倉敷の地理と歴史(海を開拓した歴史・なぜジーンズや学生服が盛んなのか?鉄道との関連性は?など)について、わかりやすく解説します!
はじめに

山陽本線・倉敷駅(岡山県倉敷市)
今回から数回に分けて、倉敷の地理・歴史を学んでゆきましょう!
これらを学ぶことで、より観光・旅行・探訪が面白くなります。
すなわち、今見ている美しい景色が「なぜそこにあるのか」という理由が見えてくるからです。
江戸時代、ここは海を陸に変える「干拓」という壮大なプロジェクトで生まれました。
したがって、地面の下には先人たちの汗と知恵が埋まっているのですね。
そんな歴史の物語を知ると、いつもの散歩道も特別な場所に感じられて、ワクワクしませんか!
干拓:海や湖を堤防で仕切り、中の水を抜いて新しい陸地(田畑や町)を作ることです。
【事前に知っておきたい前提知識】
倉敷市:
岡山県南部の街。江戸時代は「藩」が置かれず(理由は後述)、幕府が直接支配するという「天領」として栄えました。
倉敷川:
かつて倉敷の町中へモノを運ぶための運河(舟の通り道)として利用された川です。
川沿いの柳の木々や、白壁の蔵が美しい風景を作っています。
吉備国:
古代の大昔、現在の岡山県と広島県東部にあった強大な国からなるエリアです。
あまりにもお米などで儲かり過ぎ、大和朝廷を脅かすような勢力を持ったため、後に備前・備中・備後に分割されました。
備中国:
上述の吉備国が分割された一つで、倉敷を含む岡山県西部のことをいいます。
東が備前、西が備後(広島県東部)であり、京都に近い順に「前・中・後」と名前が付いています。
倉敷の歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

倉敷・干拓の歴史「海から陸へ」
もともと昔の倉敷は、海だったのでした。
すなわち、現在の倉敷市の平野部は、かつて瀬戸内海の最北端(上端)にあたる海の一部でした。
したがって、今の倉敷は、海が陸へと姿を変えた土地といえます。
かつては海だった倉敷の地
かつての瀬戸内海は、もっと深く内陸に入り込んでいました。
すなわち、今の倉敷美観地区がある場所も、当時は波が打ち寄せるような海岸線や浅瀬だったというわけです。

倉敷美観地区(岡山県倉敷市)
倉敷美観地区:江戸時代からの蔵や屋敷などの建物がそのまま残されているという、貴重な保存地区です。
倉敷観光のメインスポットです。
「吉備の穴海」 今でも「島」の名残がのこる倉敷の地名
今から400年以上前(だいたい江戸時代くらい?)は、現在の倉敷市の平野部は「吉備の穴海」とも呼ばれる、あたり一面の海でした。
すなわち、当時は
- 児島
- 連島
- 玉島
などは、その名の通りそれぞれ独立した、それも瀬戸内海に浮かぶ「島」だったわけです!
つまり、これらの地域はじめは陸続きでは無かったというわけです。
吉備の穴海:かつて岡山県南部に広がっていた海のことです。
今では人工的な干拓(※後述)によって、陸地化されています。
玉島や児島が陸続きになったのは江戸時代?
