
今回は、長篠城駅を出て、湯谷温泉(ゆやおんせん)→三河川合(みかわかわい)→出馬(いずんま)→上市場(かみいちば)→中部天竜(ちゅうぶてんりゅう)へと至る行程となります!
そしてこの区間は、鳳来寺山(ほうらいじさん:標高695m)という山のふもとを通っていくことになります。また、鳳来寺山には鳳来寺(ほうらいじ)という江戸時代に徳川家から厚く保護されたお寺が存在します。
まだしばらく愛知県新城市(しんしろし)のエリアを通りますが、出馬駅・上市場駅に入ったあたりで、一旦静岡県(浜松市)に入ります。
長篠城駅を出て、湯谷温泉駅へ

長篠城駅(ながしのじょうえき、愛知県新城市)を出ると、本長篠駅(ほんながしのえき、愛知県新城市)を経て、さらに中部天竜(ちゅうぶてんりゅう)・天竜峡(てんりゅうきょう)方面へと北上してゆきます。

やがて、湯谷温泉駅(ゆやおんせんえき、愛知県新城市)に着きます。

鳳来寺のお湯がわき出る、湯谷温泉
湯谷温泉(ゆやおんせん)は、愛知県新城市(しんしろし)の北部にある温泉郷です。湯谷温泉の歴史は古く、開湯(かいとう:温泉のはじまり)は1,300年前の奈良時代あたりであるとされています。
いわゆる「温泉のはじまりエピソード」を伝える開湯伝説(かいとうでんせつ)によれば、近隣(北西)に存在する鳳来寺(ほうらいじ)の開祖として知られる利修仙人(りしゅうせんにん)によって「お湯」の存在が発見されたと伝わります。
この源泉・お湯は鳳液泉(ほうえきせん)とよばれ、利修仙人の身を癒したというとても神聖なお湯という扱いとなっており、この鳳液泉こそがまさに現代の湯谷温泉に繋がっているというわけです。
鳳来寺の祖である利修仙人(りしゅうせんにん)は、この温泉のお湯がもたらす優れた効力によって心身の調和をはかることができ、修行を極めたことで悟りを開くことができたといいます。さらには「実に308歳の長寿を全うした」との記録が残っているそうです。308年も生きるのはスゴい・・・。
新城市のお寺・鳳来寺
鳳来寺(ほうらいじ)は、愛知県新城市(しんしろし)にある鳳来寺山(ほうらいじさん:標高695m)の山頂付近にある、真言宗のお寺です。
先述の通り、お寺を開かれたのは奈良時代頃であり、またお寺を開いた人物は利修仙人(りしゅうせんにん)になります。利修仙人はなんと「鳳凰」とよばれる伝説の不死鳥に乗ることができたり、また308歳まで生きたというスゴイお方です。
後述するように、利修仙人は鳳凰に乗って病気に苦しむ天皇を治すためにやって来たことから、「鳳来寺」というわけですね。
大正時代に大海駅~三河川合駅の区間を開業させた鳳来寺鉄道(飯田線の原型の一つ)は、この鳳来寺へと通うお客様をのせるための鉄道として作られました。
308歳まで生きた!?鳳来寺の祖・利修仙人の生涯
利修仙人(りしゅうせんにん)は、飛鳥時代よりも前の570年に山城国(やましろのくに:京都府南部)に生まれたと言われています。
また修験道(しゅげんどう:山で修業をつむことで悟りを開く道のこと)の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)というお坊さんの血縁だったという伝説もあります。
利修仙人は、湯谷温泉のお湯によって身を清めながら修業をし、修行中の時点で鳳凰(ほうおう:伝説の不死鳥。「フェニックス」と似ています)や龍とも親しくなれるような存在であったと言い伝えられています。
さらには85歳という高齢で中国に渡ったり、歴代の天皇から頼られたりしてきました。
さらには308歳まで生きたというとんでもない人物(もはや神様)なのだそうです。
308歳まで生きたということは、飛鳥時代以前から平安時代まで生きたということであり、また普通の人よりも3倍以上の人生経験を積めるということですね。
利修仙人は文武天皇(もんむてんのう)の病気の平癒祈願を再三にわたって命じられており、これを拒みきれず、鳳凰に乗って都(奈良県)へはるばるとやって来たという言い伝えがあり、これが「鳳来寺」というお寺の名前の由来となっています。
こうして利修仙人による17日間(7日間とも)にもおよぶ加持祈祷(かじきとう)がうまくいったためか、天皇の病気は見事に完治しています。
この功績によって、歴代の天皇からとても頼られる存在となり、鳳来寺の伽藍(がらん)が建立(こんりゅう)されたといわれています。
源平合戦 源頼朝も鳳来寺に来ていた?
