今回からは、飯田線(いいだせん)の旅について、全11回(予定)にわたって語ってゆきます。
飯田線とは 険しい山をつらぬく秘境路線
飯田線(いいだせん)は、豊橋駅(とよはしえき、愛知県豊橋市)と辰野駅(たつのえき、長野県上伊那郡辰野町)を結ぶ路線です。
天竜川にそった険しい地形を、普通列車で約6時間かけて進みます。

途中で長野県飯田市(いいだし)を経由するため「飯田線」というわけですね。飯田市は、リニア中央新幹線の駅ができる予定の市でもあります。
その昔、明治時代に4つの私鉄会社によって造られました。それらの私鉄は、
「豊川稲荷に参拝するお客さんを乗せたい」(豊川鉄道)
「鳳来寺(ほうらいじ)に参拝するお客さんを乗せたい」(鳳来寺鉄道)
「ダムを建設するための資材や作業員を乗せたい」(三信鉄道)
「中央本線が伊那谷(いなだに)を通らなかったため、伊那谷が発展から取り残されないために鉄道を通したい」(伊那電気鉄道)
など、当初はそれぞれがさまざまな目的を持って建設されたのです。
それらの私鉄が最終的に1本の長い路線としてつながったので、戦時中に合体して「飯田線」となったのです。そして運賃がとても高かったので、国に買い取られたのでした。
飯田線はこのようにたくさんの私鉄を起源としているため、駅間距離(駅と駅との間の距離)がとても短いことが特徴です。これは後ほど詳しく触れてゆきます。
また、戦後の天竜川の沿いには電気がとても不足してい時代があり、日本の人口が増加していくにともなって国内では電気が不足するようになっていました。こうなると「停電」も起こりやすくなります。なので停電防止のために、水力発電のためのダムの建設が必要でした。ダムを山奥に建設するため、その建築資材を運ぶためにも、飯田線は大活躍してきました。
また、長野県の伊那谷(いなだに)では「田切地形(たぎりちけい)」という独特の地形をぬいながら進みます。つまりアップダウンと高低差が激しい地形のため、距離を稼いで勾配をゆるくする目的でS字・オメガカーブがとても多いことが特徴です。「田切地形」については、後の回にてあらためて詳しく解説します。

豊橋から長野県に至る飯田線
飯田線は、愛知県・静岡県・長野県にまたがって、天竜川(てんりゅうがわ)にそいながら、険しい山岳地帯を貫く路線です。

起点の豊橋駅から、終点の辰野駅(たつのえき)まで普通列車で約6時間もかけて続く路線ですが、辰野駅からさらに北東へ進み、中央本線の上諏訪駅(かみすわえき、長野県諏訪市)まで直通する列車もあります。つまり、豊橋駅からずっと普通列車のみで乗り換え無しで、はるか北の長野県・諏訪湖(すわこ)のエリアまで行けるということです。
豊橋駅から辰野駅(たつのえき)までは全く列車から降りなくても約6時間かかる路線ではありますが、先述の通り一度も乗り換えることなく、直通で行くことができます。しかし全部乗り通すと、かなりのロングランです。
特に愛知県・静岡県・長野県の県境辺りはとても険しい断崖絶壁横を通るため、私(筆者)がはじめて飯田線に乗ったときは「落ちたらどうしよう」「もし地震とかで落石きたらどうしよう」など、かなり心細く感じる区間でした。少なくとも青春18きっぷ初心者にとってはかなりきつい路線だと思われるので、ある程度「乗り鉄」の経験値を積んでから飯田線の完全走破に挑むというのがよいでしよう。少なくとも、私がまだ学生時代とかの青春18きっぷ初心者当時のレベルでは、とうてい飯田線完全走破をできる自信はありません(^^;

しかし、飯田線は美しい天竜川の険しい渓谷を縫いながら走る車窓風景があります。他にも、川を渡ったかと思えばまた元の位置に戻るという「渡らずの鉄橋」があったり、また沿線の名勝として天竜峡(てんりゅうきょう)の景色、さらに長野県の伊那谷(いなだに)に入るとは中央アルプス(木曽山脈)の景色など、とても景色の優れた路線でもあります。


飯田線には小和田駅(こわだえき、静岡県浜松市天竜区)や田本駅(たもとえき、長野県下伊那郡泰阜村田本)などのいわゆる「秘境駅」がたくさんあることから、鉄道ファンや旅行者にとってとても人気がある路線です。


