長泉町【静岡県】・鮎壷の滝の観光・歴史を、わかりやすく解説!

黄瀬川と鮎壷の滝(静岡県・長泉町)の観光・歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
初心者の方にも、やさしく解説してゆきます!

  1. 静岡県・長泉町の名所・鮎壷の滝
    1. 長泉町(ながいずみちょう)とは?
    2. 今でも富士山の溶岩が足元に残る、長泉町・三島市
  2. 黄瀬川(きせがわ)
    1. 御殿場市にある、酒匂川・黄瀬川んを分ける「分水嶺」
      1. 分水嶺とは?
      2. 三島溶岩流の流域にある、黄瀬川
    2. 鮎壺の滝は、富士山の溶岩が作り出したもの
      1. やがて狩野川と合流する、黄瀬川
      2. やがて駿河湾へと注ぐ狩野川
    3. 用水路としての黄瀬川
      1. ダムの小さいバージョン「堰(せき)」
      2. 堰(せき)の存在が、なぜ塩害防止になるのか? そもそも「塩害」とは?
      3. 遡上(そじょう)とは?
      4. 川の水が無くなると、海水が川を逆流(遡上)する!→塩害の原因に
      5. 川の渇水が起きると、セキを緩め、貯めていた水を足してあげる
      6. 大雨・日照りのときに絶対に不可欠な「堰」
      7. 日本の川は急で流れ速いため、元々は貯水しにくい
      8. 日本の川の特徴:流れが急で速い!
    4. 黄瀬川の水の活用方法:沼津市にある、牧堰用水
      1. 江戸時代、なぜ「新田開発」が行われた?
      2. 沼津をうるおす用水路へ発展
    5. 黄瀬川からの水を引いた「本宿用水」
      1. 安政の大地震から復旧
  3. かつて富士山から流れ出した、三島溶岩流
    1. 1万年前の噴火によって出来た、三島溶岩流とは
      1. 三島市街地まで流れてきた溶岩流
      2. 三島市において「三島溶岩流」がみられる場所
      3. 三島市街地から出る「湧き水」
  4. 源平合戦「黄瀬川の陣」
    1. 「黄瀬川の再開」その後、義経と頼朝は対立関係へ
      1. 黄瀬川の対面
      2. 関係悪化の原因
      3. 頼朝による、義経の追討
    2. 黄瀬川での再開虚しく 鎌倉時代へ
  5. おわりに・まとめ

静岡県・長泉町の名所・鮎壷の滝

鮎壺の滝(静岡県駿東郡長泉町)

鮎壺の滝(静岡県駿東郡長泉町)

鮎壺の滝より(静岡県駿東郡長泉町)

鮎壺の滝より(静岡県駿東郡長泉町)

長泉町(ながいずみちょう)とは?

鮎壺の滝および前回紹介した下土狩駅しもとがりえきが存在する長泉町ながいずみちょうは、

  • 三島市沼津市ぬまづしの、やや北
  • 裾野市すそのしのやや南

に存在する町です。

かつて富士山が1万年前かつて大噴火したとき、溶岩がまさに流れてきた土地だったのでした。

1万年前の大噴火とは、我々人間にとっては大昔に感じられますが、

  • 46億年前に誕生した地球
  • 10万年前に誕生した富士山

からすれば、ほんのちょっと前の出来事に過ぎないのです。

また、地球の年齢が「46億歳」であることを考えると、まだ「10万歳」にすぎない富士山は、比較的「若い山」といえるでしょう。
富士山は約10万年前に、火山の噴火によって積み上がって出来た、いわゆる成層火山せいそうかざんになります。

今でも富士山の溶岩が足元に残る、長泉町・三島市

そのため長泉町は、富士山の溶岩が、我々の足元に、今でも残るという土地になります。
それはやや南の三島市も同じです。
もちろんそれらは今では完全に冷えて固まって単なる岩(けど価値は高い岩)」になっているため、ご安心ください。

また、三島市大量に沸き出る水も、これは

  1. 富士山の雪が溶けて、地下に染み込んだものが、
  2. この(地面の下にある)溶岩のスキ間を通って、
  3. 地上に沸き出したもの

になります。

黄瀬川(きせがわ)

黄瀬川にかかる「鮎壺の滝」(静岡県駿東郡長泉町)

