下呂温泉の観光・歴史と、また下呂温泉にゆかりある偉人・林羅山などについて、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!
今回は、下呂温泉と下呂市
下呂温泉の歴史と伝説を学ぶ旅

下呂温泉の景色と、飛騨川の眺め(岐阜県下呂市)
今回は、日本三名泉の一つである下呂温泉と、その街である岐阜県・下呂市について、一緒に学んでいきましょう。
飛騨川:岐阜県を南北に、高山本線と険しい山々に沿って流れる川です。
乗鞍岳の東南のふもと付近に水源を発します。
高山市→下呂市などを南下・経由して、美濃加茂市で木曽川に合流します。
江戸時代、林羅山という儒学者が訪れたことで、有名になった温泉街
下呂温泉の歴史を語るうえで、江戸時代の儒学者である、林羅山の存在は欠かせません。
江戸時代に、この林羅山が下呂温泉のことを「日本三名泉」の一つとして認めたことで、下呂温泉の名は、広く世の中へと知られるようになりました。
白鷺伝説という、温泉にまつわる伝説
また、下呂温泉には「白鷺伝説」という、とても心温まる物語が残っています。
これは、一度枯れてしまった温泉が、白い鷺によって再び見つけられたという伝説です。
このような歴史や伝説を知ることで、下呂温泉の魅力がさらに深く感じられるようになります。
さあ、下呂温泉の白鷺伝説や、林羅山が残した功績について、一緒に探っていきましょう!
「日本三名泉」のひとつ、下呂温泉
下呂温泉は、岐阜県の北部にある下呂市という場所にあります。
高山本線で、下呂温泉へ
下呂温泉へ行くためには、まず高山本線という電車に乗るのがメジャーです。
この「高山本線」は、
- 岐阜県の岐阜駅(岐阜県岐阜市)
- 富山県の富山駅(富山県富山市)
をそれぞれ結ぶ、全長225.8kmにもおよぶ長い鉄道で、ちょうど日本列島の中央を縦断するようなルートになっています。
つまり、この高山本線は、日本の
- 太平洋側
- 日本海側
を結ぶ、とても重要な役割を担っている路線であるというわけです。
高山本線沿線の名所
また、この「高山本線」の沿線には、
- 今回紹介する下呂温泉
- 古い町並みが有名な高山市
など、たくさんの観光地があるというわけです。
高い山に囲まれている、高山本線
また、この高山本線は、
- 「飛騨山脈」
- 「白山連峰」
という、標高2,000m~3,000mクラスという日本でも有数の「とんでもなく高い山々」に囲まれているというわけです。
白山連峰:石川・岐阜・富山・福井の4県にまたがる山々の総称です。
最高峰は御前峰で、標高は2,702mです。
白山は、富士山・立山とともに日本三名山に数えられています。
古くから山岳信仰の対象とされてきた霊峰です。
すなわち、電車に乗っているとまるで「山が延々と続く」「飛騨川の美しい景色」という、美しい絶景がずっと続くとても価値がある路線というわけです。
飛騨地方
下呂温泉がある「飛騨地方」とは
下呂市は、岐阜県北部の飛騨地方という場所にあります。
岐阜県は、ざっくりと分けて、
- 飛騨地方(北部)
- 美濃地方(南部)
という、2つの地域に分かれているというわけです。
したがって、下呂市は、
- 高山市
- 飛騨市
- 白川村
などといった飛騨地方の主な街と一緒に、「飛騨地方」という、ひとつの大きなグループに入っているというわけです。
昔の「飛騨国」は、今の岐阜県北部!
