豊田市とトヨタ自動車の歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
世界を変えたモノづくりの原点を、初心者の方にもやさしく解説してゆきます!

トヨタ自動車とともに発展してきた街・豊田市(矢作川前より)(愛知県豊田市)
はじめに
さあ、今回は豊田市とトヨタ自動車の熱い歴史を一緒に学んでいきましょう!
すなわち、この深い繋がりや、豊田喜一郎氏の挑戦の物語を知ることで、観光や探訪が100倍面白くなります。
したがって、「単なる工場がある街」という見方から、「世界を変えたモノづくりの原点」という感動に変わるはずです。
知れば知るほど、トヨタの街歩きが楽しくなりますよ!
豊田市とは?

トヨタ自動車とともに発展してきた街・豊田市(矢作川前より)(愛知県豊田市)
豊田市は、愛知県のほぼ中央に位置する、日本のモノづくりを支える中心都市です。
以前は挙母市という名前でしたが、トヨタ自動車の本社があることから、1959年に現在の名前に変わりました。
したがって、トヨタ自動車を中心とした「企業城下町」として非常に有名なわけです。トヨタファンには聖地ですね!
豊田市へのアクセス(愛知環状鉄道など)
豊田市へのアクセスは、主に以下の路線が利用されます。
- 名鉄(名古屋鉄道):豊田市駅へ
- 愛知環状鉄道(愛環):新豊田駅へ
愛知環状鉄道: 豊田市を南北に縦断し、トヨタの工場を結ぶ、重要なローカル線です。
すなわち、
- 名古屋方面からは、名鉄
- トヨタ関連施設への移動には愛知環状鉄道
が便利です。
JR線からなら、
から愛知環状鉄道に乗り換える方法が、「JR東海 乗り鉄旅きっぷ」も使えるため便利です。
トヨタ自動車とは?どれくらい凄い会社?
トヨタ自動車は、自動車の
- 「販売台数」
- 「時価総額」
- 「利益」
のいずれにおいても世界トップクラスを誇る、日本を代表する巨大企業です。
時価総額:その企業全体の株式の市場価値の合計額です。
「発行済の株式の数×株価」で計算されます。
この時価総額が大きいほど、市場において価値の高い企業と評価されています。
したがって、その凄さは、単に車をたくさん売っているだけでなく、
- 環境技術(ハイブリッド車)で、世界をリード
- 独自の生産方式で、世界標準を確立
した点にあります。
本当に誇らしい会社ですね!
企業城下町とは?
企業城下町とは、
- 特定の巨大企業や工場が(豊田市の場合はトヨタ自動車)、
- その町の経済や雇用、文化に対して、
- 絶大な影響力を持っている都市
のことをいいます。
これは、昔の「城下町」のように、企業の周りに人が集まり、街が発展したことで、「企業城下町」と呼ばれるわけです。
例えば、トヨタ自動車のような大きな企業が街に存在すると、
- その町の企業で働く人が増える→雇用が増える
- 豊田市の場合は、トヨタ自動車に材料などを販売する会社も増える
- その材料を運搬する、運搬会社も増える
- トヨタの従業員が、普段の生活で買い物をする飲食店・商業施設などが増える
- 結果、豊田市の税収が増え、街が大きく発展する
などといった、様々なメリットがあります。
そのため、全国の市や町といった自治体は、自分達の街に力と資金力のある強力な企業を誘致したいわけです。
すなわち、企業城下町においては、企業の成長が、そのまま街の発展につながっているわけですよ!
企業城下町の例(豊田市以外)
企業城下町の例は、豊田市以外にも、日本各地に見られます。
以下はその代表的な例です。
- 日立市(茨城県)
- 【企業】 日立グループ
- 太田市(群馬県)
- 【企業】 SUBARU(スバル)
- 釜石市(岩手県)
- 【企業】 新日鐵住金(現・日本製鉄)
したがって、どの町も、その企業の発展と共に栄えてきました。
町の発展のために、巨大企業の存在は不可欠だったわけですね!
