倉敷の地理と歴史(大原美術館と、大原孫三郎の功績、さらには西洋美術館の歴史など)について、わかりやすく解説します!
はじめに
今回も前回に引き続き倉敷(岡山県倉敷市)の歴史、ひいては倉敷美観地区にある大原美術館の地理・歴史を学んでゆきましょう!
大原美術館の歴史は、昭和のはじめごろの1930年、まだ日本では西洋の芸術が遠い存在だった時代に、倉敷の偉大な実業家であった大原孫三郎が「日本のために」と、私財を投じて建設されたところから始まりました。
したがって、ここには世界を代表する巨匠たちの「本物」が、奇跡的に集まっているのですね!
歴史を知ると、目の前の風景がより鮮やかに見えてくるはずです。
ちなみに、倉敷美観地区については、以下の記事(前回の記事)でも解説していますので、ご覧ください。

倉敷美観地区・大原美術館
倉敷美観地区にある大原美術館は、日本の有名な美術館であり、外国のすばらしい絵がたくさんあります。
大原孫三郎(おおはら まごさぶろう)によった建てられた美術館
この大原美術館を1930年に自らのポケットマネーで建てた大原孫三郎は、倉敷を代表する実業家であり、倉敷の町に対する社会貢献の先駆者です。
今の倉敷があるのは、この方のおかげと言っても過言ではありません。
実業家の顔
彼は倉敷紡績(現在のクラボウ)の社長として、莫大な富を築いてゆきました。
また、もちろん単に自分がお金を儲けるというだけでなく、世の中のために労働環境の改善や、病院・研究所、そして今回話題にしている大原美術館を設立してゆきました。
そして、彼は未来の日本を予測する力に、ものすごく長けていたのです。
という名言・言葉通り、決して目先の利益だけではなく、あくまで未来の日本を見据えて行動した人でした。
倉敷・大原美術館が変えた「人々の心」と「観光」
この倉敷の偉大な実業家・大原孫三郎による大原美術館の誕生は、倉敷という町の運命を180度変えました。
なぜ当時は大原美術館しか無かったのか?
ではなぜ、当時は大原美術館以外に、西洋風の美術館は存在しかなかったのでしょうか。
大原美術館が設立された1930年当時、西洋美術を常設で展示する私立美術館は、他には当時としてはなかなか難易度が高く、無理でした。
なぜなら、当時は本物の西洋画を日本に持ってくること自体がとてつもなく困難であり、また巨額の資金が必要だったからです。
しかし、それでも倉敷の事業家・大原孫三郎と、画家の児島虎次郎の
という熱い志と、圧倒的な財力があったからこそ実現した「唯一無二」の存在だったのです!
なぜ、そこまでして大原美術館を建てたのか?
当時、莫大な私財を投じて美術館を建てたのには、大原孫三郎の深い哲学がありました。
一つは、友の志を継ぐためでした。
若くして亡くなった親友の画家である児島虎次郎の遺志を継ぐという、強い個人的な想いがまずありました。
次に、文化による社会貢献でした。
「金儲けだけでなく、文化を育てることが社会への恩返しだ」
という考えです。
未来への投資
という情熱がありました。
すなわち、決して目先の利益(メリット)を追うだけではなく、100年後の日本人の心への贈り物として、つまりみんなのために建てられたのでした。
その結果として、今や世界中から人が訪れる「観光の目玉」となり、倉敷の経済を支えているのは、孫三郎さんのまさに未来を見据える力があってこそだったというわけですね!
西洋への憧れと「認められたい」心 脱亜入欧(だつあにゅうおう)
明治から昭和初期にかけて、日本は「西洋に追いつけ追い越せ」という強い意識を持っていました。
当時の日本は開国からあまり経っていなく、むしろ西洋諸国から「まだまだ近代的な国家とは程遠い」とまで思われていたのでした(不平等条約が始めはなかなか改正されなかったのもこのため)。
そのため、当時の日本が何としても西洋に追い付くためには、西洋の美術品を所有し理解することで、国際社会から
と認められるための切実な手段でもありました。
孫三郎の思い「日本人でも西洋の芸術を理解できる!」
ただし、彼は単なる見栄ではなく、
という、これからの日本人への信頼も持っていたようです。
「鹿鳴館の踊り」と重なるイメージ?
大原美術館の設立(1930年)は、鹿鳴館時代(1880年代)よりもずっと後ですが、
という当時の日本の精神的な根っこは繋がっているかもしれません。
したがって、確かに当時は「西洋の真似事」などと揶揄されることもあったでしょう。
しかし、大原孫三郎が凄かった点は、表面的な「踊り(社交)」ではなく、「文化の核(芸術)」を日本に根付かせようとしたという点です。
すなわち、未来ずっと西洋の芸術を、日本人が理解し楽しむことができるという確信があったわけですね。
すなわち、一時的な流行ではなく、永遠に残る価値を日本に持ち帰ったのですね!
