【徳島】鳴門線の歴史を、わかりやすく解説!【前編】

鳴門線およびその前身となる阿波電気鉄道、さらには大鳴門橋・明石海峡大橋・四国新幹線との関連まで、わかりやすく解説してゆきます!

徳島県鳴門市とは

鳴門線・鳴門駅(徳島県鳴門市)

鳴門線・鳴門駅(徳島県鳴門市)

鳴門市なるとしは、徳島県の北東部にある市です。
鳴門なると渦潮うずしおで、とても有名ですね。

徳島県とくしまけんは、​四国の東側にあり、阿波踊あわおどが有名です。

徳島の基本的な知識については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

また、鳴門市は、四国本州をそれぞれつないでいる「大鳴門橋おおなるときょう」における、四国側の玄関口でもあります。

大鳴門橋おおなるときょう:​鳴門市淡路島あわじしまを結んでいる、巨大な吊り橋です。
この橋の上から見下ろす渦潮うずしおは、まさに圧巻の迫力となっています。

淡路島とは?

また、淡路島あわじしまとは、数多くの島がある​瀬戸内海せとないかいにおける最大の島であり、また兵庫県に属する島となります。

瀬戸内海最大の島・淡路島

瀬戸内海せとないかいには、​全部でおおよそ3,000個もの島があると言われています。
そんな瀬戸内海でも淡路島は、最大の大きさを持つ島であるということです!

瀬戸内海の大小さまざまな島がキラキラと海に浮かぶ景色は、何度見ても見惚れてしまいますね!

鳴門市からみて、すぐ北東隣の島

鳴門市からみれば淡路島は、大鳴門橋を渡ればすぐお隣となります。
そのため、淡路島は鳴門市とは交流がとっても盛んとなっています。

つまり、鳴門市は本州からみた四国玄関口として、最初に訪れる重要な役割を担っているというわけです。

​鳴門市の地理関係

鳴門市は、徳島県北東部に位置しています。
また、鳴門市の東側は、紀伊水道きいすいどうに面しています。

紀伊水道については、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

そして、兵庫県側淡路島あわじしまとの間には、「鳴門海峡なるとかいきょう」が広がっています。

鳴門海峡とは?

鳴門海峡なるとかいきょうとは、​鳴門と淡路島の間にある、いわゆる「世界三大潮流」の一つに数えられる海峡です。
この世界三大潮流せかいさんだいちょうりゅうには、​鳴門海峡の他にも、

  • イタリアのメッシーナ海峡
  • カナダのセーモア海峡

があります。

どこも潮の流れが速くて、自然のエネルギーに満ちあふれている場所ばかりですね!

潮の流れの「速さ」と、ホースの原理は同じ!

また、海峡の流れが速くなる理由は、ホースの先を絞ると勢いが速くなる原理と同じになります。
これは、いわゆる「ベンチュリ効果」という現象です!

ベンチュリ効果:流体の流れの断面積を「狭く」すると、流速が「増し」、圧力が下がるという物理現象のことです。

すなわち、「広い海」→「狭い海峡」に大量の海水が一気に押し寄せてくると、通り道が狭まった分、一気に流れのスピードが速まります。
まさにホースの先をギュッと絞ったときと同じことが、自然界で起きているわけですね。

鳴門で「うずしお」が出来る理由

鳴門なるとで「うずしお」が出来る理由は、

  1. 満潮まんちょう干潮かんちょうの差により、
  2. 瀬戸内海と外海の間に、
  3. 海面の段差ができるから

になります。すなわち、

  1. そのとき出来た(海面の)段差に対して、
  2. 海水が一気に流れ込み、
  3. 「速い流れ」と「遅い流れ」がお互いにぶつかりあって、
  4. 渦を巻く

という、まさに自然の芸術ですね!

紀伊水道とは?

