飯田線の旅を、わかりやすく解説してゆきます!
佐久間ダムの壮絶な歴史を、初心者の方にもやさしく解説してゆきます!
前回(前編)のまとめ
飯田線・中部天竜駅(天竜区)に到着
前回で、飯田線・中部天竜駅(静岡県浜松市天竜区)に到着しました。

中部天竜駅(静岡県浜松市天竜区)
中部天竜駅について詳しくは、前回の記事をご覧ください。
佐久間ダムの概要・基礎

中部天竜・天竜川の景色(静岡県浜松市天竜区)
また、前回で
- 佐久間ダムの基本的なこと
- 佐久間ダムの役割
- そもそも、水力発電って何?
というお話をしました。
佐久間ダムについての基本的なことについては、前回の記事をご覧ください。
今回は、「佐久間ダムの歴史」について
そして今回は、壮絶な佐久間ダムの歴史について、わかりやすく解説してゆきます!
佐久間ダムの歴史
なぜダム建設に佐久間の地域が選ばれたのか?

佐久間ダムに多大な水をもたらす、天竜川(長野県飯田市・天龍峡)
天竜川は、佐久間ダムが出来るずっと以前から
- 「夏にたくさんの雨が降る地域であること」
- 「冬にたくさん雪が降ること」
によって、年間を通じて水の量が豊富になることが知られていました。
とても流れが速い、日本の川
また、日本の川は海外の川と比較して、流れがとても速いです。
それは日本列島は狭い上に山脈がとても多いため、高い標高差を短い距離で流れます。
そのために、日本の川は傾斜が急になり、険しい谷間をぬいながら進むため、とても流れの速い急流のものが多くなっています。
早い段階で、水力発電の構想が持たれていた天竜川

天竜川(長野県)
天竜川はこうした条件が、他の地域や川と比較しても、バツグンに揃っています。
そのため、水力発電を行う上ではとても理想的な河川であることから、早くも大正時代から水力発電の構想が持たれていたのでした。
なぜ佐久間ダムが必要になったのか 戦後の電力不足
最初は1927年に、各地でダムが立て続けに作られてゆき、天竜川の水力発電の事業は次々に加速して行くのでした。
しかし当時は、様々な技術的な制約により、当時の技術ではまだ佐久間ダムの建設は難しかったのです。
戦後の復興とともに、電気需要は増加
戦後になって復興が進んでいくと、民間への電力の需要は一気に増大してゆきました。
日本が復興してくると、人口が増えてゆき、また工場や民家もどんどん増えてゆきます。
こうなってくると、たくさんの電気が必要になってくるわけです。
電気が足りないと「停電」を起こすリスクが出てきます。
しかし、
- 発電所などの施設が、戦争中の空襲によって破壊されていたこと
- 電気が足りないことで、発電所を酷使したことによって、設備の故障が相次いだこと
などの事情から、とても電力の供給が追い付いていませんでした。
戦後、電気の供給が追いつかず、停電が頻発した
こうして電力需給のバランスが崩壊してしまい、日本は極端な電力不足に陥ってしまい、停電が頻繁に起こってしまったのでした。
工場などもまともに稼働せず、産業の戦後復興にかなりの影響が出ていました。
電気がまともにつかないと、夜も怖くてなかなか出歩けないという状況にもなるでしょう。
暗いと、犯罪も起こりやすそうです。
水力発電だけでなく、農業用水のためにも、ダムが必要になった
そこで、こうした電力不足だけでなく、当時の課題だった
- 「水害が頻発してしまうこと」
- 「農業用水の不足にともなう、食糧不足」
などといった問題にも同時にも対応していくために、国はダムを建設することによって、
- 治水(洪水をコントロールすること)
- 電力供給
- 食糧供給の改善
を図っていこうとしたのでした。
佐久間ダムを建設するという、国の計画
ここで、国の計画における、佐久間ダム建設の目的としては、
- 天竜川の上流から治水(洪水などのコントロール)をすること。
- 川の速さ・落差を利用して、ダムを用いた水力発電をすること。
これにより、電力不足を解消すること。 - 北の長野県・伊那盆地への灌漑(農業のために水を引いてくること)を行うこと。
- ダムを豊富な水源として、静岡県西部と愛知県東部地域の灌漑を行うこと。
を、それぞれ目的として掲げたのでした。
佐久間地域は、ダムを建設するのにベストな地形だった
このため、天竜川の中流部に大規模なダムを建設するという必要に迫られたのです。
そこでベストな立地として真っ先に候補として挙げられたのが、佐久間地域だったというわけです。
険しいV字型の地形で、ダムの水を貯めるのに適していた
この地点は、両方の岸が険しい断崖になっていてV字型の谷を形成しています。
また、
- 地質も良好であったこと(崩れにくい、丈夫であるなど)
- 天竜川の水が、勢いよく豊富に貯まってくるような場所だったこと
などの理由から、ダムを建設するにはもってこいという理想的な場所だったのでした。
それまでは、ダム建設が様々な理由により不可能だった
佐久間ダムの構想は、戦前から「あったらいいな~」程度の認識で存在していたのでした。
しかし、当時の技術では以下の様々な理由により不可能だったのでした。
当時は外への通路がなく、ダムの外へ物を運べなかった
まず、ダムの両側はまるで断崖絶壁のようになっており、外への通路がろくに存在しませんでした。
そのため、川の上を舟で進む以外に輸送手段がありませんでした。
通路がまともに無い状態だと、工事で掘り出した砂利をまともに運ぶことは難しかったのです。
まさか小さな舟に、何十メートルにも積み上がったような大量の砂利を載せて運ぶわけにはいきませんからね。
中部天竜駅ができたことにより、ダムの荷物を運びやすくなった
もしこれを無理やりやると
- 人が乗れない
- 舟が沈んでしまう
- 砂利が舟からこぼれて、川に流れてしまう
などのリスクもあります。
しかしこの問題は、戦後に中部天竜駅への通路を造ったことで解消しています。
戦前のダムの資材運びは、うまくいかなかった
また、戦前の技術でダムの資材運びがうまくいかなかった理由として、
- トロッコ
- 「もっこ(運ぶための入れ物)」
を使用していた当時の土木技術では、ダムに思うように荷物を運ぶことが困難だったのでした。
そのため、ダムの施工がとても難しくて、なかなかに難易度が高かったことも挙げられます。
しかし、これは後述するように、戦後にアメリカの最新鋭の巨大重機(油圧ショベル)を導入することで解決しています。
天竜川の水の量は、とても多い