芸術への関心を、日本でも広めていきたいという願い
また当時、大原美術館が出来るまでは、本物の西洋画を見るためには、わざわざ苦労して海外へ行くという必要がありました。
しかしこのことは、当時の日本(凄まじいほどの円安の世の中)では膨大な旅費が必要であり、本物の金持ち(例えば大原孫三郎さんのような方)以外にとっては夢のまた夢でした。
そんな中、突如として倉敷に「世界一級品」の数々が並んだのです。
このときの人々の驚きと感動はあまりにも凄まじく、日本のプロの芸術家や、たくさん芸術を学んでいた学生たちが「ぜひとも本物を見たい!」と全国から集まってくるという、まさしく聖地になりました。
美術館効果:倉敷への観光客の増加
大原美術館は、最初はあくまでプロの芸術家たちの「学びの場」でした。
つまり、観光客が来ることはまだ珍しかった時代だったわけです。
しかし、倉敷と大原美術館は、次第に
として、評判が広がってゆきました。
したがって、それまでは「商売や仕事で行く場所」という位置付けだった倉敷が、やがて日本を代表する「観光地」へと進化していったのです。
すなわち、美術館を建てた大原孫三郎の投資は、町に「文化」という新しい命を吹き込み、今も続く観光の賑わいを作ったのですね!
大原孫三郎についてさらに詳しく
大原孫三郎(おおはら まごさぶろう)のプロフィール
倉敷の発展を支えた巨人の生涯は、以下の通りです。
- 出身地:岡山県倉敷村(現在の倉敷市)
- 生年:1880年(明治13年)7月28日
- 没年:1943年(昭和18年)1月18日(62歳で没)
したがって、彼はまさに明治・大正・昭和という激動の時代を駆け抜け、倉敷を「元々の商売の町」から「さらなる文化の町」へと作り替えたのです。
大原孫三郎の時代は「倉敷村」?
また、彼が生まれた1880年の当時は、まだ「倉敷村」でした。
その後、彼が社長を務めた倉敷紡績(クラボウ)といった地元の大きな会社などの発展とともに人口が増えてゆき、「倉敷町」を経て、さらに街は大きくなり1928年に「倉敷市」となりました。
したがって、彼が大原美術館を建てた1930年は、市になって間もない、まさに倉敷の町が大きく飛躍しようとしていた時期だったのですね!
大原孫三郎と高島嘉右衛門は似ている?
「民間から町の基礎を築いた巨人」
という意味では、非常によく似た存在だと言えます!
横浜・高島嘉右衛門との共通点
横浜の高島嘉右衛門は、埋め立てやガス灯、学校建設などの偉業で「横浜の父」と呼ばれました。
同じように、大原孫三郎もまた、倉敷のインフラや教育、福祉を一身に支えました。
いわば「倉敷の父」ともいえるかもしれません。
横浜・高島嘉右衛門との違い
高島嘉右衛門が「易聖」と呼ばれ、占いと事業を直結させた個性派だったのに対し、大原孫三郎はより「社会制度の改革」や「本物の文化の定着」に重きを置いたストイックな哲学者、という印象ですね。
美術館の「連鎖」は起きた?
大原美術館のあとに、すぐに全国のあちこちで西洋美術館ができたわけではありません。
なぜなら、本物の西洋画を集めるには、孫三郎さんのような「圧倒的な財力」と「情熱」が必要だったからです。
しかし、戦後になって、上野の国立西洋美術館(1959年)などができ、日本でも西洋美術が身近になっていきました。
すなわち、大原美術館は「日本における西洋美術の扉」を最初に開いたという、孤独で偉大な先駆者だったのです。
西洋式美術館がなかなか出来なかった理由(倉敷・大原美術館以外で)
また、戦前まで後継の美術館がほとんど出来なかったその他の理由は、主に「お金」と「戦争」の影響です。
当時の「スーパー円安」による、莫大な費用
まず、当時は
- 1ドル=約2円(現代価値に直すと数万円)
というスーパー超超超円安の時代であり、海外の品を輸入して買うこと自体が、とても贅沢すぎるものだったのでした。
そのため、海外の絵画を買うのは現代の感覚で数十億〜数百億円という、まさに壮大なプロジェクトだったのでした。
明治の工業と「1ドル=約2円」のカラクリ
まずは通貨の謎からですね。
確かに「1ドル=2円」と聞くと、今の「1ドル=150円」に比べたら超円高に見えますが、実は逆なのです!
