小和田駅を出ると、長野県へ
小和田駅(こわだえき、静岡県浜松市天竜区)を出ると、まもなく長野県に入ります。
長野県は南北の長さが212kmもあり、とても広いです。そんな縦に長い長野県における、かなりの南端部分に突入したということになります。
天龍村
長野県に入ると、天龍村(てんりゅうむら)のエリアに入ってゆきます。
そして中井侍駅(なかいさむらいえき)、鶯巣駅(うぐすえき)を過ぎてゆきます。


天龍村(てんりゅうむら)は、長野県下伊那郡(しもいなぐん)に属している村であり、南北にとても広い長野県の南端部にあたります。
平岡駅に到着 天龍村の中心駅
やがて、天龍村の中心駅である平岡駅(ひらおかえき、長野県下伊那郡天龍村)に着きます。

平岡駅は、特急「伊那路(いなじ)」が停車する重要駅です。
平岡ダム
平岡ダム(ひらおかダム)は、長野県下伊那郡天龍村(てんりゅうむら)の、天竜川に建設されたダムになります。
長野県の中では最南端に位置している、水力発電のためのダムになります。
平岡ダムは、1930年代に福澤桃介(ふくざわ ももすけ)という、あの福沢諭吉(ゆきち)の婿養子にあたる人物によって興された天竜川電力株式会社によって着工され、1951年に完成しました。
福澤桃介(ふくざわ ももすけ)は、福沢諭吉の婿養子として、福沢家に入った人物です。元々は岩崎桃介(いわさき ももすけ)という名前でしたが、福沢諭吉に気に入られたため、福沢諭吉の次女である房(ふさ)さんのお婿さんとして、福沢家に入ったということです。あくまで「婿養子」なので、名字は「福澤」ですが諭吉は(当然ですが)実父ではありません。彼は福沢諭吉の慶應義塾に学び、木曽川の水力発電で大成功したため、「電力王」の異名をもっていました。
天竜川電力株式会社は、その福澤桃介が初代社長を務めた、大正時代の終わりから昭和の初頭にかけて存在した電力会社です。
なぜこの時期(1910年代~1930年代)にダム建設と水力発電がとても重要視されていたのかというと、それは日露戦争~第一次世界大戦における電力不足が問題になっていたことが挙げられます。様々な会社によってダムの水力発電を使った発電計画が企画され、発電用水利権の出願が殺到したのでした。
つまり、みんなが「うちにダムを作らせてくれ!」「天竜川の水をうちに自由に使わせてくれ!)」と願い出てきたというわけです。
川の水は誰でも好き勝手に使われてしまうと、不足したり汚染されたりするため、「水利権」を得ないと自由に水を使うことはできないのです。これはまた後述します。
福澤桃介がそんな「天竜川の水利権」を欲しがり、また天竜川電力株式会社を建ててダムを造っていこうとしたのは、こうした日露戦争~第一次世界大戦の時代における世の中の圧倒的な「電力不足」と、また「天竜川がもたらす大量の水」に注目してのことでした。
日露戦争後の国の発展と、電力不足
1904年の日露戦争に勝った後や、1914年~1918年の第一次世界大戦にかけての時期には、日本全体がイケイケモードであり、日本経済が次々に発展してゆき「先進国」の仲間入りをしようとしている頃でした。それに伴い、工業化もどんどん発展してゆきました。
工業が発展していくのに伴って、電気・電力の需要が急増していました。
当時の日本は、日露戦争に勝利して世界からもようやく「先進国」だと認められかけているような時代であり、工業もどんどん発展してゆくようなイケイケドンドンな時代でした。
しかし、こうしてあちこちに工場が次々に出来ていくと「電力不足」という問題が出てきます。
工場はたくさんの電気を必要とするため、電力不足に陥ると「停電」が頻発してしまいます。そのため、電力不足解消のために発電所などを作っていくのは国にとっても急務でした。
つまり日本中のあちこちが電気を欲しがっており、これは逆にいえば「発電所をたくさん作れば儲かる」という時代でもあったわけです。需要と供給(需給バランス)がマッチするというわけですね。
当時はまだ石油は存在せず「石炭」だったわけですが、石炭を使った火力発電はまだまだエネルギーとしては弱く小規模だったため、水力発電の方が注目されていたという時代でした。
こうした電力不足と「電気が欲しい」という需要に対応していくため、ダムを使った水力発電は急務だったのでした。
水力発電は、ダムから水が落ちるときに生まれるエネルギーを使った発電方法です。ダムが高い位置にあるほど、また水の量が多ければ多いほど、大きなエネルギーを生み出します。
天竜川は水の量がとても多くて勢いよく流れるため、水力発電にはすごく適した川だったのでした。
そしてアメリカから技術を取り入れたりして、水力発電を開発し、当時の日本は発電と電力供給の拡大に取り組んでいったのでした。
「水主火従」の時代へ 水力発電がメインに
その結果、大正時代はじめの1910年代前半には、水力発電所の出力が火力発電所の出力を超えるという、
「水主火従(すいしゅかじゅう)」の時代へと突入したのでした。
つまり
水力発電>火力発電
ということで、水力発電が主流の時代になっていったというわけですね。
こうした水力発電が発展してゆき発電力が大容量になったことによって、電気料金が低下してゆきました。たくさんの電気が生み出せるようになった分、電気代を安くすることができたわけです。これにより、国内の電気の利用がさらに拡大してゆきました。
電気がより普及し、工業も発展し、人々の生活はより豊かになっていったということです。
このように、当時の日本の電力産業は水力発電がメインの「水主火従方式(すいしゅかじゅうほうしき)」が確立され、戦前までは火力発電をしのぐほどの電力供給量を誇っていたのでした。
