
今回の話題は、徳島県徳島市です。本サイトでは、初の四国編になります!
徳島市に観光に行ったときに知っておくと便利な基本的知識について、わかりやすく解説します!
和歌山港から、フェリーで徳島港へ
私の場合は、和歌山港からスタートしました。和歌山市駅からは和歌山港へと線路で繋がっているので、和歌山港へは南海電車がとても便利です。

徳島港行きのフェリーは、海の流れが早い紀伊水道(きいすいどう)の上を進んでゆくことになります。そのため、私が乗ったときはかなり船が揺れました。
たまたま私が乗ったときだけだったのかもしれませんが、その時はかなりの悪天候だったこともあり、海がかなり荒れて船がすごく揺れてしまいました。
しかもフェリー内で立って歩くのもかなり厳しいほどの上下の揺れ方でした。
(ちなみに、港に近い位置では最も陸地から遠い部分となる紀伊水道の「ど真ん中」あたりが、一番荒れ(揺れ)ました。)
結果、私(筆者)は見事に船酔いしてしまい、ずっと横になって倒れてしました・・・。
ちなみに港には、「酔い止め用の薬」も売られていました。
フェリーで徳島に近づくにつれ、前方には淡路島(あわじしま)の姿も登場します。

徳島港に着いたら、バスで徳島市の中心地である徳島駅方面へと向かいます。
徳島県の県庁所在地・徳島市

徳島県徳島市(とくしまし)は、徳島県の県庁所在地であり、人口は約25万人の都市となっています。
江戸時代には、蜂須賀氏(はちすかし)と松平氏が治める、徳島藩の城下町として栄えてきました。
幕末には、後述する藍(あい)産業が発展してきたことにより、国内でなんと人口が上位10位に入る城下町となったのでした。
徳島県の県庁所在地である徳島市は、徳島県の政治・経済・文化における中心都市となっています。
また、徳島県の約3割の人々が、徳島市で暮らしています。
徳島市は、後述する暴れ川である「四国三郎(しかくさぶろう)」こと吉野川(よしのがわ)の河口に街が栄えています。
この「吉野川」が作り出す広大な平野の中に様々な建物などが並んでゆき、歴史的に栄えてきたという街になります。
徳島県と和歌山県の間にある「紀伊水道」
徳島市は、紀伊水道(きいすいどう)に面している街になります。
紀伊水道(きいすいどう)とは、先述の通り和歌山県(本州)との間にある海のことをいいます。
水道(すいどう)とは、海峡(かいきょう)と似たような意味の言葉です。
どちらも「2つの陸地によって狭(せば)められた海域」という意味の用語であり、両者に明確な違いというものはありません。
海峡・水道・瀬戸・内海などといった用語には、「大きさ」や「幅」「広さ」などによる明確な「基準」や「定義」などがあるわけではありません。
以下、個人的なイメージです。
内海(ないかい)>海峡(かいきょう)>水道(すいどう)>運河(うんが)
の順に大きい(広い)気がしています。
※これは個人的な勝手なイメージです。もちろん(今回のように)例外もたくさんあると思います。過度に信用しないでくださいね!
今回の「鳴門海峡」と「紀伊水道」では、紀伊水道の方が圧倒的に広いです。
この紀伊水道(きいすいどう)は、瀬戸内海(せとないかい)への入り口でもあります。
狭まった海峡のため、そのぶん海(潮)の流れがとても速くなるというわけです。
鳴門海峡(なるとかいきょう)で生まれる、有名な鳴門の渦潮(なるとのうずしお)も、この流れの速さによって生まれます。
鳴門海峡(なるとかいきょう)とは、徳島県と淡路島(あわじしま)の間にある、幅がとても狭くなる海峡のことです。
紀伊水道と瀬戸内海が合流してくる鳴門海峡(なるとかいきょう)のあたりでは、潮の満ち引きによる「海の高さ」の差が生まれてしまいます。
つまり、満潮となっている高いところから、干潮となっている「低い」方向へと海水の流れが生まれることになります。
これにより、激しい「潮の流れ」が発生してしまいます。
鳴門海峡は先述の通り、その幅が狭いために海の流れが速くなります。また先述の通り、「高い方」から「低い方」へと、海の水が一気に流れ込んでゆきます。
このとき生まれる「速い潮の流れ」と、元々あった「遅い潮の流れ」がお互いにぶつかることにより、回転して「渦」が発生します。
これが鳴門の渦潮(なるとのうずしお)です。
鳴門のうずしおは「世界最大級の渦潮」として知られており、これは春と秋に「大潮(=潮の干満差が最も大きくなる時期)」となるときに、最大で直径20~30mもの長さに達します。
ウルトラマン(身長40m)の2/3ほどの長さの渦潮になるわけですから、鳴門の渦潮がいかに大きいかがわかります。
藍の産地・徳島
徳島市の吉野川の中流・下流地域では、昔から藍(あい)という植物の農作がとても盛んに行われてきました。
