富士川水運と身延線の歴史、さらには険しかった水運や鉄道敷設・交通の歴史などを、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!
今回は、身延線・富士川の後編
前回で、
- 富士川の水運の歴史
- 富士川は、どのように
- 昔の水運は、いかに大変だったか
などを学んできました。
今回はその続きになります!
明治時代 鉄道vs舟 どっちが勝つのかの論争
その昔、現在の中央線が甲府まで開通すると、従来の富士川の船・水のルートを使う人は、だんだんと少なくなってしまいました。
それは、
- 東海道線+富士川の水ルートでの大回り
よりも、中央線で東西にまっすぐ甲府へ行った方が速いからですね。
しかしながら、
という鉄道計画は消えませんでした。
しかしこの鉄道の計画に、大反対した人たちがいました。
それは、これまで船で荷物を運ぶことを仕事にしていた人たちです。
なぜなら、鉄道ができたら、自分たちの仕事がなくなってしまうと思ったからです。
このように、昔は鉄道が通ることで、町の生活がガラリと変わってしまう可能性があったのです。
身延線の反対運動が凄まじかった理由
先述の通り、身延線の敷設は、当初は沿線に住んでいる住民の人々や、また関係者からの凄まじい反対運動に遭いました。
しかし、開通してその利便性が証明されると、反対の声は徐々に落ち着いていったと言えます。
つまり、身延線(ちなみに当時は、私鉄の富士身延鉄道として計画・建設された)の建設は、当初は主に富士川水運の関係者にとっては、死活問題だったのでした。
敷設:線路や道路、ケーブルなどを設置して広げること。
水運関係者の生活基盤がなくなってしまう
また、身延線のルートは、ほぼ富士川沿いを走ります。
すなわち、鉄道が開通すれば、これまで数百年にわたり富士川水運で生計を立ててきた
- 船頭(つまり船長さん)
- 河岸の問屋
- 人足(手で舟を引っ張る人たち)
などの仕事・雇用が、根こそぎ奪われてしまうからです。
そのため、彼らは自分たちの生活を守るために、激しい反対運動を展開しました。
そもそもの鉄道建設への、物理的な抵抗
こうした身延線開通への反対意識から、
- 線路の敷設を妨害したり、
- 工事関係者と衝突したり
といった、物理的な抵抗も起こったと言われています。
身延線開通後の変化と、反対運動の沈静化
しかし、鉄道が開通し、営業運転が始まると、状況は一変しました。
身延線により、鉄道の利便性が証明されたこと
鉄道は、前回も紹介したようなあれだけ重労働で危険を伴い、しかも4日以上かかったような上り輸送を、短時間でしかも安全かつ大量に行えることを証明しました。
すなわち、物流と人の交通における、革命的な変化が起こったのです。
時代にともなう、身延線への物流の主役交代
したがって、高コストで時間のかかる水運は、鉄道という新しい文明の利器の前には対抗できず、徐々にその役目を終えていきました。
こうして、身延線の全線開通(昭和3年/1928年)という出来事は、江戸時代のはじめから続いた富士川水運の、実に300年の歴史に幕を下ろすという決定打となりました。
生活の場を奪われた人々にとっては大変な苦難でしたが、それでも社会全体の利便性と経済性が優先され、反対運動は結果的に沈静化していったのです。
身延線に、カーブが多い理由
身延線が
- 急カーブや急勾配が多い山岳路線
となってしまった主な理由は、日本でも有数の急流である富士川沿いにある、いわゆるとても狭い地形を縫うように、線路を敷いていったからです。
富士川と山の間の、狭隘(きょうあい)な土地
富士川は、ある程度は川幅の広い河原を持っています。
しかしそれ以上に、その両側はすぐには、険しい山地が迫っています。
そのため、線路をまっすぐ敷けるような平坦な土地が、ほとんど存在しないわけです。
したがって、当時は線路を敷いていく工事をしていくためには、
- 川岸のわずかなスペースに、線路を引いていく
