倉敷の地理と歴史(倉敷川の運河としての歴史・天領としての歴史・蔵とそのメリットなど)について、わかりやすく解説します!
はじめに
今回も前回に引き続き、倉敷の地理・歴史を学んでゆきましょう!
かつてこの地は江戸幕府が直接支配する「天領」として、特別な発展を遂げてきました。
したがって、町を流れる倉敷川はまだ貨物列車やトラックなどが無かった時代の、物資を運ぶための重要な「運河」だったのです。
歴史を知ると、実際に倉敷の観光や旅行へ行ったとき、目の前の風景がより鮮やかに見えてくるはずですよ。
天領:「藩」をおかず、江戸幕府があえて直接治めていた土地のことで、幕府にとっては何としても自ら管理しておきたいという、経済や政治の重要な拠点でした。
運河:まだ線路や道路が無かった時代、町の中を船が通りやすいように、人の手で整えられた水のルートのことです。
倉敷の成り立ちや基本的事項などについては、前回の記事で解説していますので、ご覧ください。

倉敷川と、舟運の歴史
倉敷の町を流れる川は、舟の重要ルートだった

倉敷美観地区と倉敷川(岡山県倉敷市)
前回も解説した通り、もともとこの辺りは海(瀬戸内海の一部)でしたが、干拓によって陸地・農地が広がってゆました。
そのとき、たくさんのモノ(作物)などを積んだ船が町の中をスムーズに行き来できるように整備されたのが、現在の倉敷川です。
すなわち、倉敷川は天然の川というよりは、舟が通るための「運河」としての役割が強かったのです!
舟運:まだ貨物列車やトラックなどが無かった時代、船を使って人や荷物を運んでいた、昔の主流だった交通手段のことです。
倉敷川を舟で運んでいた?
また、当時はトラックも電車もありませんから、倉敷川を舟で運んでいたという、最大の交通ルートでした。
すなわち、蔵のすぐ目の前まで舟をつけ、荷物を積み下ろししていた、というわけです。
- 周辺の村々から、舟でお米が届く
- 川沿いの「蔵」に一時的に保管する
- 再び大きな舟に積み込み、
- 海を通って、大阪や江戸へ運ぶ
このような流れで、倉敷川は休む間もないほど舟が行き交う、賑やかな場所だったわけですよ!
直轄地としての倉敷 「たくさんの蔵があった」
倉敷が直轄地(天領)となったのは、江戸時代はじめの1642年(寛永19年)のことでした。
このときは、モノ・商品などを保存・保管したり、また各地に送り出すための集積地として、多くの人々が、
- 集まって来たモノを、蔵にいれて保存する
- 出荷のときになったら、必要に応じて蔵から取り出す
などの仕事をするため、当時の倉敷の町で働いていた(加えて、その家族がみんなで町に住んでいた)のでした。
今も残る「蔵の数々」→「倉敷」の地名の由来に
こうして、この時代に栄えた商人たちによってもたらされた富・利益などが、現在でも倉敷の町に残っている、
- 白壁の建物
- 土蔵造りの蔵
- 白漆喰のなまこ壁
といった、後述する「倉敷美観地区」の特徴的で美しい景観を作りだしていく元となりました。
もちろんこうした蔵の数々が、倉敷の地名の由来でもあります。
なぜ幕府の「直轄地(天領)」だったの?
ではなぜ、倉敷は幕府の「直轄地(天領)」だったのか。理由は、ズバリ「儲かる場所だったから」です!
