富士川水運と身延線の歴史、さらに角倉了以の開削や困難だった水運の歴史について、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!

富士川(山梨県南巨摩郡身延町)
身延線と富士川の水運
身延線でたどる富士川の歴史
今回は、JRの身延線をテーマに、富士川の水運の歴史について、一緒に学んでいきましょう!
身延線は、身延山の門前町と、駿河湾を結ぶ鉄道です。
この鉄道は、富士川のすぐそばを走っているため、車窓から富士川の雄大な景色を楽しむことができます。
かつての「水運」から、鉄道に取って代わられた歴史

富士川(山梨県南巨摩郡身延町)
富士川は、かつて
- 甲斐国(現在の山梨県)
- 駿河湾
をそれぞれ結ぶ、いわゆる水運の大動脈でした。
水運とは、舟を使って人やモノを運ぶ交通手段のことです。
昔は鉄道や長距離トラック等は無かったため、舟に載せて荷物を運ぶのが、一番効率が良かったのです。
すなわち、身延線が通るこの鉄道のルートは、かつての水運の歴史をほぼそのままたどる道でもあるのです。
身延線の旅は、単に景色を眺めるだけでなく、富士川の流れとともに、日本の歴史を感じられる、とても魅力的な旅になるはずです。
富士川については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

さあ、一緒に身延線の歴史の旅に出かけてみましょう!
大昔の、富士川と鉄道の話
身延線は、大昔の明治時代に作られた
- 富士身延鉄道
という、いわゆる民間の「私鉄」が元になっています。
船が主役だった時代
ちなみに江戸時代までは、山梨県と静岡県の間では、富士川という大きな川を、船で進むという
- 「富士川舟運」
が大活躍していた時代でした。
昔の東京~甲府ルート(中央線開通前)
中央線がまだ無かった時代、東京から甲府へ行くには、
というルートが最短でした。
ごのルートは、特に
- 「物資(モノ)の輸送」
- 「短時間で移動したい場合」
というケースにおいては、特に重要な役割を果たしていました。
すなわち、
- 江戸(東京)→東海道(陸路・海路)→岩淵河岸(現在の静岡県富士市周辺)
- 岩淵河岸で上陸・乗り換え→富士川水運→甲府
水運:川や海・舟を利用して、人やモノを運ぶこと。車や鉄道・飛行機が無かった時代の、少なくとも江戸時代までは主流だったやり方。
「岩淵河岸」とは?
ここで岩淵河岸とは、現在の静岡県富士市にあった、東海道線・富士駅からみて向こう岸にあった、当時からのメインの船乗り場です。
なんでわざわざ向こう岸なの?と思うかもしれませんが、これは
- 甲府方面から運んできた荷物を、
- やや西の清水港に運んで、
- さらにそこから江戸へと運ぶため
でした。だから富士川の西岸にあったわけです。
つまり、江戸(東京)から来た人は、
- 一旦「富士川渡船」で向こう岸まで渡り、
- さらに岩淵河岸から本格的に富士川水運で、
- 身延・甲府方面へ船出していた
ものと思われます。
これは、当時「最短」かつ「最も迅速」なルートの一つと考えられていました。
このルートが重宝された理由
富士川は、まだ貨物列車や高速トラック等が無かった時代に、川の流れと舟を利用して、大量の荷物を下流へ運ぶのに、とても適していました。
しかし、富士川は流れがとても急な川です。
そのため、上流の甲府へ登るためには、舟に乗ったまま川を登ることはできないため、人の力によって船を引っ張る人足が必要で、とても大変な重労働でした。
東海道との接続
東海道は、江戸時代から整備された主要な街道です。
そのため、東京方面からのアクセスがしやすかったのです。
街道:江戸時代に幕府によって整備された、まだ新幹線や国道も無かった時代の、当時としては最新でピカピカな(けど砂利やワダチは多い)主要な道路のこと。
他のルートの存在
ただし、「最短」と言っても、旅の目的や季節によっては、別のルートを選ぶ人もいました。
- 甲州街道
これは、江戸(東京)から直接、甲府へ向かう陸の主要な道です。
水運を使わないため、天候に左右されにくいというメリットがありました。
すなわち、物流だけでなく、重要な公用(参勤交代など)や人の往来にも使われた、最も伝統的なルートです。
中央線の全線開通(東京から甲府・塩尻方面まで)は、明治時代後期の1903年(明治36年)以降のことです。
しかし、東海道線は1889年には新橋~神戸間が全線開通していました。
したがって、中央線が出来るまでは、
- 陸路の甲州街道
- 「東海道線と富士川水運を組み合わせたルート」
が、メインの交通手段だったわけです。
