【岡山・倉敷】高梁川の歴史を、わかりやすく解説!

岡山県・倉敷の西横を流れる高梁川(たかはしがわ)について、その歴史(水運など)をわかりやすく解説してゆきます!

はじめに・高梁川

高梁川(岡山県)

高梁川(岡山県)

今回は、高梁川たかはしがわと倉敷の地理・歴史を学んでゆきましょう!
これらを学ぶことで、より観光・旅行・探訪が面白くなりますよ。

岡山県を流れるこの大きな川は、単なる自然の造形物ではなく、倉敷という町を生み出し、育てた「母なる川」なのです。
したがって、川の歴史を知ることは、倉敷の発展のドラマを知ることと同義なのですね!
すなわち、地形の成り立ちから鉄道の開通まで、すべてがつながっているのです。

堆積たいせき:川が運んできた土砂などが、下流に積もって陸地を作ることです。

倉敷市についての基本的事項については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

倉敷の干拓・ジーンズ・鉄道の歴史 わかりやすく解説!
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倉敷を流れる、高梁川(たかはしがわ)とは?

高梁川たかはしがわは、岡山県内を流れる三大河川の一つで、もっとも西側に位置する川です。
中国山地から瀬戸内海へと流れ込むこの川は、非常に勾配こうばいが急なのが特徴です。

そのため、

  1. 地面をエグい削りかたをしながら、そのときに生じた砂を、
  2. 上流から大量の土砂を運び出し、
  3. 長い年月をかけて広大な「岡山平野」を作り上げた

のでした。

すなわち、今の倉敷平らな地面は、この川が運んできた『砂』によってできているのですね!

川の傾斜と土砂の関係

​ちなみに、川は急であるほど、川の水はエグい流れ方になります。
したがって、上流部分においては地面の岩や土を削り取る力(浸食力)が強まるため、その結果として大量の砂が発生します。
そして、それらの大量の砂は、川によって下流へと運ばれてゆきます。

これらの大量の砂が積み重なって、今の広い岡山平野が作られたのですね。

岡山三大河川とは?

岡山県を南北に貫く、以下の3つの大きな一級河川を指します。

  • 吉井川よしいがわ:東部を流れる。
  • 旭川あさひがわ:中央部を流れ、岡山城の横を通る。
  • 高梁川たかはしがわ:西部を流れる最大級の川。

​これら3本が並んでいることが、岡山巨大な平野をもたらしたミラクルなのです!

どこからお米が運ばれてきたのか?

倉敷の蔵に積まれていたのは、主に現在の岡山県西部(備中地方)で作られたお米でした。
したがって、高梁川たかはしがわを利用して運ばれてきたものが中心です。
上流の新見にいみ高梁たかはしといった地域から、川舟にお米を載せて下ってきたというわけです。

新見市にいみし:岡山県北西部、かなりの内陸部に位置するの市です。
高梁川の上流に位置し、古くからタバコの生産で栄えてきた歴史があります。

すなわち、倉敷の地は高梁川という大きな「水の道」でつながったエリアの特産品が集まる場所だったのですね!

北前船と「大坂」への航路

​また、北前船の船は「大坂(大阪)」へ向けて、そしてその逆も頻繁に行き来していました。

北前船きたまえぶね:江戸時代から明治にかけて活躍した、日本海側から瀬戸内海を通って、大阪へと向かう大型の商船です。

  • ​大坂へ倉敷玉島で集めたお米や綿、そして「ニシンの肥料」などを積んで大坂へ運びました。
  • ​大坂から大坂からは、砂糖や薬お洒落な着物などの、最新の都会の商品が持ち帰られました。

すなわち、瀬戸内海せとないかいは現代の高速道路のようなもので、倉敷はその

  • 大きなサービスエリア
  • 物流センター

の両方の機能を持っていたのですね!

新見の名産と北前船(きたまえぶね)のルート

新見にいみなどの特産品(鉄やタバコなど)は、まず高梁川を「高瀬舟たかせぶね」という専用の小舟で下ってゆきます。

高瀬舟たかせぶね:川の浅瀬を走るために、底を平らくした小舟です。
江戸時代、高梁川たかはしがわの物流の主役として活躍しました。

そして、下流まで高瀬舟に載って運ばれてきた荷物は、河口にある玉島港たましまこうなどへ運ばれました。

玉島港たましまこう:倉敷市にある港。
江戸時代は備中松山藩びっちゅうまつやまはんの玄関口、明治期は四国参りの拠点として非常に賑わいました。

さらにそこから、大型の北前船に積み替えられ、瀬戸内海の各地や、大阪へと運ばれたのです!

