蒲郡(愛知県)の観光と歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
また、蒲郡の偉人・藤原俊成についても解説してゆきます!

蒲郡の海(愛知県蒲郡市)
今回の舞台は、愛知県蒲郡市です!
そもそも、「蒲郡市」ってどこ?
愛知県蒲郡市は、愛知県のやや東の、海沿いにある地域です。
豊橋市の、やや左(西)にあり、豊橋駅から快速列車で来られます。
愛知県東部・三河地方に存在
蒲郡市は、愛知県東部の三河地方辺りに属してます。
- 愛知県北西部:尾張国
- 愛知県東部:三河国
「蒲郡(がまごおり)」の由来
ちなみに蒲郡という地名の由来は、かつてこの地域に、多く生えていた「蒲(がま)」という植物にあるとされています。
ガマ(蒲)は、水辺・水に比較的近い場所に生える草たちのことをいいます。
まずは、蒲郡駅からスタート!
まずは、愛知県蒲郡市・東海道線・蒲郡駅からのスタートです!

蒲郡駅(愛知県蒲郡市)

蒲郡駅前の、鉄道唱歌の歌碑(愛知県蒲郡市)
蒲郡駅前には、明治時代の1900年に、大和田建樹という方によって作詞された、鉄道唱歌の歌詞が記された看板があります。
これぞ豊川稲荷道
東海道にてすぐれたる
海のながめは蒲郡
蒲郡駅および鉄道唱歌については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

海の景色がとても綺麗な蒲郡

竹島(愛知県蒲郡市)
蒲郡は、東海道の中でも特に海の美しい場所として知られています。
それは、先述の鉄道唱歌にも歌われている通りです。
ちなみに東海道とは、その昔・江戸時代に、江戸から京都まで約20日ほどかけて歩いて(または馬で)移動していた道のことです。
東海道について詳しくは、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
かつては東海道の一部に含まれた、蒲郡
蒲郡は先述の通り、旧・東海道に含まれます。
しかし実際には、蒲郡は豊橋から東海道のルートと分岐していた「蒲郡街道」と呼ばれる街道の一部地域として、旧・東海道に繋がっていたのでした。
かつて豊橋から東海道と分離していた、 蒲郡街道
旧・東海道は、現在の国道1号線にほぼ該当します。
しかし、蒲郡方面へと向かう街道は、
- 豊橋で旧・東海道から分岐し、
- 海沿いを経由して蒲郡へと至る
というルートであり、かつて「蒲郡街道」と呼ばれていました。
この蒲郡街道は、現在の国道23号線と、ほぼ同じルートを辿っています。
- 国道1号:かつての東海道に準拠
- 国道23号:かつての蒲郡街道をも通っている
元々は、東海道線は旧東海道・名鉄線のルートを通るはずだった
明治時代できた東海道本線は、蒲郡は、実際には山側の東海道のルート(名鉄線と同じ)とは異なる、海側のルートを通っています。
しかし、当初の計画では、蒲郡を経由せずに、現在の名鉄名古屋本線が走る、旧東海道のルートを通る予定だったそうです。
明治時代、地元の有力な人によって、蒲郡に鉄道が通された
しかし明治時代、蒲郡の地元の有力な人達が、蒲郡の発展のため、鉄道関係者に対して、
- 地形の容易さ
- 工事の容易さ
を主張し、説得したのでした。
旧・東海道のルートは内陸部で勾配がきついため、
という説得だったのでした。
その結果、現在の蒲郡駅を通る、現在の東海道線のルートが採用されたのでした。
蒲郡・竹島の眺め
また、蒲郡の海は、竹島の眺めがとても綺麗でございます。

遠くは渥美半島(愛知県蒲郡市)
また、愛知県蒲郡市の海からは、はるか向こうに、渥美半島の眺めがよく眺められます。
平安時代までの蒲郡は、ガマがたくさん生える土地だった
平安時代までの蒲郡は、いろんな植物が生い茂る、自然豊かな場所でした。
特に「蒲(がま)」という植物が多く生えていたことから、「蒲郡」という地名が付いたと言われています。
平安時代の中部地方・関東地方は、都(平安京)が置かれた京都と比べると、あまり政治・経済・文化の中心地としては栄えていませんでした。
確かに大昔の土器などは出土しており、かつて大昔の蒲郡においても、「人の生活」があったことは伺えます。
しかし、やはりそこまで栄えていたわけではなかったものと思われます。
しかし蒲郡の土地は、平安時代に藤原俊成の登場によって栄えていくことになります。
蒲郡の偉人・藤原俊成
平安時代に蒲郡を開発した、藤原俊成
蒲郡の偉人といえば、やはり藤原俊成です。

