戦国時代の静岡県沼津市・千本松原において、武田氏と後北条氏がそれぞれ戦った「千本松原の戦い」を、わかりやすく解説してゆきます!

千本松原(静岡県沼津市)
今回は、前回に引き続き、静岡県沼津市・片浜の千本松原の観光・歴史編です!
すなわち、千本松原の観光・歴史について、バッチリ追求していきたいと思います!!
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沼津の駿河湾に延々と続く、千本松原
前回で、千本松原についての解説をしてきました。
今回は、戦国時代の静岡県沼津市・千本松原において、武田氏と後北条氏がそれぞれ戦った「千本松原の戦い」の解説となります!
戦国時代、戦いの舞台となった千本松原
戦国時代・武田氏と後北条氏の戦い
千本松原の海岸は、戦国時代の1580年に、甲斐国(山梨県):武田勝頼と、
- 相模国(神奈川県西部)
- 伊豆国(静岡県の伊豆半島のエリア)
を支配していた後北条氏が戦った場所でもあります。
後北条氏とは?
ここで後北条氏とは、戦国時代に相模・伊豆を支配していた、北条早雲から始まる一族です。
確かに「北条」の姓を名乗ってはいますが、鎌倉時代の執権だった北条氏とは全く血縁関係はありません。
それは、シンプルに
- 「“北条氏”のネームバリュー(知名度)が良い」
ということで「北条」の姓を名乗ったことにはじまっています。
北条早雲は、元々は伊勢宗瑞という名前でした。
鎌倉時代の北条氏と区別するために、「後北条氏」と呼ばれるわけです。
甲斐国・武田氏
戦国時代、甲斐国(山梨県)のトップとして支配していた武田氏は、戦国時代において最強クラスだった武将である武田信玄の支配による全盛期が築かれていました。
武田信玄は、晩年には西の京都に向かって進軍してゆく、西上作戦を行っていました。
西上作戦とは、武田信玄による、京都に向かってのぼり攻め進んでいく、という軍事的作戦です。
武田信玄が西上作戦を行った理由
ではなぜ、武田信玄が「西上作戦」を行っていたのか。
それは、例えば「天皇」または「将軍」に「攻撃・支配せよ」という命令を出させることで、自身の全国支配に対する「正統性」を認めてもらうためだった、と言われています。
例えば、もし武田信玄が誰からの許可や命令も無くいきなり各地を攻めて勝ったとしても、いきなりやってきた信玄に対して人々はなかなか従ってくれないかもしれません。
しかし「これは天皇や将軍からの命令で攻撃した」ということにすれば、人々はもしかしたら納得して従ってくれるかもしれません。
なので建前上は「天皇」や「将軍」から「各地を滅ぼして支配せよ」という命令を出させて、これによって自身の行いを正当化するという、ちょっと回りくどい手法が取られたというわけです。
室町時代後半、つまり戦国時代には「天皇」や「将軍」の権力はほとんど失われてしまっており、(力が強い)戦国大名の言いなりとなり、都合のいいように使われてしまうことが多くなっていたのです。
信玄の死により、息子・勝頼に引き継がれた西上作戦
話が少しズレましたが、武田信玄はこの「西上作戦」により、京都に向かっていたのでした。
しかし、武田信玄は1573年に病死したため、武田の軍はやむを得ず撤退することになってしまいました。
その西上作戦は、息子の<武田勝頼が後を継ぐことになりました。
しかし、武田勝頼の時代に、1575年の「長篠の戦い」において、織田・徳川の連合軍に対して大敗してしまったのでした。
このことをきっかけに、武田氏は大きく衰退していくこととなり、また持っている領国を維持していくことが困難となっていったのでした。
長篠の戦いについては、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

負けた武田勝頼による「甲相同盟」
1575年の「長篠の戦い」に負けた武田勝頼は、甲相同盟を強化することに努めてゆきました。
- 甲:甲斐国山梨県。
すなわち、武田氏の支配する領域。 - 相:相模国:神奈川県西部。
すなわち、後北条氏の支配する領域。
つまり、甲斐・相模それぞれの同盟ということで、甲相同盟というわけです。
2回にわたって結ばれた甲相同盟
甲相同盟は、計2回にわたって結ばれています。
以下は、今回に関係ある簡単な年表です。
後で詳しく解説しますので、今は以下ザッと読み流すだけでOKです!
