黄瀬川と鮎壷の滝(静岡県・長泉町)の観光・歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
初心者の方にも、やさしく解説してゆきます!
静岡県・長泉町の名所・鮎壷の滝

鮎壺の滝(静岡県駿東郡長泉町)

鮎壺の滝より(静岡県駿東郡長泉町)
長泉町(ながいずみちょう)とは?
鮎壺の滝および前回紹介した下土狩駅が存在する長泉町は、
- 三島市と沼津市の、やや北
- 裾野市のやや南
に存在する町です。
かつて富士山が1万年前かつて大噴火したとき、溶岩がまさに流れてきた土地だったのでした。
1万年前の大噴火とは、我々人間にとっては大昔に感じられますが、
- 46億年前に誕生した地球
- 10万年前に誕生した富士山
からすれば、ほんのちょっと前の出来事に過ぎないのです。
また、地球の年齢が「46億歳」であることを考えると、まだ「10万歳」にすぎない富士山は、比較的「若い山」といえるでしょう。
富士山は約10万年前に、火山の噴火によって積み上がって出来た、いわゆる成層火山になります。
今でも富士山の溶岩が足元に残る、長泉町・三島市
そのため長泉町は、富士山の溶岩が、我々の足元に、今でも残るという土地になります。
それはやや南の三島市も同じです。
もちろんそれらは今では完全に冷えて固まって「単なる岩(けど価値は高い岩)」になっているため、ご安心ください。
また、三島市に大量に沸き出る水も、これは
- 富士山の雪が溶けて、地下に染み込んだものが、
- この(地面の下にある)溶岩のスキ間を通って、
- 地上に沸き出したもの
になります。
黄瀬川(きせがわ)

黄瀬川にかかる「鮎壺の滝」(静岡県駿東郡長泉町)
黄瀬川は、さらに北に存在する街である御殿場市に、その水源(つまり、はじめて水が地上に湧いて出てくる、川のスタート地点)を発しています。
御殿場市にある、酒匂川・黄瀬川んを分ける「分水嶺」
そして、静岡県御殿場市の周辺には、
- 黄瀬川
- 酒匂川(静岡県での呼び名は、鮎沢川)
の分水嶺があります。
分水嶺とは?
ちなみに、分水嶺とは、
のことです。
つまり、御殿場市には、
- 東の神奈川・小田原・相模湾方面へと流れる、酒匂川(静岡県側では、鮎沢川)
- 南の狩野川・駿河湾方面へと流れる、黄瀬川
のどちらかに流れる方向が別れる点、つまり分水嶺があるということです。
つまり分水嶺とは、ある場所で降った雨が、
- 「A川」に流れ込むか?
- あるいは別の「B川」に流れ込むか?
を分ける境目のことです。
三島溶岩流の流域にある、黄瀬川
黄瀬川は、先述の通り、かつて約1万年前の富士山の噴火によって流れ出した、三島溶岩流が流れていった地域(流域)の中にあります。
そのため、黄瀬川は
- かつてはドロドロの溶岩であり、
- それが融点を下回って、
- カチコチに固まった岩盤
を河床(=つまり、川の底)とする区間も多い、という川になります。
言い換えれば、黄瀬川は
とも言えます。
鮎壺の滝は、富士山の溶岩が作り出したもの
また、黄瀬川の途中には、富士山の溶岩の断崖(つまり、大きな岩でできた段差)にかかる、
- 「五竜の滝」:やや北の裾野市にある滝
- 「鮎壺の滝」
などがあります。

黄瀬川にかかる「鮎壺の滝」。滝の周りのゴツゴツして出来た岩が、まさしく三島溶岩流で出来た岩。(静岡県駿東郡長泉町)
この「鮎壺の滝」にあるゴツゴツした岩は、まさしく1万年前の
- 「富士山の噴火によって流れ出た、冷えてカチコチに固まった溶岩(三島溶岩流)」
になります。
つまり、鮎壺の滝は、
- この三島溶岩流がたまって出来た、大きなゴツゴツした岩の上に、
- 黄瀬川の流れが乗り出して、
- その水が落ちることによって、「滝」が出来ている
というわけです。
やがて狩野川と合流する、黄瀬川
黄瀬川は、おおむね南へと流れてゆき、
- 沼津市
- 清水町
との境において、狩野川と合流します。
ちなみに清水町は、沼津市と三島市の間にあります。
柿田川が流れる自然豊かな町であり、また交通の便も良い場所となります。
やがて駿河湾へと注ぐ狩野川
狩野川は、やがて沼津市街地を南へ流れてゆき、駿河湾へ注ぎます。