藍の原料を運んだりするためにも、吉野川の水運(舟で水を運ぶこと)はとても便利だったのでした。昔は「トラック輸送」などはありませんでしたから、舟で荷物を運ぶのが主流だったのです。
特に幕末~明治にかけて、「生糸」や「織物」などの産業が国内で栄えていくようになってからは、藍産業はそれに釣られる(連動する)ような感じで栄えてきました。
藍(あい)は、染料(布などを塗るための原料)や、ケガなどを治す薬草として、かつて古くから利用されてきました。
なぜ染料(せんりょう)がたくさん必要になった(売れるようになった)のかというと、幕末から明治にかけて、たくさんの「生糸」や「織物」が作られるようになったからです。
これらは「和服」「着物」にも用いられるため、さすがに模様が無かったら味気ないですよね。さすがに模様の無い「無地」のままだと、「上品感」「高級感」を出すのにも限界が出てくるでしょう。
つまり「絹織物」がどんどん作られて売れるということは、それらに模様をつけるための「染料」となる「藍」も、作れば作るほど売れるようになっていく、というわけです。
明治時代は「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」といって、欧米列強に「追い付け追い越せ」というような勢いで、当時の日本のメイン商品(主力産業)であった生糸や織物の生産・輸出に、とにかく力を入れていたのでした。
群馬県でも「富岡製糸場」が作られたりと、当時の日本にとって「生糸の生産」はまさに国としての一大プロジェクトだったのでした。
そんな時代の流れもあって、生糸や織物が盛んになるということは、それらに模様をつけるための「藍」も、必然的に需要が伸びていったというわけです。
しかし、こうした「伝統的な染料」は、のちに合成染料という人工的に作られたものに置き換えられていくことにより、徐々に衰退していくことになりました。また安い輸入品にも押されたりして、明治時代に栄えてきた伝統的な藍産業は、必然的に衰退していくことになったのでした。
こうした合成染料に対して、藍などの植物から得られる染料は天然染料とも呼ばれます。
さらに戦争中には、食糧の生産を優先させるために藍の生産は禁止されていました。
しかし徳島ではあくまで「地元民ファースト」のため、国の厳しい監視の目をくぐり抜けて、密かに藍の生産を裏で続けていたそうです。
その努力のかいもあって、戦後には藍の生産をスムーズに再開できたようです。
徳島の藍は、今や世界からも高く評価されています。
藍は他にも、歴史的に解熱・解毒・消炎などのための薬にも使われてきました。
日本三大暴れ川・四国三郎こと「吉野川」
吉野川は、日本三大暴れ川の一つです。
- 坂東太郎(ばんどうたろう):利根川(とねがわ)。ちなみに坂東とは、「関東」の古い言い方のことのです。また利根川は、日本一の流域面積を持つ川として知られます。
- 筑紫次郎(つくしじろう):筑後川(ちくごがわ)。ちなみに筑紫(つくし)とは、福岡県の古い地名のことです。
- 四国三郎(しこくさぶろう):吉野川(よしのがわ)
昔の川は、ひとたび大雨・台風がくると、本当に氾濫しやすかったのです。
それは、
- 昔の川は今のように、「川がまっすぐ」にはなっておらず、蛇行していた。
- 昔の川は今のように、「堤防」や「ダム」「放水路」などが築かれていなかった。
などのためです。
なので昔の人々は、川の氾濫を回避するために、
- 必死にダムや堤防を作ってきた
- 川の流れを真っ直ぐにする工事を行ってきて、(氾濫の原因となる)カーブを極力減らしてきた
- 放水路(ほうすいろ)という、川の流れを逃がすための人工的な川をつくった
などの様々な施策を講じたりしてきて、人々は氾濫を防ぐための工事・努力をしてきたのでした。
これを治水(ちすい)といいます。
利根川については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
筑後川については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
徳島の由来 「遠くの島」という意味ではない!?
徳島の由来は、吉野川などの川が作る三角州(さんかくす)に由来しています。
昔は、川と川に囲まれて出来た土地のことを「島」といったのです。
広島県の場合も同じように、広島市を流れる太田川(おおたがわ)などの複数の川に囲まれて出来た三角州(デルタ地域)の広い土地のことを「広い島」という意味で、「広島」とよんだのでした。
なので、決して「遠くにある島(とおくしま)」という意味ではありません。
しかし私(筆者)は小学生の頃、
和歌山県(紀伊半島)あたりからみたとき、徳島と淡路島は遠くにある島だよね?
