沼津と旅とお酒をこよなく愛した偉人・歌人である若山牧水について、その衝撃の人生を初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!
はじめに
今回は、若山牧水と静岡県・沼津での暮らしについて学んでゆきましょう!
若山牧水は、美しい富士山や千本松原を愛して、大正時代にこの地へ移住しました。
彼がどんな風景を見つめ、どんなお酒を楽しみ、そしてどんな想いで自然を守ろうとしたのか。
これらの知識を学ぶことで、よりゆかりの地の観光や旅行、探訪が面白くなりますよ!

若山牧水が愛した、沼津の松原(静岡県沼津市)
若山牧水
若山牧水(わかやま ぼくすい)とは?

かつて若山牧水が愛した、沼津・千本松原(静岡県沼津市)
若山牧水(1885年~1928年、宮崎県日向市生まれ)は、沼津(静岡県沼津市)をこよなく愛した、明治・大正時代を代表する超有名な歌人(つまり、短歌を作る人)です!
歌人:主に五・七・五・七・七のリズムで言葉を紡ぐ、短歌の専門家のことをいいます。
静岡県沼津市の基本的知識については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

旅と酒を愛した歌人
彼は「酒を愛し、旅を愛した」ことで知られます。
故郷の宮崎県を出てから全国を旅しましたが、同時に大の酒好きでもあったため、全国各地の「酒を堪能する」ことも、彼にとっての大きな旅の楽しみであったといいます。
そうしてあちこち旅行している間に沼津が特に気に入り、最終的に沼津の千本松原の美しさに惚れ込んで移住し、ここがいわゆる「終の棲家」となりました。
千本松原については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

自然保護の先駆者

若山牧水が愛した、沼津・千本松原(静岡県沼津市)
また、彼が沼津で暮らしていた当時、なんと海辺の美しい松林を伐採してしまえ、という計画があったのでした。
しかし、牧水が「美しい自然を守ろう!」と声を上げたおかげで、今の美しい景色が残っているんですよ。
沼津の恩人・偉人
そんな彼が人生の最期をささげた沼津には「若山牧水記念館」もあり、今でも市民からとても愛される存在となっています。
かなしからずや
空の青
海のあをにも
染まずただよふ
という有名な歌を知っている方も多いかもしれませんね!
「白い鳥(カモメなど)は、
悲しくないのだろうか。
空の青さにも、
海の青さにも、
その色に染まってしまうことなく、ただ一人真っ白な姿で漂っている。」
若山牧水と千本松原の物語
先述の通り、若山牧水はまさに
でした。
生涯の旅人だった
彼は故郷の宮崎県を出てからというもの、「酒と旅」をとにかくこよなく愛し、旅と地方の酒(地酒)を求めて、日本全国を歩き回りました。
しかし、いろんな場所を旅しているうちに、最終的に「ここに住みたい!」と決めたのが、まさに沼津の千本松原だったのです。
若山牧水が守った、千本松原の緑

