飯田線の旅2 飯田線の起源「豊川鉄道」の歴史

飯田線の鉄道旅と、飯田線の前身となる豊川鉄道の歴史について、初心者の方にも、わかりやすく解説してゆきます!

  1. 飯田線の前身の一つ・豊川鉄道の歴史
    1. かつて豊橋~豊川~大海を運営していた、豊川鉄道
    2. 元々、4つの私鉄から生まれた、飯田線
    3. かつて豊川稲荷への参拝客を運ぶために造られた、豊川鉄道
    4. 明治時代にまず、豊橋駅~豊川駅間が開業
    5. 大正時代に、全線が電化
      1. 三河川合駅までは、鳳来寺鉄道による開通
    6. 豊川鉄道の初期の起点は、豊橋駅ではなく下地駅だった
    7. 豊川鉄道の当初のスタート地点が、下地町だった理由
      1. 昔は、「大きな駅の一歩手前で橋がかけられない」というケースは多かった
      2. 不便なため、数年後あたりに橋がかかり、無事開通
    8. 当初は経営不安定だった、豊川鉄道
      1. そもそも「株」のメリット・デメリットとは?
      2. 余裕分のお金でなければ、なかやか庶民はやりにくい投資…
      3. 株を買う、その他のメリット
      4. 株の独占的買い占めにより、次々に株価高騰
      5. 「希少価値」という原理現象
      6. ダイヤモンド→高い、石ころ→値段がつかない、という原理と同じ
      7. 少ない・珍しいほど、価値が高くなる
      8. ただし買い占めにより、本当に買いたい人が買えなくなる
      9. 議決権を持つ人が減ってしまう
      10. 本来手放してはいけない株を、手放してしまう者続出
      11. 株価がありえないほど高額に
    9. 豊川鉄道の初期の負債問題
      1. 作っていくうちに、「あれもこれも必要だ」と気付く
      2. 社債発行により、なんとか資金を集めようと試みる
      3. 社債、信用を失ってはほとんど買ってもらえず
    10. 大正時代以降の豊川鉄道 「身を切る改革」で経営の持ち直し
      1. 節約ばかりで、従業員はやりにくく やがてストライキへ発展
      2. 苦労・努力の成果もあり、ようやく経営回復
      3. 鳳来寺鉄道の開通
      4. 電化により、さらにパワーアップ
      5. 昭和恐慌からの回復
      6. 飯田線の原型が完成した、1937年
      7. 高すぎる運賃のため、1943年国有化へ
      8. 交通事業の終了 豊川鉄道は1944年に消滅へ
  2. 次回は、豊川~大野城~新城へ

飯田線の前身の一つ・豊川鉄道の歴史

かつて豊橋~豊川~大海を運営していた、豊川鉄道

飯田線いいだせんの南側エリアにあたる、

  • 豊橋駅とよはしえき(愛知県豊橋市)
  • 豊川駅とよかわえき(愛知県豊川市)
  • 大海駅おおみえき(愛知県新城市)

の区間は、かつて明治時代には

  • 豊川鉄道とよかわてつどう

という、民間の鉄道会社によって運営されていました。

かつての豊川鉄道の始発駅・豊橋駅(愛知県豊橋市)

豊橋駅(愛知県豊橋市)

かつての豊川鉄道の終着駅・大海駅(愛知県新城市)

大海駅(愛知県新城市)

元々、4つの私鉄から生まれた、飯田線

前回も解説した通り、飯田線は以下の4つの私鉄が一つになって、戦時中の1943年に国有化してできた路線です。

  • 豊川鉄道とよかわてつどう豊橋駅とよはしえき(愛知県豊橋市)~大海駅おおみえき(愛知県新城市)
  • 鳳来寺鉄道ほうらいじてつどう大海駅三河川合駅みかわかわいえき(愛知県新城市)
  • 三信鉄道さんしんてつどう三河川合駅天竜峡駅(長野県飯田市)
  • 伊那電気鉄道いなでんきてつどう天竜峡駅辰野駅(長野県上伊那郡辰野町)