​北前舟のルート

  1. 北海道を出発し、
  2. 日本海側の各港に寄りながら荷物を売り買いし、
  3. 下関を回って瀬戸内海に入り、
  4. 最終目的地の大阪を目指す

という、「西廻にしまわ航路こうろ」がメインでした。

高梁川と倉敷川との関連

​ちなみの高梁川倉敷川は一見、別の川のように見える二つですが、実は深い兄弟のような関係です。

​本流と支流

もともと倉敷川は、高梁川の東側の分流(枝分かれした流れ)の一つでした。

分流ぶんりゅう:一つの大きな川から、枝分かれして流れていく川のことです。

​干拓(かんたく)による変化

江戸時代の干拓事業かんたくじぎょうによって、

  1. 高梁川の本流は西側に固定され(つまり現在の位置)、
  2. 残された水路が、今の倉敷川となった

のでした。

すなわち、倉敷川

  • 干拓地の排水
  • 物資を運ぶ「運河

として特別に整えられた、歴史的な人工河川なのです。

高梁川と倉敷川が分断されている理由

この​主な理由は、

  • 干拓かんたく
  • 治水ちすい

にあります。

干拓かんたく:海や湖を堤防ていぼうで仕切り、中の海水(または湖水)を抜いて、陸地にすることです。

倉敷広い平地を作り、田んぼを広げるために行われました。

江戸時代、もともとはまるで「網の目」のようにたくさん流れていた高梁川の数ある派川はせん(つまり枝分かれした川)を、堤防を築いて整理していたのでした。

派川はせん:大きな川から枝分かれして流れる川のこと。
元々は高梁川から途中で枝分かれして流れていた倉敷川も、元は高梁川の派川でした。

すなわち、干拓によって農地を広げるために陸地化を進めてゆき、バラバラだった数々の川を一本の本流にまとめた結果、倉敷川はまるで独立した運河のような形として切り離されたのです。

運河うんが:船が町の中に通りやすいように、人の手で造った人工の川・水のルートです。
まだ貨物列車トラックなど無い時代、倉敷川はモノを舟に載せて運ぶための運河として整備されました。

伯備線(はくびせん)と高梁川の歴史的関係

伯備線はくびせんは、この高梁川が削り作った険しい谷に沿って敷設ふせつされてゆきました。

敷設ふせつ:鉄道の線路や電線、水道管などを、ある場所に設置してつなげることです。

江戸時代までは、川を舟で上り下りする「水運すいうん」が物流の主役でした。
しかし、明治から大正にかけて鉄道が開通したことで、その役割は大きく変わりました。

​水運の衰退

鉄道という高速輸送手段が登場したことで、川舟の仕事は減っていきました。

​鉄路の難所

急峻きゅうしゅんな地形ゆえに、線路を引くのは非常に困難な工事でした。

したがって、今の特急「やくも」が走るルートは、かつての船頭せんどうたちが命がけで荷を運んだ歴史と重なっているのです!

​船頭(せんどう)とは?

ちなみに船頭せんどうとは、船を操り、人や荷物を目的地まで運ぶための専門職のことです。

特に高梁川のように、

  • とても流れが速い
  • ゴツゴツとした岩場が多い

という非常に難易度の高い川においては高度な技術や、長年の熟練による経験値が必要でした。

したがって、「川の深さ」や「流れの癖」などを熟知した「川の職人」として、地元・地域からも非常に頼りにされる存在だったのですね。

伯備線と水運の衰退:反対運動はあった?

​そして、伯備線はくびせんなどの鉄道が開通することで、高梁川水運は一気に衰退しました。
したがって、それまで舟で荷物を運んで生活していた船頭さんや、川沿いの宿場町の人々からは、激しい反対運動が起こりました!

  • 鉄道が通ると、牛や馬が驚いて病気になる」→さすがに言い掛かり
  • 火の粉で火事になる」→これは本当にあったらしい

といった理由を付けて反対しましたが、本音は「仕事がなくなる死活問題」だったのですね。

伯備線はくびせん:岡山県倉敷市と鳥取県米子市を結ぶ、山陰と山陽をつなぐ重要な鉄道路線です。

鉄道vs水運:反対運動は全国共通のドラマ!

信濃川最上川でも同様の反対運動がありました。

信濃川しなのがわ新潟県長野県を流れる、日本一長い川です。
豊富な水量が、周囲の農業や人々の生活を支えています。

最上川もがみがわ:山形県を流れる川。
日本三大急流」の一つで、江戸時代から紅花などの物資を運ぶ舟運で栄えました。

蒸気機関車の「火の粉」や「騒音」は、当時の人々にとって未知の恐怖でした。
しかし、本音は

川の荷運びによって食べている人たちにとって、仕事が奪われる

という恐怖があったわけです。

したがって、伯備線はくびせん建設時も、水運の拠点だった地域では激しい抵抗がありました。
すなわち、「文明の利器りき」が従来のレガシーな産業を飲み込んでいく姿は、日本の近代化における、共通の「悩みの種」だったわけですね。