企業城下町のデメリット・リスク
企業城下町には、上記のようないいことばかりではなく、もちろんデメリットやリスクも存在します。
すなわち、一社に依存しすぎることの危うさです。
- 経済の不安定化:その企業が業績不振になると、街全体の雇用や税収が一気に悪化します。
- 経済活動の単調化:他の産業が育ちにくく、多様性に欠けた街になりがちです。
- その企業がもし倒産してしまうと、解雇された元・従業員は再就職先を見つけるため引っ越すため、町の人口が一気に減少するリスクもあります。
したがって、企業の都合で街が大きく左右されるという、構造的なリスクを抱えていると言えるでしょう。
一極集中はちょっと怖いものですね。
トヨタの起源:喜一郎氏の決断と挑戦
トヨタ自動車の始まりは、豊田自動織機製作所という会社にあります。
これは、豊田佐吉氏が愛知県の刈谷市に創業した会社ですね!
すなわち、トヨタのルーツは自動車ではなく、「織機」なわけです!
豊田自動織機製作所の中に、昭和の初め、1933年に「自動車部」が開設されました。
これが、現在のトヨタ自動車の出発点というわけです。
佐吉氏の息子である豊田喜一郎氏が、この自動車部門を立ち上げるという、大きな決断を下しました。
すごい挑戦ですよね!
したがって、彼らは「織機」の製作で培ってきた技術を、自動車に応用したのです。
黎明期のトヨタ自動車の「自動車製造」を可能にした技術
また、黎明期のトヨタ自動車の自動車製造においては、具体的には、以下の技術を活かしました。
鋳造
まず鋳造とは、
- 非常に高温にして(融点を上回らせて)ドロドロに溶かした金属を、
- 「型」とよばれる大きな入れ物・容器の中に流し込んで、
- 冷やして(再び融点を下回らせて)固めて、部品を作る
という技術になります。
例えば、エンジンなど、自動車の重要な部分を作るのには欠かせない技術です。
機械加工
また、機械加工とは、
- 機械を使って金属などを削ったり、
- 磨いたりして、
- 正確な形に仕上げる
という技術のことです。
これらの技術を見事に活かして、トヨタはなんと1935年にはもうトラックを発表したわけです。
自動車メーカーとしての第一歩ですね!
トヨタの前身・豊田自動織機製作所とは?
豊田自動織機製作所は、豊田佐吉氏が設立した会社です。
元々は、文字通り「織機」、つまり布を織る機械を作っていました。
したがって、佐吉氏が生涯をかけて改良を重ねてきた「自動織機」を製造・販売することが主な事業だったわけですよ。
日本のモノづくりを支えた、すごい会社ですね!
トヨタが織機から自動車事業にシフトチェンジした理由・きっかけは?
また、自動車事業への進出を決めたのは、豊田佐吉氏の息子の豊田喜一郎氏です。
彼は、欧米の視察を通して、
という未来を確信しました。
つまり、これは
- 「車を作れば確実に売れる世の中・時代が、日本にも必ずくる」
ということを確信したという、ビジネスの視点でもあります。これは先見の明があることの、何よりも証です。
そしてそれを実行する実行力も、また凄いものです。
普通は「これから何を作れば売れるか」を的確に当てられる人なんて、そう多くはありません(難しいからこそ倒産する会社が多い)。
また、会社を起こそうとすると周囲の反対にあったりするため、なかなかの実行力がないとできないものです。
それを実行して「世界のトヨタ」の原型を作った豊田喜一郎さんは、やはりスゴいとしか言いようがないでしょう。
当時の日本には、本格的な国産車メーカーがまだ無かったのでした。
つまり、まだライバルがいない状態だったわけです。
そのため、
という、なんとも強い使命感と情熱こそが、最大のきっかけとなりました。
なんとも夢のある話ですね!
豊田佐吉とは?
豊田佐吉氏は、トヨタグループの創業者です。
彼は、それまではほとんど手作業だった織物の製造を、機械を使ってラクに、しかも早く自動化する「自動織機」の開発に、その人生を捧げてきたのでした。
織物:日本の昔の着物です。
昔は現在のように大量生産できなかっため、手で作るか、あるいは「多少自動化された」機織り機に頼るしかなかったのでした。
今で例えると、それまでの手作業でやっていた面倒な作業を、まるでAIで自動化するみたいですね。
豊田佐吉さんの発明で特に有名なのが、
- 機械が故障すると、なんと自動で止まるという「無停止杼換式自動織機」
になります。
すなわち、この
- 「異常があれば、自動で止まる」
というこの考え方は、まさに現在のトヨタ生産方式における「自働化」の原点なわけですよ。
自働化:ここでいう「じどうか」は、「働」の文字に「にんべん」が入っています。
つまり、世間一般の「自動化」とは異なるわけです。
ここに、トヨタ自動車ならではの独特の「こだわり」があります。
豊田佐吉さんは、まさに発明と改善の鬼才だったわけですね。
豊田喜一郎とは?