当時の倉敷周辺は、先述の干拓によって新しい田んぼがどんどん増え、お米がたくさん取れるようになっていました。
さらに、倉敷は「港」としての機能も優れていたのでした。
そこで、幕府は、
と考えたのです。
また、あえて特定の「大名」に力をつけさせないよう(幕府へと反乱させないため)、経済の要所を幕府が直接押さえるという政治的な狙いもありました。
倉敷川の歴史
さて、町を流れる倉敷川の歴史は、元々は大昔、
- 干潟(つまり海を干上がらせて、
- 陸地にして、
- 畑を作っていったこと)の上に栄えていった港町
であった倉敷が、
- 江戸時代以降の干拓と用水路の導入によって、
- 水を引けるようにし、舟が内陸部の町中まで通れるようにし、
- 多くの働く人や商品などが集まってくる、物流の拠点
として発展した過程と深く結びついています。
明治以降:鉄道の普及と「美観地区」への変身
そして、明治時代になると鉄道が開通し、物流の主役は「船から列車」へと移り変わってゆきました。
これにより、倉敷川は運河としての役割を終えることになります。
しかし、ここで倉敷の人々は素晴らしい決断をします。
と、町並みの保存に力を入れたというわけです。
そして、昭和の中頃からは観光地としての整備が進んでゆき、現在のような柳並木が美しい、倉敷美観地区の風景が完成しました。
米の集積地としての倉敷
また、倉敷はかつて備中米などの集積地として賑わいました。
「集積地」とは
ここで「集積地」とは、ある特定の目的を持ったもの(人・モノ・情報・経済活動など)がたくさん集中して存在する場所をいいます。
また、こうしたものが集まってくる(集積の)度合いが高いほど「集積の経済」が働くことになり、コスト削減や効率化などの様々なメリットが生まれ期待できます。
将軍や大名が食べるお米も置かれていた?
先述の通り、倉敷には「倉敷藩」という藩は存在せず、あくまで「天領」という幕府(将軍)が直接支配するという、特別な土地でした。
理由は先述の通り、倉敷は他の地域と比べてもお米がたくさん取れる、豊かな土地だったからです。
すなわち、ここに集められたお米は、徳川将軍家のための大切なお米だったのです!
つまり、「藩」として大名が支配する土地ではなく、将軍の直轄地だったからこそ、あれほど立派な蔵が並ぶという、豊かな町になったのですね。
直轄地:大名を挟まず(介さず)、幕府が直接管理して税金(年貢)を集める土地のことです。
お米を下に落としたら、途方に暮れるレベル?
そして、もし(将軍さまが食べる)お米をこぼしてしまったら、現代の私たちが想像する以上に大変なことでした!
当時は「一粒のお米には七人の神様がいる」と言われるほど、食べ物を大切にするような時代だったわけです。
さらに、これらは将軍に納める「年貢米」ですから、役人からの厳しいチェックもありました。
もし大量に落として汚してしまったら、お米の担当者は真っ青になって、まさに途方に暮れる(どうしていいか分からなくなる)ような状況だったはずですよ!
今のように炎上や謝罪だけでは済まない世の中だったのかもしれませんね(^^;)
倉敷の地名の由来
蔵が建ち並ぶ地(=倉敷地)
さて、倉敷の地名の由来は
- 「蔵が建ち並ぶ地(=倉敷地)」
に由来するという説が有力です。
モノを入れて保管する建物「倉」
「倉」は、穀物を入れる、またはモノを入れて保管する建物を指す言葉です。
一方、「蔵」は隠す、秘めるという意味合いから、特に大切なもの(家財・商品・美術品など)を安全に保管する建物に使われることが多いです。
ちなみに、どちらも「くら」と読みます。
ただし、「蔵」はより重要かつ秘匿性の高いものを保管する、といったようなニュアンスが強調される言葉です。
倉敷の「くら」はどっち?おいしいお米はあった?
漢字は、一般的には「倉」を使いますが、建物のつくりとしては「蔵(白壁の蔵)」をイメージして間違いありません!
したがって、当時はこの「倉」の中に、おいしいお米が山のように積み上げられていました。
ここは先述の通り、周辺の広大な新田(干拓地)で作られたお米が、たくさん集まってくるような場所でした。
当時のお米は、まさに「お金」と同じくらいの価値がありました。まさに倉敷は、宝の山だったわけですね!
