【滋賀県】草津宿の観光・歴史を、わかりやすく解説!【滋賀県の観光・後編】

草津宿(滋賀県)の観光・地理・歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
初心者の方にも楽しめるよう、やさしく解説してゆきます!

筆者現地探訪日:2024年4月

東海道と中山道と合流点・草津宿

琵琶湖の観光を終えたら、今度は

  • 草津駅くさつえき(滋賀県草津市)

にまで移動してきます。

草津宿への最寄駅・草津駅(滋賀県草津市)

草津宿への最寄駅・草津駅(滋賀県草津市)

草津宿くさつしゅくは、かつて江戸時代の新幹線が無い時代に、旅人たちが徒歩または馬で行き交っていた、

  • 東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎ

52番目の宿場町として栄えてきた歴史があります。

昔の旅人たちは、何日間もかけて長距離移動をしていたわけなので、途中で泊まるための町が「宿場町」ということになります。
すなわち、その宿場町のひとつが、草津宿ということです。

東海道には全部で53の宿場町があったので「東海道五十三次」と呼ばれたわけです。

はるか東・木曽路からやってくる中山道が、草津宿で合流

また、内陸部・木曽路きそじを通ってくる中山道なかせんどうがここで合流しています。
中山道とは、リニア中央新幹線の江戸時代バージョンだと思ってください(→より詳しい解説は、こちら(当サイト)より)。

草津駅前・「草津宿」の表記(滋賀県草津市)

草津駅前・「草津宿」の表記(滋賀県草津市)

草津宿は、かつて大名などのお偉いさんが泊まっていた宿である本陣ほんじんが現存しているため、これはとても貴重です。
宿場町の本陣は、全国的に見ても、残っている(現存している)ところは少ないのです。

草津宿近くに残る「天井川」の跡

草津宿の近辺を流れる天井川・旧草津川(滋賀県草津市)

草津宿の近辺を流れる天井川・旧草津川(滋賀県草津市)

草津宿の近くには、屋根の位置にまで高くなってしまった

  • 天井川てんじょうがわ

である、旧・草津川くさつがわがあります。

なぜ草津川は、「天井川」となったのか?

では、なぜ旧草津川が、屋根の位置にまで高い天井川になってしまったのかというと、

  1. 川の底に砂(土砂)がたまってゆき、
  2. 川がどんどん高くなっていった

からです。

川は、地面を削りながら進んでゆきます。
そのため、そのとき削られて出来た土砂が、地面の底にたまっていったわけです。

かつてこの旧草津川を、自然の水が流れていた。しかし現在は川のルート変更工事により、新しい草津川を流れている(滋賀県草津市)

かつてこの旧草津川を、自然の水が流れていた。しかし現在は川のルート変更工事により、新しい草津川を流れている(滋賀県草津市)

しかしこのように川が高くなると、水があふれて洪水がおきやすくなってしまいます。
そのために堤防を築いていったわけですが、

  1. そこからさらに砂がたまって川が高くなり、
  2. また堤防を築いて、川が高くなる

・・・ということを繰り返したら、いつの間にか「屋根より高い川」となり、こうして「天井川」が出来たのです。

この天井川の下を、東海道本線(琵琶湖線)が走っています。

天井川・旧草津川の下を通る、東海道本線(滋賀県草津市)

天井川・旧草津川の下を通る、東海道本線(滋賀県草津市)

江戸・伊勢方面への分かれ道(合流点)としての草津宿

東海道・中山道の分かれ道 or 合流点・草津宿(滋賀県草津市)

東海道・中山道の分かれ道 or 合流点・草津宿(滋賀県草津市)

草津は、古くから、東西方面へそれぞれ移動する際の、交通や旅の重要拠点として栄えてきました。
室町時代には、人々が三重県の伊勢神宮へと参拝する旅に出るときに、草津の地は京都方面と伊勢方面への中継地点として発展してしました。
つまり、草津のような「分岐点」となる地は、

  • 江戸(東京)
  • 伊勢(三重)

