岡崎城の観光・歴史(愛知県)徳川家康の生い立ちも、わかりやすく解説!

​愛知県・岡崎市岡崎城の観光・歴史と、徳川家康の生い立ちなどについて、初心者の方にも、わかりやすく解説してゆきます!

岡崎城(愛知県岡崎市)

岡崎城は、​徳川家康のふるさと!

​今回は、​愛知県・岡崎市おかざきしにある、​岡崎城おかざきじょうの観光と歴史についてお話しします!
​​岡崎城は、あの​徳川家康が生まれたお城です。

このお城を観光することは、ただ古い建物を見るだけ、というわけでは決してありません

すなわち、

  • 「​徳川家康は、どんな家で生まれたのか?」
  • 「なぜ、​岡崎という場所が、​家康にとって特別だったのか?」

その歴史を知れば、お城の景色がまったく違って見えてくるわけです。

​すなわち、家康という人物の魅力を知ることで、​岡崎城の観光は、さらに深みが増すはずです!

岡崎城とは?

岡崎城(愛知県岡崎市)

岡崎城(愛知県岡崎市)

岡崎城おかざきじょうは、かつて三河国みかわのくに岡崎藩おかざきはん(つまり現在の愛知県岡崎市おかざきし)にあった、日本の城です。

愛知県岡崎市おかざきしは、愛知県の東部、つまり三河みかわ地方に位置しています。
すなわち、岡崎市はかつての三河国みかわのくにに属していることとなります。

さらに、岡崎市はそんな三河国のうち(名古屋に近い)西部地域にあたるため、西三河にしみかわに分類されます。

岡崎城の存在する岡崎市の中心駅・岡崎駅

岡崎駅(愛知県岡崎市)

​愛知県の​東部ってどんなところ?

かつて大昔の日本では、​​愛知県の東側のことは「​三河国みかわのくに」または、シンプルに「​三河みかわ」と呼ばれていました。
つまり、「愛知県」などという呼び方は、昔は無かったわけです。

  • 愛知県北西部:尾張国おわりのくに
  • 愛知県南東部:三河国みかわのくに

ちなみに、三河地方の主要都市には、以下のような街があります。

​東海道新幹線の「三河安城駅みかわあんじょうえき(愛知県安城市)」も、この「安城市」が「三河国」にあることに由来します。

ちなみに、三河安城駅は、

のぞみ号でいつも通過するけど、いつかは降りてみたい駅

として有名ですね。

そして、この「​三河国みかわのくに」の中でも、さらに東側にある地域を「​東三河ひがしみかわ」と呼びます。
なんだか、地名に歴史が感じられますね。

徳川家康が生まれ活躍したのも、まさにこの​三河の地だったわけです。

三河・蒲郡の海(愛知県蒲郡市)

​​徳川家康の生まれた城・​岡崎城

​​岡崎城は、あの​徳川家康が生まれた、とても大切なお城です。
また、岡崎城は

  • 家康が生まれたとき、ドラゴンの神が現れた

というエピソードから、「​龍城」や「​竜城」という、かっこいい別名も持っています。

ちなみにこれは、

  • 愛知県がまるで竜のかたちをしていること
  • 中日ドラゴンズ

とは、無関係なようです(当たり前かな?)。

​​岡崎城は、戦国時代から​安土桃山時代にかけては、​徳川家康の出身のルーツである

  • 「​松平氏まつだいらし

の持ち城でした。

そして、​江戸時代に入ると、「​岡崎藩」というエラいお殿様たちによる政治の拠点の中心となりました。

​しかし残念ながら、元々あったお城は、壊されてしまいました。
しかし、​戦後の1959年に、​天守が立派に復興されたわけです。
今では、​岡崎のシンボルとして、多くの人々に親しまれています。

岡崎城より(愛知県岡崎市)

岡崎城より。私の歴史探索中に、カップルが幸せアピールをしてきた。(笑)(愛知県岡崎市)

乙川に守られた岡崎城

岡崎城周辺を取り囲む、乙川(愛知県岡崎市)

岡崎城周辺を取り囲む、乙川(愛知県岡崎市)

岡崎城は、乙川おとがわの自然のバリア ーに守られた重要軍事拠点でした。

岡崎城は、この乙川の自然の地形を利用した、いわゆる天然の要害でした。
すなわち、まだ「お堀」などの技術が発展していなかった室町時代あたりにとっては、重要な軍事拠点でした。