江戸時代、角倉了以によって川の工事がなされた富士川
この富士川舟運は、かつて江戸時代に角倉了以という、超お金持ちの商人さんが、例え自然のゴツゴツした川でも舟を通せるように、まともな川のルートに整備したというわけです。
角倉了以が開削する以前の富士川は、本当に大変な「暴れ川」で、荷崩れや難破は日常茶飯事でした。
彼は、その危険性を根本から解決するために、幕府の命を受けて大工事を成功させたのです。
開削前の富士川が、いかに危険だったか
角倉了以が開削を成功させたのは、17世紀初頭(つまり、江戸時代の初期)のことでした。
つまり、それ以前は船の通れる安全な航路が確保されておらず、物資輸送は非常に困難を極めていました。
富士川の激しい流れと渦
富士川は、いわゆる日本三大急流の一つであり、流れがひとたび岩にぶつかると激しい渦を巻いてしまうような、いわゆる舟にとっての難所が多かったのです。
日本三大急流とは:
- 富士川
- 山形県の最上川
- 熊本県の球磨川
つまり、船のトップである船頭の技術だけではどうにもならない、まさしく交通困難な天然の難関でした。
富士川の困難:荷崩れと、積み替え量の多さ
また、角倉了以が開削するまでは、河川がまともとは程遠い未整備だったため、
- 船がまともに出せない場所
- 危険すぎて、舟が安全に通れない場所
が多くありました。
すなわち、川で運ぶ途中で何度も陸揚げりくあげし、陸のルートで進むために大きな荷物を馬や(人で運ぶ)人足などに積み替える必要があったのでした。
そのため、その度に荷崩れや紛失のリスクが高まりました。
ちなみに、たとえ開削後の水運でも、陸への積み替えのときに米がこぼれてしまう「欠米」があったため、あらかじめ多めに米を用意していた、という記録が残っています。
開削:川底や水路を掘り広げてゆき、船がまともに通れるように整備するための、土木工事のこと。
昔の舟を運転した「船頭」とは?
「船頭」とは、いわゆる船の操縦や運航を専門とする人のことです。
すなわち、彼らは現在でいう「船長」や「水夫」の役割を兼ねていました。
彼らは、富士川の複雑な流れや難所がどこに存在するのかをきちんと熟知していたた、いわばまさにプロの職人でした。
富士川での役割は?
船頭は、甲府方面への「上り」では、舟を曳く「人足」たちのリーダーでもありました。
なぜ人の手によって舟を引いていくのかというと、富士川は流れが急過ぎて、登っていくことができないからです。
したがって、彼らの
- 高い技術力
- 的確な判断力
こそが、大量の荷物および人命を守るというまさにその鍵だったのです。
角倉了以による富士川の開削がもたらした効果
角倉了以は、徳川家康の命を受け、私財を投じて富士川の岩を砕き、難所を取り除く大工事を行いました。
その結果、
- 甲州の鰍沢
- 静岡の岩淵
をそれぞれ結ぶ約71kmを、安全に船で一気に下れるという、いわゆる舟運ルートが確立したのです!
※岩淵:富士川の河口近くの、静岡寄りにあった場所です。東海道本線・富士川駅(静岡県富士市)の、やや北にあるエリアです。
そして、この江戸時代初期の大規模な工事のおかげで、甲斐の国(山梨県)の年貢米や塩などといった貴重なモノ・商品の物流は、飛躍的に改善されたのでした。
そして、これにより、江戸時代の経済を支えるという、重要なインフラとなったわけです。
ただのスゴい商人だけではない!川の工事のスペシャリスト
角倉了以さんは、ただスゴい商人だけだったわけでなく、土木のスペシャリストでもあったのでした。
つまり、川の構造などを知り尽くし、「どこを通れば舟は安全か」「どういう所が流れが急で舟が通りにくいか」などの分析力に長けた、川の工事のスペシャリストだったのです。
角倉了以の専門性と偉業
角倉了以は、単なる商人ではなく、
- 河川工学の専門知識
- それを実行する巨大な財力
を兼ね備えた人物でした。
治水技術のプロ
彼は、富士川を開削する以前に、京都の
- 保津川
- 高瀬川
など、複数の河川で舟運を開く、大工事を成功させていました。
すなわち、彼は
- 激しい流れの川でも、安全に船を通すための「水の道」を見極め、
- 「水の道」を作り出すための技術
を、確立していたというわけです。
事業家としての先見性
彼は、単に技術を持つだけでなく、
- 水運が今後の経済発展に、どれほど重要になるか
を予測できるほどの、いわゆる先見性を持っていました。
したがって、富士川の開削は、当時の日本の物流インフラ(社会基盤)を劇的に向上させたという、とても歴史的な偉業だったと言えます。
角倉了以はどんな方法で、富士川を開削した?