豊田喜一郎氏は、上記の豊田佐吉氏の息子さわけです。
そして彼は、現在のトヨタ自動車を、先述の父の功績をさらに生かして、まさに実質的に設立した人物になります。
彼は先述の通り、ヨーロッパやアメリカで自動車産業の発展を目の当たりにし、
と強く感じたのでした。
したがって、彼は先述の豊田自動織機製作所内に自動車部を立ち上げ、そこから日本で乗るための国産乗用車の開発に挑んでゆきました。
彼のチャレンジ精神こそが、今のトヨタの基礎となっているわけですね。
トヨタの起源・刈谷市とは?
刈谷市は、愛知県の西三河地方にある市です。
ここはまさに先述の豊田佐吉氏が、豊田自動織機製作所を創業した場所となります。
そして、トヨタグループ発祥の地の一つとして知られる聖地のような場所となっています。
つまり、まずは刈谷市でトヨタの原型ができた後、より土地が広かった豊田市(当時は挙母市)に移転したわけです。
すなわち、刈谷市は、日本の産業や技術の発展を支えてきた「モノづくり」の中心地なわけです。
もちろん現在でも、多くの自動車関連企業が集まっている、とても重要な街ですよ!
戦前のトヨタの歴史
豊田佐吉さんの自動織機が登場する前は、面倒だった織物生産
また、豊田佐吉さんが命がけで全力で作り上げた 自動織機が登場するまでの時代は、織物の製造は基本的に手作業が普通でした。
もちろん、
- 昔からある「地機」や、
- それを改良した「高機」
といった機織り機は存在していました。
しかしこれらは、基本的な動作は人が手足を使って行う必要がありました。
つまり、完全な自動化とは程遠かったのでした。
したがって、手間も時間もかかり、大量生産や均質な品質の確保は難しかったわけです。
そこに、豊田佐吉氏が発明した「自動織機」が登場したことにより、日本の織物産業は、劇的に改善・進化したのでした。
つまり豊田佐吉さんの発明は、日本の産業革命を支えた、まさに画期的な発明だったわけです。
1920年代における、欧米の自動車事情
トヨタが登場する前の1920年代、欧米ではすでに自動車がバリバリ走っていました。
特にアメリカでは、フォードなどの低価格な車のおかげで、「モータリゼーション」が急速に進んでいまました。
すなわち、1920年代の終わり頃には、アメリカの5世帯のうち、実に4世帯が自家用車を保有していた、というデータもあります。
日本がまだ織機づくりに力を入れていた頃、世界はすでに「一家に一台」の時代。
この大きな差が、豊田喜一郎氏の「国産車をつくる!」という情熱を燃やした大きな要因になったのでしょうね!
1930年の自動車事情と、軍事への必要性
トヨタが生まれた1930年代は、自動車、特に軍用トラックは、軍にとってはこれからの時代に不可欠なものとして認識されていました。
というのも、当時の陸軍は、将来の戦争(特に、大陸での戦闘)を既に想定していたこともあり、国産自動車の大量生産と自給自足を(つまり、戦争で輸入できないことを想定して、日本が自力で作ることを)、強く望んでいたのでした。
したがって、トヨタのような自動車産業は国策として「重要産業」に位置づけられていたわけです。
豊田喜一郎氏が、このように自動車事業に進出した背景には、このような国の要請・事情があったことも影響しているわけですね。
トヨタと1930年代における日本軍との関係
このように、トヨタが自動車事業を始めた1930年代、当時の日本軍からのトヨタへの期待は非常に大きかったのでした。
先述の通り、当時の軍部は、将来の戦争に備え、軍用トラックの国産化と大量生産を強く求めていました。
豊田喜一郎氏が自動車部を設立できた背景には、
- 軍需を見込んだ、国からの支援や期待
- 軍とのコネクションによる、事業参入のしやすさ
などの要因もあったと言えます
したがって、こうした軍からの需要が、トヨタの初期の成長を大きく後押ししたという側面もあります。
まあ、現在の個人のフリーランスならともかく、トヨタのように巨大な企業を作ろうと思ったら、やはりある程度は国からのサポートや援助もないと難しい部分はありますからね。
トヨタの製造した軍用車は、太平洋戦争でも活躍した?