乙川が守った!徳川家康の​岡崎城

すなわち、​​乙川という川の存在は、​岡崎城を攻めようとしてくる敵にとっては、とても大きな障害となりました。
もし敵が攻めてきても、まず川に阻まれるため、思うように敵が攻めて来にくいわけです。

すなわち、​乙川は​岡崎城の防御力を高め、天然の要害たらしめる、重要な要素の一つだったわけですね。

​天然の防御線としての役割

このように、乙川に囲まれた​​岡崎城は、敵の侵攻を防ぐのに、まさに最適な場所に位置していました。

当時は「大阪城」みたいな大規模な「お堀」を建設する技術もありませんでしたから、川が「自然のお堀」の役割を果たしてくれるこの場所に、城が築かれないわけがないわけですよね。

​​岡崎城で生まれた家康

冒頭にも述べた通り、​​岡崎城は、​徳川家康が生まれた場所です。

徳川家康は、1542年という戦国時代の真っ最中の時代に、岡崎城の中で生まれました。

もちろん最初から「徳川家康」という名前だったわけはでなく、幼少期は「竹千代たけちよ」と呼ばれました。

すなわち、昔は、

  • 成人したとき(幼名が必要でなくなったとき)
  • 出世したとき

などを境にして、いわゆる名前を変える「改名」という行為は、当時はまるで通過儀礼・儀式のように行われていたのでした。

徳川家康の名前の変遷

徳川家康の名前の変遷をまとめると、

  • 1542年~1555年:竹千代たけちよ幼少期。清水の清見寺せいけんじなどでお勉強をしていた時代。
  • 1555年:松平元信まつだいらもとのぶ。14歳で元服(成人)となったとき、ボス・主君である今川義元から期待を込めて「」の文字をもらった名前。
  • 1557年~1563年:松平元康まつだいらもとやす尊敬するおじいさんである松平清康から「康」の文字をもらい、改名。今川義元の下について、桶狭間などで戦った時期
  • 1563年~1566年:松平家康まつだいらいえやす桶狭間でボスの今川義元が敗れたため、独立を決意。もはや「元康」を名乗る意味が無くなったため、改名。織田信長の下について戦うようになる。
  • 1566年~:徳川家康天皇から直々のお許し(勅許ちょっきょ)を受け、他にもたくさんある松平氏と差別化し、自身を別格の特別な存在であることを示すため改名。

昔は現代に以上に「改名」「名前」「苗字」は重要だった

いかがでしょうか。
現代の我々からすれば「何回名前変えるんだよ!」って感じですよね。
しかし当時は、武士たちにとって​苗字や​名前は、現代の私たちが考える以上に、非常に強いこだわりと​意味が詰まったものでした。

すなわち、当時は「名前」というものは、単なる「個人を識別するための文字列」ではなく、その人の

  • 人生
  • 地位
  • 政治的な立場

などをすべて表すという、非常に​強力な記号だったのです。

すなわち、当時の戦国武将たちは、名前を戦略的な「強力なカード」として「利用」することで、​地位や権威を対外的に示していたわけです。

今川義元から一文字もらって「松平元康」

幼少期は今川家によって人質に取られ、現在の静岡県静岡市にあたる場所(駿府すんぷ)において、幼少期を過ごしました。

今川義元いまがわよしもとの支配下におかれたため、このときの家康は、今川義元の「元」という一文字が与えられて、松平元康まつだいらもとやすと名乗るようになりました。
これは、当時は松平家よりも圧倒的に格上だった今川氏の支配下として認められたため、当時の松平家にとって「」の字が与えられたのは、とても名誉だったのでした。
今川義元も、当時の家康に対してとても将来有望な部下となることを期待して、「元康」という名前を与えたのでした。

​すなわち、当時の家康はこの名前を使っている限り、

「自分は偉大なる今川様に仕えている、非常に優秀忠実な家臣(部下)なのである!凄いだろう!!

みたいな今川氏との​強い絆を、周囲に対して毎日示していたわけです。

桶狭間の後、今川家から独立「松平家康」へ

しかし1560年の「桶狭間おけはざまの戦い」において今川家は滅亡したため、家康は晴れて独立したのでした。

その後、元々は今川義元からもらった「松平元康」という名前は意味がないものとなり、「松平家康」に改名したのでした。
そのあと、織田信長の下について、甲斐国かいのくに武田信玄けだけしんげんらといった強敵と戦うようになっていくのです。

そして1566年、天皇からのお許しを得て、さらに強力な名前である「徳川家康」に改名し、現代に知られるようになります。

徳川家康のご両親について

元々は、岡崎城は家康の父である松平広忠まつだいらひろただ居城(つまり本拠地)であり、家康は

  • 松平広忠
  • 於大おだいかた(広忠の妻、家康のお母さん)

の間に生まれた嫡男ちゃくなん(つまり、長男のこと)でした。

なぜ家康は、岡崎城で生まれたのか?