鳳来寺は、鎌倉時代には源頼朝によって再興されたと伝えられています。さすがにこの時代には、長寿の利修仙人も亡くなられているでしょう。
その後、1192年に鎌倉幕府を開いた源頼朝(の財力)によって、鳳来寺はより大きくバージョンアップしたというわけですね。
鎌倉幕府ができる約30年前は「平氏にあらずんば人にあらず」と言われたほど平氏の全盛期であり、おごり高ぶっていました。
この当時の源氏は、まだ平氏に負けてばかりでした。1160年の「平治の乱」において源氏は平氏に敗れてしまい、落ち延びてきた頼朝が、鳳来寺に匿(かくま)われたと言われています。
これによって頼朝は鳳来寺に命を助けられ、その時の恩によって鎌倉時代に頼朝からの手厚いサポートを受けることができたというわけですね。
その後、頼朝は伊豆に20年間流罪になった後、1180年頃から復活して挽回してゆき、源氏はどんどん勢いをつけてゆきました。やがて源氏は1185年に山口県・下関の檀ノ浦(だんのうら)にておいて平氏を滅ぼし、1192年に鎌倉幕府を開いています。
江戸時代の鳳来寺 徳川家からも厚いサポートを受け発展
江戸時代に入ると、徳川家から再び厚いサポートを受けたこともあり、特に三代将軍・徳川家光(いえみつ)の時代に、鳳来寺は大いに栄えたのでした。
これは、徳川家康の母である於大の方(おだいのかた)が、鳳来寺の山にこもって祈願をしたときに、家康がお腹にできて授けられたという伝説があったからです。
これは徳川家康の父に「もっとより偉大な世継ぎを残したい」という思いがあったことから、妻とともに鳳来寺の山にこもることにしたのです。
このエピソードを知った家光により、東照宮を建てようとしたのだということです。
東照宮(とうしょうぐう)とは、徳川家康を神様として祀(まつ)る神社であり、全国に約100社あると言われています。代表的なものに栃木県の日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)や、静岡県の久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)などがあります。
こうして徳川家から厚く信仰され、また幕府からのサポートを受けたことにより、鳳来寺にある数々の僧坊(そうぼう:僧侶や尼僧が暮らすための宿舎)が次々に改築・増築されていき発展してゆきました。
それだけでなく、先述の通り徳川家康を祀(まつ)るための神社である東照宮(とうしょうぐう)が新たに造営されてゆきました。
なお、4代将軍・家綱将軍の時代になっても僧坊の増築は続いてゆき、江戸時代の前期(1600年代後半)には僧坊がたくさん存在するようになったわけです。つまり、それだけたくさんのお坊さんたちがお寺で修業していたということです。
明治時代 「神仏分離」で鳳来寺はピンチに
明治時代になると、鳳来寺にピンチが訪れます。それは明治政府による神仏分離令により、鳳来寺(お寺)と東照宮(神社)が分離されてしまい、鳳来寺が相対的に冷遇されてしまったことにあります。
明治時代になると「国家神道」といって「日本の神々」こそが国全体で信仰されるべきだという方針を打ち出しました。これによって、神社の中で仏教関連のものを祀(まつ)ることは禁止されてしまいました。
しかし江戸時代までの日本では「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」といって、神社とお寺がたくさん混じっていても珍しくない状態だったのです。
神社は「日本の神様」を祀(まつ)る場所であり、仏教は元々は外国から入ってきた宗教だったので、「日本独自の強さ」をより強く推し進めてゆきたい明治政府にとっては、仏教までもが混じった神道(神社)(逆もしかり)は都合が悪かったのです。
鳳来寺もその例外ではなく、江戸時代までは「仏教」と「東照宮」という神社が混じったような感じのお寺になっていたわけなので、明治政府により真っ先に「神仏分離」の対象となってしまったわけです。
この「神仏分離令」は鳳来寺にとっては大きな打撃となってしまいました。つまり「鳳来寺」と「東照宮」は、これからはきっちり別々の扱いとしてやっていく必要が出てきたのです。