藤原俊成像(愛知県蒲郡市)
藤原俊成は、平安時代の終わりに三河国でいちばんエラい、国司を任されていました。
ここで、平安時代における国司とは、現代でいうところの都道府県知事に該当します。
蒲郡の発展の基礎を作った、藤原俊成
藤原俊成は、それまでガマが生えるばかりの自然豊かだった蒲郡の土地を、荘園とよばれる巨大な農地を作って、蒲郡が発展する基礎を作ったのでした。
つまり藤原俊成がいなければ、現代につなが蒲郡の発展は、無かったと言ってもいいでしょう。
遥任国司だったにも関わらず、現地で職務全うした藤原俊成
藤原俊成は、朝廷から直接やってこない国司である、いわゆる遥任と考えられていました。
しかし彼は、きちんと現地に赴き、蒲郡の発展に全力を挙げたのでした。
これが偉人といわれる所以ですね。
「遥任(ようにん)」とは?現地に赴かない国司
遥任とは、国司に任命されても現地におもむくことなく、京(京都)に残ったままで収入を得ることです。
つまり、目代とよばれる代理人を派遣して、現地での収入を得るという制度です。
表向きはコスト削減、実際には「税金のむしりとり」が目的だった
遥任の目的は、表向きには朝廷の財政が窮乏したことにより、国司の現地赴任の旅費・滞在費・労力を減らすための、コスト削減にありました。
しかし、これはあくまで建前上の理由でした。
実際には遥任により、それぞれの国へと赴任する手間を省きながら、税収を独占するということができたのでした。
つまり、京都にいたまま何もすることなく、税収だけをガッポリ得られたわけです。
これにより、国司は現地での実務をやることなく、税金だけをたっぷり得ることができ、私腹を肥やすことが可能だったのでした。
税金をやりたい放題取ってしまった
こうして国司が現地に赴かないことにより、国司は現地のリアルを把握することなく、不正な利益追求に走るという傾向が強くなってゆきました。
結果として、地方の政治が混乱してしまい、民衆の生活を圧迫してゆきました。
また、遥任の国司はそもそも現地にいないため、目代などの代理人に、不正な利益を追求させる機会を与えやすいという環境を作ってしまったのでした。
つまり、国司に代わって現地に派遣された代理人は、国司からの意向を受けて、年貢・税金を無駄に徴収しすぎてしまい、民衆を苦しめてしまったのでした。
不正だらけで、地方政治は腐敗した
こうして国司が不在となってしまったことは、地方政治の統制を弱めることになっててしまいました。
そして、様々な不正行為を助長させる結果となってしまったのでした。
これらの要因から、遥任は地方の政治を不安定なものにしてしまい、政治の腐敗を招く結果となりました。
蒲郡に荘園を作っていった、藤原俊成
しかし藤原俊成は、きちんと現地・蒲郡に赴き、立派なお屋敷を構え、きちんと国司としての仕事をしたのでした。
その上で、大きな田んぼを耕させ、巨大な農地を持つ荘園である、
- 蒲形荘
を開発していったのでした。
「荘園」とは?
ここで荘園とは、貴族やお寺、神社などのうちお金を持った人々が、その膨大な財力を使って耕した、大規模な農園のことです。
つまり、
- 大規模に田んぼを耕させ、
- 大量のお米を収穫し、
- ドロボーから守るために、武装もしている
といった、巨大な農園です。
荘園がなぜできたのか?については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