沼津港付近を流れる狩野川。黄瀬川はやがてこの狩野川と合流し、末は駿河湾に注ぐ。(静岡県沼津市)
なお、狩野川は
- 伊豆半島の天城峠から流れ出て、
- 北へ進み、
- 南へ大きくU ターンし、
- 沼津市街地を流れ、駿河湾へと注ぐ川
となります。
用水路としての黄瀬川
黄瀬川は、沼津市に存在する牧堰用水(←詳しくは後述します)をはじめ、
- この川から水を取ってきて、農地へと水を供給する
という、いわゆる灌漑のための用水路がいくつか存在しています。
つまり、農業のための水を引っ張ってくるため、黄瀬川の水はたくさん利用されている(古来からも利用されてきた)というわけです。
特に、長泉町よりやや北の裾野市においては、重要な役割を果たしてきました。
ダムの小さいバージョン「堰(せき)」
堰とは、いわばダムの小さいバージョンであり、水をせき止めて貯めておくための設備です。
例えば、堰は、
- 農業用水:作物たちを育てる水
- 工業用水:「冷却水」「飲み物などの原料水」「洗浄水」「ボイラーで湯を沸かす」ために、水はとても重要
- 水道用水:言うまでもなく、我々の一般家庭に重要となる水
などのための水を取ってきたり(取水)、他にも
- 塩害の防止
などを目的として、川をまるごとふさいで設置されるような施設のことです。
堰(せき)の存在が、なぜ塩害防止になるのか? そもそも「塩害」とは?
ここで塩害とは、
- 潮風によって運ばれてきた塩分が、
- 畑の地面に染み込んでしまい、
- 浸透圧によって土から水分を吸収してしまい、
- 作物の水分を奪ってしまい、
- 作物がまともに育たなくなること
をいいます。
例えば、海に近いような川の河口付近においては、
- 普段の正常な状態では、河川の水の流れに充分な強さがある
ため、海水が遡上(逆流して上に上がってくること)してくるのを防いでいます。
遡上(そじょう)とは?
ここで遡上とは、逆流して上に上がってくることをいいます。
例えば「遡上」という言葉は、
- 津波が起きたとき
- 鮎という魚が天敵から逃れ、子を産むために上流へ昇っていくとき(鮎の遡上)
などに使われます。
川の水が無くなると、海水が川を逆流(遡上)する!→塩害の原因に
しかし、
- 川の渇水などで川の水の量が減少してしまうと、
- 海水が川へと流入・混入(逆流)しまう量が増加してしまい、
- 川の水と混ざってしまうことで、
- 河口付近にある土地(農地含む)における、塩分濃度が高まる
という現象が起きます。
これによって、塩害が起きるというわけです。
川の渇水が起きると、セキを緩め、貯めていた水を足してあげる
また、川の渇水時には、上流にあるダムやセキに貯えられた水を放流してあげることで、川に流れる水の量を補給してあげるわけです。
これにより、河口付近の水の流れの強さが適度に維持され、海水が遡上しにくくなるため、塩害の発生や拡大を防止するというわけです。
そして、この堰よりもさらに大規模なものが、よくご存じのダムになります。
大雨・日照りのときに絶対に不可欠な「堰」
このように堰は、
- 川の流れをせき止め、
- もし洪水が起きたときにも、
- 下流地域に大量の水が届かないようにする
という、重要な役割を担っています。
また、もし日照り続きで水がなくなったとき(つまり、渇水状態のとき)は、あらかじめ貯めておいた水を解放して、水不足を防いであげるというわけです。
日本の川は急で流れ速いため、元々は貯水しにくい
また、2025年は水不足が続いたため、渇水するダムが続出してしまいました。
ダムの水が枯渇しすぎて、水底の茶色い部分(=土)が露になってしまうほどだったのでした。
特に、梅雨明けが早かった地域では、水不足がかなり深刻化してしまいました。
2025年には、観測史上最も早い梅雨明けが起きてしまったことなどにより、記録的な雨不足が続出したのでした。
特にこの時は、梅雨前線の活動がとても弱くて低調であり、梅雨の時期にしてはあまり雨が降らなかったのでした。
そのため、期待されたほど雨が降らない地域が多かったことが、2025年夏の水不足の大きな原因となったのでした。
日本の川の特徴:流れが急で速い!
日本の川は、
- 山がとても急であるため、川の勾配が急で、流れがとても速い
- 狭い日本列島を流れるため、そもそも川の距離が短い
などのような特徴があるため、降った雨がすぐに海へ流出してしまい、陸に保持されにくく、水資源として利用されにくいという特徴があります。
このような日本独特の地形が、降った雨を保持しにくくしているわけです。