黄瀬川にかかる「鮎壺の滝」(静岡県駿東郡長泉町)

黄瀬川きせがわは、さらに北に存在する街である御殿場市ごてんばしに、その水源(つまり、はじめて水が地上に湧いて出てくる、川のスタート地点)を発しています。

御殿場市にある、酒匂川・黄瀬川んを分ける「分水嶺」

そして、静岡県御殿場市ごてんばしの周辺には、

  • 黄瀬川きせがわ
  • 酒匂川さかわがわ(静岡県での呼び名は、鮎沢川あゆさわがわ

分水嶺ぶんすいれいがあります。

分水嶺とは?

ちなみに、分水嶺ぶんすいれいとは、

降った雨水が、どちらの川に流れ込むかを分ける境目

のことです。

つまり、御殿場市には、

  • 東の神奈川・小田原おだわら相模湾さがみわん方面へと流れる、酒匂川さかわがわ(静岡県側では、鮎沢川あゆさわがわ
  • 南の狩野川かのがわ駿河湾するがわん方面へと流れる、黄瀬川きせがわ

のどちらかに流れる方向が別れる点、つまり分水嶺があるということです。

つまり分水嶺とは、ある場所で降った雨が、

  • A川」に流れ込むか?
  • あるいは別の「B川」に流れ込むか?

を分ける境目のことです。

三島溶岩流の流域にある、黄瀬川

黄瀬川きせがわは、先述の通り、かつて約1万年前の富士山の噴火によって流れ出した、三島溶岩流が流れていった地域(流域)の中にあります。

そのため、黄瀬川は

  1. かつてはドロドロの溶岩であり、
  2. それが融点を下回って、
  3. カチコチに固まった岩盤

を河床(=つまり、川の底)とする区間も多い、という川になります。

言い換えれば、黄瀬川は

かつての溶岩の上を流れている川

とも言えます。

鮎壺の滝は、富士山の溶岩が作り出したもの

また、黄瀬川の途中には、富士山の溶岩の断崖(つまり、大きな岩でできた段差)にかかる、

  • 五竜ごりゅうの滝」:やや北の裾野市にある滝
  • 鮎壺の滝

などがあります。

黄瀬川にかかる「鮎壺の滝」。滝の周りのゴツゴツして出来た岩が、まさしく三島溶岩流で出来た岩。(静岡県駿東郡長泉町)

黄瀬川にかかる「鮎壺の滝」。滝の周りのゴツゴツして出来た岩が、まさしく三島溶岩流で出来た岩。(静岡県駿東郡長泉町)

この「鮎壺の滝」にあるゴツゴツした岩は、まさしく1万年前の

  • 「富士山の噴火によって流れ出た、冷えてカチコチに固まった溶岩(三島溶岩流)」

になります。

つまり、鮎壺の滝は、

  1. この三島溶岩流がたまって出来た、大きなゴツゴツした岩の上に、
  2. 黄瀬川の流れが乗り出して、
  3. その水が落ちることによって、「滝」が出来ている

というわけです。

やがて狩野川と合流する、黄瀬川

黄瀬川きせがわは、おおむね南へと流れてゆき、

  • 沼津市
  • 清水町しみずちょう

との境において、狩野川かのがわと合流します。

ちなみに清水町しみずちょうは、沼津市と三島市の間にあります。
柿田川かきたがわが流れる自然豊かな町であり、また交通の便も良い場所となります。

やがて駿河湾へと注ぐ狩野川

狩野川かのがわは、やがて沼津市街地を南へ流れてゆき、駿河湾へ注ぎます。

沼津港付近を流れる狩野川。黄瀬川はやがてこの狩野川と合流し、末は駿河湾に注ぐ。(静岡県沼津市)

沼津港付近を流れる狩野川。黄瀬川はやがてこの狩野川と合流し、末は駿河湾に注ぐ。(静岡県沼津市)