また、鳴門市の東にある​紀伊水道きいすいどうとは、​四国紀伊半島きいはんとうに囲まれた海域のことです。

また、水道すいどうとは、主に​陸地に挟まれた、狭い海のことをいいます。
海峡かいきょう」とほぼ同じ意味ですが、特に「通り道」として重要な場所に「水道」使われる傾向にあるようです。

かつては紀伊水道も、まだ飛行機などが無かった時代は、たくさんの舟の通り道でした。

  • 海峡かいきょう:陸と陸に挟まれた、特に海の狭くなっている部分のこと。関門海峡津軽海峡など。
  • 内海ないかい:陸地に囲まれているというのは共通だが、外海と狭い口でつながっているという点では異なる、穏やかな海のこと。瀬戸内海など。

水道・海峡・内海の大きさの違い 覚え方

また、水道・海峡・内海の大きさの違いは、​明確な定義はありませんが、一般的に

内海 > 水道 ≧ 海峡

の順に広いです。

これはとりあえず、

瀬戸内海 > 紀伊水道 ≧鳴門海峡

のように覚えておけばよいでしょう。

すなわち、

  1. 瀬戸内海という広大な「面」の海があり、
  2. そこから外海へ繋がる「通り道」として大きな紀伊水道があり、
  3. さらにその先の一番狭い「くびれ」が鳴門海峡だから

となります。

すなわち、内海は広い面としての海、水道海峡は狭い「通り道」を指しますが、水道の方が少し規模が大きく、船が通るルートである「航路」として意識されることが多いですね!

紀州とは!

紀州きしゅうとは、​現在の和歌山県と三重県南部を指す古い地名(紀伊国きいのくにのこと)です。
現在の和歌山県は、海(紀伊水道)を挟んで、鳴門の向かい側にあります。

昔から舟で多くの人々が交流したり物々交換(商品のトレード)などしたり、歴史的にも深いつながりがある地域というわけですよ。

大鳴門橋」を渡れば、本州まで、すぐに行くことができます。

​鳴門市の歴史

鳴門市は、古くから海上交通の要所として栄えました。
特に、鳴門海峡は、大阪紀州四国を結ぶ、重要な航路だったわけです。

当時は非常に貴重だった「塩」

江戸時代には、阿波藩塩田開発が進み、製塩業で栄えました。
当時は、今みたいに「機械」で塩を作ることはできず、そのため干潮・満潮の差が激しい、限られた場所(海辺)でしか塩を作ることはできませんでした。

なので当時は塩はとても貴重であり、とても売れて儲かったのです。

阿波藩による塩田開発

阿波藩あわはん​とは、江戸時代に今の徳島県を治めていた藩のことです。

塩田開発えんでんかいはつとは、​海水を干上がらせて、塩を作る場所を整備することです。
かつての鳴門は日本有数の(数少ない)塩の産地で、この開発がもたらした大きな利益が、まさに街の発展を大きく支えたわけですよ。

蜂須賀氏(はちつかし)の治めた阿波藩

江戸時代の徳島県は、阿波藩のトップだった蜂須賀氏はちすかしが治め、

  • 当時の和服に美しい模様を着ける藍染あいぞ
  • 先述の塩作り

などの産業により、町の人々の「お金を稼ぐための(食べるための)手段」を整えることによって町の経済を豊かにしたという、まさに阿波藩の存在は今の徳島いしずえですね!

江戸時代の徳島のトップ・蜂須賀氏については、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

徳島の名物・藍染めについては、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

​鳴門市・鳴門線の歴史

鳴門線・鳴門駅(徳島県鳴門市)

鳴門線は、

  • 徳島県鳴門市にある池谷駅
  • 鳴門市鳴門駅

を結ぶ、JR四国鉄道路線です。

池谷駅いけのたにえきは、​高徳線こうとくせん鳴門線なるとせんが分岐している、鳴門観光の要となる駅です。
ホームが「V字型」に分かれているという珍しい形の駅であり、鉄道ファンにも人気がある駅となっています。

高徳線こうとくせんとは、​徳島駅と香川県の高松駅を結ぶ、四国の北東海岸を走る路線のことです。

また、鳴門線の長さはわずか8.5kmであり、これはJR四国の中でも、特に短い路線の一つになります。

鳴門へは、ほとんどの列車は徳島駅から直通で乗り入れています。
そのため、徳島駅鳴門駅の間を、乗り換えなしで移動することができます。
つまり、鳴門線は、徳島の中心部と鳴門をそれぞれつなぐという、通学・通勤などでも特に重要な交通手段であると言えます。

