岡山県・新倉敷駅と、「なぜここに新幹線の駅があるのか!?」等の疑問やかつての玉島の歴史などを、わかりやすく解説してゆきます!
はじめに

新倉敷駅(岡山県倉敷市)
今回は、新倉敷駅・玉島の地理・歴史を学んでゆきましょう!
かつて「玉島駅」と呼ばれたこの場所は、新幹線の開通とともに倉敷の新たな玄関口へと進化してゆきました。
したがって、駅の周辺には近代的な風景と、江戸時代から続く港町の情緒が共存しているのですね。
すなわち、新幹線で通り過ぎるだけではもったいない、深い物語がこの土地には眠っているのです!
ややマニアックな駅!?新倉敷駅
新倉敷駅とは?なぜできた?
新倉敷駅(岡山県倉敷市)は、かつてもともとは「玉島駅」という名前の、在来線の普通の駅でした。
岡山県倉敷市の中心駅である倉敷駅からは、西へ約10kmほどの位置にあります。
また、山陽新幹線の駅としては、岡山駅と福山駅の間に位置しています。
昭和50年(1975年)に山陽新幹線が岡山から博多まで伸びるときに、この「玉島駅」が新幹線の停車駅に選ばれたことで、駅の名前も新倉敷駅に改称されました。
なぜ玉島(新倉敷)の位置に駅が出来たのか?
新幹線は時速200km以上で走るため、線路をできるだけ「まっすぐ」引く必要があります。
したがって、当時の倉敷市の中で、新幹線のルート上にあり、なおかつ駅を作るための広い土地が確保しやすかった「玉島地区」が選ばれたのでした。
なぜ倉敷駅に新幹線駅ができなかった?
実は、これには「物理的な限界」と「距離」の問題がありました。
倉敷駅周辺が市街地すぎて、新幹線が止まるスペースがなかったこと
今の倉敷駅の周辺は、新幹線が計画された当時すでに建物が密集していました。
すなわち、巨大な新幹線ホームを作り、高架の線路を通すための用地を確保することが非常に困難だったというわけです。
岡山駅に近すぎること
また、倉敷駅と岡山駅は、在来線で約15分ほどの距離しかありません。
これだと新幹線にとって、隣の駅との距離が近すぎるとスピードが出せず、メリットが薄れてしまいます。
すなわち、新幹線は「岡山駅」に任せ、倉敷市内の駅としては少し離れた「玉島」に作るのが合理的だと判断されました。
「美観地区への配慮」説(倉敷駅が新幹線駅とならなかった理由)
先述の通り、新幹線が倉敷駅を通らなかった最大の理由は「線路の直線美」を優先したためです。
しかし、景観への配慮も非常に重要な要素でした。
倉敷市の景観への配慮もあった?
新幹線を通すには、巨大なコンクリートの高架橋を建てる必要があります。
もし倉敷駅を通そうとすれば、美観地区のすぐ近くに巨大な壁のような構造物が出現することになります。

倉敷美観地区(岡山県倉敷市)
したがって、江戸時代からの美しい町並みを守るため、あえて市街地を避けて山側を通るルートが選ばれたという側面は十分にあります。
倉敷美観地区については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

新幹線が歴史的建物に対してもたらす「振動と騒音」への懸念
当時の技術では、新幹線の凄まじい振動が古い蔵の壁(漆喰など)に悪影響を及ぼす懸念もありました。
すなわち、歴史を守るという「想い」と、速さを出すための「合理性」が一致して、今のルート(新倉敷駅を通る道)になったのですね。
時速300kmの通過駅・新倉敷駅
なぜか「のぞみ」で通過ばかりしてしまう立ち位置(?)の駅
新倉敷駅には、最も速い「のぞみ」や「みずほ」は一本も止まりません。
例えば、のぞみ号であれば、この駅を時速300kmという物凄いスピードで通過してゆきます。
そのため、新倉敷駅で降りる機会はあまりなく、ほとんどの方は通過してしまうことがほとんどでしょう。
新幹線「みずほ」:山陽・九州新幹線を直通するものとしては最速の列車です。
新大阪と鹿児島中央を最短時間で結び、高級感のある内装が人気です。
こだまの「ゆったり旅」で、ホームに降りる機会も!?