佐久間ダムに膨大な水をもたらす、天竜川(長野県)
天竜川を流れる水の量は、特に春から夏にかけてがピークとなります。
梅雨をはさむと、より多くの水が川を強烈に流れるようになります。
このため、ダム本体を建設する前段階・前準備として、こうした多雨期の膨大な川の流れ・大量の水を迂回させるために、仮の排水路トンネルを建設する必要がありました。
つまり、ダムが決壊してしまわないように、「水を逃がしてやる経路」を事前に作っておく必要があったのです。
しかし、この「排水用トンネル」を秋~冬という雨の少ない期間に完成させることは、当時の土木技術ではまだ難しく、排水用トンネルが無いとそもそもダム建設自体が危険すぎたというわけです。
もし洪水が襲来すれば大変なことになりますからね。
戦前は結局、佐久間ダムの構想は夢に終わった
以上の様々な理由や制約により、戦前~戦後直後までは佐久間のダムの建設は不可能だったのでした。
そのため、いずれの事業者も「ダム建設」をしたいとは思いつつも、結局は構想のままで終わっていたのでした。
アメリカの重機(ショベル)を導入し、一気に掘り進む
しかし戦後になり、電力不足や人口増加などの事情から、世間では停電が頻発するようになってしまいました。
こうした電力不足の問題を解消するためにも、そして水力発電を行うためにも、佐久間ダムの建設計画を避けて通ることは出来ませんでした。
国は佐久間ダムの建設を重点的にやっていくことが避けられなくなり、ついにアメリカの「重機」を導入したダム建設を行うことが決定したのでした。
「重機」とは?
ここで「重機」とは、いわゆるパワーショベルなどの機械です。
その役割として、例えば
- 地面を一気に掘ったり、
- 出てきた土砂を、大量にトラックに積み込んだり
することができ、工事の効率が一気に上がります。
これがあると、それまでのように
- わざわざ手で掘って、
- 手で積んでいた
・・・というような、気が遠くなるほどの膨大な作業から解放されることができます。
当初は、まだまだ重機を使いこなせなかった
しかし1950年頃は、日本における重機の導入・運用の状況は、まだ充分とはいえない状況だったのでした。
日本ではまだ重機を操作するための技術が未熟だったため、なかなかうまく使いこなせずに、故障まで起きていました。
そのため、せっかく導入した重機の稼働率は、半分ぐらいしかありませんでした。
つまり、当時の日本の技術ではなかなか巨大なパワーショベルを使いこなせなかったというわけです。
アメリカの重機を導入して、ダム建設に取り入れた
このため、当時土木技術の最先端を進んでいたアメリカの重機を導入して、また技術を学んでいこうとしたのでした。
1952年には当時のアメリカに学ぼうと、日本人はアメリカのダム建設を視察しに向かったのでした。
そしてその現場では、巨大なパワーショベルが大迫力に動いていた光景を、日本人は目の当たりにして衝撃を受けたということです。
こうして、アメリカの重機から大きなヒントを受けて、日本のダム建設にも応用していったのです。
ダムに水没することになる村に配慮して、工事進行
こうして、
- アメリカから最新鋭のパワーショベルを導入して、いざダムを工事!
というところですが、ダムを作るには川の近くに住んでいた村人への配慮が必要です。
つまり、ダムを造るとそれまで存在していた村が集落は、ダムの貯まった水の下に水没してしまうからですね。
ダム建設工事は、水没することになる村の住民たちに配慮して、じゅうぶんな補償(住民の理解や、引っ越し費用の負担など)についての確認がとれてから始められたのでした。
まずは、資材などの運ぶための道路を建設
まずは、パワーショベルなどの大型重機や、建設に必要な資材(材料)などを運搬するための道路が必要となります。
そのため、工事用の道路を建設するというところから着手したのでした。
ダム現場のすぐ近く、約3kmのところに中部天竜駅があるため、遠い所から運んで来るのは鉄道による輸送によって、対応することができたのでした。
