【山陽鉄道の歴史】わかりやすく解説!

現在の山陽本線の原型となる、明治時代の山陽鉄道の歴史について、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!

はじめに:今回は、山陽鉄道の歴史

​今回は、現在の山陽本線の原型となる、明治時代の山陽鉄道さんようてつどうの歴史を一緒に学んでゆきましょう!
この鉄道がどのようにして生まれたのか、その背景を知ることで、いつもの観光旅行、そして歴史探訪がもっともっと面白くなります。

かつて瀬戸内海せとないかいの船とスピードを競い、さらには険しい山道に挑んだ人々の情熱を感じると、車窓からの景色も違って見えてくるはずです。
さあ、明治の鼓動を感じる旅へ出発です!

山陽鉄道とは?

現在の「山陽本線」の原型となる明治時代の路線

山陽本線の原型となる、山陽鉄道(広島県)

山陽本線・三原~白市・西条間の、沼田川の景色(広島県)

山陽鉄道さんようてつどうは、現在の山陽本線の原型となる、明治時代に

  • 神戸
  • 下関(当時は馬関ばかん

までをそれぞれ結ぶ鉄道を建設・運営した私鉄会社です。

1906年に国有化されるまで、当時競合していた海(瀬戸内海せとないかい)のルートである瀬戸内海航路に対抗するため、お客様を呼び寄せるために寝台車食堂車を導入するなど、当時としてはまだ珍しかった先進的なサービスを提供していました。

いわゆる兵庫県の「山陽電気鉄道」とは異なる

ちなみ山陽電気鉄道(山陽電鉄)は、1907年に設立された私鉄で、現在の兵庫県内で鉄道を運行しています。

したがって、今回話題にしている山陽鉄道とは、直接の関係はありません

山陽鉄道の歴史

設立と開業(山陽鉄道)

山陽鉄道は、明治時代の1888年に設立され、まずはじめは

  • 神戸~明石

で開業したのでした。
つまり、東から西へと徐々に延ばしていったのであり、いきなり神戸から下関までの線路ができたわけではなかったわけです。

そして、山陽鉄道はさらに路線を延伸してゆき、

  • 1894年には、広島:日清戦争、広島大本営に間に合うように開通
  • 1901年には、下関

までの区間が、それぞれ全通したのでした。
そして1906年の鉄道国有法により、軍事上の理由から他の私鉄会社とともに、国有化されたのでした。

舟との競合 先進的なサービスを展開していた、山陽鉄道

山陽鉄道は、当時競合していた瀬戸内海のルートである瀬戸内海航路せとないかいこうろに対抗するため、日本で初めて寝台車食堂車を導入したのでした。
これに対して、瀬戸内海の船は、さらに料金を安くするなどして鉄道に対抗していったのでした。

当時の山陽鉄道は、瀬戸内海の客船と常に競合していたのでした。
すなわち、お客さんの取り合い合戦をしていたというわけです。

結局は、瀬戸内海の船は鉄道に負ける形で、衰退してしまいました。
その鉄道も1960年代には自動車が普及してきたことで押されぎみになり、1975年には山陽新幹線を開通させて、さらなるスピードアップを試みたのでした。

山陽鉄道の主な出来事

  • 1888年:神戸~明石間開業。
  • 1894年:広島まで開通。
  • 1901年:下関まで全通。
  • 1906年:鉄道国有法により国有化
  • 1949年:国鉄へ。
  • 1987年:民営化により、JR西日本の山陽本線へ。

日清戦争における、山陽鉄道の役割

また、山陽鉄道は1894年に起きた日清戦争のときには、兵士・物資・食糧・弾薬などを主な戦場であった大陸へと輸送する上で、重要な役割を果たしたのでした。

というのも、当時は自動車はまだ一般的ではありませんでした(約10年後の1903年にライト兄弟によって考案された航空機は、まだ実用化すらされていない)。
そのため、当時は戦場へ様々なものを送り届けるのも、すべて鉄道の役割だったのでした。

山陽鉄道の遺産

このように、山陽鉄道の歴史は、日本の鉄道の発展に大きな足跡を残したのでした。

特に、

  • 先進的なサービス
  • 軍事輸送における役割

は、今日の鉄道にも影響を与えています。

山陽鉄道と広島大本営・明治天皇の関係

明治天皇の、山陽鉄道による広島への鉄道旅

日清戦争のとき、明治天皇広島大本営に移動されるときも、山陽鉄道に乗車されました。
明治天皇の乗車された御召列車おめしれっしゃは、​当時は「走るホテル」と呼ばれ、最高級の西陣織にしじんおり豪華な装飾が施された、まさに豪華極まりない特別な車両でした。

御召列車おめしれっしゃ天皇陛下はじめ皇族の方々が公式に乗車されるために特別に仕立てられた、専用の列車のことです。

当時は複数日がかりの大移動だった

当時の起点である新橋しんばしから広島への旅程りょていは、​当時はまだ直通列車がなく、途中で宿泊しながらという、数日かけての移動でした。
つまり、丸1日での到着はまだ不可能でした。