角倉了以が行った開削方法は、まさに現代の土木工事に匹敵するほどの、とてつもない大事業でした。
彼の目的は、自然のゴツゴツして、しかと流れも急でとても強い富士川を進んでいく舟の難易度を、劇的に下げることでした。
富士川水運の難易度を下げた、具体的な方法とは?
角倉了以は、
- 大きな舟でも通りやすいように川底を深く掘り下げてゆき、
- 邪魔な岩を砕き、
これによって安全な航路・ルートを確保しました。
岩石の除去と、水路の安定化
まずは、大きな舟が通るのに邪魔になってしまうような、川底にある大きな岩や障害物を、徹底的に取り除いてゆきました。
すなわち、激しい水の流れが岩にぶつかって渦を巻くという、いわゆる「難所」を減らしてゆき、さらには舟が安全に進めるように、一本の安定した水路(航路)を作ったというわけです。
澪筋(みおすじ)の整備
また、彼は水深が深くて水の流れが安定しているという「安全な通り道」である「澪筋」を見極めてゆき、それを舟の通り道として整備しました。
これにより、舟が岸に乗り上げて座礁してしまうリスクを、大幅に減らしました。
曳舟道(ひきふねみち)の整備。
また、甲府方面へと上っていく舟を引いていくという曳舟のために、川の岸に沿って船頭さん(船長さん)が歩いていける道(曳舟道)を整備してゆきました。
「曳」は、「引」の旧字体です。
これにより、船頭さんたちが船を引いて歩くための足場を確保しやすくなり、たとえそれでも重労働とはいえ、以前よりも効率的に舟を曳けるようになりました。
澪筋:川や海の底で、最も水深が深く、流れが安定している部分のこと。舟が航行するのに適した道です。
これらの大工事によって、富士川は単なる暴れ川から、甲斐国(山梨県)にとって欠かせない「物流の大動脈」へと生まれ変わったのです。
角倉了以さんの事業家としての先見性と実行力は、本当に驚くべきものですね。
川の工事により、舟がまともに通れる安全な川へ
角倉了以さんによる以上の大規模な開削工事によって、富士川の舟を使った荷物運びがまともに行われるようになったため、とても盛んに行われるようになりました。
特に、山梨県で採れたお米を、人口のとても多い大都市・江戸に運ぶためには、富士川による水のルートは、とても重要だったのでした。
富士川水運が運んだもの
富士川水運の主な役割は、時代によって以下のように変化していきました。
江戸時代の富士川水運:年貢米と商い荷物が主役
この時代の最大の目的は、年貢米の輸送でした。
下り(甲府→富士方面)
- 年貢米:幕府へ納めるための、いわゆる「税金」としてのお米ですね。これを富士川で江戸まで運ぶことが、最も重要でした。
- 商い荷物:甲州や信州(長野県)ならではの、江戸や駿河では採れない産物などです。
上り(富士→甲府方面)
- 塩や海産物:海のない甲斐国(山梨県)にとって、塩というものは人々の生活に欠かせない、非常に大切なモノでした。
江戸時代は、モノを運ぶのがメインだった
この時代も旅客の輸送は行われていました。
しかし、個人の移動が厳しく制限されていたため、このときはまだ物資輸送が、圧倒的にメインでした。
明治時代以降の富士川水運:旅客輸送が活発に!
明治時代に入ると、世の中が大きく変わります。
- 年貢米の制度が無くなりました。
- 人々の「往来の自由」が認められたため、旅客の利用が一気に増えました。
したがって、明治中期に富士川水運が最盛期を迎えた頃は、物資だけでなく、人々の足としても非常に重要な交通手段になっていたのです!