それだけ、ダムの水を使った水力発電は、戦前の主流として活躍していたというわけです。
戦後、エネルギー革命のため「火主水従方式」に
しかし1960年頃から「石炭→石油」に変わるエネルギー革命が急速に進行してゆきました。石油は、従来の石炭と比べて非常によく燃えてくれるエネルギーです。
石油による火力発電の方が圧倒的にコスパが良いことがわかってきたため、大規模な火力発電所の建設が次々に進んでゆくことになりました。このことから、1960年代にはそれまでの水主火従方式に変わる「火主水従方式(かしゅすいじゅうほうしき)」に変わってゆきました。
先述の通り、石油は非常によく燃えるとても効率的なエネルギー源なので、石油を使った「火力発電」のパワーの方が圧倒的に大きく、それまでの水力発電を追い抜いてしまったのでした。
高度経済成長期には人口も増加し、それに伴って民家や工場の数も増えてゆきますから、火力発電じゃないと電気が足りずに間に合ってなかったことでしょう。
「水主火従方式」から「火主水従方式」へ転換したことの理由には、次のような要因があります。
- 水力発電の開発地点(ダムを作れるような場所)が少なくなってきたこと。
- 火力発電の技術の発展が、「石油」の普及とともに伸びてきたこと。エネルギー革命により、世の中のエネルギー源の主流が「石油」になってきたこと。
- 水力発電所は、ダムなどの工事が追いつかずになかなか建設が進まず、しかも建設費もかなり膨れ上がっていたこと。
火力発電は、当時としては新しいエネルギー源だった石油によって、高エネルギーが生み出せるため安定した電力供給ができることがメリットです。水力発電のように巨額を投じてダムを造る必要もないため、初期コストも安くなります。
しかしその一方で、CO2(二酸化炭素)の排出量が増えるなどのデメリットもあります。
水力発電には、次のようなデメリットがあります。
- 初期費用が高い(そもそも、ダムを膨大な費用と人件費をかけて造る必要がある。危険なダム工事で殉職する人も多い)。
- 発電量が「雨の降水量」に左右される。日照りや水不足が続くと、ダムに水が貯まらずに、そもそも(水の力を使った)発電自体が行えない。
- 地理的な「制約」があること。ダムを作れる場所は「人が少なくて大きな川がある山」など、かなり限定されているためです。
水力発電は、まずダムの建設に多額の費用がかかります。そのため、最初はなかなか導入しづらかったりするのです。
富山県の黒部ダムのように、危険なダム工事で何人も亡くなった人がいるのです。また、安全意識の高い(リスク回避志向の高い)現代だと、そんな危険な場所で仕事をやりたがる人もそう多くはいないので、よほど高い給料を払って求人をかけないと、なかなか人も集まらないでしょう。
また、ダムの運営には定期的なメンテナンスが必要なため、修理・維持・管理していくための「ランニングコスト」も計算に入れなければいけません。ダムは作ったらそれで終わりではないため、放置しておくと徐々に傷んだり壊れたりしてゆき、それが積み重なると重大事故に繋がる可能性があります。なのでダムの「ランニングコスト」はとても重要であり、軽視できないのです。
余談ですが、小さな事象が放置されたまま積み重なると重大な事故につながることを、ハインリッヒの法則といいます。ハインリッヒの法則とは、1件の重大事故の背後には29件の軽い事故があり、その軽い事故の裏側には300件の小さな無傷害事故(ヒヤリ・ハット)があるという法則です。覚えておくとよいでしょう。
さらに、ダムの建設は周辺の森林を伐採したり、それによって鳥や動物たちのすみかを奪ってしまうため、自然生態系に影響を及ぼしたりと、環境への影響も懸念されます。
何でも一長一短があるわけですね。
ダムを造るために必要な「水利権」
ダムは自然の川の水を扱うため、「水利権」の取得が必要になります。
水利権(すいりけん)とは、特定の目的のために、川や湖などの自然の水を継続的(=続けて)かつ排他的(=誰にも邪魔されずに)に利用できるという権利のことです。
たとえ自然の川であっても、水を使って何か(工業や農業など)をするためには「水利権」の取得が必要になるのです。
なぜこのような権利(水利権)が必要になのかというと、もし悪意ある誰かが好き勝手に川の水を大量に使うと、本来必要な農業や工業・生活用水などの水が奪われたり、また汚染されたりするリスクがあるからです。
川の「水」はみんなのものです。人間だけでなく、動物や鳥・虫・魚・植物たちのものでもあるのです。
なので、悪意のある個人が勝手に水を大量に取ったりしてはいけないわけですね。
ダムを造る際にも天竜川(今回の場合)の水を使うことになるため、水利権が必要になるというわけです。もし水利権なしに水を勝手に侵すと「水利妨害罪」(刑法123条違反)に問われます。
なかなかこのあたりの「権利」についてはややこしいですが、知っておくには越したことないでしょう。
話がだいぶズレましたが、第一次世界大戦当時にダムを造るときには多くの電気事業者が天竜川の水利権が欲しくて争ったのでした。
第一次世界大戦の当時で日本はイケイケであり、好景気・工場がどんどん作られる・電力不足の世の中という好条件が揃えば、「水力発電を行うダムを作れば儲かる」ということは誰の目にも明らかだったからですね。
秘境駅・田本駅 いくつかの秘境駅を過ぎ行く
平岡駅を出ると、いよいよ天竜川のきれいな景色にしたがって、天竜峡駅(てんりゅうきょうえき、長野県飯田市)にまで向かってゆきます。この地域は本当に景色がよく、「秘境駅」の存在もあります。伊那谷(いなだに)はもうすぐです。