だから「遠くの島」ということで「徳島」だよね?
とガチで思っていました(汗↓↓)
ていうか、小学生の時に読んだ図鑑(図書)か何かの文献に、上記の「遠くの島」説がリアルに書かれていた記憶があるんですが・・・。
けどよく考えてみたら「とおくしま」→「とくしま」だなんて、単なるダジャレでしかないのです。
そして私は、この記事を書くための調べもの・勉強・研究をしようとする直前まで、実はリアルに「遠く島」説を信じていたというのは内緒です!
子どもの頃に植え付けられた先入観というものは恐ろしいですね。
徳島県と、関西地方とのかかわり
徳島市は関西地方と距離が近いため、古くから海を越えて、関西地方との繋がりが深かったのでした。
現在でも明石海峡大橋を含む神戸淡路鳴門自動車道などを通じて、人々の往来が盛んとなっています。
特に1998年に明石海峡大橋(いあかしかいきょうおおはし)が出来てからは、関西地方と徳島との関係・距離感は一気に縮まったのでした。

また、徳島県は関西地方に近いことから、関西のテレビ放送を受信することができます。
そのため、徳島では昔から関西地方のテレビ、ラジオなどを通じて、文化的・経済的な交流が盛んだったのでした。
また、方言も大阪弁にやや影響を受けているとのことです。
関西の天気予報でも、まるで徳島が関西の一部に取り組まれているような感じになっています。
徳島県は確かに「四国地方の一部」ではあるわけですが、経済の観点や「人と人とのつながり」という観点でいくと、実質的には関西地方の一部のような感じになっているわけですね。
そのため徳島市は、同じ四国である愛媛県松山市よりも、むしろ大阪・神戸といった関西の大都市への指向性・依存度が強いといえます。
しかし徳島県の西部(例えば三好市など)では、むしろ愛媛県の東部との繋がりが強くなるようです。
明石海峡大橋による「ストロー効果」
1998年に明石海峡大橋が開通した後は、買い物客などが神戸・大阪といった大都市へと流出してしまう「ストロー現象」が激しくなってしまいました。
これにより、徳島駅前の「アミコビル」にテナントして入っていた、それまで徳島県で唯一の百貨店として残っていた「そごう徳島店」が2020年に閉店してしまったのでした。
「そごう」の閉店により、山形県とともに県内に「百貨店が存在しない県」となったのでした。そして、四国地方でも唯一、百貨店が存在しない県になってしまったのです。
その後2022年、駅前の「アミコビル」に三越徳島(みつこしとくしま)がオープンしましたが、こちらはあくまで香川県・高松三越(本店)のサテライトショップ(「支店」のようなもの)という扱いであり、「本店」でありません。
つまり「本店」が徳島県に置かれているわけではないため、いわゆる「日本百貨店協会」による百貨店連盟には加盟していないということになります。
これにより、徳島県は「三越徳島」があるにもかかわらず、「連盟への加盟店が存在しない」ことにより、引き続き「百貨店が存在しない県」という扱いとなっています。
しかし2024年には島根県・岐阜県からも百貨店が撤退したことにより、これで百貨店が存在しない県は徳島県・山形県・島根県・岐阜県の4県となりました。
現在は少子高齢化であり、そもそもネット通販が主流の時代ですから、今後はもっと未加盟の県(百貨店が存在しない県)が増えることになるかもしれません。
そごう徳島店は、1998年に明石海峡大橋が開通してから以降は、買い物客が関西地方へ流出してしまうことを防ぐため、高級品ばかりでなく日用品のラインナップを多く取り揃えることで、なんとか対応してきたのでした。
「そごう徳島県」の社歌は、古関裕而(こせき ゆうじ)による作曲よる「栄冠は君に輝く」の替え歌だったのでした。
ちなみに古関裕而は、東北・福島県出身の偉大な作曲家で、戦前~戦後にかけて誰もが知っているような多くの名曲を作曲してきました。
徳島市の名物「阿波踊り」
徳島市で毎年8月のお盆に開かれる徳島市の阿波踊り(徳島市阿波おどり)は、
江戸時代から約400年の歴史がある、とても有名な伝統芸能の一つです。
♪同じ阿呆ならおどらにゃそんそん!