- 1544年 甲相同盟(一回目)締結。
- 1568年 甲相同盟(一回目)破棄。
- 1569年 後北条氏が武田信玄に対抗するため、越後国(新潟県)の上杉氏と越相同盟を結ぶ。
- 1569年 三増峠の戦い。武田信玄と後北条氏の戦い。武田信玄の勝利。
- 1573年 武田信玄が病死。京都へのぼってゆく西上作戦は断念し、あとは息子の勝頼に引き継がれる。
- 1575年 長篠の戦い。武田勝頼が織田信長の鉄砲隊により惨敗、これ以降は武田氏は一気に衰退してゆくことに
- 1578年 上杉謙信が病死。
- 1578年 謙信の後継者の座をめぐって、上杉景勝と上杉景虎が身内同士で戦う「御館の乱」が、新潟県上越市の地において起こる。これに対し、派遣されてきた武田勝頼が2人の調停(和解)に努めるも、後北条氏の味方である上杉景虎が敗北してしまい、自害。これによって武田勝頼は後北条氏の怒りを買い、甲相同盟(二回目)が再び破棄される。
- 1579年 甲相同盟(二回目)の破棄により、後北条氏は武田氏の敵になってしまい、後北条氏は徳川家康と同盟を結んで味方同士に。武田勝頼は両者との間で「挟み撃ち」状態に陥ってしまう。
- 1580年 武田氏は敵となった後北条氏を倒すため、伊豆侵攻へ。駿河湾・内浦湾(沼津市)において戦い。しかし徳川家康の軍に背後から襲われたため、武田勝頼は敗退。(←今回のメイン)
- 1582年 織田信長・徳川家康・後北条氏らから甲斐国(山梨県)を一気に攻められたことにより、武田勝頼は滅亡。
越後・上杉謙信の病死を機に始まった「御館の乱」
1578年、越後国(新潟県)では武田信玄の最強のライバル・上杉謙信が病死してしまいました。
上杉謙信は、武田信玄と並んで当時の最強戦国武将であり、しかも戦では一度も負けたことがないという「無敗の帝王」ともいうべき存在だったわけです。
また、当時の多くの武将はその最期は「戦死」でしたが、彼の場合はあくまで「病死」だったわけです。
すなわち、彼の存命中は、どの武将も彼の命を絶つことができなかった(倒せなかった)というわけです。
戦乱の世の中にあって、寿命を全うした武将なんて、本当にすごいことです。
上杉謙信の死後、後継者の座をめぐる「御館の乱」
そんな上杉謙信の死後、その後継者の座をめぐって1578年、彼の養子である上杉景虎(北条氏康の七男)と、上杉景勝の2人が対立してしまいました。
そして、やがては「御館の乱」というお家騒動にまで発展するのでした。
御館とは、現在の新潟県上越市・直江津駅あたりの地域のことをいいます。
上杉景勝と、上杉景虎
まず、上杉景勝は、上杉謙信の甥にあたる人物であり、また「御館の乱」に勝利したことで、後に江戸時代の米沢藩(山形県米沢市)における、初代藩主となる人物になります。
一方、上杉景虎は、1569年に(上杉氏のライバル・武田信玄に対抗するために)相模国・後北条氏との間に結ばれた越相同盟のときに、上杉謙信の養子となった北条氏康の子(七男)になります。
上杉謙信の元々の名前をもらった、上杉景虎
つまり上杉景虎は「元々は後北条氏からの出身だった」わけですが、彼が上杉家に入ったとき、上杉謙信の元々の名前であった長尾景虎から名前をもらって、上杉景虎と名乗ったのでした。
つまり、景虎側は北条氏の側(味方)だったということになります。
景虎は「御館の乱」において敗北
しかし、景虎は結果的に「御館の乱」において敗北してしまい、自害することとなりました。
そのため、後北条氏は結果的に、身内の上杉景虎を守れなかった武田勝頼に対して憤り、やがて甲相同盟の破棄へとつながるのです。
武田勝頼の越後(御館の乱)への介入、調停の失敗、甲相同盟の破棄
この「御館の乱」を、なんとか鎮めたいと思っていたのは、後北条氏の北条氏政でした。