「こだま」でゆったり旅をしているときなどには、約5分ほどの「のぞみ通過待ち」のときに、駅のホームに降りて自販機休憩などすることは出来るでしょう(改札は出られません)。
こだま号は確かに遅いですが、席が空いてるためゆったりでき(普通列車ではまず味わえない快適性)、しかもこうしたのんびり旅が出来るのが最大のメリットです。
通過せざるをえない理由:福山駅とのバランス
また、隣の大きな駅である福山駅には「のぞみ」が止まります。
新倉敷駅からも利用客はいますが、岡山や福山に比べると乗り降りする人数が少ないため、速達列車は通過する設定になっているのです。
したがって、新倉敷駅は「こだま」に乗ってゆっくり旅をする時や、地元の人が新幹線を利用するための「地域の玄関口」という役割が強いのですね。
新倉敷駅を300km/hで通過する新幹線!
新倉敷駅はホームが直線で、さらに追い越し車線があるため、N700Sなどの最新車両が時速300kmという最高速度で目の前を突き抜けていきます。
新幹線の轟音とともに風が押し寄せ、一瞬で走り去る姿は圧巻ですよね。
歴史ある「玉島」の静かな空気と、最先端の「新幹線」のスピードが交差する瞬間は、鉄道ファンでなくてもシビれます!
姫路駅を境に時速が変わるのか?
これ、実は鉄道ファンも注目する非常に鋭い視点です!
結論から言うと、「最高速度の設定が変わる」というのが正確な答えです。
- 姫路より東(新大阪側)
最高速度は時速270kmです。
これは、東海道新幹線(東京〜新大阪)と同じ規格で設計された名残です。 - 姫路より西(博多側):
最高速度は時速300kmまで引き上げられます!
すなわち、姫路駅を過ぎて岡山・広島方面へ向かう「のぞみ」や「みずほ」は、さらにギアを上げて本気を出すわけです。
したがって、姫路駅を通過した瞬間にモーターの音が少し高くなったり、景色が流れるのが速くなったりするのを感じるのは、気のせいではありません。
新倉敷駅の倉敷市街地への利便性の高さ
一見、倉敷市街地から離れているように見える新倉敷駅ですが、在来線でわずか9分というとても便利な距離にあります。
そのため、新倉敷駅はいわゆる「倉敷駅の分身」として、充分にその機能を果たしています。
倉敷駅(街の中心部)へわずか9分のクイックアクセス
新倉敷駅から倉敷駅までは、山陽本線の普通列車で約9分(2駅)という、驚くほどの近さとなっています。
例えば、東京や大阪のような大都市でも、新幹線の駅(東京駅や新大阪駅など)から中心地・目的地まではそこからさらに10分以上かかることは珍しくありません。
したがって、新倉敷駅に降りてから美観地区の玄関口である倉敷駅へと向かうのは、非常にスムーズな移動といえます。
西阿知駅(にしあちえき)の存在:
また、その間にある西阿知駅の周辺には、静かな住宅街として発展しています。
すなわち、新幹線の拠点と観光・商業の拠点が適度な距離で結ばれていることで、街全体の混雑がうまく分散されているのですね!
