飯田線の旅5 長篠城の跡へ 織田信長・武田勝頼「長篠の戦い」の舞台

今回の飯田線の旅は、いよいよ1575年に織田信長と武田勝頼が戦った「長篠の戦い」の舞台へと到達します!!

大海駅を出て、長篠城駅へ

大海駅(おおみえき、愛知県新城市)を出ると、ここから先の三河川合駅(みかわかわいえき、愛知県新城市)は、かつて明治時代の鳳来寺鉄道(ほうらいじてつどう)の区間になります。鳳来寺鉄道についての詳しくは、前回の記事をご参照ください。

やがて鳥居駅(とりいえき、愛知県新城市)を過ぎゆき、かつて1575年に「長篠の戦い」の舞台となった長篠城跡への最寄駅である長篠城駅(ながしのじょうえき、愛知県新城市)に着きます。

長篠城駅(愛知県新城市)
長篠城駅(愛知県新城市)

1575年、織田信長と武田勝頼が戦った「長篠の戦い」

長篠城本丸跡(愛知県新城市)

長篠の戦い(ながしののたたかい)は、1575年に織田信長の鉄砲隊と、武田勝頼の騎馬隊が戦った合戦になります。ただし実際にこの「鉄砲隊による合戦」が行われたのは、長篠よりもやや西の「設楽原(したらがはら)」という地域のため、「長篠・設楽原の戦い」と呼ばれることもあります。

甲斐・山梨で最強と知られた武田信玄(しんげん)が1573年に亡くなった後、息子の武田勝頼(かつより)が、織田信長徳川家康の軍とぶつかったのです。

結果は、日本史の教科書でもよくご存知の通り、最新の鉄砲を用意した織田信長・徳川家康の圧勝で、武田勝頼の惨敗でした。

武田信玄の死と、息子の武田勝頼の台頭

甲斐国(かいのくに:山梨県)を支配していた武田氏は、武田信玄のあまりにも強さもあって、1573年ころまでには南の静岡県・愛知県東部あたりにまでかなり勢力を伸ばしてきていました。

しかし、1573年の信玄の急死によって、武田勢は甲斐・山梨への撤兵・撤退を余儀なくされてしまいました

武田氏の撤兵・撤退に伴い、それまで武田信玄からやられ続けていた徳川家康は、武田氏の領地に対して反撃を開始してゆしました。そして、それまで武田信玄にやられっぱなしで失われていた三河・遠江の領地を回復していこうとしていたのでした。

信玄の死を確信し、徳川に寝返った奥平信昌

戦国最強ともいえる武田信玄が死んだという事実は、世間には厳重に隠されていました。それはもし世間にバレると、それまで武田信玄から抑圧されてきた織田信長や徳川家康が必ず「これはチャンスだ!」と言わんばかりに勢いづくのはもう明白ですし、何よりも地元の甲斐・山梨の人々の士気が下がってしまうことも心配されたからです。

しかし、世間が徐々に武田信玄の死に気付きはじめると、やがて武田氏を裏切る人が出始めます。なかでも奥平信昌(おくだいら のぶまさ:元・徳川側にいたが、一時期武田側についていた)武将の父・定能(さだよし)が「実はもう信玄は死んだんじゃないか?」と気付きはじめたのです。
こうして武田信玄の死を確信した父・定能の決断により、一族を連れて武田側を離れ、奥平信昌は再び徳川の味方へついたのでした。

こうして奥平(おくだいら)の親子は武田側を見限って離れ、一時的に離れていた徳川側へと戻ってきました。
そして家康からは(武田家より奪還したばかりの)長篠城に配置されたのでした。
一度武田側に寝返った人が戻ってきたのに、よく無事でいられたなぁ、と思いますが、徳川家康は奥平の親子を戦力としてとても高く評価していたという理由もあるとのことです。

これに対して武田勝頼は、奥平貞能・貞昌の親子が徳川側へ戻っていったことを知り、これを「裏切り者」だとして激怒します。そして勝頼は、奥平貞昌の元妻の16歳の女性と13歳の弟などの人質3人を処刑してしまったのです。むごいですね。

しかし奥平氏は、武田信玄が強いときには武田側につき、武田信玄が死んでしまうと今度は徳川側につき・・・という具合に、「強い側」へ次々に寝返る、ということをやっていたため、これに対して武田勝頼は不信感をおぼえて激怒したとも考えられます。