和歌山・熊野地方との関係の歴史

蒲郡・海の景色(愛知県蒲郡市)
蒲郡は、かつて和歌山県・熊野との関連が深い地域でありました。
それは、海を通じて、直線距離で地理的にかなり近いからです。
- 愛知県の渥美半島
- 三重県鳥羽市
とは、かなり接近している位置にあります。
今も伊勢湾フェリーで近い、伊良湖岬と三重県鳥羽市
実際、伊勢湾フェリーを利用すれば、比較的近い距離にあります。
渥美半島の先端である伊良湖岬から鳥羽港まで、フェリーで約55分の距離になります。
和歌山・熊野に、蒲郡の土地を寄進
先述の蒲郡の荘園は、後に藤原俊成によって、和歌山県南部の熊野三山に対して寄進されたのでした。
ここで熊野三山とは、和歌山県に存在する
- 熊野本宮大社:和歌山県田辺市本宮町
- 熊野速玉大社:和歌山県新宮市
- 熊野那智大社:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山
の、三つの神社の総称のことをいいます。
熊野信仰は「神仏習合」の宗教だった
ちなみに熊野三山の「山」とは、本来はお寺に使う言葉ですが、熊野神社は仏教とのつながりも強かったため、「山」という名前がついています。
熊野信仰は、
- 日本固有の宗教である神道における、山岳信仰
- 仏教
がそれぞれ融合した特徴を持ち、「山そのものが神聖なもの」として、崇拝されてきました。
これを「神仏習合」といいます。
なぜ平安時代、荘園を寄進したのか?
荘園を寄進する主なメリットは、おおむね以下のような権利を得ることにありました。
- 不輸の権:税金を払わんでいいよ、っていう権利
- 不入の権:税金を強引に取り立てたい国司や役人が、自分の領地へ入ってこないための権利
を得られることです。
平安時代、神社やお寺が管轄している荘園は、国司からの税の免除を受けることができました。
これを「不輸の権」といいます。
こうすれば、荘園領主(オーナー)は、税を納める必要がなく、また理不尽な税取り立てから逃れることができました。
荘園を寄進することで、税免除+国の役人の立ち入りを拒否できた
つまり、平安時代の荘園の寄進は、現代が言うところの節税に該当します。
平安時代の「不入の権」は、税金を無理に取り立てしようとする国司や役人が、自身の荘園に入ってこれないという権利です。
これにより、荘園領主(オーナー)は、
- 税の免除
- 役人の立ち入り制限
を受けることができたのでした。
これにより、荘園の経営を安定させることができました。
しかし、平安時代の国司の税の取り立ては、かなり乱暴な上に不当なやり方も多かったのでした。
そのため、荘園領主(オーナー)が、寄進することによって節税したかったのは分からなくもありません。
また、力を持った貴族・神社・お寺に寄進(預ける)することで、
- その力強い権威を借りて、土地の支配を強化する
ということもできるメリットもありました。
蒲郡は、熊野系武士のものに
このようにして、蒲郡の荘園の土地は、和歌山の熊野系の武士たちの支配下となりました。
さらには和歌山・熊野地方との海上交通がなされたのでした。
藤原俊成と親戚になった、平忠度の支配下へ
後の蒲郡では、
- 藤原俊成の娘婿(娘の夫となった男性のこと)
- 熊野系武士
であった平忠度が、蒲郡の地を領有していたのでした。
平忠度は、和歌山県・熊野地方の出身であり、藤原俊成の娘さんと結婚したのでした。
そして、藤原俊成の親戚となった縁で、蒲郡の地を領有したのでした。
平忠度は武術に長けており、藤原俊成に師事して(つまり下について)、おもに武士として活躍しました。
しかし、和歌にも優れており、文化面においても優れた人だったのでした。
平家滅亡とともに、蒲郡の土地は没収された
しかし、平家が滅亡すると、その領地は没収されました。
これにより、蒲郡の地は、平家から離れることになりました。
源氏の味方についた、熊野別当・湛増
源平合戦の頃、当時最強と言われた熊野水軍を率いていた
- 熊野別当・湛増(弁慶の父とされる)
は、源氏と平家の両者から援軍・サポートを求められたのでした。
二つの最強の両方から助けを求められたため、かなりの信頼感のされようです。
しかし、どちらに味方すべきか、かなり迷うことになったのでした。
どちらに味方するかを決めかねた湛増は、
- 新熊野権現社(現在の闘鶏神社:和歌山県田辺市)
の神様の前で、神意(神様の意見)を確かめることにしたのでした。
その結果、
蒲郡と紀伊半島は、実は近い
先述の通り、蒲郡と熊野地方のある和歌山県・紀伊半島は近いです。