このうち、豊橋~豊川~大海の区間を運営した鉄道会社のことを

  • 豊川鉄道とよかわてつどう

といい、現在のJR東海・飯田線の前身となる鉄道路線を運営していた株式会社になります。

豊川鉄道は、戦時中の1943年に、路線が国鉄に買収されており、4つの私鉄が一つになって「飯田線」となっています。

かつて豊川稲荷への参拝客を運ぶために造られた、豊川鉄道

豊川鉄道は元々、豊川稲荷の最寄駅である豊川駅(愛知県豊川市)を経由する目的で造られた

豊川駅(愛知県豊川市)

豊川鉄道は、元々は豊川市に鎮座ちんざある

  • 豊川稲荷とよかわいなり

へと参拝するお客さまを乗せるために作られた路線でした。

昔は現代以上に神社やお寺への参拝は重要であり、そうした参拝客の人々がとても多かったような時代でた。
そのため、そうしたお客さまを乗せるための鉄道を作れば採算がとれる、ということが期待されたのでした。

明治時代にまず、豊橋駅~豊川駅間が開業

豊川鉄道は、まず明治時代の1897年に最初の区間である

豊橋駅豊川駅

の区間が開業したのでした。

やがて、当時の終点である大海駅おおみえきまで開通したのは、3年後の西暦1900年のことでした。

大正時代に、全線が電化

やがて大正時代の1925年になると、全線が電化(※)されることになります。

電化:つまり、従来の「蒸気機関車」などから、電気で列車が走る「電車」になること。

これによって、列車のスピードアップや燃費の良さ・車両の軽量化などがはかれます。

三河川合駅までは、鳳来寺鉄道による開通

また、大海駅から先(北)の

  • 三河川合駅みかわかわいえき(愛知県新城市)

までの区間は、

  • 鳳来寺鉄道ほうらいじてつどう

という民間の鉄道会社により、1923年に開業しました。

鳳来寺鉄道は、元々は

  • 鳳来寺ほうらいじ

というお寺に参拝するお客さまを乗せるために作られた路線でした。
そして沿線地域の観光地などへ、多くのお客さまを運ぶという役割を果たしてしました。

豊川鉄道の初期の起点は、豊橋駅ではなく下地駅だった

当初の豊川鉄道の起点(スタート地点)は、現在の飯田線ような豊橋駅ではなく、豊川の向こう岸にあたる

  • 下地しもじ

という町が起点となる予定でした(あくまで「予定」でした)。

←至・豊川駅ー下地町豊川ー豊橋駅

という位置関係です。

つまり、

  • 豊橋駅
  • 下地しもじ

との間に、豊川が流れているというイメージです。

豊川鉄道の当初のスタート地点が、下地町だった理由

このとき豊川鉄道のスタート地点を下地町としたのは、豊川へ橋をかけると、当時としては膨大なコストがかかったためでした。

そのため、あえてこの豊川には橋をかけることを避けて、建設費用をおさえたかった、というわけです。

昔は、「大きな駅の一歩手前で橋がかけられない」というケースは多かった

ちなみに昔は、

  1. 大都市中心駅(この場合は豊橋駅)”の一つ手前に、大きな川があるため、

  2. コスト等の問題で、橋をかけられず、
  3. 一歩手前の駅までで終わっており
  4. 川は渡し舟によって渡り、
  5. そこから大都市中心部まで向かっていた

ということが、よくあったのでした。

不便なため、数年後あたりに橋がかかり、無事開通

しかし、このように橋が無いと不便なので、

  1. 数年後あたりに、ようやく橋がかけられ、
  2. 無事に大都市中心駅までが開通する・・・

ということがよくあったのです。

豊川鉄道その後、当初の「下地町」を起点とする計画は改められ、資本金を大きく増額した上で豊川に橋がかけられのでした。
こうして、現代のように豊橋駅を起点として、1897年にめでたく開業となっています。

現代の下地駅しもじえきは、のちの1925年に開業した駅です。

当初は経営不安定だった、豊川鉄道

こうして1897年からスタートした豊川鉄道でしたが、当初は苦難の連続でした。

理由の一つは、まず豊川鉄道の「株の買占め事件」でした。

1900年あたりから、多くのお金持ちが豊川鉄道の株を、独占して買い占めていったのでした。
なぜお金持ちが株を買いあさっていくのかというと、もし豊川鉄道が儲かって成長していったとき、株の値段があがり、その差額利益になるからです。

ここから先は、「」「経済」ばかりの話となります。
正直興味ない方も多いと思いますので、こちらからページ下部へご移動くださいませ。(^^;)

そもそも「株」のメリット・デメリットとは?