なお、狩野川は

  1. 伊豆半島の天城峠あまぎとうげから流れ出て、
  2. 北へ進み、
  3. 南へ大きくU ターンし、
  4. 沼津市街地を流れ、駿河湾へと注ぐ川

となります。

用水路としての黄瀬川

黄瀬川きせがわは、沼津市に存在する牧堰用水まきぜきようすい(←詳しくは後述します)をはじめ、

  • この川から水を取ってきて、農地へと水を供給する

という、いわゆる灌漑かんがいのための用水路がいくつか存在しています。

つまり、農業のための水を引っ張ってくるため、黄瀬川の水はたくさん利用されている(古来からも利用されてきた)というわけです。
特に、長泉町よりやや北の裾野市すそのしにおいては、重要な役割を果たしてきました。

ダムの小さいバージョン「堰(せき)」

せきとは、いわばダムの小さいバージョンであり、水をせき止めて貯めておくための設備です。

例えば、堰は、

  • 農業用水:作物たちを育てる水
  • 工業用水:「冷却水」「飲み物などの原料水」「洗浄水」「ボイラーで湯を沸かす」ために、水はとても重要
  • 水道用水:言うまでもなく、我々の一般家庭に重要となる水

などのための水を取ってきたり(取水)、他にも

  • 塩害の防止

などを目的として、川をまるごとふさいで設置されるような施設のことです。

堰(せき)の存在が、なぜ塩害防止になるのか? そもそも「塩害」とは?

ここで塩害とは、

  1. 潮風によって運ばれてきた塩分が、
  2. 畑の地面に染み込んでしまい、
  3. 浸透圧によって土から水分を吸収してしまい、
  4. 作物の水分を奪ってしまい、
  5. 作物がまともに育たなくなること

をいいます。

例えば、海に近いような川の河口付近においては、

  • 普段の正常な状態では、河川の水の流れに充分な強さがある

ため、海水が遡上そじょう(逆流して上に上がってくること)してくるのを防いでいます。

遡上(そじょう)とは?

ここで遡上そじょうとは、逆流して上に上がってくることをいいます。

例えば「遡上」という言葉は、

  • 津波が起きたとき
  • あゆという魚が天敵から逃れ、子を産むために上流へ昇っていくとき(鮎の遡上)

などに使われます。

川の水が無くなると、海水が川を逆流(遡上)する!→塩害の原因に

しかし、

  1. 川の渇水などで川の水の量が減少してしまうと、
  2. 海水が川へと流入・混入(逆流)しまう量が増加してしまい、
  3. 川の水と混ざってしまうことで、
  4. 河口付近にある土地(農地含む)における、塩分濃度が高まる

という現象が起きます。
これによって、塩害が起きるというわけです。

川の渇水が起きると、セキを緩め、貯めていた水を足してあげる

また、川の渇水時かっすいじには、上流にあるダムやセキに貯えられた水を放流してあげることで、川に流れる水の量を補給してあげるわけです。
これにより、河口付近の水の流れの強さが適度に維持され、海水が遡上しにくくなるため、塩害の発生や拡大を防止するというわけです。

そして、このせきよりもさらに大規模なものが、よくご存じのダムになります。

大雨・日照りのときに絶対に不可欠な「堰」

このようにせきは、

  1. 川の流れをせき止め、
  2. もし洪水が起きたときにも、
  3. 下流地域に大量の水が届かないようにする

という、重要な役割を担っています。

また、もし日照り続きで水がなくなったとき(つまり、渇水状態のとき)は、あらかじめ貯めておいた水を解放して、水不足を防いであげるというわけです。

日本の川は急で流れ速いため、元々は貯水しにくい

また、2025年は水不足が続いたため、渇水かっすいするダムが続出してしまいました
ダムの水が枯渇しすぎて、水底の茶色い部分(=土)があはわになってしまうほどだったのでした。
特に、梅雨明けが早かった地域では、水不足がかなり深刻化してしまいました。

2025年には、観測史上最も早い梅雨明けが起きてしまったことなどにより、記録的な雨不足が続出したのでした。
特にこの時は、梅雨前線の活動がとても弱くて低調であり、梅雨の時期にしてはあまり雨が降らなかったのでした。
そのため、期待されたほど雨が降らない地域が多かったことが、2025年夏の水不足の大きな原因となったのでした。

日本の川の特徴:流れが急で速い!