戦時中に軍需産業として国から指定されていたトヨタが製造した軍用車両(特にトラック)は、太平洋戦争において重要な役割を果たしました。
すなわち、国策によって軍需工場となっていたトヨタは、多くの軍用車両を生産し、戦地へと送りました。
しかし、
- 耐久性や生産効率の面で、課題も多かった
- 終戦間際、米軍の空襲により、生産体制は深刻な打撃を受けた
という事実もあります。
トヨタは国による戦争遂行のために、その技術と生産力を捧げたと言えます。
軍需産業だったトヨタは戦時中に壊滅的被害を受けた?
また、当時の日本の軍需産業となっていたトヨタは、太平洋戦争の終戦直前に壊滅的な被害を受けました。
特に、主要な生産拠点であった挙母工場(つまり、現在のトヨタ本社工場周辺)は、米軍の空襲により、約4分の1が破壊されました。
したがって、終戦時には自動車生産がほとんどできないという状態に陥りました。
この時の深刻な被害と、戦後の軍需消失が、トヨタを倒産寸前の危機に追い込んでしまった、最大の要因だったわけですよ。
華々しいイメージのあるトヨタも、戦時中は本当に苦しい時代を乗り越えたわけですね。
戦後直後のトヨタの状況
終戦直後、それまでは(国の施策により)軍需産業としてやってきたトヨタは、深刻なピンチに追い込まれました。
先述の通り、戦争により工場は壊滅的な被害を受けて、以前のようにまともに稼働することは不可能になってしまいました。
これは、売るための自動車をまともに作れないことを意味します。
また、戦争が終わったことにより、国からの軍用トラックの需要も消滅してしまいました。
このように、戦後直後のトヨタは
- 生産体制が崩壊
- 従業員の削減も余儀なくされる
といった事態に陥り、会社は倒産寸前という非常に苦しい状況に追い込まれてしまいました。
しかし、ここで終わらないのがトヨタです。
- わずかに残った設備で、民間の皆さんに売るためのトラックを、細々と生産していきました。
- 朝鮮戦争の特需により、今度は朝鮮半島で戦っていたアメリカ軍から、再び軍用車両の受注がありました。
このような幸運もあり、トヨタはなんとか危機を脱することができました。
すなわち、当時のこのどん底の経験が、後のトヨタの強靭さにつながるわけです!
まさに、不屈の精神を持った会社ですね!
徹底的な合理化と改善
大野耐一おおのたいいち氏らによる「トヨタ生産方式」の確立を進め、ムダを徹底的になくしました。
黄金期・「世界のトヨタ」へ
1970年代~80年代のトヨタの黄金期
1970年代から1980年代にかけて、トヨタはまさに大儲かりしました!💰
この成功を支えたのは、二度のオイルショックです。
燃費が悪くて大きなアメリカ車が敬遠される中、トヨタの
- 低燃費で、しかも高品質な小型車
- 壊れにくいという信頼性
が、世界的に大評価されました。
したがって、トヨタの生産する自動車は主に北米市場を中心に売れに売れてゆき、一気に世界的な自動車メーカーへと成長を遂げた、まさしくトヨタの黄金期となったのでした!
※オイルショックによって、ガソリン価格は大幅に高く上昇してしまいました。
このため、より少ない燃料でも走れる(燃費のいい)トヨタの自動車へのニーズは、より高まったのでした。
日本製の車が高く評価されたのは、トヨタの功績が大きい?
このとき、日本製の車が、世界において
- 「高品質でしかも壊れない」
などのように非常に高く評価されるようになったのは、明らかにトヨタの功績が非常に大きいです。
特に、先述の通り1970年代のオイルショックにより、ガソリンなどの燃料費が上がってしまった時代が来てしまったとき、トヨタの低燃費と高い耐久性を持つ小型車が、海外で爆発的に売れました。
したがって、トヨタが確立した
- 「トヨタ生産方式」
が生み出す均質な品質と信頼性が、やがて「日本車全体のブランド力」となったのです。
日本で自動車が「一家に一台」となったのはいつ?