「車社会」への対応力の高さ 駐車場の確保
倉敷市は非常に広い面積を持っており、市民の多くが車を利用します。
市街地ど真ん中の倉敷駅周辺は、道が狭く駐車場の確保も大変です。
一方で、新倉敷駅周辺は道路が広く、大きな駐車場も作りやすい環境にあります。
すなわち、パークアンドライドの聖地として、自宅から車で駅まで行き、新幹線に乗り換えて大阪や博多へ向かうというスタイルが、非常にスムーズに実現できます。
パークアンドライド:駅まで車で行き、そこから電車や新幹線に乗り換えて目的地へ向かう、効率的な移動スタイルのことです。
したがって、新幹線駅をあえて少し離して作ったことで、「車で新幹線に乗りに行く」という地方都市ならではの利便性が生まれました。
歴史と未来の「棲み分け」
このように、もし倉敷駅に無理やり新幹線を通していたら、高架橋や駅舎の巨大化によって、今の落ち着いた駅前の雰囲気や美観地区との調和が崩れていたかもしれません。
- 歴史を守る倉敷駅:観光と文化の象徴。
- 機能を担う新倉敷駅:高速移動と広域アクセスの拠点。
すなわち、この2駅体制は、倉敷という街が「歴史ある美しさ」と「現代の利便性」を両立させるための、最良のバランスだったと言えるのではないでしょうか!
「のぞみ」で通過する際には、その広いホームの向こう側に、実は倉敷の豊かな暮らしと歴史を守るための深い戦略が隠されていると思うと、少し誇らしく見えてきますね。
新倉敷駅は、元々「玉島駅」だった!
ちなみに、これは地元では有名な話です。
新倉敷駅は、1891年の開業から1975年に山陽新幹線が通るまで、ずっと「玉島駅」という名前でした。
しかし、山陽新幹線の駅をこの地点に作ることとなった当時、(全国的な知名度がある)「倉敷」の名前を入れたいという要望があり、このときに新倉敷駅に改称されたというわけです。
鉄道唱歌と「玉島港」の謎
また、明治時代に大和田建樹さんという方が作詞された鉄道唱歌が歌われた1900年(明治33年)の当時は、玉島港がまさに四国・香川の金刀比羅参りのための、重要ルートだったのでした!
讃岐の国に鎮座ある
金刀比羅宮に参るには
玉島港より汽船あり
(鉄道唱歌 山陽・九州編 第12番)
金刀比羅宮:香川県に存在する神社。
「こんぴらさん」の名で親しまれ、長く続く石段と海の神様として知られます。
鉄道唱歌の玉島港について歌った歌詞については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

まだ瀬戸大橋も無い時代 「船」こそが主流だった
当時の交通網は、まだ鉄道が四国まで繋がっておらず(瀬戸大橋も当然存在せず)、また宇野線すらもありませんでした。
宇野線:岡山駅と宇野駅を結ぶ路線です。
かつて四国へ渡るための玄関口として、多くの旅人や荷物が行き交いました。
宇高連絡船:岡山県の宇野と香川県の高松をそれぞれ繋いでいた船です。
瀬戸大橋ができるまで、本州と四国を結ぶ大動脈でした。
そのため、当時は
- まず山陽鉄道(今の山陽本線)で玉島駅(今の新倉敷駅)まで行き、
- そこから船に乗り換えて、香川へ向かう
というのが「最先端の豪華ルート」だったのです。
当時の玉島は、今の新幹線駅と空港が合体したような、非常に賑やかな場所だったと言えます。
玉島港のルート
明治時代の「人の移動(観光・参拝)」では、鉄道唱歌にあるように、玉島が重要なハブでした。
明治の黄金ルートは、以下のようなものでした。
- 鉄道で「玉島駅(今の新倉敷駅)」へ行く。
- 馬車などで「玉島港」へ移動。
- 汽船で四国の多度津(金刀比羅宮の玄関口)へ。
この流れが、1900年当時の「最新で最速の参拝ルート」だったのです。
おわりに・まとめ
新倉敷駅・玉島の地理・歴史を学んでみていかがだったでしょうか。
新幹線が市街地を避けてこの地を通った背景には、直線を優先する技術的な理由と、美観地区の景観を守るという配慮がありました。
すなわち、新倉敷駅は、伝統と最速のテクノロジーを繋ぐための「架け橋」のような存在なのですね!
したがって、次にこの駅を訪れるときは、かつて北前船で賑わった港町の面影を、ぜひ探してみてください。
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