しかし、その時は自身をとりまく関東地方の状態が不安定だったこともあり余裕が無く、「わざわざ越後国(新潟県)まではなかなか動けない」という状況にあったのでした。
そのため「甲相同盟」を根拠として(この時点では味方同士だった)武田勝頼に対し、身内である上杉景虎を支援するよう、越後国・新潟県への出兵を依頼したのでした。
越後国への出兵を依頼された武田勝頼
こうして越後国(新潟県)への出兵を依頼された武田勝頼は、当初は景勝・景虎の両者に仲介して、なんとか調停(和解)させることを試みたのでした。
しかし後述するように、結果的には上杉景勝側がこの身内争いに勝利してしまつことになりました。
そして、後北条氏側が守りたい(守るべき)上杉景虎は、負けて自害してしまいました。
そこで武田勝頼は、争いに勝った上杉景勝との接触(つまり、仲良くなること)によって外交方針を変更してしまったのでした。
そして、越後国・新潟県との同盟である「甲越同盟」を結んだのでした。
しかしこれは明らかに、後北条氏に対する裏切り行為となります。
武田氏と北条氏の関係決裂
繰り返しにはなりますが、この「御館の乱」は、結果的に1579年、上杉景勝が制することになりました。
一方、負けた側(後北条氏側)の上杉景虎は自害してしまいます。
こうして武田勝頼が(勝利した)上杉景勝の側となったために、後北条氏の北条氏政は武田氏と断交することを決定してしまいました。
これにより、2回目に結ばれた甲相同盟は、再度破綻してしまったのでした。
甲相同盟の破綻 武田勝頼と後北条氏は敵同士に
この甲相同盟の再破綻により、武田勝頼による群馬県の西部において沼田領(群馬県沼田市)への侵攻をしたことなどによって、武田氏はそこを支配していた後北条氏と対峙してしまいました。
これにより、甲斐国・山梨県と相模国(神奈川県西部)の対立は、決定的なものとなってしまいました。
そして、北条氏政は1579年、徳川家康と同盟を結んだことで味方同士となりました。
そして徳川家康は武田氏の敵なので、武田氏はもはや周囲が敵だらけとなってしまいました。
やがて徳川家康という強い味方をつけた後北条氏は、駿河国(静岡県東部)における武田氏の領地に対して、どんどん侵攻してゆくことになるのです。
挟み撃ち状態となった武田勝頼
こうして甲相同盟が破綻し、それまでは味方同士だった後北条氏が敵に回り、徳川家康と同盟を結んだのでした。
このことによって、武田勝頼は両者・両方から「挟み撃ち」される事態となってしまいました。
また、武田勝頼はそれまで持っていた領国・領地を維持していくことが、さらに困難になっていったのでした。
ようやく本題:沼津・伊豆の海で、武田勝頼と後北条氏の戦いが始まる
かなり長くなりましたが、ここまでが、武田氏と後北条氏が、戦国時代の沼津・伊豆で戦うことになった前提知識です。
そしてここに、武田勝頼VS後北条氏の戦いがはじまります。
内浦重須・長浜城に攻め入る
1580年になり、伊豆に拠点を構える後北条氏の軍が出陣していったことに対抗して、武田勝頼の軍も駿河湾の海へと出陣していったのでした。
そして、沼津市街地のやや南西にある内浦重須にあった後北条氏の拠点(港)からは、後北条氏の水軍の船たちが武田軍と戦うべく、それぞれ沼津の海の沖合へと進軍していったのでした。
そもそも「内浦重須」とは?
内浦重須は、沼津市街地の南西にある後北条氏の「水軍の拠点(港)」が置かれていた場所となります。
また、アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」に登場する「浦の星女学院」のある「長井崎」の近くにある地域になります。
内浦重須と長浜城跡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

ここに北条水軍の軍隊と、武田水軍の軍隊による「海戦(=海の上でのドンパチ)」に突入したのでした。
「水軍」とは?