勢いづく武田勝頼 長篠へ進軍

武田信玄の後継者となった勝頼は、駿河(するが)・遠江(とおとうみ)・三河(みかわ)の領土を再び掌握してゆくべく、反撃を開始してゆきます。

  • 三河国(みかわのくに:愛知県東部)
  • 遠江国(とおとうみのくに:静岡県西部)
  • 駿河国(するがのくに:静岡県東部)

1574年に父・信玄も落とせなかった駿河の高天神城(たかてんじんじょう、静岡県掛川市)を落城させたのでした。これに自信をつけ、より勢いづいた勝頼は、1575年4月に大軍の指揮をとり、ついに三河へと侵攻したのでした。

武田勝頼は、このまま父・信玄が果たせなかった西上作戦(せいじょうさくせん)を引き継ぐことにしのです。「西へ上る作戦」と書いて西上作戦というわけですが、昔は京都へ向かうことを「上洛(じょうらく)」といいました。

  • 京都へ向かうこと→上洛(じょうらく)する、京都へ上る(のぼる)
  • 京都から関東へ向かう→関東へ下る(くだる)、下向(げこう)する
  • 京都に近い地域:「」 例:上越、上総など
  • 京都から遠い地域:「」 例:下越、下総など

なので「西上作戦」とは、京都を目指して西へ進んでいく、という軍事行動ということになります。ただし、武田信玄の西上作戦の真の目的は「信長征伐だった」など、諸説あります。

そして三河へ進んできた勝頼の軍は、一時的に吉田城(豊橋城)まで攻め込み、家康の注意を引き付けながらけん制すると、翌月にあたる5月にはとうとう長篠城に到着し、包囲したのでした。

ここに武田軍と織田・徳川連合軍の衝突である「長篠の戦い」の開始に至ったのでした。

食糧を絶たれ、ピンチに陥った長篠城

こうして長篠城での戦いが始まったわけですが、約1万5,000人という大軍で攻めてくる武田軍に対して、徳川側の長篠城の兵はわずか500人という少ない数でした。
しかし、それでもなんとか200丁持っていた鉄砲や大鉄砲などで抵抗したり、また周囲を谷や川などに囲まれるという複雑な地形に守られたこともあって、武田軍の猛攻に対して何とか持ちこたえていたという状況でした。

しかし長篠城は、兵糧を備蓄していた蔵を攻撃されて焼失したことにより食糧を失ってしまい、もはや数日以内に落城することが必至の状況へと追い詰められたのでした。

「戦国時代のメロス」鳥居強右衛門の活躍

そんなピンチに陥ったある夜、長篠城側は先述の奥平信昌(おくだいら のぶまさ)の家臣(家来)である、鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)をスパイとして密かに城の外に出し、徳川家康のいる岡崎城(愛知県岡崎市)へと送りだしました。

鳥居強右衛門(とりい すねえもん)は夜の闇に紛れながら、武田軍による厳重な警戒網を突破してゆきました。
そして西へ約65kmも離れた岡崎城へと走って向かいました。
やがて岡崎城についた鳥居は、徳川家康に長篠城のヤバい状況と緊急事態を訴えて、援軍を要請することにしたのでした。
そして岡崎城では、既に信長の率いる約3万人を越える軍隊が、いざ長篠へと出撃しようかとする態勢だったのでした。

そして鳥居は「明日にも家康と信長の大軍が長篠城救援に出陣する」ことを知らされ、「この朗報を一刻も早く長篠城に伝えよう」と、鳥居は急いで長篠城へと走って引き返したのでした。

なんだか太宰治の小説「走れメロス」みたいですね・・・。実際、鳥居強右衛門は「戦国時代の走れメロス」と呼ばれているそうです。

しかし鳥居は早朝に、長篠城の目前まで戻って来たところで武田軍に見つかってしまい、捕らえられてしまったのでした。最初から死を覚悟していた鳥居は、武田軍からの厳しい尋問に対しても決してひるむことはなく、「自分は長篠城の使いだ」ということを堂々と述べ、しかも「織田・徳川の援軍が長篠城に向かう予定である」ということを堂々と語ったのでした。これは本当に勇気ある行動です。本当にメロスみたいですね。