そして、神仏分離され「国家神道」が推し進められていくと、どうしても「神社」の方が優遇されてしまいます。例えば神社の場合は、もし国から「官幣大社(かんぺいたいしゃ)」などに認定されると、国から手厚いサポートを得られることができました。
こうした時代になると、ときには「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という、極端な仏教排斥までやられてしまうような事例もありました。
そして「神社」や「お寺」であっても、企業と同じように「収入」が得られなければやっていけません(例えば、お賽銭や行事などで得られる収入ですね)。
こうした仏教冷遇の世の中では、「神社」である東照宮の(の収入)でなんとか命脈(めいみゃく)は保たれていたものの、やはり冷遇の対象となる「お寺」である鳳来寺の衰勢・衰退ぶりは著しくなっていきました。
もし東照宮の存在・利益がなければ、鳳来寺は本当に廃寺の危機すらあったのかもしれません。
明治時代になると、こうした仏教冷遇を回避するため、なかば無理やり「お寺」から「神社」へ転換せざるを得なかったお寺もあるのです(例:長野県の戸隠寺山顕光寺→戸隠神社や、京都府の祇園社→八坂神社など)。
明治時代 鳳来寺の懸命な努力による再興
こうした神仏分離による仏教冷遇によって困窮の極みにあった鳳来寺では、1905年に服部賢成(はっとり けんせい)という住職に、その後の鳳来寺の再建が任されたのでした。
そこで1906年、それまで並存・共存していた天台宗・真言宗という2つの宗派は、真言宗に統一されました。つまりお寺のスケールを縮小することにより、お寺の運営の負担の軽減を図ったということですね。企業でいうと経費削減のために、経費縮小・企業規模縮小するというイメージです。
これによって真言宗・高野山の所属となり、寺院の規模を縮小するという方針でお寺の存続が図られたのでした。
他にも賢成住職があちこちに奔走し、また懸命にお寺の維持の努力をしたことによって、国有林(国が保有している林)をなんとかお金を集めて国から買収したりして(払い下げ)、お寺の復興・回復につとめてゆきました。そして国有林買収のとき、いくらかのお金を余分に余すことができました。
この「余分なお金が生まれた」時、傷みの激しいお寺の堂宇(どうう)を改築するための費用に充てることも考えられましたが、賢成住職はあえてこのお金を地域住民に還元することを決断します。つまり、地元への貢献のためにお金を使うことを選んだというわけですね。
この余ったお金は、「鳳来寺鉄道」や「田口鉄道」の線路敷設のための資金、また学校の設立といった地元インフラのための資金として使われたのでした。こうしたことから、とても地元想いの和尚さんだったということができるでしょう。
三河川合駅の近隣(北西)にある宇連ダム
鳳来山の北には「鳳来湖(ほうらいこ)」という湖がありますが、これは宇連川(うれがわ)という川をせき止めて造った「ダム湖」になります。
かつて愛知県東部の地域では、しばしば旱魃(かんばつ)に悩まされていたのでした。つまり水不足で作物もろくに育たず取れなかったというわけです。
そのため、宇連川をせき止めて1958年にダムが完成し、せき止められたことによって出来た人造湖は「鳳来湖(ほうらいこ)」と命名されたのでした。
宇連ダム(鳳来湖)は、雨が少ない時にはダムの水がしばしば干上がってしまうことがあり、生活用水の確保のために北の佐久間ダム(さくまダム)からわざわざ水を引っ張ってきて、水不足をしのいだこともあったのでした。
なお1985年と2019年の2度にわたり、貯水率がゼロとなってしまったのでした。つまり、水が無くなり完全にすっからかんとなったのです。こうなると、普段見られない湖の底部分が露出し、見られるようになってしまいます。
2019年の貯水率ゼロ(すっからかん)となってしまった当日は休日だったということもあり、たくさん人がやってきました。つまり「干上がった湖の底」や「ダム湖の底に沈んでしまっていた約60年前の橋」を見ようとして見物人が殺到してしまったのです。ダムを作るとなると、それによって沈んでしまう村や集落などの昔の建造物が出てくるため(もちろん住人は事前告知されて退去)、そんな「幻の橋」を見ようとして興味本位でみんなやってきた、というわけですね。