​鳴門線の歴史

鳴門線なるとせんは、もともと「阿波電気軌道あわでんききどう」という私鉄が、作った路線でした。
大正時代の1916年に開業し、当初はそれまでの蒸気機関車が走っていたわけです。
社名には確かに「電気」とありましたが、これは元々は「いずれは電車で走らせる」という壮大な目標と計画があったからであり(実現には至らず)、実際には石炭で走る蒸気機関車(SL)でした。

つまり、いずれ電化する計画はありましたが、電化が実現する前に1933年に国有化され、建設費維持費が高過ぎるという理由で結局は「電化」はされませんでした。
そのため、当初は(気動車に変わるまでは)蒸気機関車が煙を吐きながら走っていたわけです!

かつての私鉄会社・阿波電気軌道

阿波電気軌道あわでんききどうは、​今のJR鳴門線なるとせん高徳線こうとくせんの一部を作り上げた私鉄会社のことです。

すなわち、まだ自動車が一般的でなかった大正時代の徳島の発展を願う、地元の人々の夢が詰まった、とても歴史ある鉄道会社というわけですよ!

民間資本で建てられた理由

では、なぜ民間資本で建てられたのかというと、​当時は国鉄の整備が主要な幹線(より大事なルートの建設)に集中していたことで、地方まで鉄道建設の予算が回らなかったからです。

そのため、地元の人たちが

自分たちの街に鉄道を!

という熱意で、自分達の資金を使って、線路と未来を切り拓いたわけですね!
また、当時の大正時代は、世の中がまだ自動車が普及する前だったため、鉄道はメインの移動手段として、切実に必要とされていました。

後述するように、​1933年には国に買収されて、「国鉄」の鳴門線となりました。
国鉄」とは、「日本国有鉄道」の略であり、JR社の前身です。
そして1987年の国鉄の分割・民営化によって、現在のJR四国の路線となり、現代に至っています。

なぜ民営から、戦前に国有化されたのか?

1933年に買収された(国有化された)理由は、​当時の日本政府が、

  • 「主要な路線は、国が管理すべき」という方針(鉄道国有法)を強めたから

になります。

すなわち、阿波電気軌道は四国を横断する重要なルートの一部だったため、国営化されることになりました。
国有化こくゆうかとは、それまで民間企業が運営していた施設や事業を、様々な理由で(この時代は軍事目的の場合が多い)、国が買い取って直接管理することをいいます。

なぜ国有化されたのか?

1933年に国有化されたのは、これは当時は戦前であり、万一山陽本線がパンクしたときのバックアップルートとして、四国が重要視されたいたからです。
当時は兵士・武器・弾薬・食糧などはすべて鉄道(主に蒸気機関車)で運んでいましたから、戦争で万一山陽本線が寸断されると、九州やさらに外国の戦場まで、何も運べなくなる(=戦争で負けて国が滅ぶ)というリスクがあったからです。

また、これは今の四国新幹線において、「南海トラフ地震などで山陽新幹線不通になったときに(四国新幹線が)必要になる」という理屈と同じというか、よく似ています。

「歴史は繰り返す」迂回ルートの発想は、今も昔も似ている(同じ)

すなわち、当時は戦時色が強まる中、山陽本線がもし攻撃や事故で使えなくなったときの「迂回ルート」として、四国が注目されていました。
つまり、今の四国新幹線の議論と同じく、国の守りを固めるための「国防上の重要性」こそが、国による買収の後押し・確固たる理由になったわけですね。

「歴史は繰り返す」と言いますが、四国の役割は昔から重要視されていたことがわかって、なんとも感慨深いですね。

「電化」への期待

​当時の徳島の人たちがSLの煙を見ながら「いつか電車になるのかな」と夢見ていた姿を想像すると、なんとも感慨深いですね!
ただ、結局はコストなどの問題から実現することはなく、現代に至るわけです。