先述の通り、かつて日本のエリア分けには、「飛騨国」という場所がありました。
別名を「飛州」とも呼ばれるこの地域は、昔から山に囲まれた地形であったことから、「木の国」として知られていました。
そのため、とても自然豊かな場所ということになります。
下呂温泉を語る上で外せない、林羅山
「日本三名泉」という評価
林羅山は、下呂温泉を語る上で重要な人物です。
彼は江戸時代の前半に、湯治のために下呂温泉を訪れたときに、
- 下呂
- 有馬
- 草津
「日本三名泉」という評価したことで知られています。
湯治:まだ医学が発展していなかった時代に、温泉のお湯の力を使って病を治していたことです。
この評価は、下呂温泉が名湯として広く知られるきっかけとなり、その後の発展に大きく貢献しました。
したがって、林羅山は下呂温泉を語る上で、不可欠な人物です。
そのため、下呂温泉には林羅山の像が建てられています。
林羅山とは?江戸時代初期の、幕府のブレーン
林羅山は、江戸時代初期の儒学者です(詳しくは後述)。
すなわち彼は、幕府の儒官として活躍したのでした。
すなわち、林羅山は江戸幕府の政治に対して、助言やサポートをしていたというわけですね。
江戸幕府が朱子学を大切にした理由
江戸幕府は、なぜ林羅山が得意だった朱子学を、政治の中心的な考え方として、とても大切にしたのでしょうか。
それは、朱子学が幕府の支配体制を安定させるのに、非常に都合の良い考え方だったからです。
主な理由は、以下の通りです。
- 秩序を重視する考え方:朱子学においては、身分制度や上下関係を重んじました。
したがって、武士が中心となる武家社会の秩序を保つのには、朱子学の教えはまさにぴったりだったのでした。 - 道徳的な教え:主君(リーダー)への「忠誠」や、親への「孝行」といった教えは、幕府の統治を安定させる上でも、とても役立ったのでした。
- 学問としての権威:朱子学は、儒学の中でも特に論理的な学問でした。
そのため、幕府が掲げる思想として、高い権威を持っていたのですね。
これらの理由から、朱子学は江戸時代の日本を形作る上でも、とても重宝された不可欠な存在となったのです。
林羅山が、江戸幕府から高く評価された理由
林羅山が江戸幕府から重宝されたのは、彼の優れた知識と能力があったからです。
幕府は、朱子学を政治や社会の基礎として大切に考えていたのでした。
そのため、朱子学の第一人者である林羅山は、まさに幕府が最も必要とする人材だったのです。
そして、徳川家康から家綱までの4代の将軍に仕え、幕府からその能力を、非常に高く評価されていたというわけです。
江戸幕府のブレーンとして活躍
また林羅山は、幕府のブレーンとして、さまざまな重要な仕事に携わりました。
たとえば、以下のようなものです。
- 儀式や典礼の調査:お城で行われる正式な行事や作法を、徹底的に調べました。
- 法律の制定
- 外交文書の作成:外国とやり取りするための(専門的な)手紙などを作りました。
こうしたことは、政治・法律・外国の作法など、詳しいこと・専門的なことを勉強していないと、到底できるものではありません。
そのため、林羅山は、幕府の政策に助言したり、日本の文化や教育に大きな影響を与えたというわけです。
「大阪の陣」のきっかけとなった、「あの事件」との関連も!
林羅山は、実はあの江戸初期の「大阪の陣」とも関連しています。
真田幸村が奮戦した、あの戦いですね。
方広寺鐘銘事件「オイ、家康の文字が分断されているぞ!」
江戸時代のはじめの1614年、豊臣秀吉の後継ぎ息子である豊臣秀頼が再建した、京都の方広寺の釣り鐘に刻まれた
- 「国家安康」→「オイ、”家康”の文字が分断されてるぞ!」
- 「君臣豊楽」→「オイ、”豊臣”の世が栄える(江戸幕府が衰退する)とでも言いたいのか!」
という文が問題視されました。
秀頼征伐をためらう家康 林羅山が助言
元々徳川家康は、かつてお世話になった秀吉の息子である秀頼を倒すのに躊躇していたのでした。
しかし林羅山がここで家康に助言し、
だから秀頼を倒しても、何のバチも当たらないのです」
そして家康も、
- 「なるほど、家康の文字を分断する秀頼を、倒さないわけにはいかん!」
となり、秀頼を倒すための口実・大義名分につなげるのでした。
秀頼に難癖 大阪の陣勃発
これは方広寺鐘銘事件といい、これによって家康は
- 「家康の文字が分断されている!俺はオワコンとでも言いたいのか!」
- 「豊臣の世が栄えるなんてけしからん!」
などと言いがかり・難癖をつけ、大阪城にいる豊臣秀頼を倒し、江戸幕府だけが栄える世を目指したのでした。
こうして起きたのが、1614年冬・1615年夏に起きた大阪の陣です。
豊臣家の滅亡 徳川家のみの平和な世の中へ
この大阪の陣では、真田幸村が大活躍し、一時は徳川家康を大きく後退させ、自害に追い込むほどでした(※)
しかし真田幸村は途中で力尽きて倒れてしまい、秀頼と母の淀殿は、燃え上がる大阪城の中で自害しました。
これにより、江戸幕府にとっては邪魔な存在だった豊臣家は滅び、正真正銘、徳川家の平和な世になっていったのでした。
大阪の陣については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

260年以上も続いた江戸時代の平和 これも林羅山の功績?