蒸気機関車の「火の粉」の正体

蒸気機関車(SL)の「火の粉」とは、石炭を燃やしたときに出る、まだ赤く燃えている小さな石炭の欠片や火の粉のことです。

​なぜ蒸気機関車から「火の粉」が飛ぶのか

SL(蒸気機関車)はそもそも力強く走るために、石炭を激しく燃やして、しかも非常に強い風を送り込みます。
そしてその勢いで、煙突から火の粉が勢いよく周囲に飛び出してしまうのです。
もちろんこれは非常に危険です。

当時は今よりも木造の家や、火がつきやすい「かやぶき屋根」の家が多かったのです。
したがって、線路沿いの住民にとって、火の粉が屋根に飛んでくることは「家が燃えるかもしれない」という現実的な恐怖でした。

このように、「火の粉で火事になる」という反対理由は、決して大げさな言いがかりではなかったのですね。

SLの火の粉による火災の例

​そして、実際に深刻な被害や、訴訟に発展した例がいくつもあります。

まずは、​田畑の被害です。
例えば、線路沿いの麦畑やわらの山の上に、火の粉が落ちて燃えるといったことは、もはや日常茶飯事だったのでした。

​木造建築の被害

特に勾配が急な場所では、SL(蒸気機関車)が全力で煙を吐くため、火の粉の量も増えます。
そのため、沿線の家では、洗濯物に穴が開いたり、屋根が焦げたりした記録が残っています。

明治時代には、鉄道会社を相手に「火の粉で家が燃えた」という損害賠償裁判も起きています。
こうしたことから、当時の人々にとって、SLはまさに「火を吹く怪物」のような一面もあったのです。

蒸気機関車から「電車」へ 火事や訴訟などのケースは減ったのか

しかし、時代とともに蒸気機関車(SL)から「電車」や「ディーゼル車」に置き換わったことで、

  • 火の粉」による火事
  • それに伴う訴訟トラブル

などは、劇的に減少しました。

​蒸気機関車は「動く火の玉」だった?

先述の通り、​SL(蒸気機関車)は石炭を燃やしながら走るため、煙突から激しく火の粉をあちこちにまき散らしていました。
したがって、線路沿いの家田畑にとっては、常に火災の恐怖がありました。

​茅葺き屋根(かやぶきやね)の悲劇

また、当時は燃えやすいワラカヤでできた屋根が多かったのでした。

そのため、蒸気機関車の吐き出す火の粉が、たとえわずか一つ落ちるだけでも、その火の粉によって家が全焼してしまうこともあったのでした。

​洗濯物が真っ黒に

さらには火事だけでなく、蒸気機関車の吐き出すスス真っ黒な煙によって、民家で干していた洗濯物が真っ黒に汚れてしまうという苦情も日常茶飯事だったというわけです。

すなわち、当時の鉄道会社は、沿線の住民に対して、常に頭を下げているような状況だったのでした。

「電車化」による劇的な変化

​しかし時代が進むにつれ、電車の時代となってゆきました。

電車は、電気の力でモーターを回して走ります。

つまり火を燃やさないため、トラブルの原因となっていた煙も火の粉も一切出なくなったわけです。

「電化」「ディーゼル化」による​訴訟の激減

この「電化」や「ディーゼル化」などにより火の粉による火災が物理的に起こらなくなったため、従来の賠償金を求めるような訴訟は、ほぼゼロになったのでした。

これは大きな進化ですね。

​街の近代化

さらには、煙が出なくなったことで、駅の周りにはきれいなデパート住宅を建てられるようになったのでした。
つまりこのようにして、今の便利な街並みができたのですね!

したがって、蒸気機関車から電車への交代は、「安全でクリーンな街作り」の歴史でもあったのです。

​まだ残る「火花」の正体?

​ただ、現代の電車でも、たまにパンタグラフ(屋根の上から、電気を取ってくる装置)から「バチッ!」と青白い火花が見えることがありますよね。

ただしこれは火の粉ではなく、電気の火花(スパーク)です。
これによって火事になることはまずありませんが、激しすぎると電線を傷めるため、現代ではコンピューターでしっかり管理されています!

時代とともに​クリーンな鉄道へ

蒸気機関車時代は、火の粉による火災や訴訟が本当に深刻な社会問題だったのでした。

しかし​電車への切り替えによって、それらの問題はほぼ完全に解決されてゆきました。
このように​鉄道の進化は、単なるスピードアップだけでなく、

沿線住民との平和な共存

でもあったわけです。

すなわち、​鉄道が「煙たい怪物」から「クリーンな乗り物」に変わったことは、当時の人たちにとって本当に画期的なことだったわけですね。

おわりに・まとめ

高梁川倉敷の地理・歴史を学んでみていかがだったでしょうか。

かつて山を削り、平野を作った高梁川のエネルギーが、今の豊かな農地工業地帯の土台となりました。
そして、その川の流れを利用した舟運こそが、倉敷川沿いの美しい蔵の町並みへと繋がったのです。

したがって、次に車窓から大きな川を眺める時は、この水の流れが倉敷という文化を運んできたのだと感じてみてくださいね!

 

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