やがて、運搬用の道路が完成したことで、重機やコンクリートなどの資材の運搬は、それまでとは比べ物にならないほど極めてスムーズに行われるようになったのでした。
これにより、工事期間の短縮に成功したのでした。
こうして、佐久間ダムは1956年に完成することとなりました。
日本の土木工事の歴史を変えた、佐久間ダム建設
佐久間ダムの建設は、日本の土木の歴史において「金字塔」としてたたえられています。
その理由は、
- 先述の、パワーショベル導入などにより、
- 近代的でより進んだ工法を確立したことで、
- 後に次々に造られていくことになる、日本各地のダム建設において応用され、
- 後継のダムにとても大きな影響を与えた
ということです。
それまで土木技術において発展途上だった日本でしたが、これをきっかけに日本国外に対しても
- 「日本の土木技術はスゴい」
ということを示す、大きなきっかけになったことなどが挙げられます。
戦後日本の、大きな「光」に
また、佐久間ダムの完成は、敗戦による暗い影響をずっと引きずっていた日本国民にとって光を与え、注目を浴びたのでした。
当時の郵政省は、佐久間ダムの完成を記念して、1956年に「佐久間ダム竣工記念」という切手を発行したのでした。
これは、1950年代~60年代当時に流行した切手ブームの影響もあって、多くの売り上げを挙げたのでした。
多くの人が工事で犠牲になった、佐久間ダムの教訓
しかしこうした栄光の裏には、危険なダム建設中における労働災害が原因で犠牲になってしまった、96名の労務者の存在を忘れてはならないのです。
険しくて危険な峡谷において、まるで前例が無いような慣れない作業を行ったこともあり、
- 高い場所からの転落
- 落石
による被害や犠牲が相次いでしまったのです。
1954年には、セメントミキサー(セメントを混ぜるための車両)が落下してしまい、一度に8人が亡くなるという、痛ましい事故も起きてしまいました。
安全意識の向上へ
こうした死亡災害が発生する最大の原因は「安全意識の欠如」にありました。
佐久間ダムより以前の土木工事の現場ではヘルメットがほとんど着用されていませんでした。
佐久間ダム工事でもヘルメットをかぶっていた人はほぼ誰もおらず、これが死亡事故の増加につながったたとして、国会でも問題になったのでした。
ヘルメット着用が義務化へ
現在では、危険な工事現場で作業するときはヘルメットの着用が法律(労働安全衛生法)で義務付けられています。
こうした「危険な工事現場における安全管理対策」のさきがけとなったのも、佐久間ダムの工事だったのでした。
このときの佐久間ダムの教訓が、現在にも生かされているということです。
「高度経済成長の日本を支える」という大きな使命のもとで、天竜川に命を落としてしまった96名の冥福を祈るため、佐久間ダムには慰霊碑が建立されています。
壮絶なダム建設が、映画化
そして、この佐久間ダム建設工事についての映画が制作され、大ヒットとなったのでした。
また学校においても、教育のためにこの映画が用いられることになったのでした。
こうした映画を観た影響で、「土木技師になることを志すようになった若者」が増えてゆくようになったのでした。
そして、佐久間ダムの建設は、第二次世界大戦での敗戦から立ち直ろうとしていた日本国民に、大きな希望と勇気を与える作品となったのでした。
次回は、相月・向市場・水窪・大嵐・小和田方面へ
以上、佐久間ダムの歴史でした。
もし飯田線のこの地域を旅するときは、こうした壮絶なエピソードの数々を思い出してみるのもよいのではないでしょうか。
次回は、中部天竜駅を出て、
- 相月
- 向市場
- 水窪
- 大嵐
- 小和田
方面へ向かってゆきます。
いよいよ、飯田線ならではの本格的な険しい山岳地域・秘境地域へと向かってゆきます!!
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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