ちなみに、玉島や児島などの地域が陸続きになったのは、江戸時代からでした。
もちろん戦国時代から少しずつ始まっていましたが、江戸時代になってからは爆発的なスピードで、干拓が進んでゆきました。
- 児島:瀬戸大橋にほど近い「ジーンズの名所」のこの地域は、もともとは大きな島でした。しかし、江戸時代初期に人々の手によって陸地と繋がりました。
- 玉島:現在は新倉敷駅があるこの地域でも、江戸時代の新田開発によって、完全に陸続きになりました。
すなわち、今の岡山平野の形は、江戸時代の「干拓ラッシュ」によって完成したと言っても過言ではありません。
干拓によって、倉敷の農地を広げていった江戸時代
このように、元々は「海」だった岡山県南部を、
- 地面を高くして(干拓など)、
- 畑を作り、
- そこから綿(コットン)を育てていった
のでした。
このことが、その後の倉敷が発展していく一つのキッカケになりました。
干拓:海や湖を堤防・ダムなどで仕切って水を出し、陸地に変えることです。
これによって、農地などを増やし生産量を上げることなどが目的です。
倉敷の干拓方法と、今の遺構
当時の干拓は、今のダム工事のようなハイテクなものではなく、「執念の土木工事」でした。
干拓の方法
江戸時代頃、倉敷の南の海を陸地化していった大規模な干拓工事は、以下のようにして行われてゆきました。
- 潮止め工事
まず、海の中に長い堤防を築いて、海水を遮断します。 - 次に、中の水を水門から引き潮の時にだけ出し、少しずつ干上がらせていきました。
したがって、「一気に乾燥させる」のではなく、何年もかけて塩分を抜き、陸地へと変えていったのです。
水門や堤防は今もある?
そして、それらの水門や堤防は形を変えて、今も残っています!
例えば、倉敷川の河口付近には巨大な「締切堤防」があります。
また、そのときの古い水門の跡が公園や歴史遺産として残っている場所もあり、当時の人々の苦労を、今に伝えています。
いつ、誰が干拓したの?
ちなみに、本格的な干拓が始まったのは、具体的には戦国時代の終わり頃からです。
そしてその後、江戸時代を通じて、人々の手によってどんどん陸地が広がっていき、農地・生産量が拡大してゆきました。
- 戦国時代:宇喜多秀家という大名が堤防を築き、開発をスタートさせました。
- 江戸時代:備中松山藩や幕府(天領)によって、大規模な新田開発が行われてゆきました。
このように、これほど大規模なレベルで海を陸に変えてしまうなんて、当時の人々のエネルギーには驚かされますね!
干拓が「繊維のまち」を作った!
実は、倉敷や児島「ジーンズ」や「学生服」で有名なのは、この干拓と深い関係があります。
まず、干拓したばかりの土地は塩分が強いため(元々は海の底だったため)、お米などの農作物がうまく育ちませんでした。
そこで、塩に強い綿やイ草を育てるようになったのです。
これが後に、倉敷の繊維産業が発展する大きなきっかけとなりました!
イ草:畳の表面に使われる植物のことです。
江戸時代:物資が集まる「天領」の運河
江戸時代、倉敷は江戸幕府が直接支配する「天領」となりました。
天領/直轄地:いわゆる藩を置かず、江戸幕府が直接治めていた土地のことです。
倉敷はこの「天領」だったため、基本的に「倉敷藩」とはいわないわけです。
理由は、
- あまりにもお米がガッポリ儲かる土地だったため、幕府の財源をしっかり管理しておきたかったこと
- もし「藩」を置くと、その財力を背景に幕府へ反乱をしてくるという、軍事的な恐れもあったこと
などが説として挙げられます。
したがって、この倉敷の地は、幕府にとっても重要な周辺の物資が集まる政治・経済の大切な拠点になったのです。
ジーンズの聖地 倉敷・児島
倉敷(特に児島)は、ジーンズやデニムの聖地であることは、何かの文献などで読まれてご存知のことかと思われます。
ではなぜ、倉敷はジーンズやデニムの聖地になったのかについて考えてゆきましょう!
「塩」が変えた作物の歴史
江戸時代、海を埋め立てて作ったばかりの干拓地は、土に大量の塩分が含まれていました。
したがって、お米を作ろうとしても枯れてしまい、うまく育たなかったのでした。
そこで当時の人々は、塩分に強い植物である綿(コットン)や、さらには畳の材料になるイ草(いぐさ)を育てていくことにしたのでした。
すなわち、厳しい自然環境に合わせて「布の原料」を作る道を選んだのですね!