これにより渋滞や(本来は立入禁止の)ダム湖の底部分に行こうとする人が現れるなど、トラブルが多発してしまいました。
鳳来湖は、その後の降雨によってダムの水の貯水率は少しずつ回復していったのでした。
三河川合駅、かつての三信鉄道の起点
湯谷温泉駅からさらに北上すると、だんだんと「奥三河」の領域に入ってやきます。やがて三河川合駅(みかわかわいえき、愛知県新城市)に着きます。
三河川合駅(みかわかわいえき)は、かつての鳳来寺鉄道(ほうらいじてつどう)の終点となります。それと同時に、長野県の天竜峡駅(てんりゅうきょうえき、長野県飯田市)にまで至る、三信鉄道(さんしんてつどう)の始点でもあった駅になります。
三信鉄道株式会社(さんしんてつどうかぶしきがいしゃ)は、現在の飯田線の前身となる路線を運営していた鉄道会社です。三河川合駅から天竜峡駅までの区間を運営していましたが、戦時中の1943年に日本国有鉄道の前身である鉄道省によって買収され、「飯田線」となったのでした。
三信鉄道の由来は「三河国(みかわのくに:愛知県東部)」と「信濃国(しなののくに:長野県)」を結ぶ路線であることから、それぞれの頭文字を一文字ずつ取ったものになります。
現在の飯田線は「南から」「北から」の両側から建設が進められていったという歴史があります。
愛知県側からは、豊川鉄道(とよかわてつどう)と鳳来寺鉄道(ほうらいじてつどう)の2社によって、豊橋駅~三河川合駅までが1920年代までに開通していました。
長野県側からは、伊那電気鉄道(いなでんきてつどう)によって辰野駅(たつのえき)~天竜峡駅(てんりゅうきょうえき)まで、それぞれ開通していたのでした。
残りの三河川合駅~天竜峡駅に至る路線を建設し、豊橋駅から辰野駅までを一本化する目的で設立されたのが、三信鉄道株式会社ということになります。
三信鉄道の敷設工事は、1929年に着工しています。とても急峻(きゅうしゅん)な地形に線路を作っていくため、とにかく難工事の連続だったのでした。
さらには1929年に発生した世界恐慌の影響で資金難に陥ってしまい、工事はたびたび延長されてしまいました。しかし1932年にまず最初の区間が開通したことを皮切りに、線路を次々に延長してゆき、1937年にはついに最後の区間が開通して、三河川合から天竜峡までの区間を全通させたのでした。
しかし長引いた難工事により巨額の建設費がかかってしまっため、実際の運賃が高くなってしまったために需要がなかなか伸びず(お客様があまり乗ってくれなかった)、さらには戦時中の不況も重なったこともあり、経営はなかなか好転することはありませんでした。
こうした高い運賃に耐えかねて、人々の間で「国に買い取ってもらおう」という動きが激しくなり、ついに1943年に国によって買い取られて国有化され、「飯田線」となったのでした。
ここから一旦静岡県 駅間距離わずか600m 出馬駅・上市場駅
東栄駅(とうえいえき、愛知県北設楽郡東栄町)を最後に愛知県の区間は終わり、ここで一旦静岡県(浜松市)に入ります。
というのも、静岡県浜松市はとても広いのです。中でもここから進んでいく天竜区(てんりゅうく)は、とてもその面積が広いため、かなり北の山奥の地域にまでその領域が及んでいるのです。


出馬駅(いずんまえき、静岡県浜松市天竜区)と上市場駅(かみいちばえき、静岡県浜松市天竜区)は、駅間のわずか600mと言う飯田線で最も短い駅間距離となっています。
ただし「近い」とはいっても、線路がカーブしていて視界がさえぎられているため、出馬駅から上市場駅を目視することは出来なくなっています。

次回は、中部天竜駅へ



下川合駅(しもかわいえき、静岡県浜松市天竜区)を出ると、次回は中部天竜駅(ちゅうぶてんりゅうえき、静岡県浜松市天竜区)へと至る行程となります。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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