今回は、D51形蒸気機関車(デゴイチ)について、わかりやすく解説しています!
初心者や詳しくない人にも楽しめるよう解説してゆきます!
デゴイチ(D51形蒸気機関車)とは?
デゴイチとは、D51形蒸気機関車の愛称です。
後に詳しく解説しますが、主に戦前~戦後の時代にかけて活躍した蒸気機関車のことです。
「D」はデーとも読むため、このような略称となりました。
そもそも「蒸気機関車」とは?
蒸気機関車とは、文字通り、蒸気機関によって動く鉄道車両のことです。
蒸気機関とは、石炭を燃やして水を沸かしらその時に発生する蒸気に乗って動く機関のことです。
18世紀に、イギリスのジェームズ・ワットによって実用化されました。
現代では、
- 電気で動くモーター:電車
- 軽油で動くディーゼル機関:気動車
といった列車が主流ですが、当時は蒸気機関車が主流だったのでした。
機関車についての基本・詳細は、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

蒸気機関については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

「D51」の由来
- 動輪(※後述)を回すための「軸」の数を表す記号である、「D(4軸)」(→デ)
- 車両のタイプをするための形式番号である「51」(→ゴイチ)
に由来しています。
動輪とは? D51では、8つ(4軸)を搭載
動輪とは、動力(蒸気機関などにのエネルギー)によって回転し、車両を動かすための車輪のことです。
ちなみに、
- 動輪よりも前にある車輪のことを、先輪
- 動輪よりも後ろにある車輪のことを、従輪
といいます。
いずれも動力を持たない車輪のことであり、
- 機関車の走行安定性を高める
- カーブで機関車を安定させる
ために用いられます。
D51には、動輪が4軸・8個あります。
鉄道のタイプや性能を把握するための「形式番号」
「51」のような鉄道における型式番号とは、
- 車両をグループ分けする
- 車両の形式(設計や構造の違い)を識別する
ための番号のことです。
これにより、
- 車両の種類
- 車両の性能
- 車両の用途
などを、一目で把握することができます。
つまり型式番号は、鉄道における車両を管理・運用していく上で、とても重要な役割を果たしているというわけです。
デゴイチの設計者・島秀雄
D51の設計には、昭和初期~中期の鉄道技術者・島秀雄が設計に携わっています。
D51は、彼の代表作の車両としても知られています。
島秀雄(1901年~1998年)は、昭和初期~中期の鉄道技術者であす。
また、「東海道新幹線の生みの親」と言われています。
戦時中に大量生産
D51は、1936年から1945年にかけて、計1,115両が製造されたのでした。
主に太平洋戦争(大東亜戦争)中に大量生産されたのでした。
2位のD52形の製造台数を、大きく上回る
ちなみに、D51蒸気機関車の次に多く製造されたのは、後継機であるD52です。
- D51形:1,115両
- D52形:287両
このように、D51蒸気機関車はD52の製造台数を圧倒的に突き放しており、いかに多く製造されたかがわかります。
かつては、日本全国どこでも見られた鉄道車両だった
D51はこれだけ多く製造されたため、北海道から九州まで、全国各地の主要路線でどこでも見られるほどの、おなじみの存在でした。
そして、その姿は多くの人々に親しまれました。
現在でも、多くの場所に保存・展示されている
D51形は1975年に引退しましたが、現在でも各地の博物館や公園などで保存・展示されており、馴染みの存在となっています。
このようにD51形は、その姿を今も多くの場所で見ることができます。
そのため、鉄道ファンのみならず、多くの人々に愛され続けています。
いまだに破られていない、史上最多製造数
ちなみにこの1,115両という記録(両数)は、現在でも更新されていないのです。
逆にいえば、
- 太平洋戦争中の日本が、どれだけ窮地に陥っていて、
- また、鉄道建設に惜しみないほどの予算を投じていた
かがわかります。
なぜ戦時中、蒸気機関車が非常に重要だったのか
D51は、主に戦時中、貨物を運んで輸送するための機関車として活躍しました。
戦争中、たくさんの兵士や物資を運んだ蒸気機関車
戦争中は、
- とにかく貨物鉄道に載せて、
- 軍事物資は兵隊さんを送り込むこと
が、とても重要でした。
当時、一度にたくさんのものを運べた蒸気機関車
鉄道は一度に大量の人やモノを運ぶことができます。そのため、戦場において兵站を維持するためには、とても不可欠でした。
もしこれが不足すると、戦争に負けて国が滅ぶことを意味します。
特に、まだトラック輸送が一般的でなかった当時食料、弾薬、燃料などの物資は、鉄道でなければ大量に運ぶことが困難でした。
戦場にたくさんの兵士やモノを送り出した蒸気機関車
また、
- 兵士を戦地へ送り込むとき
- さらに兵士を別の戦場へと移動させるとき
にも、鉄道は重要な役割を果たしました。
ザ・ドリフターズ(ドリフ)の名曲「ズンドコ節」の元ネタである
- 「海軍小唄」
は、戦争中に鉄道で送り出されていく、まさに兵士の切ない気持ち・様子を歌っています。