こうした鳥居の堂々たる態度に感心した武田勝頼は、鳥居に対して
“援軍は来ないから、諦めて投降せよ”という嘘の情報を、長篠城に向かって叫べそうしたら命は助けてやろう
という要求を持ちかけたのでした。

鳥居は一旦、この武田勝頼の要求を「承諾」しました。しかしこれはあくまで「表向き」の行動であり、
実際に城の前へ引き出された鳥居は、
もうすぐで長篠城に援軍が到着するから、みんなそれまでなんとか持ちこたえてくれ!
と、なんと勝頼の命令とは「全く逆のこと」を大声で叫んだのです。

これを聞いた勝頼は激怒し、鳥居をその場で処刑してしまったのです。

しかし、この鳥居による「死を覚悟した報告」「自分の命を犠牲にして、城の仲間を守ろうとした行動」のおかげで、岡崎城からの援軍が近いことを知った長篠城の仲間の城兵たちは、
鳥居の死を決して無駄にしてはならない
と、大いに士気を奮い立たせることになったのです。

そして援軍が到着するまでの二日間、長篠城ではなんとかもちこたえ、見事に城を守り通すことができたといいます。

武田軍に処刑されてしまった鳥居強右衛門は、後にその勇敢ある行動から「英雄」として扱われるようになりました。

鳥居駅(愛知県新城市)

飯田線・鳥居駅(とりいえき、愛知県新城市)は、この鳥居強右衛門の処刑された場所であることから、彼の勇気ある行動にちなんでつけられています。

織田・徳川の大軍が、設楽原に到着

こうして長篠城がなんとかもちこたえていると、ついに信長軍・約3万人の兵と、家康の軍・約8,000人の兵が、ついに長篠のやや西にある地域である設楽原(したらがはら)に到着しました。この設楽原こそが、まさに織田信長があの有名な「鉄砲隊」で戦った場所となります。

ではなぜ長篠ではなく、あえて少し西の、しかも見通しの悪い設楽原にしたのか?ということですが、これは織田信長の様々な作戦・思惑があったことが言われています。
見通しが悪いということは、敵(武田側)にとってもこちらが見えにくいということです。
これを利用して、織田軍は散り散りになって待ち伏せ、武田側には相手の実態がまったくわからない状況であり、恐怖でしかありませんでした。

このため、武田陣営では直ちに軍議(話し合い)が開かれたのでした。
この会議において、信玄時代からずっと側近にいたキーパーソンたちは、先述のように相手の実態が全くつかめない状況や、織田信長による巧みな戦術を懸念して「ここは無理に戦うのはやめておいた方が無難です。我が軍に甚大な被害が出る前に、一旦ここは引き下がりましょう」と撤退を進言したといわれています。さすが、武田信玄とともに長年戦ってきた、経験豊富な家臣であるといえます。
しかし勝頼はこうした忠告を無視して、なぜか決戦を行うことを決定したのでした。これは恐らく、父・武田信玄の遺志をなんとか引き継ぎたいことと、また先述の高天神城を陥落させたことで、自信もかなりあったのでしょう。しかし、この勝頼の意思決定が、後の悲惨な運命につながっていくのです。

このとき部下の忠告をきちんと受けていれば、その後の武田軍の悲劇は無かったかもしれません。

この勝頼の意思決定に対し、信玄時代からの重要人物・キーパーソンたちは「もはやこの戦いは負けだ」と敗戦を予感し、死を覚悟してみんなで集まり、最期の酒を飲み交わしてそれぞれ決別したといいいます。

武田側のこの「誤った判断・動き」を見た信長は「これはまさしく、天が与えてくれた機会だ」と感じ、このチャンスを無駄にすまいと武田軍を徹底的に討伐することを決意したのでした。

背後からの襲撃 鳶ヶ巣山(とびがすやま)攻防戦

この戦いにおいて、武田軍は織田信長による巧(たく)みな作戦により、後ろの逃げ道を徹底的に破壊されており、後ずさりできない状況になっていました。それは鳶ヶ巣山(とびがすやま)という長篠城の後ろの山の砦(とりで)を破壊されていたために、逃げ道を奪われていたのです。