駿河湾と富士山・千本松原(静岡県沼津市)
さらに、大正時代になってから千本松原の松林を伐採するという計画が持ち上がったときに、若山牧水は新聞に対して寄稿するなどして、必死にこの伐採計画に対して反対しました。
牧水が新聞に寄せた、魂の叫び
1922年(大正11年)、千本松原の伐採計画を知った若山牧水は、激しいショックを受けました。
彼はすぐさま、当時の「静岡民友新聞」という新聞に対して、『千本松原を救へ』という一文を寄稿しました。
寄稿:新聞や雑誌などのメディアに、頼まれて(あるいは自分から)文章を書いて、送ることです。
その内容は、単なる反対意見を超えて、自然と人間との繋がりを強く訴えるものでした。
若山牧水・必死の訴え
彼はこのように訴え、このような痛切な表現を用いて、松林への愛を叫びました。
すなわち、彼は千本松原を「沼津の宝」というだけではなく、「日本の宝、人類の財産」であると定義したのでした。
このような取り返しのつかない損失について、彼は必死になって世の中へ警告しました。
すなわち、この文章は、当時の人々の心を大きく揺さぶり、保存運動の大きなうねりを作ることになったというわけですね。
したがって、彼の
という情熱があったからこそ、私たちは今もあの美しい緑を見ることができるのです!
そもそもなぜ、大正時代に伐採計画が持ち上がったのか?
では、そもそもなぜ、これほど美しい千本松原の松林を切る必要があったのでしょうか。
そこには、当時の日本の時代背景が深く関わっています。
深刻な財政難と維持費
当時、千本松原は国有林でした。
しかし、その維持管理には多額の費用がかかる一方で、国としての収益はほとんど生んでいませんでした。
したがって、国は千本松原のことを、まるで
- 「活用されていない無意味な土地」
- 税金をかけて維持しても、コスパの悪い松林
として、別の用途に転換することを考えたのです。
農地開発と食糧問題
少子化の現代とは異なる「多子化」だった大正時代、日本の人口は急増していました。
それに伴い食糧不足が問題となっており、広大な松林を切り開いて「耕作地(畑)」にしようとする計画が浮上しました。
すなわち、景観よりも「食べるための土地」が優先されようとしていたのですね。
木材需要の高まり
さらには、当時は建築資材や燃料としての木材需要も、非常に高まっていました。
つまり、世の中がたくさんの木材を欲しがっていたような時代だったのです。
千本松原にあった無数の立派な松の木は、売れば大きな利益になる「資源」「商品」として目をつけられてしまった、というような側面もあったわけです。
そのため若山牧水は、家族四人も養わなければならないほどの自身の生活も決して楽ではない中、全国各地を回って講演活動まで行い、反対の署名を必死になって集めて回ったのでした。
その結果、ついには計画を中止に追い込んだのです。
彼がいなければ、今の美しい駿河湾の景色は残っていなかったかもしれませんね!
これだけでも十分に沼津の偉人というような気がしますね。
若山牧水、まさか「飲み過ぎ」て亡くなった?
そんな若山牧水は晩年、まさかの「飲み過ぎ」が原因で亡くなってしまいました。
すなわち、若山牧水の死因にはお酒の飲み過ぎが、深く関係しているというわけです。
お酒を愛しすぎた歌人
若山牧水といえば「お酒」のイメージですが、彼は1日に一升(約1.8リットル)ものお酒を飲むほどの愛飲家でした。
1升(いっしょう):日本の古い容積の単位で、約1.8リットルです。
とても大きな一升瓶1本分ですね。
晩年の酒量「1日1升(1.8リットル)」の凄まじさ
では、晩年に毎日飲んでいた「1升(1.8リットル)」というのがこれがどれくらい規格外の量なのか、検証してみましょう。
まず、現代の健康目安との比較です。
厚生労働省が推奨する「節度ある飲酒」は、日本酒なら1日1合(180ml)程度です。
しかし、若山牧水の摂取量は、なんとその10倍にあたる10合(1,800ml)を毎日空けていたことになります。
これはもはやヤバすぎる数です。
また、アルコール量も甚大なものでした。
日本酒の度数を15%とすると、純アルコール量は約216g。これは一般的な「深酒」の基準を遥かに超えているという、医学的には極めて危険な量です。
したがって、若山牧水の飲酒量は、普通の人と比較して「圧倒的に多かった」と言わざるを得ません。
最後には肝硬変で亡くなってしまいますが、夏の暑い盛りでもなんと遺体が腐敗しなかったという、まるで嘘のような本当の伝説(アルコールが体に充満していたため)が残っているほどです。
肝硬変(かんこうへん)
そして先述の通り、残念ながら彼は長年の「多量のお酒」によって肝臓を著しく痛めてしまい、1928年の9月に43歳の若さで亡くなりました。
死後のエピソード
そして先述の通り、亡くなったのが暑い盛り(9月)でしたが、生前あまリにお酒を飲んでいたため、遺体が腐りにくかったという、驚きの中にも「どこか彼らしいエピソード」が残っています。
今の感覚からすると、働き盛りのあまりにも早いお別れでしたが、それでも生前に彼が命をかけて全力で千本松原を守り、さらには美しい歌までをも残した功績は、今も沼津の誇りですね。
沼津での暮らしは決して楽ではなかった?
結論から言うと、沼津での暮らしは決して裕福ではなく、むしろ経済的にはかなり苦しかったようです。
それにはいくつかの理由がありました。
大家族を支えるプレッシャー、莫大な酒代
まず若山牧水は、妻の喜志子と、4人の子供を養わなければなりませんでした。
現代の感覚からするとかなりの大家族であり、これだけの人数を養うのは大変なことです。
また、先述の通り、彼は毎日1升のお酒を飲んでいました。そのため、その購入費用(酒代)だけでも家計を大きく圧迫していました。
執筆活動の不安定さ、私財による自然保護運動で全国各地を奔走
当時の歌人は、原稿料が主な収入源でした。
しかし、それだけで家族全員を食べさせるのは並大抵のことではありませんでした。
さらには、千本松原の保存運動のために全国各地を奔走(講演活動など)していたときにも、旅費や宿泊費などに私財を投じたり、さらには自身の執筆時間を削ったりして活動していました。
しかし彼は、たとえ生活は苦しくても、彼は沼津の海と富士山、そして松林を心から愛していました。
確かに彼には「心の豊かさ」はありましたが、彼の台所事情は常に「火の車」だったようですね。
若山牧水が宮崎から各地を回った理由
「孤独」と「自由」への渇望
若山牧水さんは、元々は地元・宮崎のお医者さんの跡取り息子・後継ぎとして期待されていました。
しかし、彼はあえてその重圧から逃れ、自由を求め続け、
という強い思いが常にありました。
短歌のインスピレーション
そして彼は短歌を作るときも「足で歌を作る」と言われるほど、実地・旅先における、現地の風景を大切にしました。
すなわち、彼は実際に自分の目で見た山・川・海の美しさを短歌に刻むために、常に移動・旅行し続ける必要があったというわけです。
お酒を求める旅
冗談のようですが、各地の美味しいお酒(地酒)を味わうことも、彼の旅の大きな目的であり、楽しみでした!
全国を歩き回った旅路
彼は「旅の歌人」と呼ばれるほど、日本中を旅しました。
故郷の九州はもちろん、北海道から四国まで幅広く渡りました。
彼にとって旅は「歌が生まれてくる種」であり、彼は全国各地を歩き回りました。
しかし、その移動距離は当時の交通手段を考えると、とても凄まじいものでした。
と驚いてしまうほどの旅でした。
お酒を飲んで、旅をして、美しい歌を詠む。
まさに「自分らしさ」を貫いた、自由で情熱的な人生だったのですね!
みなかみ紀行(きこう)
特に群馬県のみなかみ周辺の旅は有名で、今でも各地に彼の歌碑が立っています。
歌碑:有名な歌を、石に刻んで立てた記念碑のことです。
みなかみ紀行とは、1922年(大正11年)に発表された、若山牧水の代表的な紀行文です。
紀行文:旅行したときの様子や、その場所で感じたことなどを書いた文章のことです。
沼津が「決め手」となったミラクル
これだけたくさん、全国のあちこちの絶景を見てきた彼が、なぜあえて最後に沼津を移住先として選んだのか。
そこには、いくつかの運命的な要素が重なっていました。
富士山が見える「究極の松原」