蒸気機関車は、戦時中にでも手に入る、石炭を使えるところが大きかった
蒸気機関車は、当時の日本でも比較的容易に入手できたエネルギー源である、石炭を燃料としています。
そのため、他のエネルギー源や、戦争に使える物資がとにかく不足していた当時の日本からすれば、石炭で動く蒸気機関車は、とても重要な役割を果たしたのでした。
そもそも日本は、元々エネルギー源が少なく、戦前は東南アジアなどの植民地に頼るしかなかったのでした。
戦前、日本は石油の輸入を規制されていた
戦時中、日本は石油の輸入を大幅に制限されてしまいました。
特にアメリカによる禁輸措置は、日本にとってはとても理不尽なものであり、そしてこれがまさに太平洋戦争に突入する、一つの大きな要因となりました。
そのため、当時の日本でも比較的容易に入手できた石炭を燃料とする蒸気機関車は、とても重要だったのでした。
石炭は、資源の少ない日本であっても、比較的取れたエネルギー源でした。
特に、北海道でよく取れました。
北海道の石炭の歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
まだトラック輸送も無かった戦時中、鉄道は非常に重要だった
鉄道は、トラック輸送などもまともに存在しない時代は、他の輸送手段に比べて、すばやくモノや人を運ぶことができました。
これは、いちはやく戦場に、モノや人を届けるために重要でした。
でないと、戦争に負けてしまう(国が滅んでしまう)からですね。
特に、まだ自動車の無かった時代に、長距離の移動には、鉄道が不可欠でした。
さらに、天候や道路状況に左右されにくい鉄道は、安定した輸送手段として、特に戦時下では重宝されました。
これらの理由から、戦争中は蒸気機関車による貨物輸送が、非常に重要だったというわけです。
戦前の「電化の遅れ」に対応するため、蒸気機関車は必須だった
太平洋戦争中、日本が蒸気機関車に頼っていた主な理由は、
- 電化の遅れ
- 戦争による資源不足
- 鉄道をするために電化に必要な、電力を供給していくため体制が未整備だったこと
でした。
特に、戦時中は資材が不足しており、電化に必要な設備の導入や維持が、とても困難でした。
つまり戦時中は、発電所を建てるのもままならない、ということが多かったのです。
また、電化を進めていくための電力供給も、まともに安定していなかったのでした。
そのため、蒸気機関車が引き続き、主要な動力源として使用されていったのでした。
戦前は、日本の大部分で、鉄道の電化が遅れていた
戦前の日本では、鉄道の電化は、まだまだ一部の都市部や、幹線(メインの路線)のみに限られていました。
そのため、地方や支線(メインの本線の付随的な路線)では、未だに蒸気機関車が主流でした。
さらには、太平洋戦争の勃発により、電化に必要な電力設備や車両の製造が、後回しになってしまいました。
そのため、電化の遅れが、さらに深刻化していったのでした。
戦争中は、鉄や銅などの金属資源が不足してしまっていました。
戦争中に金属資源が不足していたのは、主に軍事品などに、優先的に回されていったからです。
しかし、金属資源が足りないと、電気を通すためのケーブルすら、まともに作れません。
こうなると、深刻な資材不足に陥っていまいますから、電化のために必要となる設備や車両の製造などは、さらに後回し・困難になっていったのでした。
戦争が始まると、日本は電気設備の導入どころではなかった
戦時中は、電力需要が増加する一方だったにも関わらず、電力供給が不安定となっていました。
電化を進めていくためには、まずは電力をまともに供給していくため体制の安定化が不可欠でした。
しかし戦争の影響で、その実現は難しかったのでした。
このことからも、蒸気機関車が引き続き使用されました。
鉄道の電化よりも、蒸気機関車の性能アップの方が優先された
戦争中は、軍事輸送が最優先事項となり、鉄道を電化することよりも、むしろ既存の蒸気機関車を最大限に活用する、ということが求められました。
これらの理由から、太平洋戦争中を通して、日本では電化は遅れ、蒸気機関車に頼らざるを得なかったのです。
D51誕生の背景
昭和恐慌により、貨物需要は停滞していた
1929年に始まった世界恐慌、またその影響で日本国内では「昭和恐慌」が起きていました。
不況のせいで、貨物列車が運ぶ荷物も少なくなった
この恐慌により、国内の需要が大幅に減少してしまい、さらには企業の生産活動や輸出も、停滞してしまいました。
その結果、鉄道を利用した貨物の輸送量も、大きく落ち込んでしまうことになりました。
物がまともに売れなくなると、企業の生産量も下がってしてしまいます。
そうなると、貨物列車で運ぶ商品の量も減ってしまうのは当然ですよね。
こうして、恐慌の影響で多くの企業が倒産してしまい、さらには事業を縮小してしまったことで、貨物輸送の需要がさらに減少してしまいました。
これらの様々な要因が複合的に作用してしまい、昭和恐慌は日本の鉄道による貨物輸送量に対して、大きな打撃を与えてしまいました。
そのため、恐慌が発生する以前に計画されていた、新しいバージョンの機関車の設計・製造は、中断されてしまったのでした。
景気回復とともに、新バージョンの蒸気機関車が計画される