4つの私鉄からはじまった飯田線
飯田線は冒頭で述べた通り、明治時代~昭和の前半までは4つの私鉄の鉄道会社に分かれていたのでした。
- 豊川鉄道(とよかわてつどう):豊橋駅(とよはしえき、愛知県豊橋市)~大海駅(おおみえき、愛知県新城市)
- 鳳来寺鉄道(ほうらいじてつどう):大海駅~三河川合駅(みかわかわいえき、愛知県新城市)
- 三信鉄道(さんしんてつどう):三河川合駅~天竜峡駅(長野県飯田市)
- 伊那電気鉄道(いなでんきてつどう):天竜峡駅~辰野駅(長野県上伊那郡辰野町)
飯田線は、これら4つの路線を、戦時中の1943年に国有化・統合したことで成立した路線となります。
なぜ国有化したのかというと、それまであまりにも値段(運賃)が高すぎたので、人々の運動によって国に買い取ってもらったというわけです。
今の飯田線の駅は、ほぼ開通時の沿線集落ごとに設けられています。つまり、線路をまっすぐにする工事とか、駅の移転工事などは行われてきていないため、開通時のままのカーブが連続する線形となっているわけですね。「あっちの集落にも駅を置いて、こっちの村にも駅を置いて・・・」という具合に駅と線路を置いていった結果、カーブが多くなったということですね。
元々は私鉄からはじまった路線なので、駅と駅の距離(駅間距離)が平均2.1kmと、とても短くなっています。なので飯田線では「ちょっと進んだらすぐ次の駅に止まる」ということがよくあります。
「私鉄路線は駅が多い」というイメージがあると思いますが、私鉄路線はなるべく多くのお客さんを拾いたいという思い・傾向があるため、駅をたくさん設置していく結果、駅と駅との距離が短くなりがちになるわけです。飯田線では、中にはわずか600mしかない区間もあります。
駅間距離が短く、94もの駅がある飯田線
このように、飯田線は駅間距離がとても短いことが特徴で、また駅の数がとても多く、94もの駅がありることが特徴です。
そして先述の通り、平均駅間距離はなんと約2.1kmとなっており、これは大都市における駅間距離並みの短さとなります。例えば東京の都心では1km~2kmごとに駅があるため、これくらいの距離ならば、敢えて電車に乗らずに節約&ダイエットのためにあえて徒歩で移動したりもできます。
大都市では人口が多く、たくさんの町があるため、たくさんの駅が必要になるために駅間距離も短くなります。また都市部を走る列車(通勤列車など)は加速・減速性能が高いため「一気に加速して、一気に減速する」というような動作・行為を繰り返しているようなイメージですね。
こうした行為は、明治時代の蒸気機関車の性能ではとても難しかったので、例えば東海道線のような明治時代の鉄道黎明期の路線では、駅間距離が比較的長くなっています。
なぜ飯田線は駅間距離が短いのか
このように、飯田線は元々は「私鉄」が起源であることから、なるべく多くのお客さんを乗せるために「集落ごと」に駅を設置していったのでした。また長野県の伊那谷(いなだに)部分にあたる伊那電気鉄道は、従来の蒸気機関車よりも加速性能がよい「電車」、つまり「電気鉄道」として最初から運行していたのでした。まだ蒸気機関車が主流だった明治時代の当時は「電車」はまだ珍しい存在だったのです。
逆に東海道線や山陽本線などが、なぜ駅数が少なくて、駅間距離が長いのかについて考えてみましょう。
- まだ新幹線が無い時代であり、長距離輸送の役割を担っていたため。駅数が多いと、それなりに時間がかかるため。
- 明治時代の始めはまだ国内の人口も少なく、間に(駅を作るほどの)村や集落などがなかったため。
- 蒸気機関車の時代に造られており、駅数が多いと頻繁かつ十分な加速ができなかったため。
これが時代とともに「電車」になり、また加速性能・減速性能が上がってくると、頻繁に加速・減速を繰り返せるため、駅の数を増やして駅間距離が短くなってもOKになってくるというわけです。
また、元々は地方鉄道の「簡易な規格」によって建設されたことから、最初からスピードをあまり出さない前提の設計のため、速度はとても低くなっています。速度を出さない前提のため「別に勾配やカーブが多くてもいいよ」という前提なわけです。こうしたことから飯田線は全体的に速度がかなり低く、時速30km程度で進んでいくことも普通です。飯田線を走る特急列車「伊那路(いなじ)」は、日本一遅い特急列車と言われています。
飯田線は、長野県の県境辺りの山奥ではもはや断崖絶壁のそばを走っていくのような感じなので、過去にしばしば鉄道事故が発生したのでした。
1955年に落石によって電車が乗り上げ、列車が天竜川へと転落するという事故が発生しました。このように、飯田線は、昔からとにかく落石が酷かったのでした。
そのため、落石に対する防護対策の工事(石が落ちてこないための工事)を進めていったのでした。こうして、飯田線の安全運行は守られています。
飯田線と名鉄線の共有区間
飯田線のはじめ・豊橋駅に近い部分は、同じく豊橋駅にまで乗り入れている名古屋鉄道(名鉄)名古屋本線と共用しています。
これは、1927年に愛知電気鉄道(=名鉄線の前身です)が豊橋まで延長してくることが決まったとき、元々豊川に橋をかけていた豊川鉄道(=明治時代の、飯田線の前身の会社の一つです)とともに線路を共用して使おう、という協定が結ばれたという歴史的経緯があるからです。
愛知電機鉄道は名古屋から豊橋まで線路を延ばしてくるとき、豊橋の少し手前を流れる大きな川である豊川に対し、(技術面・コスト面で)自前の橋をかけることができませんでした。
もし橋を建設しようとすると途方もない期間がかかるため、豊川鉄道に対して「うちにも橋を使わせてください」とお願いしたわけですね。
これに対して豊川鉄道は、最初は愛知電機鉄道にシェアを奪われることを危惧して乗り気ではなかったのですが、愛知電機鉄道側による必死の交渉などもあって、最終的には認めるという形となったのでした。そして、これが現在に至るまで踏襲(とうしゅう)され、共用区間となっているという経緯があります。
上記のような歴史的経緯もあり、共用となっている豊橋・豊川付近の区間の運行管理は、JR東海が行っています。
そして、基本的には飯田線列車の運行が優先されており、名鉄の列車は1時間に最大6本まで制限されています。
豊橋の歴史