これもある意味、(言いがかりとはいえ)林羅山の家康への助言があったからこそ、かつてのボスの息子(=秀頼)を倒すことに躊躇していた気持ちを打ち消したわけです。
そういう意味では、林羅山は260年も平和が続いた江戸時代を作り上げるきっかけとなった一人なのかもしれませんね。
いや、林羅山さん本人も、家康に助言したときは、まさかこんな未来になるなんて思ってもいなかったかもしれません。
下呂温泉の歴史
湯ヶ峰の山頂付近に、温泉が湧出したのがはじまり
平安時代、現在の温泉地の東にある、湯ヶ峰(標高1,067m)の山頂あたりに、温泉が湧き出てきたのがはじまりでした。
よい温泉の効果があり、当時から湯治に来る客があったと言われています。
飛騨川の河原に、下呂温泉の湧出が発見された
下呂温泉は、1265年から山頂からのお湯の湧き出しが止まってしまったのでした。
しかし現在の温泉地である、飛騨川の河原に、「あること」がきっかけでお湯の湧出が発見されたというわけです。
その「あること」ことは、温泉のはじまりを伝える開湯伝説における、白鷺伝説として伝わっています。
白鷺伝説とは、
- (健康にご利益のある仏様である)薬師如来が、
- なんと白鷺へと化身(変身)し、
- お湯が涌き出てくる、いわゆる湧出地の場所を知らせた
という伝説です。
薬師如来:病気を治し、健康と寿命を授け、苦しみを救う仏様です。
白鷺:白い「サギ」とよばれる鳥類の総称です。
鉄道に関連するところでは、名古屋と敦賀を結ぶ特急列車「しらさぎ」があります。
観光に関連するところでは、兵庫県の姫路城の別名で白鷺城というものがあります。まるで白鷺のように美しいことから、 このように呼ばれます。
白鷺城こと姫路城については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

下呂温泉を救った白鷺の伝説
「白鷺伝説」について、さらに詳しくみてゆきましょう。
これは、鎌倉時代のある時期に、下呂温泉の温泉が突然枯れて(無くなって)しまったという、なんとも悲しい出来事から始まります。
- 温泉がなくなってしまい、
- 困り果てた村人たちが、がっかりしていると、
- ある日、飛騨川の河原に、一羽の白い白鷺が舞い降りてきた
のでした。
この白鷺は、
- まるで病気を治すかのように、
- 毎日同じ場所に降り立っては、
- 不思議なことに、翌日には元気を取り戻すかのように、
- 飛び去って行った
というわけです。そして、
- 村人たちが不思議に思い、
- その場所を調べてみると、
- なんとそこから、温かい温泉が再び湧き出していた
というわけです。
村人たちは、白鷺がまさに温泉の場所を教えてくれたのだと気づき、温泉が再び湧き出たことに感謝しました。
そして、その場所に「湯薬師如来像」を祀りました。
この伝説の場所は、現在の「温泉寺」であると言われています。
湯薬師如来像:温泉地のお寺に祀られている薬師如来像の俗称です。
特に、温泉の発見や温泉の効能にまつわる伝説と、深く結びついています。
すなわち、下呂温泉のはじまりは、白鷺が教えてくれた、不思議な温泉というわけですね!