価値の基準が、そもそも全然違う
当時は「金本位制」であり、お金の価値が今とは全く違いました。
当時の「1円」は、現在の価値に換算すると約2万円~5万円もの大金だったのです。
したがって、「2円(現在の10万円相当)払えば1ドルもらえる」のではなく、
- 1ドル(今の数十万円相当)の価値のものを買うのに、
- 高くて約10万円を払う必要があった
というような感覚です。
すなわち、西洋の美術品を買うのは、国を挙げての超ビッグプロジェクトだったのですね!
戦争の影
1930年代後半から日本は戦争へと突き進み、ある意味で贅沢品であった美術品を海外から買う余裕が、もはや国全体から消えてしまっていたのでした。
すなわち、戦争でみんな切羽詰まってるのに、わざわざ高額な絵を買う余裕もなければ、美術品を楽しんでいる余裕もなかったわけです。
これらも、倉敷の大原美術館以外の西洋式美術館が、なかなか登場しなかった理由でもありました。
したがって、戦後の高度経済成長期まで、大原美術館のような規模の私立美術館は、なかなか現れなかったのです。
倉敷の原点は「紡績(ぼうせき)」
江戸時代に綿花の栽培が盛んだったため、その材料を活かした紡績(綿から糸を作る工業)からスタートしました。
当時は「軽工業」に分類されますが、これが日本の近代化を支えた巨大産業となってゆきました。
すなわち、身近な農業から工業へとスムーズに移行できたことが、倉敷の強みだったのですね!
紡績:綿などの繊維から糸を紡ぐことです。
大原孫三郎が、財力を築けた理由
彼は、経営の天才でした。
まずは、紡績工場の徹底した合理化でした。
すなわち、最新の機械をイギリスから導入し、素早く大量の仕事が終わるように、生産効率を劇的に上げました。
つぎに、「多角経営」でした。
すなわち、紡績だけでなく、電力会社や銀行といった他の事業も経営し、地域全体の経済を握ってゆきました。
また、彼はとても人を大切にする人でした。
工場の労働環境を整えることで、質の高い製品を安定して作れるようにしました。
すなわち、「先読みの力」と「社会への投資」が、さらなる富を生むという理想的なサイクルを作っていたのです。
モネと倉敷(大原美術館)との関わり・関係性など
モネ(クロード・モネ)とは?
フランスの「印象派」を代表する、世界で最も有名な画家の一人です。
彼の代表作である『睡蓮』は、大原美術館でも一番人気の作品です。
大原美術館の奇跡
また、次回以降に解説する、倉敷美観地区にある大原美術館は、当時はインターネットもなく、船で数ヶ月かけてヨーロッパへ行く時代です。
画家の児島虎次郎が、モネ(クロード・モネ)本人から直接、絵を買い付けたのでした。
このエピソードは、当時の世界情勢を考えても驚異的な行動力でした!
モネと倉敷との縁
前述の児島虎次郎がフランスのジヴェルニーにあるモネの自宅を訪ね、直接買い付けました。
当時このとき、モネは目の前に現れた、はるばるとやってきた日本人のために、
と、快く譲ってくれたそうです。
モネのプロフィール
印象派の巨匠、クロード・モネについては以下の通りです。
- 出身地:フランスのパリ(育ちはノルマンディー地方のル・アーヴル)
- 生年:1840年11月14日
- 没年:1926年12月5日(86歳で没)
したがって、大原美術館ができた1930年は、モネが亡くなってわずか4年後だったというわけです。
すなわち、彼の存在は当時はまだ「歴史上の人物」ではなく、あくまでつい最近まで生きていた「現代アートの巨匠」の作品を買い付けていたということになりますね!
倉敷考古館
倉敷考古館は、先ほど説明した、江戸時代のお米をしまっておくための蔵を使った建物になります。
つまり、倉敷の由来となった当時リアルに使われていた蔵を、そのまま博物館のようにして利用しているというわけです。
ここは、昔リアルに使われていた道具などが展示されている博物館というわけです。
おわりに・まとめ
大原美術館の歴史を学んでみていかがだったでしょうか。
かつて画家の児島虎次郎がヨーロッパを駆け巡り、モネ(クロード・モネ)などの名画を持ち帰った物語を知ると、展示されている一枚の絵がより愛おしく感じられます。
すなわち、戦争や災害を乗り越えて今もここにあるのは、町の人々がこの場所を大切に守り続けてきたからなのです。
したがって、次にあのギリシャ神殿のような建物を見たときは、ぜひその裏側にある熱い友情と志を思い出してみてくださいね!
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