中央線や身延線などの鉄道が開通するまでは、この水運ルートが、内陸の甲府と外部を結ぶ主要な「玄関口」だったわけです
富士川を下る船で、どんどん運ばれた
この「船を使った運び方」は、明治時代の真ん中あたりのころには、最大の船が行き交うほどのトラフィック量(交通量)となりました。
そして当時は、お米や塩、生糸などが、富士川を下る船で、どんどん運ばれたというわけです。
富士川水運「上り」の過酷な実態
かつて「日本三大急流」とまで呼ばれた富士川は、流れがあまりにも急な川でした。そのため、船を上流の甲府方面へ向かわせるのは、想像を絶する重労働でした。
甲府方面への動力は「人の力」だった
まず、甲府方面へは川の流れに逆らって上ることになります。
そのため、船頭さんたちは川岸に設けされた狭い道(曳舟道)を歩きながら、船に繋がれた長い綱を引っ張って、歩いて登って進んでいました。
曳舟:川の岸から、人が綱で引っ張ることで船を引いて進むという、昔の船の動かし方の一つ。
まずこの仕組みでは、基本的に、1艘の船につき、4人ほどの船頭さんが乗り込みました。
そしてこのうち、3人が川岸を歩いて綱を曳いてゆき、残りの1人が船に乗って舵を取り、舟を操縦していたそうです。
所要時間は「下り」の、なんと約10倍
この曳舟が、いかに大変だったかがわかるのが、所要時間の差です。
- 甲府→富士 約4~8時間
- 富士→甲府 約4~5日
したがって、下りは数時間で済むのに対し、上りは4日以上もかかるという、まさに命がけの旅だったのですね。
旅客も荷物も運んでいた
この「上り舟」にも、もちろん
- 旅客
- 大切な塩・魚などの物資・荷物
が積まれていました。
しかし、船頭さんたちは、ただ歩くだけでも2日もかかってしまう富士~甲府間の道のりを、重い船を曳きながら、富士川の作り出す険しい山岳地帯を、約4日以上もかけて進んでいたわけです。
もはや、当時の人々の熱意と苦労が伝わってきて、本当に頭が下がる思いがしますね。
なぜこんなに高いコストをかけても、富士川の舟運が利用されたのか
このように、いわゆる富士→甲府方面への険しい「登り」の行程で、「曳舟という手段を使ってまで4〜5日もかけて運ぶのなら、いっそ
と思いますよね。
しかし、この水運には、高い人件費を上回るだけの、圧倒的なメリットがあったのです。
※甲州街道:江戸時代に、江戸→甲府→諏訪湖(下諏訪)までを徒歩または馬で結んでいた、中央線の原型となるような道のことです。
メリット1:圧倒的な「運搬量」
まず、富士川を使った舟のルートは、甲州街道のような陸路の輸送手段と比べると、その積載量が段違いでした。
- 馬の場合:米俵を、わずか2俵程度しか運べません。
- 舟の場合:当時としては大きめのサイズの舟である高瀬舟1艘で、米俵を馬の約16倍の32俵も運べた、と言われています。
積載量:乗り物(この場合は舟)に積むことができる荷物の最大量のこと。
したがって、このように一度に大量の荷物を運べるため、トータルで見れば水運の経済的なメリットの方が、甲州街道で馬で運ぶより大きかったのです。
メリット2:安全性と品質の確保
また、先述の角倉了以の開削工事による富士川水運が整備されたことで、荷崩れや盗難のリスクを、大きく減らすことができたのでした。
特に、
- 大切な年貢米(=徳川将軍さまも食べる可能性がある)
- 塩
の品質を保ったまま、より安全・確実に輸送できるという点が、これだけ苦労して高いコストを払うだけに足りる、大きな理由・メリットでした。
まさに、当時の江戸・駿河国・甲斐国のそれぞれの経済を支える、欠かせない物流の大動脈だったわけのですね。
「荷崩れ」「汚染」による、将軍の食中毒と重罪の可能性
これだけ年貢米などの荷物を運ぶのが大変だった富士川水運ですが、ここで、以下のような疑問が出てきます。
- もし運ぶのをミスって、
- 汚れた米が将軍の口に入り、
- 食中毒になったら?