- 山腹を削って、そこに線路を引いていく
というような必要があったのでした。
身延線における水害対策と、トンネル
また富士川は、過去に何度も氾濫を起こしています。
線路を水害から守るため、川岸ギリギリではなく、山の斜面のやや高い位置を通す必要がありました。
その結果、トンネルが多くなり、また山を迂回するために、その結果急カーブが多くなったというわけです。
したがって、身延線は、富士川という大自然の制約と闘いながら、その流れに沿って建設された結果、カーブの多い路線となったのですね。
身延線・富士川周辺が、断崖絶壁な理由
富士川の周辺が断崖絶壁や高い山に囲まれているのは、まさに
- 川の急流が地面を深く、強く削っているから
になります。
日本三大急流というだけあって、地面や谷を深く削る、富士川
富士川は、川が流れる途中で標高差がとても激しい急流です。
水は勢いが強いほど、地面や岩盤を深く削る力(侵食力)も強くなります。
急な富士川による、V字谷の形成
すなわち、この強い侵食力により、川の両岸が深く削り取られ、V字型をした谷が形成されました。
川が流れる速さの影響にともなって、
- 周りの山々が盛り上がる
という、それだけ活発な地形の中で生まれた結果なのです。
したがって、富士川周辺の険しい地形は、
- 急流の持つ強いエネルギーが生み出した、自然の造形
だと言えますね!
これだけ高い山と深い谷に囲まれているため、身延線はカーブが多いわけですね。
身延町(みのぶまち)
身延町の住民構成と繁栄
この長い道のりにおける、ちょうど中間地点あたりに存在する身延町は、特定の宗教施設と、富士川舟運という物流の拠点が重なっていたため、非常に賑わいました。
身延に住んでいた人々:宗教関係者(参詣者)
身延山久遠寺は日蓮宗の総本山であり、江戸時代を通じて全国から多くの参拝客が訪れました。
彼らの多くは、南方の東海道から富士川舟運を利用して、身延の近くまで上陸しました。
身延に住んでいた人々:舟運関係者
身延の近くには、舟が発着する重要な河岸があり、舟の修理を行うために使われた造船所の跡なども残っています。
すなわち、船頭や人足、彼らを相手にする宿屋や問屋といった舟運関係者が当時は多く居住しており、またそこで生活を営んでいました。
したがって、身延町は、
- 身延山へ向かう宗教的な宿場町としての顔
- 富士川舟運という経済・物流の拠点としての顔
を併せ持ち、大いに繁栄したと言えますね!
江戸時代、人々が身延山を目指した理由
江戸時代に多くの人々が身延山を目指したのは、その信仰上の重要性と、当時の社会情勢によるものです。
身延山が、日蓮宗の総本山であること
最も大きな理由は、身延山久遠寺が、当時多くの信者を持っていた日蓮宗の総本山だからです。
すなわち、創始者である日蓮聖人が晩年を過ごした場所として、全国の信者にとって一生に一度は参詣したい聖地だったわけです。
参詣:神社やお寺などの聖地にお参りすること。
旅行文化が、この時期に発展したこと
江戸時代は平和が続き、庶民の間で伊勢参りなどの物見遊山を兼ねた参詣旅行が盛んになりました。
したがって、身延山への参拝も、信仰心を満たすと同時に、旅を楽しむという文化の一部として賑わいました。
身延山参拝ルートは、舟運か陸路か?
また、江戸時代の長距離移動のルートは、舟運と陸路を組み合わせたものが主流でした。
江戸からの長距離区間(東海道側から)
江戸方面から来る場合、東海道の陸路や海路で静岡側の岩淵などに到着します。
そこから富士川舟運に乗り換え、川を上って身延の近くの河岸を目指しました。
すなわち、この舟運ルートが、身延の麓までのルートのうち最も便利で、安全なアクセス手段でした。
身延山までの最終区間(寺院まで)
河岸で舟を降りた後、山を登って久遠寺へ向かう道は、昔ながらの参道でした。
したがって、舟運は中継地点までの大量輸送と時間短縮を担い、そこから寺院までは陸路、という流れだったわけですね。
駿河湾の魚は、鰍沢口からどう運ばれた?