それは、伊良湖岬とつながっていらからですね。
「中央構造線」を通っていて、その上にある
伊良湖岬と、三重県鳥羽市は、中央構造線でつながっています。
以下、地図上でよくみると、一直線につながっています。
地図上で、一直線につながっている地点
- 渥美半島(愛知県)
- 伊良湖岬(愛知県)
- 答志島(三重県)
- 鳥羽市(三重県)
- 伊勢神宮(三重県)
- 吉野山(奈良県)
- 紀ノ川(和歌山県)
- 徳島市(徳島県)
- 吉野川(徳島県)
- 四国山地(徳島県~愛媛県)
- 石鎚山(愛媛県)※四国地方最高峰
- 佐田岬半島(愛媛県)
- 佐賀関半島(大分県)
- 阿蘇山(熊本県)※
- 八代(熊本県)
地図で確認すると、これらの地点は見事に一直線でつながっています。
これを「中央構造線」といいます。
「中央構造線」とは?
中央構造線は、大昔、
- 南からプレートに乗って北へと移動してきた日本列島
- ユーラシア大陸から離れてできた日本列島
が、それぞれ「がっちゃんこ」したときにできたものです。
言わば、日本列島の「古傷」になります。
※阿蘇山は分厚いため、中央構造線は確認できていません。
いかんせん「古傷」のため、地震の原因にもなったりするわけです。
蒲郡は、熊野領地から平氏のものへ しかし源氏に戻される
源平合戦で平忠度が戦死すると、それまでは平氏の土地だった蒲郡は平家から没収されることになりました。
そして、蒲郡の地は平家没官領となったのでした。
平家没官領とは?
平家没官領とは、1183年に平家が滅亡した際に、朝廷が没収した、平家の持っていた領地などのことです。
これらの領地は、平家追討の功績として、源頼朝に与えられました。
そして、鎌倉幕府のメイン領地を形成しました。
源頼朝に感謝され、熊野山領に戻される
しかし、源平合戦の末期に、熊野水軍が源氏の方へ味方したことで、平家打倒に協力してくれたのでした。
これに対する恩賞として、源頼朝により、蒲郡は(鎌倉幕府の領地から)熊野山領へと戻されたのでした。
戦国時代 蒲郡は今川氏の下についた、鵜殿氏の支配下へ
戦国時代の蒲郡は、今川氏の支配下にありました。
特に、蒲郡の鵜殿氏は、今川義元の重要な部下として、上ノ郷城を拠点に活動していました。
上ノ郷城は、現在の蒲郡駅のやや北にあったお城です。
和歌山・熊野をルーツとする、鵜殿氏
鵜殿氏は、和歌山県の熊野地方(現在の新宮市あたり)をルーツとする一族です。
先述の、熊野別当・湛増の子孫とも言われています。
戦国時代になり、今川氏が勢力を拡大させていったことに伴って、今川氏の下についたのでした。
そして、同じく三河地方に進出していた徳川家康が三河平定を進める中で、鵜殿氏は今川氏を支持し、徳川氏と対立しました。
鵜殿氏の分裂
しかし、1560年の「桶狭間の戦い」において、今川氏は織田信長に敗れてしまいました。
すると、今川氏というリーダーを失った鵜殿氏は分裂してしまいました。
- 今川氏にあくまで忠誠を誓った鵜殿氏
- 敵だった徳川氏についた鵜殿氏
今川氏が滅んだため、鵜殿氏の中には徳川につくことを選ぶ者もいた
今川義元が桶狭間で討ち死にしたことで、徳川家康は独立のチャンスとなり、徳川氏の勢力が増大してゆきました。
それに伴い、
と判断し、それまでは今川氏に仕えていた鵜殿氏の一部も、敵だった家康に従うようになったと考えられます。
最後まで今川氏についた鵜殿氏は、上ノ郷城で家康に滅ぼされた
そして、最後まで今川氏の側に残った、忠誠な部下・鵜殿長照は、上ノ郷城において、最後まで戦い抜きました。
しかし、徳川家康によって敗れたのでした。
代わりに、久松氏が蒲郡に入ってくる
今川側の鵜殿氏が滅んだ上ノ郷城には、代わりに、家康のお母さんである於大の方の再婚相手である、久松俊勝が入りました。
それ以降は、久松氏が蒲郡の地を治めたのでした。
蒲郡は後の姫路藩主・池田輝政の支配下へ
しかし、安土桃山時代には、徳川家康の関東への移封されたのでした。
これに伴って、それまでは吉田城(愛知県豊橋市)の主であった池田輝政が、上ノ郷城を新たな支配下へと置いたのでした。
今回はここまで 続きは次回
今回は、主に平安時代~戦国時代の蒲郡について解説してきました。
次回は、江戸時代以降の蒲郡について解説してゆきます!
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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