例えば、1万円で買った株が、豊川鉄道の大人気によって株価が値上がりし、株価が1万5,000円になると、5,000円の利益が出ます
もし1億円分の株を買ったら、株価が1億5,000万円に上がると、5,000万円の利益になります

しかし良いことばかりでなく、もし1億円分の株を買っても、その会社の経営不振により株価が半分の5,000万円に暴落したら、5,000万円の損失・大損となり絶望的になります

余裕分のお金でなければ、なかやか庶民はやりにくい投資…

そして、これだけ多くの株を買えるのは、ごく一部のお金持ちだけです。

世の中のお金持ちの人々は、こうして株などに投資していくことで、持っているお金をどんどん増やそうとしているのです。
もちろん、読みが外れて株価が暴落したら、大損するというリスクもあります。

株を買う、その他のメリット

他にも、株を買うメリットとしては

  • 「企業の経営方針に対して、口出し・意見ができる(議決権が得られる)」
  • 配当金が得られる」

などの理由もあります。

株の独占的買い占めにより、次々に株価高騰

しかしこうして「一部の金持ち」によって株が独占的に買い占められていくと、株価はどんどん高騰してゆきます

つまり「売り切れ」となり、欲しくても買えない状態が続くからです。
高くてもいいから売ってくれ」という人も増えてくるでしょう。

「希少価値」という原理現象

ちなみに、ここで

モノの価値は、少ないほど(珍しいほと)上がる

という原理があります。

そのため、株が買い占められる・売り切れという状態が続くと「希少価値(珍しいことで上がる価値)」が生まれることになります。
これによって、株価はどんどん高騰していくのです。

ダイヤモンド→高い、石ころ→値段がつかない、という原理と同じ

したがって、この「モノの価値は、少ないほど(珍しいほと)上がる」という原理は、知っておくとよいでしょう。

例えばダイヤモンド宝石などは、希少(まれで少ないこと)で珍しいから、値段が高くつくのです。

逆にいえば、そこらじゅうに無限にある「石ころ」は、珍しくもなんともないため(コモディティ化)、値段が1円もつかないのです。

婚活市場においても

イケメン・金持ち・30台前半・高学歴・高身長・医者or弁護士or経営者

みたいなすべての好条件が揃ったハイスペック男性はなかなか少なく、極めて稀ですよね(少なくとも、私はこんな人あまり知らない・・・)。

こういった男性も希少価値がとても高いため、多くの婚活女性がその「ハイスペ男」に群がるというわけです。

少ない・珍しいほど、価値が高くなる

株の場合も、ある一部のお金持ちによって株が買い占められると、市場に出回る株が少なくなってしまい、

  • 少なさ
  • 珍しさ

によって株の値段がどんどん上がってゆくのです。
上がるとわかっているような人気な会社の株だったら、多少値段が上がったとしても誰でも欲しくなるでしょう。

ただし買い占めにより、本当に買いたい人が買えなくなる

しかしこうなると、本当に株を買いたい人が株を買えなくなり、一部の人(金持ち)しか株を持てず、会社の経営に関わることができなくなります。
そして最悪の場合「会社乗っ取り」などのリスクも出てきます。

つまり悪意を持った誰かによって株を買い占められるという「敵対的買収」が起きて、会社を乗っ取られるというリスクがあるのです。

議決権を持つ人が減ってしまう

こうして株が買い占められると、特定の金持ちしか「株を持っている人(=株主)」になれず、株主の数が減ってしまいます。
こうなると、会社の経営に意見を言える人(議決権を持った人)が減ってしまいます。
すると会社経営がより偏った方向・方針になりやすく、一部の人たちにとってのみ都合のよい会社政治が行われやすくなってしまいます。

もちろん、その決定・議決・方針が「正しい方向」に向かえば会社は良くなります。
しかし、会社が

  • 間違った方向
  • トンチンカンな方向

に向かうと、それを食い止める意見をいう人(反対する人)がいなくなってしまいます。
そのため、そういったリスクもはらんでいるのです。

本来手放してはいけない株を、手放してしまう者続出

豊川鉄道の場合でも、上記の「株式買い占め」によって、株を持っている株主の数が大きく減少してしまいました。
株主たちは高くなった株価につられてしまい、「もし今、株を売れば儲かるぞ!」といった具合で、元々持っていた株を売りさばいて、利益を出すということにハマってしまったのでした。