しかしその後に景気が好転してきて、世の中で輸送量が回復してくる、という傾向がみえてくるようになってきたのでした。
そのため、改めてニューバージョンの貨物用の機関車が求められたのでした。
当時は非電化区間が多く、蒸気機関車に頼らざるをえなかった
しかし先述の通り、当時はまだ電化区間が(全体的に)まだ短い・少ないものでした。
そのため、当時の日本の各地では、未だに蒸気機関車に、輸送の大部分を頼らざるを得なかったのでした。
当時、「電車」は確かに都市部を中心に走っていましたが、全国規模でみれば、まだ多くが非電化区間でした。
しかし戦争での軍事輸送になると、鉄道は全国のあちこちを走れなければなりません。
そのため電車での貨物輸送は無理ゲーであり、未だにた蒸気機関車に頼らざるをえない状況だったわけです。
蒸気機関車であれば、石炭と水さえあれば、電気が無くても走れますからね。
これは先述の通りです。
そこで、新たな蒸気機関車による貨物輸送が必要になりました。
1935年に開発を始め、ついに1936年から製造されたのが、D51形(デゴイチ)になります。
D51は、とにかくシンプルで修理しやすい設計だった
D51形機関車は、それまでの機関車に比べて、非常にシンプルでやりやすい設計になっていました。
なお、D51形設計者である島秀雄は、D51形を高く評価しています。
D51形では、
- それまでの蒸気機関車における、複雑な設計・やり方
- 難解な工作・修理のやり方
などについての不良点・問題点を、すべて反省・改善したものになっています。
そのためD51形では、
- 部分ごとの標準化:バラバラ性を排除し、みんな同じにして、覚えやすくする
- ユニット化(部品化):全体ではなく、部分ごとにいじれるようにする
がなされています。
つまり、それぞれ細かく部品化・ユニット化をしておくことで、もし一部分だけに故障が起きたとしても、全体を直さずに済むわけです。
これによって修理などの作業が、はるかに楽になります。
部品を、みんな同じ長さや形に統一した
D51は、たくさんある部品の長さや形などを、みんな同じようにするように標準化したのでした。
つまり、従来は部品のサイズや形はみんなバラバラで、わけのわからないことになりやすかったのでした。
これだと、一部の熟練者しかまともに作業ができませんよね。
品質も下がったり、作業員によってバラバラな出来になりますし、作業効率も下がってしまいます。
標準化のメリット:バラバラ性が排除され、やりやすくなる
しかし、この標準化によってバラバラ性が排除されるため、覚えることが少なくて済むわけです。
みんな同じに統一・標準化すると、作業員にとっては覚えることが少なくて済むわけなので、たとえ未熟な作業員でも、一人前になるスピードが早くなります。
これによって、お互いに使いやすくする互換性を高めることができます。つまり、いちいち違う部品を覚えたり用意しなくてよくなったわけです。
そして、交換や修理などの作業が、簡単で楽になったのでした。
ユニット化によって、その部分だけを修理などをすれば良くなった
先述の通り、D51では機関車をいくつかのユニットに分割し、それぞれのユニットを独立して整備・いじることができるようにしたのでした。
これにより、もし車両に不具合が起きたときにも、機関車全体を分解することなく、必要な部分だけを修理することが可能になったのでした。
これにより、整備や修理をすることが容易になったのでした。
つまり、誰でも修理がやりやすくなったというわけです。
複雑さを一切排除し、修理しやすくなった
このようにD51では、無駄なところや複雑なところを、とことん排除していったのでした。
そのため、D51では作業員らにとっても扱いやすい、シンプルな設計となったのでした。
これらの工夫により、D51形は、現場での修理やメンテナンスが、とても簡単になっていったのでした。
後に新幹線にも継承されたと考えられる、 D51のノウハウ
これらの設計要素は、後に新幹線の車両の開発においても、大きく反映されていったのでした。
D51の設計に対する考え方の一部は、後に新幹線の安全性や効率性にも、多少なりとも影響を与えていったと考えられています。
そして島秀雄らをはじめとするD51に関わった人たちが、後に新幹線開発に携わっていったことで、D51で培われた技術が、新幹線へと継承されていったものと考えられます。
戦争激化、大量製造
こうしてD51の量産を進めていく段階で、国内の情勢は、やがて戦時体制へと突入してゆきました。
それに伴い、貨物機であるD51に対する需が、非常に大きくなっていったのでした。
それは先述の通りです。
やがて、1936年から1945年までの間に、1,115両もの多数の車両が製造されることとなったのでした。
今回はここまで。次回へ続く
今回はここまでです。
しかしD51は、戦後にも大きく改造・改良され、それは現代の鉄道にも大きな影響を与えています。
次回は、そんなD51が戦後にどんな改造・改良がなされていったかについて、焦点を当ててゆきたいと思います!
では、また次回。
お疲れ様でした!
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