新田:干拓などによって、新しく作られた田んぼのことです。
平和な江戸時代は人口爆発だったため、人が食べる米を増やすためにこの新田開発が行われてゆきました。
物流の拠点としての倉敷
そして、
- 物流の拠点として発展し、
- 多くのモノや商品などが腐ったりしないように、
- または、必要に応じていつでも出荷できるように、
- これらを保管しておくための蔵が、数多く建てられたこと
から、倉敷と名付けられたとされています。
蔵が並ぶ「裏通り」としての賑わい
こうした倉敷川の周りにたくさん建てられている蔵の町並みは、今では美しい観光地です。
ただし、当時は船から荷物を降ろすための「作業場」でした。
また、倉敷川の川沿いに建ち並んでいる白壁の蔵は、先述の通り、まさに各地から集められてきたお米や綿花を保管するための倉庫だったというわけです。
白壁(土蔵造り)のメリット・デメリット
また、こうした美しい「白壁の蔵」には、しっかりとした実用的な理由がありました。
メリット
では、この「白壁の蔵」には果たしてどんなメリットがあったのでしょうか。
- 防火性:これが最大の利点です!厚い土と漆喰で覆われているため燃えにくく、予期せぬ火災から中の大事なお米や宝物を守ってくれるわけです。
- 調湿性:蔵の中がジメジメしてお米が腐らないよう、湿度を一定に保つという効果があります。
デメリット
一方、「白壁の蔵」のデメリットは、何と言ってもコストが高いことにありました。
- メンテナンスが大変:漆喰は時間が経つと剥がれたり汚れたりするため、定期的な塗り替えが必要で、維持費用や手間もかかりました。
- コストが高い:当時は、白壁の蔵を持つこと自体が、もはやステータス(富の象徴)でした。
白壁と大原美術館の「すごさ」
さらに言うと、漆喰を何度も手間ひまをかけて塗り重ねる白壁は、かなりのコストがかかります。
つまり高性能な蔵というわけなので、コストもかなりかかるわけです。
そのため、今の価値観で言えば
かのような贅沢品でした。
倉敷を流れる高梁川
三大河川が揃うのは「ミラクル」?
倉敷を含む岡山県南部には、以下のような三大河川があります。
- 高梁川:倉敷市を流れる川
- 旭川:岡山市の真ん中を流れる川
- 吉井川:岡山市の東側を流れる川
という3つの大きな川が、これほど近い距離で並んで海に流れ込む場所は、日本でも非常に珍しいのです。
これは、まさに地理的な「ミラクル」と言っても過言ではありません。
そして、それぞれの川が上流から土砂を運び、浅瀬を作ってくれました。
そこに人間が「干拓」という知恵と努力を加えたことで、日本屈指の広い平野(岡山平野)が誕生したのです。
すなわち、自然の恵みと人間の執念が合わさった奇跡の土地なのですね!
三大河川が作った「吉備国」の脅威
先述の通り、
- 高梁川
- 旭川
- 吉井川
は、それぞれ急峻な中国山地の急勾配を駆け下り、大量の土砂を下流へと運んできました。
それらが堆積してできた広大な平野は、当時の日本で屈指の「生産力(お米の取れる量)」を誇りました。
これにより誕生した吉備国は、大和朝廷を脅かすほどの勢力になったのです。
したがって、朝廷はその力を削ぐために、吉備を備前・備中・備後(+美作)の3つ(4つ)に分割しました。
すなわち、あまりに豊かすぎたがゆえに、政治的に解体された歴史があるのですね!
こうしたエピソードからも、当時からいかに吉備国がすごかったのかがわかります。
おわりに・まとめ
今回も倉敷の地理・歴史を学んでみていかがだったでしょうか。
「天領」という特別な立場が、倉敷川を中心とした「舟運」を活発にし、立派な「蔵」が並ぶ独自の町並みを作り上げました。
すなわち、私たちは今、江戸時代の経済のエネルギーがそのまま形になった場所の上にいるというわけです。
したがって、次に倉敷美観地区を訪れるときは、「川をゆく舟」や「蔵の扉の重厚さ」などを、ぜひ当時の賑わいとともに想像してみてくださいね。
ちなみに倉敷の地理・歴史シリーズは、次回以降、まだまだ続きます!
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