日本の川は、

  • 山がとても急であるため、川の勾配が急で、流れがとても速い
  • 狭い日本列島を流れるため、そもそも川の距離が短い

などのような特徴があるため、降った雨がすぐに海へ流出してしまい、陸に保持されにくく、水資源として利用されにくいという特徴があります。
このような日本独特の地形が、降った雨を保持しにくくしているわけです。

そのため、日本の川は基本的に、水資源としては利用しにくいことも要因として挙げられます。
そのため、ダムや堰が大活躍するというわけです。

一方、ヨーロッパアメリカの大陸の川は、全体的な長さ(総延長)が長く、勾配がゆるやかな傾向があります。
そのため、こうした海外の川は、全体的にゆったりとした流れになります。

黄瀬川の水の活用方法:沼津市にある、牧堰用水

先ほど少し紹介した牧堰用水まきぜきようすいは、静岡県沼津市にある、黄瀬川から水を取ってくる(つまり、取水する)ための、水の通り道(用水路)のことです。

沼津の牧堰用水まきせぎようすいは、江戸時代になるあたりの1602年に、当時の沼津のとても偉いお殿様であった「大久保忠佐おおくぼただすけ」という人物によって作られました。

なぜ大久保忠佐によってこの水のルートが作られたのかというと、それは新田開発のためです。

江戸時代、なぜ「新田開発」が行われた?

新田開発とは、人口が増大しつつあった江戸時代に多くの人を食わせるために、各藩の大名たちがあの手この手で田んぼを耕して拡大し、米の生産量を増やそうとしたことです。
そして、黄瀬川の水を引くための「せき」を築いた上で、周辺地域にあった15にもおよぶ村の水田に対して、水を供給したのだした。
こうして、大量の米作りを可能にした、農業用水路(水が通るルート)であったというわけです。

沼津をうるおす用水路へ発展

この用水路は、このあたりの地域をうるおすための

  • 沼津を養う母親

と呼ばれたのでした。

ただし、昭和以降は農業以外の産業がどんどん発達していったことにより、水田は減少してゆきました
そしてこのことで、この用水路(水が通るルート)は、次第にその役割を失っていきました。

黄瀬川からの水を引いた「本宿用水」

本宿用水ほんじゅくようすは、

  1. 黄瀬川にある「鮎壺の滝」の上部に、
  2. せき(=ダムのようなもの)を設置し、
  3. 隧道(トンネル)と水路(水の通るルート)を伝ってゆきながら、
  4. 長泉町にある本宿地域の水田へ、灌漑かんがい用水を送る

ための施設です。

ちなみに本宿ほんじゅく地域とは、前回も解説した御殿場線・下土狩駅しもとがりえきの、やや南西に広がるエリアのことです。
本宿地域では、東海道新幹線の線路が交差します。

この用水路はなんと、江戸時代はじめの1603年に完成したのでした。
この頃には、かなり進んだ農業用水路が完成していたことがわかるわけです。

安政の大地震から復旧

しかしながら、この隧道(ずいどう・トンネル)は、江戸時代おわりの1854年に静岡県・伊豆地方を襲った安政の大地震によって壊滅してしまい、陥没してしまいました。

しかしその後に復旧され、現在は延長約700mにも及ぶ、立派な長さのものとなっています。

かつて富士山から流れ出した、三島溶岩流

1万年前の噴火によって出来た、三島溶岩流とは

ここまで紹介した三島溶岩流みしまようがんりゅうとは、先述の通り、約1万年前に、富士山から噴火して流れ出して固まった(今もこの地域の地面やあちこちに、むき出しになって存在している)溶岩流のことです。

つまり三島溶岩流は、元々は火山(ここでは富士山)から流れ出たドロドロした高熱の液体であるということです。

  1. それが常温の空気に触れて冷やされ、
  2. 融点を下回り、
  3. まるで岩のように、カチコチに固まった

というわけです。

三島市街地まで流れてきた溶岩流

この溶岩流は、

  • 愛鷹山あしたかやま
  • 箱根山はこねやま

のそれぞれ間の谷を流れ、南へ下ってゆき、やがて三島市街地までへと達してきたのでした。

三島市において「三島溶岩流」がみられる場所

ちなみに、三島市における市街地各地においては、例えば以下のような場所で、溶岩流を見ことができます。

  • 新幹線三島駅の北口にある、すぐ西の道路沿い
  • 三島駅のすぐ南にある、楽寿園らくじゅえん
  • 三島駅のやや南にある、白滝公園しらたきこうえん

といった場所で、溶岩流を見ことができます。
いずれも三島駅からすぐ近いため、時間がある時にでも気軽に寄ってみるとよいでしょう。

三島市街地から出る「湧き水」

三島市街地では、富士山の雪が溶けた水が、地下を通って地上へ湧き出る「湧水」の存在があります。

湧き水は、三島溶岩流のすき間を流れてきた(先述の通り、富士山の雪が溶けた)地下水が、三島市街地のあちこちで湧き出しています。
それらの川は、町のあちこちを流れる小さな川として流れています。