ちなみに水軍とは、主君(リーダー)の命令に従って正式に攻撃をする、海で敵と戦うための武士のチームです。
「武装した軍」という点ではいわゆる「海賊」と似ていますが、海賊は略奪行為を行ったり、海上を通りたい船から通行料を徴収したりして生計を立てているという、そもそも目的や収入源が違う人達となります。
そのため、「水軍」と「海賊」は厳密には異なります。
千本松原において戦闘
陸上にいた武田軍は、東側(伊豆方面)の海から攻めてくる北条水軍に対して攻めてゆく武田水軍を助けるため、弓・鉄砲を持った兵士たちが、千本松原の砂浜に出て戦っていったのでした。
さらに武田軍の兵は、腰まで海水に浸かりながらひたすら撃ち続け、海から攻めてくる北条水軍の軍船を迎え撃つために攻撃を続けていったのでした。
北条水軍も弓や鉄砲で攻めてくる武田軍に対して戦い、ずっと海で激しい撃ち合いが続いたのだといいます。

千本松原からの駿河湾と、大瀬崎の眺め。 かつてこの海で、武田勝頼の軍と後北条氏の軍が戦った(静岡県沼津市)
この合戦では、武田水軍のメンバーの中でも多数の戦死者を出すなど、武田軍側は被害が大きかったのでした。
結局は、先述の通り後北条氏と同盟を結んでいた徳川家康の軍から背後をつかれてしまい(挟み撃ち)、武田軍は撤退することになってしまいます。
戦いのとき、伐採されてしまった千本松原
武田勝頼は、この戦いのときに「千本松原の松を全て伐採した」と伝わっています。
理由についてはよくわかりませんが、おそらく
- これから(陸から)海に攻めてゆこうとする武田軍の兵にとって、松原の存在が邪魔だったため
- 海から攻めてくる後北条氏の水軍が、陸に上がって攻めてきたときに、後北条氏の軍から松原を、「バリヤー」として利用される事を防ぐため
などの理由が考えられます。
もし武田水軍が、海での戦いに敗れて、後北条氏の軍が上陸して攻めてくることになったとき、松原があれば、上陸してくる後北条氏の軍を攻撃しにくくなります。
しかし、松原が無ければ、砂浜から上陸してくる前に、後北条氏の軍を滅多撃ちに出来る、と考えたのかもしれません。
伐採により、「風害」「塩害」に遭った農作物
理由はどうであれ、この戦いで松原が(武田勝頼により)みんな伐採されてしまったことにより、周辺地域の農民たちが一生懸命に育てていた作物は「風害」や「塩害」などによって、壊滅的な被害を受けるようになったといいます。
強い潮風・海風を防ぐ松原が無くなってしまったために、風をもろに受けるようになってしまったためです。
海風が容赦なく吹き付けるこの地域
先述の通り、この地域は海から吹く風がとても強いです。
そして松原が無くなると、塩を含む風がもろに吹き付けてくるのです。
塩を受けた田畑では、食物がまともに育ちません。
前回も解説した通り、塩の主成分である塩化ナトリウム(NaCl)を多く含んだ土(地面)では、浸透圧によって農作物に必要な水分を奪われてしまうからです。
伐採された千本松原に、再び松の木を植えていった増誉上人
こうした惨状に心を痛めた増誉上人というお坊さんが、人々を惨状から救うために、再び松の木々をその手で植え続けていったのでした。
しかし当初は、せっかく手で植えた松も、すぐに厳しい潮風を浴びてしまい、枯れ果ててしまうというような惨状でした。
それでも彼はめげずに、約5年の歳月をかけて「千本の松」を植えてゆき、これこそが「千本松原」の由来となったのでした。
こうして救われた里人(住民)の皆さんが、増誉上人の業績をたたえて開いたお寺が、現在の沼津市の千本松原に近い地域に存在する乗運寺になります。
ちなみに先述の若山牧水も、乗運寺の中にお墓が存在します。
千本松原の戦い後の武田勝頼と後北条氏
なお武田勝頼は、その後にどんどん仲間に裏切られてゆき、衰退してくことになりました。
そして、二年後の1582年に山梨県の東部にある天目山において、織田信長の軍に追い詰められて自害し、滅亡しています。
また、武田勝頼と対峙した後北条氏も、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めによって滅亡しています。
おわりに・まとめ
いかがだったでしょうか。
今回の重要ポイントを、以下にまとめておきます。
- 千本松原は、周辺地域の塩害から農作物などを守るために植えられた
- かつて千本松原では、武田勝頼と後北条氏による戦いが繰り広げられた
- 武田氏と後北条氏は、元々は味方同士だった
- 彼らの同盟関係を壊したきっかけは、越後国・新潟県における、上杉氏のお家騒動(身内争い)だった
- この身内争いにおいて、武田勝頼は後北条氏の身内を助けることができず、同盟破棄となり、後北条氏と対立関係となるきっかけとなった
- 千本松原での戦いで、武田勝頼によりたくさんの松林が伐採されてしまい、住民への影響が大きくなった
- 増誉上人が、1000本にもおよぶ松の木を再び植えてゆき、千本松原となった
- 若山牧水が、この千本松原をこよなく愛した
以上、今回はここまて
それでは、今回はここまでです。
また、東海道新幹線は沼津市のやや北を通っていますが、そのことと千本松原との関係については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

お疲れ様でした!
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