為栗駅(してぐりえき、長野県下伊那郡天龍村)は、いわゆる「難読駅名」として知られます。

やがて温田駅(ぬくたえき、長野県下伊那郡泰阜村)を過ぎて、秘境駅・田本駅(たもとえき)に着きます。

田本駅(たもとえき、長野県下伊那郡泰阜村)は有名な「秘境駅」であり、天竜川の位置から田本駅の前までは断崖絶壁になっています。そのため、自動車やバイク等での田本駅への乗入れは不可能となっています。
泰阜村は「やすおかむら」と読みます。
天竜川の「信濃恋し」

この地域の天竜川はあまりに曲がりくねっており、川の急カーブにさしかかったところで水が押し返されてしまいます。このため、昔イカダに乗って川を下っていた人は、押し返された水によって信濃(長野)方面と押し返されてしまう、ということが起きたのです。

この「イカダが信濃(長野)方面へ押し返される」という様子が、まるで「ああ信濃が恋しいよ~」といって折り返すようにも思えることから、「信濃恋し」と呼ばれます。

この辺りの天竜川の景色は、いよいよ素晴らしくなります。
飯田線に来てよかったと心から思えます!
ついに伊那地方の平野(伊那平)へ 天竜峡駅に到着
金野駅(きんのえき、長野県飯田市)、千代駅(ちよえき、長野県飯田市)を過ぎると景色が開けてきて、いよいよ伊那(いな)地方の平野に出てきます。

やがて天竜峡駅(てんりゅうきょうえき、長野県飯田市)に着きます。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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