源平合戦「黄瀬川の陣」

また、平安時代末期におこった源平合戦である治承じしょう寿永じゅえいの乱(源平合戦)において、

  • 1180年に、(平氏に一度負けて約20年間流罪となっていた)伊豆において挙兵した、源頼朝
  • 奥州・平泉(現在の岩手県)から急いで駆けつけた、義経よしつね

が、それぞれ1180年に起こった

  • 黄瀬川の再会

において、兄弟対面を果たしたと伝えられています。

鮎壺の滝(静岡県駿東郡長泉町)

鮎壺の滝(静岡県駿東郡長泉町)

頼朝の伊豆での挙兵については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

【静岡】伊豆・三島の旅【後編】 源頼朝ゆかりの地をめぐる【観光・歴史】【わかりやすく解説】
源頼朝配流の地、伊豆・蛭ヶ小島の観光・歴史について、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

また、この黄瀬川の再会の前に行われた合戦である「富士川の戦い」については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 東海道編 第18番 「鳥の羽音に驚いた」源平の戦いの舞台・富士川 富士山の麓をゆく
鉄道唱歌 東海道編の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

「黄瀬川の再開」その後、義経と頼朝は対立関係へ

そして彼らが黄瀬川で対面した後、源平合戦はどんどん進んでゆき、義経は平氏を次々に追い詰め、西の山口県・下関あたりへ追いやってゆきます

やがて1185年の檀ノ浦だんのうらの戦いにおいて、平氏を滅ぼすわけです。

しかし頼朝と義経はその後どんどん仲が悪くなり、対立していくのです。

黄瀬川の対面

頼朝義経は、元々は平氏打倒のために挙兵した頼朝のもとに、義経が急いで駆けつけたことで再会しました。

ちなみにこの時、まだ頼朝は義経の強さや功績などを、高く評価していました
そして、義経もまた頼朝を兄として慕い、信頼を深めたとされています。
つまりこのときは、兄弟ともに仲が良かったのでした。

関係悪化の原因

しかしその後、義経の活躍が目立つようになっていくにつれ、やがて兄の頼朝は、弟・義経の功績を妬むようになります

また、義経が頼朝に相談をろくにすることなく、無断で朝廷から官位や役職を受けた(つまり、褒められた)ことなどが、頼朝の弟に対する不信感を、さらに募らせていく原因となりました。

頼朝による、義経の追討

最終的に、頼朝は弟・義経を「朝敵」とみなしてしまい、討伐を命じることになります。
これによって義経は京都を追われてしまい、はるか北・岩手県にいた奥州藤原氏を頼って、北へ北へと逃げ延びたのでした。
しかし、これが鎌倉にいる頼朝にバレてしまい、東北地方へと兵を送り込まれてしまいました

やがて、奥州藤原氏は滅亡、義経も、裏切った仲間に討たれてしまい、悲劇の最期を迎えてしまうことになります。

岩手県・平泉における義経の最期については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

黄瀬川での再開虚しく 鎌倉時代へ

このように、源平合戦では黄瀬川での感動的な再会からは一転してしまい、頼朝と義経の関係は、鎌倉時代のはじまりを前に、悲劇的な結末を迎えることになるわけです。

おわりに・まとめ

鮎壺の滝(静岡県駿東郡長泉町)

鮎壺の滝(静岡県駿東郡長泉町)

鮎壺の滝より(静岡県駿東郡長泉町)

前回と今回とで、鮎壺の滝および、静岡県長泉町の歴史や魅力などを紹介してきました!

もし青春18きっぷ等で御殿場線・下土狩駅しもとがりえき長泉町ながいずみちょうに寄られる機会がありましたら、「三島溶岩流」の存在をダイレクトに感じられる、「鮎壺の滝」にも寄っていただければと思います!

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

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