これは、ヤバいでです。
非常に恐ろしい事態で、重罪に問われた可能性が高いです。
運ばれた米の性質
富士川水運で運ばれた米は、甲斐国(山梨県)から江戸幕府へいわゆる「税金」とした納められる「年貢米」でした。
つまり、単なる食べるだけが目的のお米ではなく、幕府のお偉いさんたちに差し出すための、とても重要なお米なのです。
なので、誤って地面に落とし汚れてしまったお米を、幕府に差し出すのはご法度なのです。
すなわち、運ばれていた年貢米は、
- 将軍の権威
- 幕府の財源
に関わるという、特に最高の品質と安全性が求められていたという、まさに公的な重要物資でした。
富士川水運のとても重い「責任」
江戸時代において、幕府や将軍に関わる物資・モノ・年貢米などの管理は、少しの過失でも厳罰の対象でした。
したがって、もしも船頭の重大な過失によって米が著しく劣化してしまい、それが原因で、将軍の健康を害する事態になれば、それは極めて重い罪に問われたことでしょう。
つまり、とても厳しい世の中だったわけですね。
対策としての「欠米」制度
しかし、輸送中に米がこぼれたり(荷崩れ)することは避けられないため、当時の人々も、色々と予防対策を講じていました。
まず、輸送中に減る分をあらかじめ見積もり、多めの米を補充するという「欠米」という制度があったのでした。
これにより、江戸に到着する時点で、定められた量と品質を確保しようとしていたのですね。
もはや「こぼれて減ってしまうこと前提」で、完璧を期すための、当時ならではの厳しい品質管理のための知恵がここに感じられますね。
曳舟(ひきふね)には、相当な腕力が必要だった?
富士から甲府方面へ向かって登るときに、舟を曳くという「曳舟」の仕事には、相当な腕力・体力、そして何よりも持久力が必要でした。
命がけの重労働だった
富士川の曳舟は、単に重いものを引っ張るだけでなく、
- 激流の中でバランスを保ち、
- 危険を回避しながら進む
という、極めて高度な肉体労働でした。
激流に逆らう力
日本三大急流の一つである富士川の流れに逆らって、数トンの荷物を積んだ舟を引っ張るのです。
すなわち、綱を握る腕力だけでなく、全身の筋力と、何日も歩き続ける持久力が不可欠でした。
プロの技術
しかし、単なる腕力だけでは務まりません。
船頭たちは、
- 水深
- 流れの強弱
- 川岸の足場の状態
を一瞬で判断しながら、その上で最も効率的で安全なルートを選んで、舟を曳いてゆきました。
したがって、曳舟は、
- 熟練の技術
- 的確な判断力
- 強靭な肉体
が組み合わさって初めて可能となるという、まさにスペシャリストの仕事だったと言えますね!
ここまで過酷な労働環境に比べれば、現代の筋力トレーニングなんて、もはや可愛いものかもしれません!
急流への転落・溺死事故は多かった
このような過酷すぎる舟を引く「曳舟」の作業中に、急流に引き込まれて溺死してしまうといった事故は、残念ながら多く発生していました。
過酷な作業環境
舟を手で綱を引いていく船頭たちは、岩でゴツゴツした、足場の悪い川岸(つまり曳舟道)を歩きながら、それでも重い舟を曳いていました。
すなわち、もし足が滑ってしまいバランスを崩せば、一瞬で日本三大急流の一つである富士川の激流へと転落してしまうという、あまりにも危険な労働環境でした。
逃げられない綱
また、
- 舟が急流に呑み込まれた
- 岩にぶつかって、止まったりした
ときに、体に綱を掛けていた船頭は、その綱から逃げられず、一緒に水中に引きずり込まれることがありました。
危険過ぎる・・・考えただけで恐ろしいですね。
事故の記録
したがって、当時の記録や伝説、地元の言い伝えには、富士川での水難事故や、亡くなった船頭を供養するための、供養碑に関する話が多く残っています。
このように曳舟の仕事は、甲斐国の物流を支える大動脈でしたが、それと同時にとても危険な、命懸けの職業だったのです。
当時の人々の技術と勇気に、改めて驚かされますね。
それと同時に、現代の我々がいかに恵まれ、安全な労働環境で働けているかを実感するばかりです。
長くなったため、次回・後編へ続く
今回は長くなったため、また続きはまた次回(後編)でお話します!
おわりに:では、また次回(後編)でお会いしましょう!
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