豊橋は、かつて「吉田(よしだ)」と呼ばれていました。「豊橋」の地名は、街を流れる豊川(とよかわ)に今もかかっている大きな橋(吉田大橋)に由来しています。
橋の名前に由来する地名は、結構あります。例えば東京の日本橋(にほんばし)、大阪の淀屋橋(よどやばし)などですね。
豊橋には、江戸時代までのメインルートである「東海道」が通っていました。東海道とは、江戸から京都まで、約20日間かけて徒歩または馬などで旅をしていた道です。旅人たちは何日間もかけて移動するため、途中で泊まるための宿場町が必要になりました。その東海道の宿場町である「吉田宿(よしだしゅく)」が豊橋にありました。
飽海川(あくみがわ、現在の豊川のことです)の河口には、かつて「渡し舟(わたしぶね※後述)」に人を乗せるための「渡し場(わたしば)」が置かれたのでした。
昔は軍事上の都合から橋をかけられなかったり、橋をかけたとしてもすぐに洪水・氾濫などで流されたりしていたので、橋をかける代わりに舟で乗せて運ぶという「渡し舟(わたしぶね)」があったのです。
これは「飽海川の渡し(あくみがわのわたし)」と呼ばれています。
飽海川(あくみがわ)はその後「吉田川」に改称されており、さらに明治時代以降に「豊川」に改称されています。住民たちを水で潤す「豊かな川」ということで、「豊川」となったのです。
また、橋も
吉田大橋(よしだおおはし)→豊橋(とよはし)
のように名前が変わっています。もちろん言うまでもなくこの「豊橋」こそが、愛知県豊橋市の市名の由来になっています。
しかし、現代の国道一号にかかる吉田大橋は、後の時代により新しく大きく作られたものです。「豊橋」の由来になったもとの吉田大橋は、より下流部の愛知県道496号線の橋という扱いになっています。
戦国時代 徳川家康の天下に
1560年に起きた桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で、今川義元(いまがわ よしもと)が織田信長に敗れて討たれてしまいました。そして、それまで静岡県静岡市の地で今川家の人質となっていた徳川家康は、それまで自分を人質にしていた(いや、「人質」とは名ばかりであり、むしろ厚待遇でお世話になっていた?)今川氏をそこで見限って、今川氏からの独立を宣言したのでした。
つまり徳川家康は、今川氏の敗北とともに、晴れて「自由の身」となったというわけです。
1565年には吉田城が開城し、今川家はこのあと豊橋(吉田)の地を撤退し、その後どんどん衰退していくことになります。
1566年には牛久保城(うしくぼじょう:愛知県豊川市)に残っていた勢力を結集していた地元の武士たちや一族らも、徳川家康からの降伏の勧めに応じることにしたのでした。つまり、豊橋(吉田)周辺の三河(みかわ)の人々は、どんどん徳川家康の言うことに従っていくことになっていくのです。こうして三河国(みかわのくに:愛知県東部)は、徳川家康によりほぼ再統一されていき、徳川家康の天下となっていったのでした。
安土桃山時代の1590年に、徳川家康は豊臣秀吉からの命令で、関東へ移ることになりました。これが江戸に幕府ができるきっかけの一つとなります。
江戸時代「吉田藩」の成立
1600年の「関ヶ原の戦い」の後、江戸時代に入ると「吉田藩(よしだはん)」が設置されました。
江戸時代になると吉田川(豊川)に対して、吉田大橋(現在の豊橋)の建設が行われたのでした。
この吉田大橋(豊橋)は、東海道における軍事面での重要性から、江戸幕府による直轄(ちょっかつ:直接管理すること)の橋として管理されたのでした。それは、江戸幕府に不満を抱く大名たちが、豊橋を通って軍を率いて江戸に侵入してくるのを防ぐためですね。
幕末の動乱が収まらなかった1867年、豊橋駅の西のエリアにあたる牟呂村(むろむら)において、なんと伊勢神宮の「お札(さつ)」が空から降ってきたといわれています。
この「お札(さつ)」が降ってくるというなんとも素晴らしい噂があちこちで広まり、幕末の不安定な世の中において情緒不安定に陥っていた民衆たちが「ええじゃないか」と躍り狂ったのです。
ええじゃないかと躍り狂った運動・現象は、幕末の動乱からなんとか世の中が復活してほしいと願う人々の「世直し」の動きとなっていったのです。
今回はここまで また次回!
次回は、豊川鉄道について詳しく扱っていく予定です。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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