鰍沢口駅(山梨県西八代郡市川三郷町)
駿河湾で獲れた魚や海産物は、鰍沢口という水運の終点から、次の手段に引き継がれ、甲府まで運ばれました。
鰍沢口:逆三角形をした甲府平野の南端にある、駿河方面から登ってきた富士川舟運が上流で荷物を積み下ろしをする、ゴール地点な場所(河岸)の一つ。
現在の山梨県富士川町付近にあるあった。
輸送手段は、「馬の背」と「人足」だった
水運が終わる鰍沢口からは、再び陸路での輸送に切り替わります。
ここでは、主に
- 馬の背中に積んで運ぶという「駄賃馬」
- 人の手による人足が担いで運ぶ
方法が取られました。
魚の種類
日持ちするものの場合
例えば
- 塩や干物
- 乾物
など長持ちするものは、
- 富士川水運を使って、大量に鰍沢口まで運ばれ、
- そこから馬で甲府へ運ばれ、
- そして信州(長野県)方面まで運ばれた
のでした。
生魚(なまざかな)の場合
マグロなどの新鮮な魚は、水運ではなく、主に中道往還などの陸路を、馬で急いで運びました。
すなわち、鮮度が命の魚は、時間のかかる舟ではなく、涼しい夜間などに馬を使って最短ルートを急いだのですね。
したがって、鰍沢口は、乾物など日持ちする海産物の陸揚げ地として重要な役割を果たしました。
鰍沢口からは釜無川を北上して、甲府へ行くルートはあったか?
鰍沢口は主要な荷揚げ地点でしたが、
- そこから、北西の甲斐市方面へ延びる釜無川を、
- さらに北上して、甲斐市からは陸路で東の甲府に近づく
というルートは、メインのルートとしては一般的ではありませんでした。
川の性質と効率の問題 航行の難易度
富士川は、山梨県の
- 釜無川:北西から延びてくる川
- 笛吹川:北東から延びてくる川
が合流してできる川です。
すなわち、鰍沢(現在の富士川町付近)よりもさらに上流に進むほど、
- 川幅が狭くなる
- 水深が浅くなる
などの舟にとっては不利な条件になったりして、舟の安定した航行が非常に難しくなります。
物流の効率
高瀬舟のような大型の舟を、激流の釜無川における浅瀬で曳いてゆくのは、富士川本流を曳いていく作業以上に、とても非効率的で危険でした。
したがって、
- 舟を陸に上げ、そこから馬や人足に頼る
という方が、コストや日数を総合的に見て、合理的だったのです。
上流の河岸(かし)も存在した
しかし、時代が下ると、韮崎に近い船山河岸のような、さらに上流の荷揚げ場も、一部で設けられました。
すなわち、地元の需要に応じて、より奥まで舟運を利用する試みはありましたが、結局は鰍沢がやはり甲府盆地全体への物流の「玄関口」として、最も重要だったのでした。
河岸:舟が着岸し、荷物の積み下ろしや、人々の乗り降りができる場所のこと。船着き場。
陸揚げ場には、ある程度の「深さ」が必要だった
鰍沢口などの主要な河岸は、舟を安全に着け、大量の荷物を積み下ろしするために、ある程度の水深が必要でした。
大きな舟と水深
富士川舟運で使われた高瀬舟は、一度に多く・大量の荷物を運ぶために、ある程度大きな船体を持っています。
すなわち、荷物を満載した状態では、喫水が深くないといけません。
そのため、水深が浅い場所では、船底が川底に引っかかってしまい、座礁してしまうリスクがあります。
喫水:水に浮かんでいる船の、水面から船底までの深さのこと。
河岸の整備
したがって、角倉了以による開削工事では、舟が岸に安全に係留し、また荷物の積み下ろしがしやすいように、河岸の付近の澪筋—船が通る深い水路—を、特に整備しました。
しかし、天然の川であるため、大雨などで川底の砂や石(土砂)が動いて水深が変わってしまうこともあったため、船頭たちは常に、細心の注意を払っていました。
甲府は「魚尻」だった
甲府より北・韮崎の人は、諏訪湖の魚しか食べられなかった?
