岩倉具視について、わかりやすく解説してゆきます!
日本の鉄道の歴史と近代化に大きく貢献した偉人について、やさしく解説してゆきます!
岩倉具視とは?
岩倉具視(1825年~1883年、京都生まれ)は、
- 日本の鉄道敷設
- 日本の近代化
に貢献した、重要な人物です。
特に、現在の東北本線などの原型となる、日本初の民間鉄道会社「日本鉄道」の設立に、全力で力を尽くしたのでした。
まずは、岩倉具視の功績を簡単に紹介!
以下に、簡単に岩倉具視の功績について書いてゆきます!
あとでさらに詳しく解説しますので、今すぐに全部理解できなくてOKです!
- 幕末に、幕府が朝廷に無断で結んだ「日米修好通商条約(不平等条約)」を、徹底批判した。
- 幕府があまりに自身の保身(幕藩体制の維持)を優先したため、幕府に対する信頼を無くし、幕府と協力する「公武合体」を諦め、幕府に見切りをつけた。
- 幕府を倒して新しい政府を樹立する「倒幕」にシフトチェンジした。
- 見事に倒幕し、明治政府の誕生に大きく貢献した。
- 岩倉使節団として、不平等条約の改正に向かったが、欧米諸国からは「まだ日本は近代国家にほど遠い」と思われていたため、挫折した。
- しかしその代わり、鉄道を含む、欧米諸国の最新の技術や政治手法などを、日本に持ち帰って広めた。
- 帰国後、征韓論を主張する西郷隆盛らを退け、国の発展(富国強兵)を優先した。
- 西南戦争でお金を使い果たし無くなった政府に代わり、民間を説得してお金を集め、現在の東北本線などの前身である、日本鉄道を建設した。
- その功績が認められ、鉄道をメインに学ぶ岩倉高校の名前の由来となった。
彼がもし存在しなかったら、日本はどうなっていた?
もし岩倉具視が存在しなかった、果たして日本はどうなっていたでしょうか?
- 欧米がどんどん進化していくなかで、日本はいつまでもサムライさんが偉い、江戸時代のままだったかも?
- 「欧米のスゴさをその目で見てくる」ということが無かったため、日本の近代化はもっと遅れていた(これは確実)。
- 鉄道が全国に広がることもなく、一部の都会地域を除いて、日本はいつまでも「馬車」に頼らざるを得なかったかも?
- そもそも「鉄道はスゴいインフラだ」と、誰も信じてくれなかったかも?
- いつまでも「国会」「議会」「裁判所」などが日本に置かれず、欧米の先進国から「時代遅れ」の国と見なされ続けて、日本はナメられ続けていたかも?
伊藤博文と似ている?
岩倉具視は、同じ「岩倉使節団」に含まれていた伊藤博文と似ていますが、以下のような違いがあります。
- 岩倉具視は、京都の公家出身(つまり、武士の出身ではなく、元々は朝廷側の人物だった)。
- 伊藤博文は、長州藩(山口県)の武士出身。
岩倉具視が大きく関わった鉄道会社「日本鉄道」とは?