薬師如来像を、村里へと移動し、温泉寺へ
また、
- 温泉がわき出る湯口が、移動していったことにより、
- 湯ヶ峰に安置してあった、薬師如来像を村里へと移動し、
- やがて、温泉寺とした
というわけです。
湯ヶ峰:岐阜県下呂市にある下呂温泉のシンボル的な山で、標高約1,067mの小さな火山です。
山頂付近には、約1,000年前に温泉が湧出したとされる湯壺の跡が残り、下呂温泉の熱源と考えられています。
下呂温泉の、飛騨川の氾濫との歴史
温泉地は、飛騨川の氾濫のたびに、壊滅的な被害を受けてきました。
その度に復興してきたものの、「安政の大洪水」において、お湯が出てくるはずの湯脈が破壊されてしまったなでしまた。
これにより、お湯の出口である湧出口を失ってしまったというわけです。
湯脈:地中から温泉が湧き出す通り道・割れ目を指す言葉です。
温泉は、地下の熱で温められた地下水が、地下の割れ目などを通って、地上に湧き出すことで出来ます。
この地中の通路が「湯脈」と呼ばれており、温泉にお湯が供給されるわけです。
明治時代になると、わずかにお湯が出てきはしたものの、それも空しく寂れてしまったというわけです。
大正時代、ボーリング(穴堀り)で温泉が涌き出る
こうして、温泉の復活をかけて、大正時代に地元民によって、
- わざとお湯を噴出させるという、ボーリング採掘
が始まったというわけです。
つまり、お湯がたくさん出るように、穴をわざと沢山掘ったというわけです。
このように、
- ボーリング(穴堀り)工事のとき(山梨県の石和温泉など)
- 鉱山などを掘っていたとき(伊豆の大仁温泉など)
などの仕事中に、たまたま温泉が出てきたというケースは多いのです。
下呂温泉を支えた岩田武七
昭和初期、高山本線の
- 下呂駅(岐阜県下呂市)
が、1930年に開業することを予測して、名古屋の実業家である岩田武七が、温泉の採掘事業に乗り出しました。
それは、鉄道が通ることで、多くの観光客が訪れると考えられたからですね。
岩田武七:明治時代に活躍した実業家で、日本の大手靴メーカーであるマドラス株式会社の源流を築いた人物です。
大正時代には、軍靴の底に使用する金具の製造に着手したのでした。
そして岩田武七さんは、1931年に下呂温泉に「湯之島館」を開業しました。
この「湯之島館」の建物は、国の登録有形文化財にもなっていて、その歴史を感じさせてくれます。
登録有形文化財:国によって指定された、歴史上・芸術上・学術上価値のある建造物や工芸品などのことです。
登録された建物は、文化庁の登録プレートが掲げられ、その価値が認められます。
また、税制上の優遇措置や、修繕・災害時に公的な助成を受けやすくなる場合があります。
地名の由来
下呂という地名は、なんだかカエルの鳴き声に似ていて、面白いですよね。
しかし、その由来はもちろんカエルではありません。
「下呂」という漢字は、温泉が湧き出る場所を意味する、古い言葉の「下留」が変化したものだという説があるのです。
すなわち、下呂温泉は、まさに温泉が湧き出る場所として、昔から人々にとって大切な場所だったことが分かりますね。
カエルの鳴き声とは全く違う、とても奥深い由来を持っていることに驚かされます。
おわりに・まとめ
下呂温泉の歴史と伝説は、いかがだったでしょうか。
林羅山が日本三名泉と認めたことや、白鷺伝説といった心温まるストーリーを知っておくことで、下呂温泉が単なる温泉地ではないことが分かりますね。
こうした歴史的背景を知ることで、温泉に浸かるひとときも、より特別なものになるというわけです。
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