そのため、日本の川は基本的に、水資源としては利用しにくいことも要因として挙げられます。
そのため、ダムや堰が大活躍するというわけです。
一方、ヨーロッパやアメリカの大陸の川は、全体的な長さ(総延長)が長く、勾配がゆるやかな傾向があります。
そのため、こうした海外の川は、全体的にゆったりとした流れになります。
黄瀬川の水の活用方法:沼津市にある、牧堰用水
先ほど少し紹介した牧堰用水は、静岡県沼津市にある、黄瀬川から水を取ってくる(つまり、取水する)ための、水の通り道(用水路)のことです。
沼津の牧堰用水は、江戸時代になるあたりの1602年に、当時の沼津のとても偉いお殿様であった「大久保忠佐」という人物によって作られました。
なぜ大久保忠佐によってこの水のルートが作られたのかというと、それは新田開発のためです。
江戸時代、なぜ「新田開発」が行われた?
新田開発とは、人口が増大しつつあった江戸時代に多くの人を食わせるために、各藩の大名たちがあの手この手で田んぼを耕して拡大し、米の生産量を増やそうとしたことです。
そして、黄瀬川の水を引くための「堰」を築いた上で、周辺地域にあった15にもおよぶ村の水田に対して、水を供給したのだした。
こうして、大量の米作りを可能にした、農業用水路(水が通るルート)であったというわけです。
沼津をうるおす用水路へ発展
この用水路は、このあたりの地域をうるおすための
- 「沼津を養う母親」
と呼ばれたのでした。
ただし、昭和以降は農業以外の産業がどんどん発達していったことにより、水田は減少してゆきました。
そしてこのことで、この用水路(水が通るルート)は、次第にその役割を失っていきました。
黄瀬川からの水を引いた「本宿用水」
本宿用水は、
- 黄瀬川にある「鮎壺の滝」の上部に、
- 堰(=ダムのようなもの)を設置し、
- 隧道(トンネル)と水路(水の通るルート)を伝ってゆきながら、
- 長泉町にある本宿地域の水田へ、灌漑用水を送る
ための施設です。
ちなみに本宿地域とは、前回も解説した御殿場線・下土狩駅の、やや南西に広がるエリアのことです。
本宿地域では、東海道新幹線の線路が交差します。
この用水路はなんと、江戸時代はじめの1603年に完成したのでした。
この頃には、かなり進んだ農業用水路が完成していたことがわかるわけです。
安政の大地震から復旧
しかしながら、この隧道(ずいどう・トンネル)は、江戸時代おわりの1854年に静岡県・伊豆地方を襲った安政の大地震によって壊滅してしまい、陥没してしまいました。
しかしその後に復旧され、現在は延長約700mにも及ぶ、立派な長さのものとなっています。
かつて富士山から流れ出した、三島溶岩流
1万年前の噴火によって出来た、三島溶岩流とは
ここまで紹介した三島溶岩流とは、先述の通り、約1万年前に、富士山から噴火して流れ出して固まった(今もこの地域の地面やあちこちに、むき出しになって存在している)溶岩流のことです。
つまり三島溶岩流は、元々は火山(ここでは富士山)から流れ出たドロドロした高熱の液体であるということです。
- それが常温の空気に触れて冷やされ、
- 融点を下回り、
- まるで岩のように、カチコチに固まった
というわけです。
三島市街地まで流れてきた溶岩流
この溶岩流は、
- 愛鷹山
- 箱根山
のそれぞれ間の谷を流れ、南へ下ってゆき、やがて三島市街地までへと達してきたのでした。
三島市において「三島溶岩流」がみられる場所
ちなみに、三島市における市街地各地においては、例えば以下のような場所で、溶岩流を見ことができます。
- 新幹線三島駅の北口にある、すぐ西の道路沿い
- 三島駅のすぐ南にある、楽寿園
- 三島駅のやや南にある、白滝公園
といった場所で、溶岩流を見ことができます。
いずれも三島駅からすぐ近いため、時間がある時にでも気軽に寄ってみるとよいでしょう。
三島市街地から出る「湧き水」
三島市街地では、富士山の雪が溶けた水が、地下を通って地上へ湧き出る「湧水」の存在があります。
湧き水は、三島溶岩流のすき間を流れてきた(先述の通り、富士山の雪が溶けた)地下水が、三島市街地のあちこちで湧き出しています。
それらの川は、町のあちこちを流れる小さな川として流れています。
源平合戦「黄瀬川の陣」
また、平安時代末期におこった源平合戦である治承・寿永の乱(源平合戦)において、
- 1180年に、(平氏に一度負けて約20年間流罪となっていた)伊豆において挙兵した、源頼朝
- 奥州・平泉(現在の岩手県)から急いで駆けつけた、源義経
が、それぞれ1180年に起こった
- 「黄瀬川の再会」
において、兄弟対面を果たしたと伝えられています。