こうして本来手放してはいけない株を手放してしまう人が続出してしまい、議決権も無くなり会社にいる意味が無くなり、会社経営から離れてゆく人すらいたのでした。
こうなると、もはや何のための会社経営なのかわからなくなり、会社経営がカオスとなってゆきます。

株価がありえないほど高額に

このように豊川鉄道の株価は高騰してゆき、現実的ではない高すぎる株価となったため、東京株式取引所すらも目をつけられてしまっていました。

株式の買い占めは「わざと株価を上げる」という行為にも使われてしまいます。
株価をわざと上げる理由は言うまでもなく「売ったときの差額の利益を出すため」ですね。

しかし、もし意図的な「株価操縦」が行われると、相場操縦行為とみなされて、刑罰の対象ともなる可能性があります。
なので、会社の信用問題にも関わってくるため、むやみかつ意図的な株価買い占めはよくないわけですね。

話がだいぶ膨らみすぎましたが、明治時代の初期の豊川鉄道は、こうした「株価買い占め騒動」によって、会社の信用を失ってしまい経営がかなりピンチに陥っていたのでした。

豊川鉄道の初期の負債問題

明治時代、初期の豊川鉄道の経営がなかなかうまくいかなかった理由のもうひとつは、巨額の借金を抱えていたことにありました。
というのも、当初の資本金に対して、実際の線路などの建設費が膨大に膨らんでいったのでした。

作っていくうちに、「あれもこれも必要だ」と気付く

最初は
まあ、これくらいのお金があれば線路建設は余裕かなぁ~
などというふうに当初の見積りが甘いと、いざ実際に工事を始めてみたときに

  • 「あ、あれも金がかかる」
  • 「あ、これも必要だ」
  • 「作業が遅れて、どんどん費用がかさんでいく」

といった具合に、どんどん後から費用が膨らんで足りなくなっていく、というのはよくある話です。

こうして建設費などが足りなくなった分は、借金に依存していました
借金はどんどん増加してゆき、ついにはお金を貸していた銀行からの「運賃収入の差し押さえ」を受けてしまいました。
つまり、せっかく得た収入を強制的に止められ、没収されてしまったのです。

社債発行により、なんとか資金を集めようと試みる

こうして借金では資金調達がどうしようもなくなり困り果てた豊川鉄道は、今度は多額の「社債しゃさい」を発行してまかなおうとしたのでした。
これは国でいうところの「国債こくさい」にあたります。
これを発行して投資家などの人々に買ってもらうことで、資金を調達しようということです。

もちろん普通に発行しただけでは買ってくれないため、「利息」をつけて発行するわけです。

例えば、1万円で買って10,500円が返ってくるのであれば、500円の利益になります。
投資家は、この「利益」を期待して国債や社債を買うわけです。
この場合は、5%の利率ということになります。

この利率が多いほど投資家は買ってくれやすくなりますが、国債や社債を発行する側の利息負担が大きくなるというデメリットもあります。

社債、信用を失ってはほとんど買ってもらえず

豊川鉄道はこの「社債」の発行によって資金調達しようとしたのですが、先述の「株式買い占め騒動」によって経営がカオス状態になっており、会社としての信頼・信用を失っている状態だったため、少ない利率ではまとも誰もに買ってはくれない状態でした。

そのため、利率をかなり上げて社債を発行したのですが、どれだけ利息を高くしても信用を失ってしまった豊川鉄道の社債を買う人はいませんでした。

そのため、豊川鉄道は社債の発行を断念・中止することになったのでした。

大正時代以降の豊川鉄道 「身を切る改革」で経営の持ち直し

こうして経営的に「冬の時代」を送った豊川鉄道でしたが、大正時代からは優秀な経営者がついたこともあり、今でいうところの「身を切る改革」によってどんどん持ち直してゆきました。

大量に借金や負債を抱えた会社を立て直すには、やはり

  • 節約
  • コストカット
  • 従業員削減
  • 給与削減

などは、もはや必須事項でした。

節約ばかりで、従業員はやりにくく やがてストライキへ発展

ただこうなると、会社では紙の1枚、鉛筆の1本ですら無駄にはできなくなります
電気も「節電」を徹底されるため、従業員たちにとっては非常に堅苦しい労働環境になってしまいます。