の2つの方向へ向かう人が同時に集まってくる場所なので、発展しやすいわけですね。

江戸・伊勢のそれぞれへ向かう(または合流する)地点の宿場町

また、昔は徒歩または馬での何日間もかけた移動が基本だったので、

  • 江戸・伊勢方面のどちらかへと向かう
  • 逆に、江戸・伊勢方面のどちらかからやってきた

という旅人たちにとって、途中のお休み(食事や宿泊など)の場として栄えてきたというわけですね。

織田信長によって、草津の地は「直轄領」となる

織田信長は、ときの室町将軍・足利義昭よしあきにお願いして、草津の地を

  • (大阪府堺市)
  • 大津(滋賀県大津市)

と並ぶ直轄領ちょっかつりょう(直接支配する領地)として定められました。
つまり、自身でコストをかけてまで直接支配する領地にしたかったということです。
つまり、それだけ重要な場所だったということです。

そして信長は、草津の回りの道路をどんどん整備したり、より大きく綺麗で通りやすくしてゆきました。

江戸時代の「伝馬制」において、宿場町が置かれる

関ヶ原の戦い」の後は、将軍となった徳川家康によって、

街道にある各地の宿場町から、宿場町へと人と馬を提供してゆく

という、

  • 伝馬制てんませい

がしかれます。

つまり荷物を「リレー形式」で運び続けていくというわけです。
人や馬も、長距離移動すると疲れますからね。

これにより「東海道」の整備が行われてゆき、旅人たちが泊まるための「宿場町」が各地に設置されていったのでした。

馬だって長旅をすると疲れるわけなので、休んだり交代しなければなりません。

「駅伝」や「伝馬町」の由来にもなった、 伝馬制

これは、ランナーがたすきをつないで走る競技「駅伝」も同じで、この「伝馬制」こそがまさしく、「駅伝」の由来となっています。

また、全国各地にある「伝馬町」の由来は、そこがかつて江戸時代に馬を交換していた場所ということに由来しています。

江戸時代、大きく街道がバージョンアップされた時代に整備された草津宿

草津宿本陣跡(滋賀県草津市)

草津宿本陣跡(滋賀県草津市)

この江戸時代に伝馬制・宿場町が置かれた時期に、「草津宿」は誕生しました。

草津宿は、先述の通り、東海道中山道という2つの主要な街道・ルートが交わる場所でした。
これにより、多くの旅人たちや、モノ・荷物など行き交い、栄えることになりました。

2つの大きな道路が交わる場所は、両方からたくさんの人が集まることとなるため、栄えやすい・発展しやすいのです。

そして、草津宿とその周辺地域は、どんどん発展していくことになります。

草津宿に現存する、数少ない「本陣」

草津宿本陣(滋賀県草津市)

草津宿本陣(滋賀県草津市)

数ある宿場のうち、大名や天皇陛下など、お偉いさんが泊まる場所のことを

  • 本陣ほんじん

といいます。
一般のお客様が泊まる場所を「旅籠はたご」といいます。

全国的には、「本陣」はほとんど現存していない

草津宿には、今や数少なくて珍しい「本陣」が現存しています。
日本各地の宿場町の本陣は、ほとんど残っていません。

明治時代に「鉄道」ができると、長距離移動をする旅人たちはみんな「鉄道の利用」となってしまうため、使われなくなった宿場町は衰退してゆきました。

そんな中、草津宿の本陣は珍しいものであり、現存する本陣としては最大級のものです。

草津宿の本陣は、1996年から一般へと公開されています。

土方歳三に浅野長矩・吉良上野介など、歴史上の有名人物も泊まった草津宿

草津宿本陣にある「大福帳だいふくちょう(江戸時代の帳簿)」には、歴史上の有名人が宿泊したことの記録が残されています。
例えば、

  • 浅野長矩あさのながのり
  • 吉良上野介きらこうずけのすけ
  • 土方歳三ひじかたとしぞう

などといった、歴史上重要な人物の名前が多く残っています。

浅野長矩吉良上野介については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 山陽・九州編 第9番 相生駅から、47人の赤穂義士ゆかりの地へ

土方歳三については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 北海道編 南の巻第4番 函館市を観光!

現存する数少ない本陣・二川宿(愛知県豊橋市)

東海における宿場のうち、現存している数少ない本陣は、

  • 愛知県豊橋市の二川宿ふたがわしゅく

があります。

今回はここまで

いかがだったでしょうか。

滋賀県・琵琶湖の周辺にはこれまで何回も来ていましたが、こうして地理や歴史を掘り下げていくと、本当に興味深い点がたくさん出てくるなぁと思いました!

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。
そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。
再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。
何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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