冒頭に述べた通り、明治維新などのイメージが強い岩倉具視ですが、彼は日本の鉄道の歴史にも大きく関わってきたのでした(それが後述する、岩倉高校の由来)。
彼が大きく関わった鉄道会社である日本鉄道は、明治時代の日本で初となる、私鉄・民間の鉄道会社です。
そして、現代の東北本線などの原型となる鉄道路線を作った会社でもあります。
この日本鉄道は、かつて彼が岩倉使節団として欧米のスゴさをその目で見てきたときに、
と確信したため、民間のお金持ちに鉄道の必要性を説得して回り、その集めたお金で建てた鉄道会社です。
まさに現代の「東北本線」などに該当する路線を作った
ちなみに日本鉄道は、はじめは
- 上野~青森
の区間における鉄道建設を目的としていました。
さらには、現在の
- 東北本線
- 高崎線
- 常磐線
などのルーツとなる路線を作っていっつのでした。
現代では、ほとんどがJR社の路線に
やがて、
- 1906年に、軍事目的のために(日本各地の私鉄の鉄道路線は)国有化
- 戦後に「国鉄」
- 1987年に「JR社」
となっています。
日本鉄道の起点・上野駅については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
西南戦争で軍事費を使い果たし、鉄道建設は困難に
さて、先ほど、日本鉄道は岩倉具視が民間のお金持ちを説得して、お金を集めて作った私鉄鉄道会社と説明しました。
ではなぜ、国の金ではなく、民間からお金を集める必要性があったのか。
それは、1877年に起きた西南戦争における戦費・軍事費が巨額に上ったため、国はお金がすっからかんになってしましました。
そのため、日本は鉄道をまともに建設するだけの十分な予算を充てることができなくなってしまいました。
そのため、日本全体で、鉄道の建設が遅れてしまうことになってしまいました。
西南戦争については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
1872年に営業運転が始まった新橋~横浜間をはじめ、ほかは関西地方とか、当時はまだ一部の都会だけで鉄道が開通したに過ぎなかったのでした。
そのため、全国の津々浦々に鉄道を通そうというのは、当時はまだ夢のまた夢だったのでした。
イギリスでは日本の約50年前に実用化していた鉄道
ちなみにこちらの記事(当サイト)でも解説している通り、イギリスではなんと1825年に世界初の蒸気機関車による営業運転・旅客輸送である「ロコモーション号」を走らせ、鉄道を実用化しています。
つまり、日本がまだ鎖国をしている間に、世界ではどんどん鉄道の技術が進化していたのでした。
そのため、明治時代に入ったばかりの日本にとっては、鉄道の発展はとにかく急務だったのでした。
ちなみにイギリスでロコモーション号が走った1825年は、岩倉具視が生まれた年でもあります。
そのため、1825年という年は、鉄道の歴史においてとても重要な意味を持つ年なのかもしれません。
1880年代から日本鉄道が私費で鉄道を建設してゆく
話を戻します。
このように、1870年代の終りには西南戦争によって国が疲弊していたため、国による鉄道建設はままならない状態となっていたのでした。
しかし、それでは不便だということで、1880年代から日本鉄道をはじめとする民間の鉄道会社がお金を出し合って、鉄道を全国に引いていったのでした。
やがて先述の通り、日本鉄道は軍事目的のために、1906年に国有化されました。
そしてその後、国鉄時代を経て、現在のJR東日本における路線の一部となっています。
岩倉高等学校の名前にもなった、岩倉具視
また、東京・上野にある岩倉高等学校は、その名の通り岩倉具視の功績を記念して設立された学校です。
明治時代の1897年に開校されました。
全国でも珍しい、鉄道について学べる岩倉高校
岩倉高校は、全国でも珍しい、鉄道に関する専門的な内容を教えている高校です。
また、
- 鉄道の運転
- 鉄道の整備(技術面・修理・メンテナンスなど)
- 駅での業務・お仕事
など、鉄道に関するお仕事を全般的に、なおかつ専門的に学ぶことができる、いわゆる「運輸科」が存在しています。
このような鉄道に関する知識や技術を学べる高校は少ないので、すごいですよね。
鉄道に関する即戦力の育成
岩倉高校では、将来鉄道業界で活躍できるような、即戦力となる人材育成を目指しています。
そのため、岩倉高校は、鉄道に興味のある学生にとっては、とっても魅力的な学校になります。
岩倉高校には、鉄道業界で活躍している卒業生が多く存在します。
そして、岩倉高校は鉄道業界への就職実績が豊富であるため、先述の運輸科には全国各地から鉄道業界を目指す生徒が集まってきます。
岩倉具視の生涯と功績を、さらに詳しく
ここからは、岩倉具視の生涯と功績について、さらに詳しく話してゆきましょう。
公家出身の岩倉具視
岩倉具視は武士ではなく、公家(とはいっても、低い身分の公家)からの出身です。
公家とは、天皇をはじめ朝廷に仕える人達のことです。
岩倉具視は、元々は岩倉家の出身ではなく、堀河家という別の家からの出身であり、後に岩倉家の養子となったという経緯があります。