やがては従業員の賃金も減らして抑制したため、不満をもった従業員たちによってストライキ(従業員による意図的な労働放棄)が発生する事態にまでなったのでした。
元々こうなったのは従業員にとって何の責任もないのに、従業員にまで会社の苦労のシワ寄せをされたら、たまったものではなかったでしょう。

苦労・努力の成果もあり、ようやく経営回復

しかし、さすがにこのままではマズイので、豊川鉄道の経営者は少しずつ従業員の待遇を改善してゆき、さまざまな経営努力によって豊川鉄道の経営は徐々に回復してゆくことになりました。

こうして豊川鉄道はどんどん復活してゆき、現時点では

  • 大海駅(当時は長篠駅

までの終着となっていた豊川鉄道の路線を、さらに

  • 三河川合駅

まで延伸するという計画に乗り出してきました。
これはやはり、会社の資金力が回復してきたことが大きく影響しています。こうして、新しく

  • 鳳来寺鉄道ほうらいじてつどう株式会社

が設立されたのでした。

鳳来寺鉄道の開通

大正時代の1923年にめでたく鳳来寺鉄道が開通し、豊橋駅~三河川合駅という具合に線路が延長されたため、この区間の直通運転が開始されました。

鳳来寺鉄道は、

  • 地元で有名なお寺である鳳来寺ほうらいじ
  • とても景色のよい鳳来峡ほうらいきょう

などの観光地を訪れようとする観光客が、たくさん訪れてきてくれることを期待して、そうしたお客さまのために

  • 湯谷駅ゆやえき(現在の湯谷温泉駅、愛知県新城市)

の周りに、ホテルや温泉設備をどんどん建設してゆきました。

さらには電車の「往復割引」という特典をつけるなど、様々な方法を駆使してお客さまの呼び込み・集客に力をいれてゆきました。

こうしてたくさんの団体旅行客による申込が殺到して大人気となり、豊川鉄道は初期の「長い苦境」を経て、大成功したのでした。

電化により、さらにパワーアップ

豊川鉄道・鳳来寺鉄道は、1925年に全線が電化しました。
つまり、それまでの「蒸気機関車」から「電車」となったのです。
電車の方がやはり性能がいいですから、これにより、列車のスピードや性能は向上してゆき、お客さまはどんどん増えていったのでした。

昭和恐慌からの回復

その後1929年に起きた昭和恐慌による不況の影響により、お客さまは大幅に減少していくことになりました。

これに対し、なんとかして減ったお客さまの回復につとめるため、

  • 観光地をより充実させる
  • 観光のための「臨時列車」を増発させる

などの様々な施策により、お客さまの減少はなんとかストップしました。
しかし、元の繁盛していた頃の(昭和恐慌前の)収益レベルにまでもどることはありませんでした。

飯田線の原型が完成した、1937年

1937年になると、冒頭にあげた4つの私鉄である、

  • 豊川鉄道
  • 鳳来寺鉄道
  • 三信鉄道
  • 伊那電気鉄道

による、

豊橋駅~辰野駅たつのえき(長野県上伊那郡辰野町)

全区間が一つに結ばれることになり、現代の飯田線の原型が、ここに出来上がりました。

高すぎる運賃のため、1943年国有化へ

しかしご存知の通り、飯田線はとても険しい山岳地帯を貫くための難工事によって出来た路線です。
このように膨大なコストをかけて建設された路線だったため、この当時は運賃の高さがとても問題となっていたのでした。

そのため、地元の人々によって、これら4つの鉄道の国有化のための運動が始まるのでした。
その運動の成果もあって、1943年に上記の

豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道

の4つの私鉄の路線が国によって買い取られ、新たに「飯田線」として国鉄による経営となりました。

交通事業の終了 豊川鉄道は1944年に消滅へ

こうして交通事業を終えることになった豊川鉄道株式会社は、1944年に名古屋鉄道(名鉄)に合併されたため、消滅したのでした。

以上が、豊川鉄道の歴史ということになります。
今回はかなり「経営学」「」などの知識分野も入ってしまいましたが、あなたの人生になんらかの役に立つ知識となれば嬉しい限りです。

次回は、豊川~大野城~新城へ

次は、

  • 豊川
  • 大野城おおのじょう
  • 新城しんしろ

へ至るルートについての解説となります。

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

この記事が良いと思った方は、よかったら次の記事・前回の記事も見てくださいね!

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