昔の倉敷の人々は、まさに「ピンチをチャンス」に変えたわけです。
「綿」から「繊維の町」へ
児島で良質な綿(コットン)がたくさん取れるようになると、それを加工していくための技術も発達しました。
最初は手作業で糸を紡ぎ、布を織っていたのでした。
しかし、明治時代には機械を使った紡績が盛んになってゆき、さらに大容量かつ効率的に生産できるようになってゆきます。
さらに、その丈夫な布を使って、以下のようなものが作られるようになりました。
- 足袋:江戸から明治にかけて、日本一の生産量を誇るようになりました。
- 学生服:大正から昭和にかけて、厚手の布を縫う技術を活かして、全国へ広まってゆきました。
そして「ジーンズ」の誕生へ
戦後、アメリカから入ってきたジーンズ(デニム)に目をつけたのが、児島の職人たちでした。
もともとは
- 「厚手のキャンバス地」
- 「学生服」
を縫うための、非常に高い縫製技術と丈夫なミシンを持っていたからです。
縫製:布をミシンなどで縫い合わせて、製品にすることです。
1965年には日本で初めての国産ジーンズが、児島の地で誕生しました!
鉄道が広げた「足袋」と「学生服」のネットワーク(倉敷の綿花産業)
大正時代、児島の主要な輸送ルートは、船から下津井軽便鉄道などの鉄道へとシフトしていきました。
全国へ届くスピード
ちなみに、それまで(江戸時代~明治時代頃まで)船で時間をかけて運んでいた製品が、鉄道によって東京や大阪などの大都市へ、しかも短時間で大量に届けられるようになりました。
これは、もはやミラクルに近いほどの画期的な大効率化でした。
現代の我々が、AIで大量の面倒な作業が終わってしまうのと同じような感動を覚えたことでしょう!!
日本一の圧倒的なシェアを誇った、倉敷の「足袋」
特に足袋は、大正時代に児島が日本一の生産量を誇るようになります。
したがって、我々がよく知っている有名メーカーのルーツも、この時代の鉄道輸送による販路拡大にあります。
販路:作った商品が売れていく道筋や、売る場所のことです。
すなわち、それまでは地元でしか売れなかった作物などでも、鉄道や高速トラックなどができると、この販路が拡大していくことになります。
逆にいえば、この鉄道がなければ
- 地元や近場で売るしかない
- 遠くへ出荷しようとしても「馬」「水運(舟)」などになるため、時間やコストもかかる
ということになっていたわけです。
学生服の普及とともに、鉄道で全国へと運ばれていった
また、大正時代の終わり頃から昭和のはじめ頃にかけて、日本中において学校制度が整ってゆきました。
そうなると、当然ですが「制服」が大量に(学校1つにつき何百人もいる生徒さんの分だけ)必要になってくるわけです。
そんな中、児島で作られた丈夫な学生服が、鉄道に乗って運ばれてゆき、全国の学生たちのもとへ運ばれていきました。
鉄道の、倉敷の紡績産業への大きな貢献
このように、鉄道の存在は、児島の紡績産業の販路拡大に対して、決定的な役割を果たしました。
原材料の確保・運搬(鉄道の活躍)
また、鉄道は決してただ製品を出すだけでなく、
- 糸の原料となる綿花
- 工場を動かすための石炭:
などを大量に運び込むのにも、鉄道が不可欠でした。
鉄道による、ビジネスのスピードアップ
すなわち、鉄道の存在によって倉敷の綿花・足袋・学生服を作って売るという産業は、
- 「作るスピード」
- 「売るスピード」
が、同時かつ格段に上がったというわけです。
これにより、児島は瀬戸内の小さな港町から、日本を代表する「繊維のまち」へと成長を遂げたのですね!
おわりに・まとめ
さて今回は、倉敷の地理・歴史を学んでみていかがだったでしょうか。
かつての海が干拓され、塩に強い「綿」が育ち、それが鉄道の力で全国へ広がる「学生服」や「ジーンズ」へと繋がりました。
したがって、次に美観地区や児島を歩くときは、ぜひ足元の地面や建物のルーツに思いを馳せてみてくださいね。
ちなみに、倉敷の話題はこれだけではありません。
まだまだあります!!
話は次回以降に続きます!!
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