彼は、まだ鎖国中でありながら外国船が徐々に日本に忍び寄ってきた不穏な時代であった1825年に京都で生まれ、さらには13歳で、先述の通り公家・岩倉家の養子となっています。
江戸時代は、公家にも身分の差があった
岩倉家は、先述の通り公家といっても身分が低く、幼少期はあまり恵まれない生活を送ったのでした。
江戸時代は、(比較的身分が高かった)公家にも、身分の差(高い・低い)がありました。
つまり、たとえ同じ公家同士でも、位階や官職、家格によって、厳しい身分制度が存在していたのでした。
これは例えるなら、部活で同じ2年生でも、レギュラーの選手と控えの選手では、まるで扱いが異なるというのと似ています。
つまり、それだけ厳しい身分制度が存在していたのです。
幼少期は不遇な時期を送った岩倉具視
このように、低い身分における公家で養われた岩倉具視は、幼少期は不遇な時期を送ったのでした。
もしかしたら、他の身分の高い公家からのイジメやマウンティングなどもあったのかもしれません。
しかし彼は、徐々に才能を認められ、出世してゆきました。
幕末 幕府の権威はゆらぐように
はじめは、公武合体(幕府と協力する)の立場だった岩倉具視
1853年にペリー提督が黒船でやって来て以来、幕府の権威はどんどん弱まってゆきました。
というのも、それまで幕府の存在は絶対的だったのに、各地の藩や朝廷にも意見を求めてしまったからです。
これにより、朝廷の発言権や影響力が大きくなってしまいました。
朝廷・公家からの反対を押しきって結ばれた、日米修好通商条約
特に、1858年に結ばれた日米修好通商条約は、天皇・朝廷・公家からの反対がたくさんあったにも関わらず、結ばれてしまいました。
なぜ天皇・朝廷・公家がこの条約に反対したのかというと、日本の伝統を守る「攘夷(外国勢力を追い払うこと)」を主張しており、条約により日本が外国から乗っ取られると考えていたからです。
もちろんこの条約締結は、幕府の立場からすれば、
- アメリカからの強い要求や、巧みな交渉術に折れるしかなかったこと
- この条約締結に反対すると、当時の日本では、軍事的に歯向かえなかったこと
などのさまざまな断れない要因があったため、幕府としてはこの条約締結は賢明な判断だったのでした。
この条約締結が、朝廷を軽視していると受け取られた
しかしこの条約締結は、
- 朝廷や公家の意見を軽視・無視している
と思われてしまったため、幕府の権威はさらに弱まったのでした。
岩倉具視も、この日米修好通商条約には反対でした。
この条約に反対した岩倉具視
そしてこの日米修好通商条約は、後述する通り、
- アメリカにとっては有利
- 日本にとっては不利
な、いわゆる不平等条約でした。
岩倉具視は、このためになおのこと条約に反対し、明治時代になって岩倉使節団として海外へ赴き、なんとかこの条約を改正しようと試みるほどでした(後述する通り、結果は頓挫)。
公武合体へ 岩倉具視もはじめは協力
この不平等条約に対する反対は絶頂に達し、多くの人々が幕府を批判した結果、幕府は次々に処罰していったのでした。
そのため、幕府の権威や信頼はガタ落ちになっていったのでした。
1860年代に入り、幕府は失った権威を取り戻すため、
- 朝廷との協力によって、幕府の権威を回復しよう
とする「公武合体」を進めたのでした。
岩倉具視も、当初はこの公武合体派として、和宮さまの将軍・徳川家茂との結婚に尽力したのでした。
これによって、朝廷と幕府の融和に努めようとしたのです。
こうして彼は、公家出身でありながら、のちに敵となる幕府と協力しようとしていこうとしたのです。
しかし幕府との協力を諦め、倒幕へ
ところが、
- 幕府が、攘夷(外国を撃退すること)を実行しようとする意思が、まるでないこと
- 朝廷(岩倉具視の出身である公家)の権威を軽視していること
に気づき、岩倉具視は最終的に幕府を倒してやろうという「討幕」へと、方針を転換したのでした。
幕府が結局は朝廷と協力しなかった理由
ちなみに、なぜ幕府は、ここまで朝廷との協力を拒否したのか。
それは幕末になり、幕府が欧米列強の圧力に動揺するようになると、朝廷の権威が再び高まるようになりました。
すると、幕府は朝廷の意向を理解しつつも、天皇や朝廷へと主導権を渡すことに、強く抵抗したのでした。
特に、幕府のエラい人達の間では、あくまでこれまでの幕府の権威を保持することにこだわっていたのでした。
これが、岩倉具視らが幕府に対して見切りをつけ、公武合体から倒幕へとシフトチェンジした理由です。
岩倉具視らの活躍により倒幕、明治維新へ
このように方針を一転して、倒幕派についてた岩倉具視は、「王政復古の大号令」を成功させて江戸幕府の世の中を終わらせるなど、明治維新の中心人物として活躍しました。
岩倉具視が中心となって派遣された「岩倉使節団」
1871年(明治4年)に岩倉具視を団長とする岩倉使節団が、欧米を視察することになったのでした。
そのときに、鉄道の先進技術に触れる機会があったのでした。
彼はこのとき、日本がこれから発展していくにあたり、鉄道の重要性を認識したのでした。
岩倉使節団とは 岩倉具視が中心のチーム!