若山牧水が愛した景色:千本松原からの富士山(静岡県沼津市)
彼にとって、千本松原越しに見る富士山は、日本中のどこで見た景色よりも「完璧」だったようです。
温暖な気候と美味しいお酒
また、寒さが苦手だった彼にとって、沼津の「暖かい冬」と美味しい魚、さらには地元のうまい酒がある環境があった沼津は、まさに彼にとっては理想郷のような場所だったのでした。
理想郷自分にとって、最高に幸せで完璧だと思える場所のことです。
家族への想い
また、彼にとっては
- 子供たちの教育
- 静かな執筆環境
を考えた時、沼津のまさに「都会すぎず、田舎すぎない」というバランスが、絶妙に整っていたというわけですね。
すなわち、全国各地を散々あちこち歩き回ってきた彼だったからこそ、「ここが私の居場所だ」という直感が働いたのでしょう。
旅人がこうして最後に選んだ場所が沼津だったというのは、市民にとってもそしてファンにとっても、最大級の褒め言葉ですね!
若山牧水が沼津で最後に住んでいた家は、今も「若山牧水記念館」の近くに復元されています。
若山牧水が愛した「沼津の地酒」
酒好きな若山牧水が沼津に住んでいた頃に、彼は地元の銘柄のお酒をこよなく愛していました。
白隠正宗(はくいんまさむね)
若山牧水も大好きで飲んでいた白隠正宗というお酒は、沼津を代表する歴史あるお酒です。
沼津にゆかりのある江戸時代の有名な禅僧である、白隠禅師から名付けられました。
彼はこのお酒をとても気に入り、友人たちにも勧めていたと言われています。
お酒への愛が詰まった歌
若山牧水は、本当に旅と酒が大好きだったのでした。
彼の人生は、文字通り「お酒」と「旅」でできていたと言っても過言ではありません。
私は酒が好きである
酒がなくては
夜も日もあけぬ
という、なんとも正直な歌も残しているのです。
したがって、今の沼津で白隠正宗をいただくことは、牧水の心に触れるような体験になるかもしれませんね。
そして、悲しいときも嬉しいときも、常に彼の傍らには「お酒」がありました。
白隠正宗(お酒)は、今も沼津で大人気!
若山牧水も愛した白隠正宗。
2026年現在も、沼津が誇る最高の地酒として絶大な人気を誇っています。
また、このお酒は沼津の名物である干物や「新鮮なお刺身」との相性をも考えて造られています。
牧水が飲んでいた頃から時代は変わっても、その美味しさと人気は変わらずに受け継がれているのです。
沼津の名物・干物については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

おわりに・まとめ
若山牧水の沼津での暮らしを学んでみて、いかがだったでしょうか。
彼は経済的に楽ではない中でも、愛する自然を守るために情熱を注ぎ、日々美味しいお酒を酌み交わしました。
すなわち、彼の短歌は豊かな自然と、人間味あふれる生活から生まれたものなのです。
次に沼津を訪れる際は、ぜひ松林を吹き抜ける風の音に、彼の魂の叫びと情熱のあとを感じてみてください!
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