家康が、岡崎城で生まれた理由としては、以下の点が挙げられます。

そもそも岡崎城が、松平氏の居城であったこと

岡崎城は、家康の先祖である松平氏まつだいらしにとっては、代々にわたって重要な支配拠点でした。

当時の松平氏は、全国的にはそこまで知られた存在ではありせんでしたが、岡崎をはじめとする三河地方では、十分に勢力存在感を持っていた存在でした。

岡崎城松平氏にとってとても重要だった理由は、例えば、

  • もし戦争になったときの、兵士などを指揮したり、食べさせたりするための拠点
  • 東海道の多くの人々が通る重要なルートの上にあり、モノなどを運んだり売ったりするのに重要な場所

として機能してきたからでした。

東海道:まだ東海道新幹線が無かった江戸時代に、人々が江戸から京都まで、徒歩またはで、約20日かけて移動していた道です。
この東海道は、ここ・岡崎も通っていました。現在の東海道本線もそうですよね。

すなわち、家康の父である松平広忠がドッシリと構えて座っているという、とても重要なお城でもあったのでした。
そのため、家康がそこで生まれたというのは、言われてみれば当然自然な流れでした。

岡崎城の「ドラゴン」の、象徴的・神格的な意味

岡崎城は「竜ヶ城」とも呼ばれました。
これは、いわゆる「竜の神様」が守護する(ガードしてくれる、守ってくれる)お城としてある意味で神格化伝説的な意味を持っていたのでした。

普通に考えて、「ドラゴンに守られた岡崎城」なんて、誰も偉大なる松平さまに対して逆らおうとは思いませんよね・・・。
岡崎城松平氏に逆らったら「ドラゴン」に一撃でやられてしまいそうです。

もちろん、松平氏の皆さんにとっても住民・領民らに暴れられては困る反乱鎮圧には膨大なコスト兵士の命がかかる)ため、逆らってもらわれては困るわけです。

家康が生まれたとき、岡崎城にドラゴンの神様がやってきた伝説

それはさておき、徳川家康は、生まれたときドラゴンの神がやってきたそうです。

昔は色んなものが神様だと思われていたので、

  • 竜(ドラゴン)
  • 鷹(ホーク)
  • 獅子(ライオン)強さの象徴
  • 猛虎(タイガー)強さの象徴
  • シカ:奈良公園の神様
  • うさぎ:飛躍安産の神様

などといった動物も、みんな神様(あるいは、その使い)だと信じられてきたのでした。

ちなみにお気づきだと思いますが、上記のいくつかは野球チームの名前になっています。
もちろん「神様」にあやかって(縁起をかついで)野球チームの名前を考えたわけではないと思います。

しかし、上記に挙げたような動物はみな強さのシンボルなので、野球チームの名前になったのはわかる気がします。

もちろんも、岡崎城の神様だとされてきたのでした。
ただし、おなじ愛知県の中日ドラゴンズとの関連は不明です(こちらは多分、無関係でしょう)。

松平という「非常に名高い」苗字

家康の先祖・ルーツである松平まつだいらという苗字は、それだけで非常に身分高いことを示す、とてもシンボル的な苗字でした。
また江戸時代に、松平という苗字を持っていると、それだけで身分が高いことが分かるようなものでした。