岩倉使節団は、1871年に明治政府によって派遣された使節団です。
その時、当時日本よりもはるかに進んでいた欧米の制度や文化を視察し、究極的には不平等条約の改正を目指すことを目的としていました。
そもそも「不平等条約」とは?
江戸時代の1858年に結ばれた、日米修好通商条約は、
しかし、これは
という、とんでもない条約でした。
つまりこれだと、もし外国人が日本で犯罪をしても、軽い刑罰だけで済んでしまうことも考えられるわけです。
「治外法権」を認めてしまった日本
このように、相手の国(=この場合は日本)の法律で裁かれない権利のことを、「治外法権」といいます。日本は、この条約により、相手国(アメリカ等)の治外法権を認めてしまったのです。
しかし、当時の日本の国力は圧倒的に弱く、認めるしかなかったのでした。
そのため、この不平等条約を改正するために、岩倉具視率いる岩倉使節団は、欧米へと旅立ったわけです。
難航→挫折した、不平等条約の改正交渉
しかし、条約改正のための交渉は難航してしまいました。
理由は、
- 日本にまだまともな裁判所が無く、日本でもし事件が起きたときに、犯人に対してまともな裁判ができるのか疑わしかった
などの理由で、まともな先進国とは認められなかったのです。
結果、条約改正の交渉は失敗に終わってしまいました。
「条約改正はムリ」→「だったらせめて欧米諸国のスゴさを見て帰ろう」
そんなことありません。
条約改正がうまくいかなかったことで、仕方なく、
- せめて、欧米の最先端の近代的な制度(国会や内閣、裁判所など)
- 欧米の技術・文化の調査・研究
などをして帰ってやろう、ということに重点が置かれたのでした。
彼らはこれらを日本に持ち帰ることにしました。
彼らが日本へと帰国した後、日本政府からは大きく評価され、日本の近代化に大きな影響を与えました。
欧米の制度・文化を調査・研究し、日本へ持ち帰った
岩倉使節団は欧米諸国での視察過程において、実に幅広い分野にわたる、欧米の様々な制度や文化を調査・研究しました。
例えば、
など、とにかく何もかも日本とは比べ物にならないほど進んでいた欧米のモノに注目したのでした。
そして、日本の近代化に役立つ情報を、とにかくたくさん集めていたのでした。
当時開国したばかりで、西洋諸国からとても遅れていた日本は、欧米とはとても大きな国力の差があることを痛感していたのでした。
帰国後
彼らの帰国後、岩倉使節団のメンバーは先述の通り、政府からとても評価されました。
そして政府において、特に重要なポジションに就くことになってゆきました。
そして岩倉具視をはじめとして、日本のトップを引っ張ってゆくことになりました。
やがては、日本の近代化・文明の発展をどんどん推し進めていくという、まさに重要な役割を担っていったのでした。
まともな議会が明治時代まで存在しなかった日本
明治時代の初めは、日本ではまともな議会が機能していませんでした。
明治時代初期の日本は、天皇を国家の主権者とする体制でした。いわゆる「天皇主権」です。
そのため当時の日本は、まだ近代国家としての要素は不十分であったと言えます。
これだと、弱い人の立場になった政治・少数派の人々の立場になった政治もできないわけです。
日本よりはるか進んでいたイギリスは、17世紀から議会があった
例えば、イギリスでは議会政治が確立されたのは17世紀でした。
日本では、岩倉使節団が帰ってきたさらに十数年後の、1890年にようやく第1回帝国議会が開かれたのでした。
そのため、日本は残念ながら明治時代になった時点で、かなり遅れていたといわざるを得ないわけです。
しかし日本はその後、怒涛の勢いで欧米諸国に追い付いていくわけです。
岩倉使節団の成果まとめ
岩倉使節団は、結局は不平等条約改正という当初の目的は達成できませんでした。
しかし、欧米の制度や文化を調査・研究し、その成果を日本の近代化に役立てるという重要な役割を果たしました。
不平等条約は、1894年に改正された
ちなみに不平等条約は、1894年に改正されました。
岩倉具視はその11年前の1883年に亡くなっていますので、彼が生きている間には、自らの手で不平等条約を改正することは出来なかったといえます。
しかし、岩倉具視らの賢明な近代化によって、不平等条約改正のステップが一歩ずつ近づいていったのは、間違いないでしょう。
関税自主権の完全回復は?
