鳴門線およびその前身となる阿波電気鉄道、さらには大鳴門橋・明石海峡大橋・四国新幹線との関連まで、わかりやすく解説してゆきます!
鳴門線の歴史
前回(前編)で、
- 鳴門市の地理・歴史
- 大正時代の私鉄会社・阿波電気鉄道の概要
- なぜ国有化されたのか
- なぜ電化がなかれなかったのか
- オール非電化となった徳島県について
などについて、基本事項を解説しました。
まだご覧になっていない方は、以下の記事から是非ご覧ください。

鳴門線の前身・阿波電気軌道
阿波電気軌道という会社が、徳島と鳴門をつなぐために、古川と撫養の間を1916年に開通させました。
撫養とは、鳴門市の中心部あたりを指す古い地名であり、古くから栄えてきました。
ここは四国と本州を結ぶ玄関口のような役割を担っていた、活気あふれる港町だったわけですよ!
また、古川とは、徳島市の北部・吉野川の北に位置する、かつて鉄道の終着駅があった場所です。
つまり、吉野川の北岸にあり、川を渡って徳島市街へ向かう人々でとても賑わっていたわけですね。
当時は吉野川に、橋をかけられなかった
最初は、徳島の街の中心部へは、吉野川を船で渡っていました。
その理由は、当初は技術面の問題・難易度から、橋をかけられなかったでした。
荒れ狂う川「四国三郎」こと吉野川を克服できなかった
なぜかというと、吉野川は昔から「四国三郎」と呼ばれるほどの暴れ川であり、すぐに大雨などで氾濫してしまうような川として有名でした。
そのため、当時の技術ではまともに橋を架けるのが困難だったからです。
さらに、橋をかけるためには莫大な建設費用も必要だったため、はじめはなかなか国や鉄道会社も簡単には手が出せなかったわけですね。
徳島の吉野川については、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
橋が無く、当時は「渡し舟」で渡っていた
このように、吉野川に橋をかけられなかったはじめは、対岸(川の北側)の古川で線路が止まってしまったわけです。
しかし、時代とともに橋がかけられ、徳島市の中心地である徳島駅まで線路が延びたときは、それはもう便利になったことでしょう。
「四国三郎」こと吉野川
ちなみに四国三郎とは、日本三大暴れ川の一つである吉野川の愛称です。
- 坂東太郎と呼ばれた利根川
- 筑紫次郎と呼ばれた筑後川
に並ぶ呼び名です。
坂東太郎こと利根川については、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
筑紫次郎こと筑後川については、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
国有化から現在へ (鳴門線)
線路が鳴門駅まで伸びた後、この路線は国のものになり、「阿波線」となりました。
1935年に高徳本線が高松~徳島の間で全部の線路がつながった時に、池谷と撫養の区間が「撫養線」という名前となりました。
そして、1952年に「鳴門線」と名前が変わりました。
鳴門線は、「赤字83線」という、儲からないから廃止すべきという線路に指定されましたが、それでも地域住民に不可欠な路線であることから、今も走り続けているという数少ない路線の1つです。
「赤字83線」とは
赤字83線は、1968年に「もう役割を終えた」とされて、廃止が進められた地方路線のことです。
すなわち、これらの路線は鉄道を廃止して、代わりにバスを走らせるように提案されました。
廃止の基準
赤字83線を廃止する際の基準として、いくつかの条件が使われました。
たとえば、以下のような条件です。
- 駅を利用する人が、駅の周りの人口の1.5%を下回る(つまり住民の98.5%以上は列車を利用していない)
- 駅を利用する人が、1日に100人を下回る
- 人口が少ない地域にある路線を、優先して廃止する
このように、それらの駅や路線の利用状況を厳しく調べててゆき、「採算が取れない」と判断されていった路線が、どんどん廃止の対象になったわけですね。
そして、利用者が少ない路線から順番に、優先的に廃止しようとしていったのでした。
なんとも、とてもシビアな判断基準ですね。
これらの基準は、当時の鉄道が、経営的に厳しい状況にあったことを示しています。
輸送密度ってなに?