日本で自動車が「一家に一台」という時代になったのは、1970年代後半から1980年代にかけてでした。
特に1970年代後半には、日本における乗用車の保有台数が、急速に伸び始めました。
これはやはり、高度経済成長期などを経て、日本が昔に比べて豊かになってきたことも大きいでしょう。
したがって、この時期は「モータリゼーション」(自動車の普及)が本格的に浸透してゆき、人々の生活に車が不可欠なものとして定着した時期だったと言えます。
※一方で、我らが大好きな鉄道は、一気に衰退してゆき、赤字になって次々に廃止されていったのでした(^^;)
このように、日本では欧米よりはだいぶ遅れたものの、技術革新と経済成長のおかげで、ついに日本も豊かなカーライフを手に入れたわけですね!
※たまには鉄道にも乗りましょう!笑
トヨタ生産方式(TPS)とは?
トヨタ生産方式(TPS:Toyota Production System)とは、トヨタが独自に開発した、ムダを徹底的になくすための生産管理システムです。
その柱となるのは、以下の2つです。
ジャスト・イン・タイム
これは、
- 必要なものを、
- 必要なときに、
- 必要な量だけ作る
という考え方です。
これにより、在庫のムダをなくします。
逆をいえば、「要らないものを無駄に作る」では、一気に赤字・倒産となってしまいます。
また、在庫がダブついてしまい、どこにあるのか不明になって「探すムダ」も生まれてしまいそうですよね。
自働化(「にんべん」の付いたじどうか)
また、自働化とは
- 機械が異常を感知すると、すぐに自動で止まる仕組み
のことです。
自働化の「働」には「ニンベン」がついています。そのため、世間一般の「自動化」とは、意味合いが異なります。
ここに、トヨタならではの独自の「こだわり」が感じられます。
これにより、
- 作業者は、安心して監視から解放される
- これにより、より重要な業務に集中できる
- そのため、生産性の向上と、品質安定に貢献できる
というわけです。
したがって、この方式こそがトヨタの競争力の源泉なわけですよ!
「改善(かいぜん)」
また、トヨタでいう改善とは、トヨタの哲学の根幹をなす言葉で、
のことです。
すなわち、「これで十分」ではなく、
- 「もっと良くできるはず」
と、現場の全員が知恵を出し合ってゆきます。
そしてこの改善を毎日、全社員が行っていくという取り組みをしていくことで、トヨタは世界最強の生産効率と、高品質を実現しているというわけです。
トヨタ生産方式への企業のポリシー・理念の反映
トヨタ生産方式には、まさに
- 「ムダを徹底的に省く」
という、トヨタのポリシーと理念が強く反映されています!🔥
創業者である豊田佐吉氏の「自動織機」の時代から受け継がれてきた、まさに「改善」の精神こそが、その基盤となっています。
すなわち、ムダをなくすことはコスト削減だけでなく、品質向上にもつながってきます。
したがって、
- 「より良いものを、より安く」
提供しようという顧客第一の考え方は、この生産方式の隅々まで行き渡っているというわけです。これぞ「世界のトヨタ」を生み出した、なんとも素晴らしい理念ですね!
現在と未来のトヨタ
車離れが進む現在のトヨタの状況
現在の日本では、あえて車を持たないといういわゆる「車離れ」が指摘されています。
しかし、そんな状況にあってもトヨタは苦戦しているどころか、むしろ世界的に見れば絶好調となっています。
これは、彼らは単に「車を売る」だけの会社ではなく、次の時代を見据えた大きな転換・シフトチェンジを進めています。
例えば、
- 電気自動車(EV)やハイブリッド車(HV)の開発に注力
- 「モビリティカンパニー」への変革(進化)
などのように、いわゆる「今風」「未来的」な感じで、どんどん進化していっているわけです。
逆にいえば、今まで通り「車を売るだけ」の会社では、これからは到底やっていけないわけです。
したがって、今のトヨタは未だに世界的な販売台数はトップクラスを維持しており、さらには次世代技術への投資も積極的に行っています。
このように、変化を恐れず、常に先や未来を見て動くトヨタの姿勢は、さすがとしか言いようがありませんね!