というフレーズで有名ですね。
阿波踊りの目的は、色々あります。
例えば、
- きびしい夏の農作業の疲れを癒すため。
- 「疫病封じ」のため。
- 徳島の人々が、日ごろのストレスを発散するため。
- 人々の心を躍らせるための「夏の風物詩」として、みんなに楽しまれること。
阿波踊りの起源は、戦国時代の終わりに豊臣秀吉の命令で徳島を支配することになった蜂須賀家政(はちすか いえまさ)が、無礼講(ぶれいこう)のために踊りの祭りを許したことにはじまるとされています(諸説あり)。
ちなみに無礼講(ぶれいこう)とは、身分・地位による「堅苦しい上下関係」を抜きにして楽しむ飲み会のことです。
しかし「無礼講」とはいっても、ある程度の節度(せつど)・礼節は必要になります。
もちろん「普段通りの礼儀」は忘れてはならず、上司に対して本当に「無礼な態度」をとると嫌われたり、評価に影響したりすることもあります。
阿波踊りは、東京都杉並区・高円寺(こうえんじ)にもあります。
徳島出身の高円寺の人々が、東京の人々に「阿波踊り」を教えたことがきっかけで広まったわけですね。
そして「阿波踊り」は、中央線・高円寺駅(こうえんじえき)の発車メロディーにもなっています。
阿波踊りは、他にも埼玉県越谷市(こしがやし)の南越谷(みなみこしがや)など、様々な地域にもあります。
唯一「電車」が無い県

徳島県は「日本で唯一”電車”が走っていない県」になります。
もちろんそれは「鉄道が存在しない」という意味ではなく、あくまで電気の力で走る「電車」が存在しない県、という意味です。
鉄道はもちろん存在します。
じゃあ電車が存在しないのなら、何が存在するの?
じゃあ電車が存在しなければ何が存在するんだ、という話ですが、電車の代わりに「気動車」で走っています。
つまり、電気ではなく軽油を使うディーゼルエンジンで走る車両ということです。
気動車は全国のローカル線ではお馴染みですが、徳島県では都市部においても電化はされておらず、全て気動車ということになります。
徳島県内の鉄道はすべてディーゼルエンジンで動く「気動車」であるため、天井にぶらさがった「架線(かせん)」から電気が供給されてくる「電車」ではないわけです。
なので徳島県で最大の駅である徳島駅ですら、「架線」などの電気設備が存在していません。
ではなぜ徳島県の鉄道が「電気で走らない(電化されていない)」のかというと、理由として圧倒的な車社会であることが挙げられます。
徳島県では、一日に走る列車の本数が少ないため、費用削減のため、電化をするには至っていないと言われています。
徳島城と、蜂須賀家政
徳島城の歴史は古く、それは戦国時代終わりの1585年にさかのぼります。
戦国時代の終わりの1585年に、豊臣秀吉の命令によって阿波国(あわのくに:徳島県)の支配を任された蜂須賀家政(はちすか いえまさ)が、徳島城を建てたのでした。
蜂須賀家政(はちすか いえまさ)は、豊臣秀吉の部下としてずっと戦いに貢献してきました。
かつて織田信長が「本能寺の変」のせいで成し得なかった四国平定を、豊臣秀吉が引き継ぎました。
そして1585年、当時の四国のトップとして四国を支配していた長曽我部氏(ちょうそかべし)を倒したことにより、四国は豊臣秀吉の天下となりました。
その四国での戦い(四国平定)において蜂須賀家政は大きな活躍をみせたため、秀吉から功績を認められて、めでたく徳島の支配を認められたのでした。
まとめ:今回のポイント
いかがだったでしょうか。以下に今回の要点をまとめておきます!
- 和歌山県と徳島県との間の海を、紀伊水道(きいすいどう)という
- 紀伊水道は、とても流れの速い海である
- 鳴門海峡には、世界一の長さを誇る「渦潮(うずしお)」がある。
- 吉野川は「四国三郎」ともいわれ、かつて日本三大暴れ川の一つにも数えられてきた。
- 徳島の「藍(あい)産業」は、昔の徳島の人々の生業(なりわい)としてとても重要だった
- 藍は、布などに模様をつける「染料」として重要だった
- 徳島市の阿波踊りは、夏の働く人々・夏の仕事に疲れた人々に対して、「楽しみ」を与えるための祭りである
- 徳島市では、関西のテレビ番組が映る。そのため、関西との文化的なつながりも強い。
- 明石海峡大橋の開通により、「ストロー効果」で徳島市の買い物客などが関西地方に流れやすくなってしまった
- 徳島城を建てた蜂須賀家政(はちすか)は、戦国時代の1585年に豊臣秀吉の四国平定のとき、大きな貢献をした
- 四国平定のときの功績を秀吉に評価されたため、蜂須賀家政は徳島の支配を任された
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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