輸送密度というのは、「1日に、1キロメートルあたり、何人のお客さんを運んだか」ということを表す言葉です。
計算は、とてもシンプルです。
- 1日に電車に乗ったお客さんの数を、線路の長さで割ります。
この数字は、その路線の「お客さんを運ぶ効率」を調べるための、とても大事な目安になります。
輸送密度からわかること
輸送密度の数字を見ると、その路線が、どのくらい利用されているのか(あるいは廃止すべきか)が、一目でわかるようになっています。
たとえば、東京の山手線のような、大都市を走る鉄道の輸送密度は、非常に高いです。
これは、たくさんの人が、毎日のように、電車を利用しているからです。
一方、地方のローカル線は、輸送密度が非常に低くなります。
これは、利用者が少なく、効率的にお客さんを運べていないことを意味します。
つまり、
- 輸送密度が高い路線 → 東京などの大都市を走る電車のように、たくさんの人が利用している。
- 輸送密度が低い路線 → あまり利用されていない、地方のローカル線が多い。
ということがわかるわけです。
つまり、鉄道会社はこの輸送密度の数字を参考に、
- この路線を、これからも続けていく(存続・維持する)べきか?
- それとも、やめる(廃止する)べきか?
というとても重要な経営判断をしています。
なんとも、数字が、その路線の未来を決めているみたいで、少しドキドキしますね。
輸送密度の例
このように、輸送密度の数字を見ると、その路線がどのくらい利用されているのかが(あるいは儲かっていない・不採算なのかが)、一目でわかるようになっているわけです。
そして今回メインの鳴門線のように、今のJR四国の路線の多くは、人口減少などの理由により、全国的にみても輸送密度が低いとされています。
また、徳島県に限っては特にバスや車など、他の交通手段も発達・充実しているため、そもそも鉄道を利用する人が相対的に少ないという背景もあります。
このように、輸送密度の数字は、その路線がどれくらい使われているのかという利用状況と、また経営の状態を残酷なまでにリアルに映し出す「鏡」のようなものだと言えますね。
鳴門線が廃止されなかった理由
鳴門線は、「赤字83線」に指定されたにもかかわらず、廃止されずに済みました。
これはなぜかというと、徳島市へ通う人が増えて、廃止の基準を満たさなくなったからです。
つまり、利用者が増えたおかげで、路線が生き残れたということですね。
しかし今は、少し心配な状況になっています。
人口減少に加え、さらには自動車を使う人が増えたため、鳴門線の利用者はずっと減り続けているというわけです。
そして2008年の輸送密度は、1日あたり1,643人まで減ってしまいました。
この数字は、以前に廃止されたローカル線と、もはや同じくらいの水準になってきているというわけです。
残念ながら、少し寂しい気持ちになりますね。
鳴門線 大鳴門橋と鉄道の計画
また、昔は「大鳴門橋」と「明石海峡大橋」に、電車も走らせるというような壮大な計画がありました。
つまり、
- 徳島→大鳴門橋→淡路島→明石海峡大橋→大阪や神戸
をそれぞつなぐという、まさに壮大な計画だったというわけです。
しかし、様々な理由(主にコストの問題など)で、実現には至っていないのが現状となっています。
大鳴門橋に、鳴門からの在来線が通されなかった理由
大鳴門橋は、四国と本州をつなぐ、とても重要な橋ですが、実はコスト・赤字などの理由により、「在来線」の線路が通る予定は無かったのでした。
つまり、はなから新幹線と在来線が、一緒に走るという計画ではなかった、というわけです。
四国新幹線とは?については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
新幹線のため線路のみ存在 大鳴門橋
このように、元々は大鳴門橋の鉄道の計画はあくまで新幹線のためのものだった理由は、在来線である鳴門線は当時は「赤字83線」に指定されるほど、利用者が少なかったからです。
そのため国鉄や政府は、
- 採算の取れる可能性の低かった在来線を、わざわざ大鳴門橋に通す必要はない