鳶ヶ巣山(とびがすやま)は、長篠城駅のすぐ南の宇連川(うれがわ)をはさんでそびえる山です。
宇連川(うれがわ)は、長篠城のすぐ南で豊川と合流する川です。
長篠城は、この「宇連川」と「豊川」の間にちょうど挟まれた土地にあるため、川がまさしく「自然のバリヤー」としての役割を果たすため、とても防衛に適した場所だったわけですね。
鳶ヶ巣山は、高い位置から長篠城を一望できる、ベストスポットだったわけです。敵の動きなどが一目瞭然であり、しかもこの山から見下ろせば長篠城の中が「丸見え」という、とても重要な山だったわけです。

信長は深夜に奇襲を命じ、この鳶ヶ巣山に対して後ろ側から夜襲をしかけたのです。
こうした背後からのふいをついた奇襲の成功により、武田軍の退路(逃げ道)を封鎖することに成功したのでした。

この鳶ヶ巣山(とびがすやま)における攻防戦によって、武田側では主将の河窪信実(武田勝頼の叔父にあたる人物です)をはじめ、多くの名のある武将が討死してしまいます。

このように後ろ側の退路を絶たれた武田軍は一気に不利になってしまい、織田軍側の一方的な展開となってゆきました。

設楽原(したらがはら)での決戦 鉄砲隊の圧倒

こうして鳶ヶ巣山(とびがすやま)における戦いにおいて武田側が圧倒的不利に陥った頃、ふもとの北西の設楽原(したらがはら)では、武田軍の騎馬隊が織田・徳川軍の鉄砲隊を攻撃していました。

設楽原(したらがはら)には、織田軍の鉄砲隊が武田軍の騎馬隊を撃った「馬防柵(ばぼうさく)」があります。この柵の後ろから、織田信長の鉄砲隊が武田軍を次々に撃破していったわけです。

次から次へと発射される鉄砲の前に、武田勝頼の軍はまったく歯が立たず、次から次へと戦死してゆきました。

この設楽原における戦いは昼過ぎまで約8時間続いたのでしたが、最終的に武田軍は先の鳶ヶ巣山での戦いの犠牲者を含めて、1万名以上にものぼる甚大な犠牲者を出してしまいました

こうして長篠の戦いは、織田・徳川軍の勝利で終結したのでした。

織田・徳川軍にはメインの武将らに戦死者がみられなかったのに対し、武田軍の戦死者は、甚大な数にのぼってしまったのでした。

武田勝頼はわずか数百人の家来の武士たちに守られながら、信濃(長野県)の高遠城(たかとおじょう、長野県伊那市)へと後退したのでした。

「長篠の戦い」その後

織田信長は、長篠における勝利によって「天下人」として台頭し、ますます勢いづいていくのでした。また徳川家康も三河地方の実権を完全に握り、遠江(とおとうみ:静岡県西部)方面へも勢力を伸ばしていくのです。

一方、負けた武田氏はこの「長篠の戦い」において、重要なキーパーソンを含む多くの将兵を失うことになってしまい、自身の領国である甲斐・山梨にショックを与え動揺を招いたのでした。

武田勝頼は長篠で負けたことをきっかけに、色んな人に裏切られてゆき、武田氏はどんどん衰退してゆくことになりました。1582年には織田・徳川連合軍によって甲斐・山梨への本格的な侵攻が行われるようになってゆき、勝頼は追い詰められ逃げ惑いました。もはや最期を迎えた武田勝頼は、山梨県の天目山(てんもくざん)において滅亡したのでした。

武田勝頼の末路とその滅亡については、以下の記事においてさらに解説していますので、ご覧ください。

中央線鉄道唱歌 第18番 逃げ場を失った武田勝頼が滅びた、甲斐大和駅の東の天目山

織田信長の、時代を先取りする力

織田信長は、とにかく時代を先取りできる人でした。当時はまだ日本に伝わったばかりの鉄砲をいちはやく導入し、相手の裏をかくような斬新な方法で敵を倒していくようなやり方は、まさに戦いの天才だったといえるでしょう。

織田信長の破天荒ぶりについては、以下の記事でもさらに書いていますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 東海道編 第34番 名古屋に到着!輝く金の鯱、そして織田信長ゆかりの岐阜

次回は、湯谷温泉・三河川合・出馬・上市場方面へ

次回は、湯谷温泉(ゆやおんせん)・三河川合(みかわかわい)・出馬(いずんま)・上市場(かみいちば)方面へと向かってゆく行程になります。

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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