特に有名な人物が、江戸時代に「寛政かんせいの改革」を行った、

  • 松平定信まつだいらさだのぶ

ですね。

松平という苗字は、江戸時代において、は身分の高い家柄であることを示す、重要な要素でした。

また、​1566年に家康が「​徳川」に改姓した後も、

  • 将軍家の一族のエラい人たち
  • 身内の親戚筋にあたる大名(​親藩しんぱん

の多くは、引き続き「​松平」の姓を名乗っていたのでした。

「​松平」は特別なブランド名

​​徳川家康が「​徳川」に姓を変えた後も、「​松平」の姓は、

  • 将軍家のルーツを示す、​名誉ある姓

として扱われました。

したがって、「​松平」を名乗る人たちは、主に以下の三つのパターンに分類され、高い地位にありました。

  1. ​​親藩しんぱん
  2. ​​譜代ふだいの一部
  3. 名誉あったり、婚姻で親戚になるなどで、​​賜姓しせいを受けた大名

賜姓:エラい人から、苗字をもらうこと。何かの偉大な功績を挙げた者や、エラい人と結婚した人に、この「賜姓」が行われた。

​​徳川家康と​松平氏

​その後、​江戸幕府を開いたことで、​家康の家である​松平氏の地位は、さらにぐんと高まりました。

このように、​家康の大成功・出世は、彼の出身であり、元々は三河国のいち豪族に過ぎなかった​松平氏の地位を、より世にとどろかせ、確固たるものにしたと言えます。

苗字と身分の関係

このように、江戸時代において、苗字身分を示す重要な要素でした。

そもそも、江戸時代は誰でも苗字を名乗れるわけではありませんでした。

つまり苗字というものは、今とは違う意味を持っていたわけです。

現代の「松平」さんたちは

令和の現代でも「松平」という苗字の方はたくさんいます。
松平家は、徳川家康のルーツであり、歴史的に有名な苗字ですが、現代でも全国に広く分布しています。

松平」は名字ランキングでも2,000位付近に位置する、比較的メジャーな名字です。

現代では、松平という名字は、徳川家康にルーツを持つ家系だけでなく、様々なルーツを持つ人々が名乗っています。

​岡崎城出身者の、江戸幕府での出世

​​岡崎城は、​徳川家康が生まれた場所であるため、​江戸時代に入ってからも、このお城を治めた武将たちは、​幕府の中でとても重要な役職についていました。

岡崎城の城主は、代々「譜代大名ふだいだいみょう」が務めました。

「​譜代大名」とは、かつてより​徳川家に仕えてきた、徳川家にとって信頼のおける家臣(部下)たちのことです。

すなわち、 ​家康が生まれたこの神聖な場所を、

  • 徳川家の忠実な家臣(部下)
  • 親戚の大名・お偉いさん

たちが、ずっと守り続けたということですね。

そしてその結果、​岡崎城の出身者たちは、​江戸時代においても、

  • 幕府の上位クラスの​要職に就くことが多かった

というわけです。

つまり、​岡崎城に仕えることが、いかに出世への近道だったのかもしれませんね。

​​岡崎城とゆかりのある武将たち

​​岡崎城の城主は、​徳川家康と深い縁のある武将たちが務めていました。

​​本多氏

​​本多氏も、​岡崎城の城主を務めた、由緒ある家柄です。
特に、​本多忠勝ほんだただかつという武将は、​徳川家康の家臣として、非常に有名ですね。

この本多忠勝は、いわゆる「​徳川四天王(※)」の一人にも数えられ、​家康の天下統一を陰で支えた、とても勇敢な武将でした。

徳川四天王とは、

  • 本多忠勝
  • 酒井忠次さかいただつぐ
  • 榊原康政さかきばらやすまさ
  • 井伊直政いいなおまさ

という、徳川家康の天下取りを大きくサポートした4人です。彼らがいなければ、家康が江戸幕府を開くことはあり得なかったともされます。
この4人のうち、事前に亡くなっていた酒井忠次を除く3人は、関ヶ原の戦いでも大きく貢献しました。

本多忠勝は、

  • 家康に過ぎたるもの(=家康よりもはるかに超越していた)

とまで言われるほどの武勇を持ち、

  • 生涯で参加した57回の戦いで、一度も傷を負わなかった

という逸話いつわが残っています。すなわち、無類の強さを誇る猛将でした。
つまり、​本多氏は、​家康にとって、なくてはならない存在だったと言えます。

​​水野氏

あの天保てんぽうの改革を行った水野忠邦みずのただくにで有名な​​水野氏みずのしも、​岡崎城の城主を務めた家柄です。
実は、​徳川家康の母親の於代おだいかたは、​水野氏の出身でした。

そう、​家康と​水野氏は、​親戚関係にあたるわけです。
家康と血縁関係にあるということですね。

​したがって、​江戸時代に入ってからも、​水野氏からは、

  • 幕府の重要な役職に就く者
  • 大名、​旗本になる人

がたくさん出ました。
​つまり、​家康との親戚関係が、彼らの出世に大きく影響したということですね。

つまり、​徳川家のコネクションってすごいわけですね。

おわりに

岡崎城より。いい運動になった~!って感じでした。(愛知県岡崎市)

岡崎城は、単なる見るだけの歴史的建造物ではありません。
天下人・​徳川家康が生まれた場所であり、彼の生涯の原点を知ることができる、特別な場所です。

​​家康の​ルーツや、彼を取り巻く人々について知ることで、​岡崎城の観光は、さらに奥深く、魅力的なものになります。

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