と考えたというわけです。
コスト等の問題で、在来線用のスペースは作られず 大鳴門橋
したがって、大鳴門橋は、結局は在来線の役割を担うことなく、新幹線(四国新幹線)だけを通すための線路として計画が進められました。
つまり、新幹線だけが通れるスペースが、橋の上に確保されていったというわけです。
しかしこれは、在来線である鳴門線にとっては、少し寂しいお話ですね。
新幹線のみの線路となった理由
先述の通り、大鳴門橋が新幹線だけが通る線路になったのには、いくつかの理由があります。
まず、国鉄の厳しい財政状況が、その背景にありました。
当時の国鉄は赤字が膨らんでいており、さらに在来線を新しく建設していくというような余裕はありませんでした。
しかし一方で、新幹線は東京や大阪といった大都市間を結ぶ、国を挙げてのプロジェクトでした。
つまり、新幹線を通すことで、四国と京阪神を結び、経済を活性化させようという、壮大な計画があったわけです。
明石海峡大橋にも新幹線を通すはずが…実現には至らず
また、この計画では明石海峡大橋の側にも新幹線を通すということが前提とされていました。
そして、大鳴門橋と明石海峡大橋がつながれば、四国から新幹線で、大阪や神戸まで乗り換えなしで行けるようになるはずでした。
このように、大鳴門橋は元々、四国の経済発展を担うための新幹線計画の一部として位置づけられていたわけですね。
新幹線の線路がまだ使われていない理由
そしてこの大鳴門橋には、新幹線の線路スペースがすでに整備されていますが、今もまだ使われていません。
これは、新幹線計画が、途中で中断してしまったからです。
大きな理由として、国鉄の財政悪化が挙げられます。
明石海峡大橋を建設していくとき、当初の新幹線の計画が、なんと予算の関係で見送られてしまいました。
つまり明石海峡大橋の側には新幹線用のスペースを作る余裕がなくなり、自動車だけの橋になってしまったということです。
「鳴門→新幹線の線路がある」「明石→新幹線の線路がない」という状態
すなわち、例え大鳴門橋だけ新幹線の線路スペースがあったとしても、本州側の明石海峡大橋に新幹線の線路スペースが無いために、結局は四国と本州をつなぐということが、物理的にできなくなってしまったのです。
つまり、大鳴門橋だけに新幹線の線路があっても、どのみち意味無しのような感じになってしまったのでした。
したがって、結局は新幹線の線路は、大鳴門橋の上で、まるで行き止まりのような感じ・状態になってしまいました。
もちろん今でも四国新幹線の計画はありますが、あまりにも問題がありすぎ・難易度が高過ぎて、到底まだ実現には至っていません。
でももし、いつか新幹線が開通したら、四国は、経済的にも、さらに発展するかもしれませんね。
「鳴門市」の名前の由来

鳴門線・鳴門駅(徳島県鳴門市)
「鳴門」という名前は、渦潮が「ゴォー」と音をたてて鳴る様子からきています。
市が新しくできた時、
- 中心のまちの、撫養町
- 渦潮で有名な、鳴門町
とのそれぞれの町の間で、新しい市の名前を決めるのに激しい議論となり、大変なことになったのでした。
そのための妥協案として、それぞれの間を取って「撫養鳴門市」という案も出ましたが、一旦は「鳴南市」と呼ぶことで一旦まとまりました。
しかし、この名前は残念ながら市民に人気がなかったため、わずか2か月で鳴門市に変えられた、という経緯があるわけです。
そして、この「鳴門市」という市名で、現在に至っています。
おわりに・まとめ
鳴門市の鉄道の歴史、いかがでしたでしょうか。
国鉄の廃止計画から、新幹線の夢、そして財政難による挫折まで、なんとも、まるでドラマのようでしたね。
しかし、この歴史を知ることで、鳴門線が、今も鳴門市の人々の暮らしを支えていることのありがたさが、より深く感じられたことと思います。
今回の知識を通じて、徳島・鳴門の観光や鉄道旅がより充実したものになれば嬉しい限りです!
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