鮎壺の滝(静岡県駿東郡長泉町)
頼朝の伊豆での挙兵については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

また、この黄瀬川の再会の前に行われた合戦である「富士川の戦い」については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

「黄瀬川の再開」その後、義経と頼朝は対立関係へ
そして彼らが黄瀬川で対面した後、源平合戦はどんどん進んでゆき、義経は平氏を次々に追い詰め、西の山口県・下関あたりへ追いやってゆきます。
やがて1185年の檀ノ浦の戦いにおいて、平氏を滅ぼすわけです。
しかし頼朝と義経はその後どんどん仲が悪くなり、対立していくのです。
黄瀬川の対面
頼朝と義経は、元々は平氏打倒のために挙兵した頼朝のもとに、義経が急いで駆けつけたことで再会しました。
ちなみにこの時、まだ頼朝は義経の強さや功績などを、高く評価していました。
そして、義経もまた頼朝を兄として慕い、信頼を深めたとされています。
つまりこのときは、兄弟ともに仲が良かったのでした。
関係悪化の原因
しかしその後、義経の活躍が目立つようになっていくにつれ、やがて兄の頼朝は、弟・義経の功績を妬むようになります。
また、義経が頼朝に相談をろくにすることなく、無断で朝廷から官位や役職を受けた(つまり、褒められた)ことなどが、頼朝の弟に対する不信感を、さらに募らせていく原因となりました。
頼朝による、義経の追討
最終的に、頼朝は弟・義経を「朝敵」とみなしてしまい、討伐を命じることになります。
これによって義経は京都を追われてしまい、はるか北・岩手県にいた奥州藤原氏を頼って、北へ北へと逃げ延びたのでした。
しかし、これが鎌倉にいる頼朝にバレてしまい、東北地方へと兵を送り込まれてしまいました。
やがて、奥州藤原氏は滅亡、義経も、裏切った仲間に討たれてしまい、悲劇の最期を迎えてしまうことになります。
岩手県・平泉における義経の最期については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
黄瀬川での再開虚しく 鎌倉時代へ
このように、源平合戦では黄瀬川での感動的な再会からは一転してしまい、頼朝と義経の関係は、鎌倉時代のはじまりを前に、悲劇的な結末を迎えることになるわけです。
おわりに・まとめ

鮎壺の滝(静岡県駿東郡長泉町)

鮎壺の滝より(静岡県駿東郡長泉町)
前回と今回とで、鮎壺の滝および、静岡県・長泉町の歴史や魅力などを紹介してきました!
もし青春18きっぷ等で御殿場線・下土狩駅(長泉町)に寄られる機会がありましたら、「三島溶岩流」の存在をダイレクトに感じられる、「鮎壺の滝」にも寄っていただければと思います!
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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