甲府は、新鮮な海魚が、新鮮さを保ったまま届く限界を示す「魚尻線」の範囲内にありました。
この魚の限界を示す「魚尻」という言葉は、昔の塩の在庫の限界だった「塩尻」という言葉と似ています。これは、長野県塩尻市の由来ですね。
しかし、例えば甲府よりもさらに北西に位置する韮崎市などの地域へは、海魚の鮮度を保ったまま運ぶのは、非常に難しかったことでしょう。
魚尻線:海から獲れた新鮮な魚が、腐らずに食べられるという鮮度の限界を示す内陸のラインのこと。
韮崎の人々の食文化
海魚(かいぎょ)について
駿河湾から甲府まで運ばれた塩魚や干物は、ある程度は保存もよいため、韮崎にも流通していました。
しかし、マグロなどの生魚を食べる機会は、上記と比べると保存状態が悪化するとめ、甲府と比べるとかなり少なかったはずです。
淡水魚(たんすいぎょ)について
先述の、甲府よりもやや北の韮崎や、その周辺の人々は、例えば
- 地元の川や、諏訪湖などの淡水魚(鯉や鮒など)
といった魚を食べる機会が多かったのは、間違いありません。それは、諏訪湖の方が近いからですね。
すなわち、地理的な制約が、その地域の食文化を形作っていた、と言えるのですね!
諏訪湖の魚は、甲斐国から近い信州(長野県)の主要な淡水魚の供給源として、非常に重要でした。
やがては江戸にまで運ばれた、富士川の舟で運ばれた荷物たち
また、内陸の山梨県では手に入りやすかったお米は、
- 船で、駿河国の岩渕という場所(富士市あたり)まで運ばれ、
- そこから馬に乗せかえられて、
- やがては江戸にまで運ばれていった
というわけです。
また、これまで何度も述べてきた通り、
- 内陸の山梨県では手に入らない駿河湾の塩
- 駿河湾の海の幸
なども、富士川の船で北上してゆき、運ばれていました。
特急ふじかわの、文明的な意義
特急「ふじかわ」は、現在、静岡駅と甲府駅を身延線経由で結んでいます。
これは、かつて富士川水運が担っていた、
- 駿河/静岡と甲斐/山梨を結ぶ、大動脈
という役割を、そのまま現代に引き継いでいるわけです。
スピードと安全性
また、かつては4〜5日かかった「上り舟」の旅路を、特急「ふじかわ」は、現在約2時間で結びます。
これは、物流と人流のスピードを飛躍的に高めた、文明の進化の結晶ですね!
水運から鉄路へ
また、明治時代に鉄道が開通するまで、富士川水運は荷物運びにおいて欠かせない存在でした。
しかし、鉄道の登場により、輸送能力や確実性が向上していったことから、物流の主役は、船から列車へと完全に移りました。
したがって、「特急ふじかわ」は、歴史的には前回も解説した角倉了以が、江戸時代のはじめに膨大な工事によって切り開いた「水の道」の、究極の進化形だとも言えるでしょう。
超速いリニア新幹線の駅ができるってホント!?
リニア中央新幹線は、なんと時速500kmで走る、世界で一番速い新幹線です。
このリニアが走るようになると、東京と大阪の間を、たったの1時間ちょっとで行き来できるようになります。
山梨県にも、甲府市にリニア山梨県駅(仮)という駅が作られる予定です。
この駅ができると、東京の品川駅までたったの25分で行けるようになるというわけです。
したがって、山梨県から東京へのお出かけが、さらに便利になりますね!
おわりに・まとめ
今回の身延線と富士川の水運の歴史は、いかがだったでしょうか。
かつて富士川が、甲斐国と駿河湾を結ぶ、物流の大動脈だったことが分かりましたね。
身延線の旅は、単なる移動手段ではなく、日本の歴史を感じられる、貴重な体験だと言えるでしょう。
この鉄道が通るルートは、江戸時代から続く水運の道を、現代に引き継いでいるのです。
富士川の流れとともに、歴史に思いをはせる旅は、きっと心に残るものになるはずです!
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