自動車産業で生き残るための、「変革」の必要性
また逆に、これからの世の中において自動車業界で生き残っていくためには、トヨタのように
- 絶えず変革できる会社
でないと、非常に厳しいでしょう。
なぜなら、自動車は今、100年に一度の大変革期にあるからです。
少子高齢化などにより、車のニーズは常に変化します。
具体的には、以下の頭文字をとった「CASE」への対応が急務です。
- C:Connected(コネクテッド:インターネット接続)
- A:Autonomous(自動運転)
- S:Shared(シェアリング)
- E:Electric(電動化)
すなわち、従来の「車を作る技術」だけでなく、インターネットに繋がった、人の手を介さずに自動で運転できるようなITやAIの技術が不可欠になってくるわけです。
そのため、変革についていかないか、あるいはそれを拒む企業は、今後は衰退・淘汰を余儀なくされてしまうかもしれませんね。
自動車業界でCASEが必要なのは、時代のニーズ変化も関係ある?
このように、自動車業界においてCASE(コネクテッド・自動運転・シェアリング・電動化)が必要なのは、少子高齢化などといった時代のニーズ変化と深く関係しています。
すなわち、以下のような社会課題を解決するためにCASEが不可欠です。
- 高齢化:免許返納後における、移動手段の確保(自動運転・シェアリング)
- 環境意識の高まり:CO2排出削減(電動化)
- 若者の車離れ:所有から、共用での利用への変化(シェアリング)
したがって、CASEは未来の社会を支えるための、必須の変革と言えるでしょう。
自動車の自動運転化も同じ?
自動車の自動運転化も、まさに時代のニーズと結びついた、非常に重要な変革です。
少子高齢化が進む日本では、特に以下の課題解決が期待されています。
- 高齢者の移動支援:運転に不安がある方でも、安全に移動できます。
- 労働力不足:トラックなどで人手不足であっても、自動運転にすれば、物流分野での人手不足を補えます。
したがって、自動運転は単なる技術革新ではなく、社会の持続可能性を高めるための重要なソリューションというわけです。
未来の安心につながる技術ですね!
今後のトヨタの活躍は?
今後のトヨタは、
- 自動車メーカーから「モビリティカンパニー」へ
の変革を加速させ、さらに活躍していくと期待されています!
すなわに、彼らは、車だけでなく、
しようとしています。
したがって、
- EVや自動運転技術の進化
- 空飛ぶ車
- ロボット
などの新分野への挑戦に力を入れています。
つまり、未来の街や移動のあり方を、トヨタが大きく変えていくかもしれませんね!期待しましょう!
トヨタは常に変革・改善・挑戦し続ける会社?
間違いなく、トヨタは常に変革・改善・挑戦し続ける会社です。
その哲学は、創業者の豊田佐吉氏の
- 「自動織機の絶え間ない改良」
の時代から、現代へと受け継がれているものとなります。
現在の「モビリティカンパニー」への変革もその一つといえるでしょう。
22世紀に「どこでもドア」を実現しそうな会社は、トヨタ?
ここまでの話を踏まえると、22世紀になって「どこでもドア」のような夢の技術を最も実現しそうな(可能性のある)もっともそれに近い会社の一つはトヨタである、という考え方は、納得いく話です。
なぜなら、彼らが目指すのは、いわゆる
- 「人々のすべての移動の問題を解決する」
という、いわゆる「モビリティカンパニー」として、
- 物理的な移動(車)と、
- 情報の移動(コネクテッド)
の境界線を取り払うことだからです。
もちろん、今後の世の中で、トヨタをはるかに凌駕する、信じられない科学力を持った会社が登場する可能性も否定できません。
しかし、トヨタは過去にも現在でも、そして恐らく未来においても、
- 空間の概念を変えるような技術(テレポートはなかなか難しいかもしれませんが)に対しても挑むという、豊田佐吉の時代から受け継がれてきた挑戦意欲
- そして、それを実現するための、莫大な技術力と資金力
を持っているからです。
未来のトヨタの活躍、これからも本当に楽しみですね!
おわりに・まとめ
豊田市とトヨタ自動車の歴史を学んでみて、いかがだったでしょうか?
すなわち、この知識があることで、
- 街で見かける看板や工場の建物
- トヨタを中心に発展してきた街並み
など、全てが特別な意味を持って見えてくるはずです!
したがって、次に豊田市を訪れる際には、ぜひ「世界をリードする企業の原点」という視点で、観光や探訪を心から楽しんでくださいね!
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