阿波電気軌道の「電車」の真実

​実は、阿波電気軌道として走っていた時代に、一度も電車が走ることはありませんでした。
電化のためのポール(架線を張る柱)などは立てられましたが、結局は一度も電気が通ることなく、国有化後にすべて撤去されてしまったわけです。

電化でんか:それまでの蒸気や現代の他の手段であるディーゼルではなく、電気を動力として列車が走れるように設備を整える(工事などをする)ことをいいます。

したがって、社名に「電気」とありながら、最後まで煙を吐く蒸気機関車が走り続け、それが今の「非電化の徳島」のルーツになったというわけですね。

非電化ひでんか:線路の上に電線を張らず、電気以外の動力(ディーゼルエンジンなど)で走る鉄道の形態のこと。

架線かせん:電車に電気を供給するために、線路の上に張られている電線のこと。

​名前に「電気」を掲げながら一度も電車が走らなかったなんて、当時の会社の人たちの無念を思うと少し切ないですね。

施設は準備していたが、​一度も電気は通らなかった

本当に切ないお話なのですが、「阿波電気鉄道」という名前に込められた「電車の夢」は、一度も実現することなく消えてしまいました。
​初めはこの名前でしたが、電気を使っていなかったのでした。
そのため、後に「電気」という言葉をなくして「阿波鉄道あわてつどう」に名前を変えました。

そして、阿波電気鉄道では線路の脇に電線を張るための架線柱がせんちゅうを立てるなど、電車を走らせる準備は着々と進んでいました。

架線柱がせんちゅう:電車に「電気」を送るための電線を支えるための、線路の脇に立っている柱のことです。

​しかし、「いよいよこれから」という時に、経営難や1933年の国有化が重なり、コストの問題からそれらの電化設備は撤去されてしまい、結局、用意した架線に一度も電気が流れることはありませんでした。

「電化」への​夢の跡

そして、1933年に国鉄に買収された後、

蒸気機関車があるなら、電気設備はいらない

と判断され、立てられた柱もすべて引き抜かれてしまったのでした。
当時は戦前ということもあり、首都圏からずーっと蒸気機関車で走ることも求められていたような時代でした。
なので、中途半端に電化設備があると、国にとってはむしろ邪魔だったのかもしれません。
なんとも切ない話ですね。

​このようにして、徳島の人々が待ち望んでいた「電車」は幻の存在となり、すなわち現在まで続く、

日本で唯一、電車が一本も走っていない県(オール非電化)

という珍しい記録に繋がっています。

社名だけが「電気」と名乗ったまま、煙を吐く蒸気機関車が走り続けていた光景は、どこか不思議で少し寂しい歴史ですね。

もし阿波電気軌道が、社名の通り「電車」を実現させていたら?

もし阿波電気軌道がその名の通り「電車」を走らせることに成功していたら、徳島の景色や歴史は、今とは全く違うものになっていたはずです。

​その「もしも」の世界を少し想像してみましょう。

​「日本唯一、オール非電化」の称号はなかった

徳島県は現在、日本で唯一「電車(架線から電気を取って走る車両)」が一度も走ったことがない、あるいは現在走っていない「非電化王国」として鉄道ファンの間で有名です。

もし当時電車が走っていたら、このユニークな特徴は生まれなかったかもしれませんね。

徳島​「電車」という言葉の定着もあったかも?

今でも徳島の方は、ディーゼル車(汽車)のことを親しみを込めて「汽車」と呼びます。
もし大正時代に電車が走っていたら、徳島でも日常会話で「電車に乗る」という言葉がもっと早くから当たり前に使われていたかもしれませんね!

​「電気」という社名に込めた当時の人たちの情熱が、もし形になっていたら…。
そのことを考えると、今の鳴門線の車窓も少し違った雰囲気を感じさせてくれます。

今回はここまで 続きは次回(後編)で

おわりに:​鳴門線鉄道の歴史、いかがでしたでしょうか。

国有化から、そして財政難による電化の挫折まで、なんともまるでドラマのようでしたね。
しかし、こうした様々な歴史を知ることで、鳴門線が今も鳴門市の人々の暮らしを支えていることのありがたさが、より深く感じられます。

今回は長くなりましまので、続きは次回に解説します!

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