また、関税自主権の完全回復は、1911年(明治44年)に、小村寿太郎という外務大臣によって、アメリカとの交渉で実現しました。
「征韓論」の西郷隆盛と対立
話を岩倉具視の帰国後に戻します。
しかし、岩倉使節団の留守間に、西郷隆盛らが率いる元・武士達の一派は、日本が西洋からナメられないために、朝鮮半島へ攻めいるという「征韓論」を推し進めていたのでした。
これは、仕事を失った元・武士たちに、活躍の場を与えるという意味も持っていたのでした。
しかし、岩倉使節団として欧米へと渡った岩倉具視らは、欧米のスゴさ・ヤバさを自分の目で見て知っているわけです。
つまり、征韓論などそういった事に金と労力を割く余裕があるのならば、むしろ日本の政治や産業をどんどん発展させていく必要があると考えたわけです。
そのため岩倉具視らは、欧米のスゴさを直接知るわけではない西郷隆盛とは、必然的に対立してしまうことになるのでした。
明治6年の政変 西郷隆盛らは政府を辞め、地元・鹿児島へ帰る
こうして岩倉具視らと対立した西郷隆盛らの元・武士グループは、明治6(1873年)年にみんな政府を辞めてしまい、地元の鹿児島や佐賀県などに帰ることにしたのでした。
これを明治六年の政変といいます。
しかし彼らの目的は、あくまで仕事を失った武士への活躍の場を与えることでした。
西南戦争が勃発
しかし、西郷隆盛が地元・鹿児島で武士たちを育成していたところ、明治政府から「反乱軍を育成している!」と勘違いされてしまい、九州に兵を送り込まれ、1877年に西南戦争が勃発してしまいました。
西郷隆盛の軍は圧倒的な政府軍の攻めに敗れ、西郷隆盛は鹿児島で銃弾に倒れ、死亡してしまいました。
西南戦争で、日本政府は多額の予算を使う 鉄道建設は不可に
この西南戦争において、日本政府は勝ったものの、多額の予算を消費してしまい、その後の鉄道建設はできなくなってしまいました。
そこで1880年代から、岩倉具視率いる日本鉄道が、ようやく動き出すのです。
日本鉄道の設立にも関わった、岩倉具視
岩倉具視は、欧米諸国のスゴさを目の当たりにしていたため、日本においても鉄道は絶対に必要だと考えていたのでした。
しかし先述の通り、西南戦争によって国の予算は使い果たしてしまい、まともに鉄道を作る余裕はありませんでした。
そこで彼は1881年、華族や士族といった、有力なお金持ちの皆さんから、線路を建設していくためのお金を募っていったのでした。
つまり、とにかく
ということをお金持ちたちに対して必死で説得をして回り、お金を募っていったのです。
このように岩倉具視は帰国後、日本の鉄道をどんどん敷設していくことに、力を尽くしてゆきました。
民間を説得し、鉄道建設の資金を集める
岩倉具視は先述の通り、
- 鉄道建設の必要性
を当時の有力な資産家たちに説明し、鉄道の建設のために投資してくれるように働きかけていったのでした。
また、岩倉具視は、交通をより発展させていくことが日本の経済を活発にさせ、さらにはそれが富国強兵に繋がると主張したのでした。
民間資本の活用による、鉄道建設
こうして財政難に苦しむ政府に代わり、
というアイデアは、岩倉具視の時代の先取りする能力を示すものでした。
日本の鉄道の発展へ
こうして日本鉄道の設立をきっかけに、全国各地で、私設の鉄道会社による鉄道路線が設立されてゆきました。
このように、岩倉具視らの主導によって、日本の鉄道の発展の基礎が築かれていったのでした。
おわりに・まとめ
以上、岩倉具視の功績によって
- 江戸幕府の時代を終わらせ、明治維新のきっかけとなった
- 欧米諸国の最新の技術などが、日本にもたらされた
- 日本でもあちこちに鉄道が広がっていくきっかけとなった
ことがわかっていただければOKです!
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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