、新田義貞(よしさだ)の軍を追撃してゆきます。
やがて滋賀県・琵琶湖にある瀬田の唐橋(せたのからはし)において、足利尊氏と後醍醐天皇側の両者は激突します。
そして近隣の京都・宇治(うじ)で、足利尊氏の軍がここでも勝利します。

後醍醐天皇の側は撤退し、今度は京都・朝廷をめぐって争う合戦に突入します。いよいよラストステージです。

すると、奥州(東北地方)に配置されていた北畠顕家(きたばたけ あきいえ)が率いる、東北地方にいた後醍醐天皇側の味方の軍勢たちが、東北地方からかけつけてくれることを期待して待つことにしました。そして無事に関西地方までかけつけた北畠顕家をはじめとする東北地方の軍は、新田義貞や楠木正成らと協力して、足利尊氏をなんとか九州にまで撃退し、追い払ったのでした。

建武政権の崩壊

足利尊氏の軍勢を一度は九州まで追いやったわけですが、尊氏はふたたび九州において挙兵します。
しかし、再び九州で勢いを巻き返してした足利尊氏によって新田義貞や楠木正成らは滅ぼされてしまい、勝利した足利尊氏は室町幕府を開き、建武政権は崩壊することになるのです。

後醍醐天皇側が負けた原因は、やはり後醍醐天皇の「公家優遇・武士不遇」という政治に失望した有力な武士たちが、足利尊氏の味方に次々に寝返って味方についた、ということが大きいとされています。

やはり、いつの時代も片方だけを優遇し、片方を冷遇するような政治のやり方では、不満を持たれてその政権は長続きしないということでしょうね。

次回も、箱根について解説

今回は長くなるので、ここまでにしおきます

箱根の解説は、次回にまた続きます。

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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