当時の旅は、今のように数時間で着くものとは大違いで、まさに「一大行事」だったことが伺えますね。

明治天皇鉄道での行程については、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

広島駅へ到着された明治天皇 市民による熱烈な大歓迎ムード

明治天皇広島駅に到着されると、市民たちは総出で天皇をお迎えしたのでした。

​天皇を熱狂的に迎えるため、街中に国旗が掲げられ、広島城広島大本営が置かれた場所)へと続く沿道は、もはや身動きが取れないほどの人で埋め尽くされたのでした。

明治天皇が広島で指揮を執った「広島大本営」

日清戦争のときは、広島には戦争を指揮するための拠点である、広島大本営が置かれました。
広島大本営は、現在の広島城の位置にありました。

広島大本営とは何か?については、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

その広島大本営は、天皇が指揮を執るための軍部の中枢であったことはもちろん、帝国議会(今でいう「国会」)すらも広島で開催されていたのでした。
これってほとんど、広島が首都だったようなものですね。

山陽鉄道は1894年6月には広島まで開通しており、日清戦争はその直後の8月に開戦したため、山陽鉄道の建設・開通は戦争開戦に(2ヶ月前で)間に合った形となりました。
そして、先述の通り、山陽鉄道は兵士や物資を運ぶための主要ルートとして大活躍しました。

広島に「広島大本営」がおかれた理由は?

ではなぜ、かつて当時、広島に「広島大本営」がおかれたのか。

  • 先述の通り、山陽鉄道が事前に広島まで開通していたこと
  • この鉄道と、開港した宇品港との接続
  • 山陽鉄道宇品線で連携した、軍事輸送の容易さ

などの要素が、大本営の設置と、天皇の来広を可能にした主な理由です。

日清戦争の当時、広島から(主な戦場となぅていた)大陸への連絡は宇品港から船で行われていました。
そして宇品港は、日清・日露戦争の時期に旧陸軍の軍用港として重要な役割を果たしており、多くの兵士を大陸へ送り出す起点となっていました。

そもそも宇品港とは何か?については、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

「宇品線」という軍用線の存在

また、​日清戦争のとき、わずか16日間という驚異的な速さで、(広島~宇品間において)兵士や軍需品を運ぶための線路である宇品線が、突貫工事で造られました。

宇品線は​戦後も市民の足として親しまれましたが、次第に自動車の普及やトラック輸送などに押されてゆき、1986年に全線が廃止されてしまったのでした。
現在では、かつての線路の一部が公園や遊歩道などになっています。

明治天皇、宇品港での兵士の見送り

また、明治天皇は広島城の位置にあった広島大本営から、​何度も宇品港に足を運び、自らデッキに立って出征しゅっせいする多くの兵士たちを激励されました。

明治天皇広島での日々については、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

山陽鉄道にまつわる様々な話題

1901年、山口県の馬関(下関)まで延伸

その後、岡山、広島を経て1901年(明治34年)5月27日に山口県の馬関ばかん(現在の下関)までが開通して、

  • 神戸馬関ばかん(下関)

間の路線が全通したのでした。

当時は馬関ばかんと呼ばれていた下関については、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

瀬野八にはじまる勾配

山陽鉄道さんようてつどうにカーブが多い理由は、​当時は建設費を抑えるため、トンネルを掘るのを避け、山や谷の地形に沿って線路を敷いていったからです。

基本は「ゆるい勾配」その代わり「カーブを多く取る」方針だった

また、先述の瀬戸内航路との競合を考えて、線路の勾配を「100分の1以下」(10パーミル(‰)以下)にするよう指示したのでした。
これは、かなりゆるい勾配です。
まともにやると30‰程度のキツい勾配になってしまい、かなりキツい坂が連発することになってしまいます。

パーミル(‰)とは何か?については、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

やむを得ずきつい勾配ルートを採用

しかし、瀬野駅せのえき八本松駅はちほんまつえき間の峠を越す区間(通称「瀬野八せのはち」)だけは、22.6パーミルというかなりの急勾配を含む結果となったのでした。​
セノハチ」と呼ばれるこの区間は、標高の高い場所を一気に登る必要があったため、地形の制約上、ここだけはどうしても坂道が険しくなりました。

セノハチ(瀬野八)とは?については、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

勾配緩和のための大規模な線路移設は、今のところ無し

しかし、東海道本線を始め、他の主要ルートと比較すると、

  • 平坦な路線で、岩徳線のように距離短縮のための例や
  • 赤穂線呉線のように、山陽本線の勾配緩和線として建設された路線

がありました。

また、赤穂線あこうせん呉線くれせんなどの路線は、​急な坂のセノハチなどを避ける「迂回ルート」として、重い貨物列車が通りやすいように整備されました。

・赤穂線については、こちら(当サイト)
・呉線については、こちら(当サイト)
・岩徳線については、こちら(当サイト)
の各項目でもそれぞれ解説していますので、ご覧ください。

しかし、山陽本線それ自体は今日(現在)に至るまで、勾配緩和のための大規模な線路移設はされていません。

1900年 日本で初の寝台車を導入

また、山陽鉄道が全線が開通した1901年(明治34年)には、日本初の優等列車となる「最急行列車」(これは、現在の特急列車の元とされる)を走らせたのでした。

このめっちゃ速い列車が出来たのは、瀬戸内海を通る航路との競合にさらされたためだといわれています。​
すなわち、船に勝つために、列車の高速化を急いだわけです。
しかしその反面、無理なスピードアップをしていたことと、さらには当時の保線状況(つまり、線路の保守メンテなどの状況)も悪かったため、列車の振動・ゆれも酷く、鉄道事故も多発したのでした。

当時、九州鉄道の社長で後に鉄道大臣にもなったとあるエラい方は、

  • こんな非常識なスピードを出す列車には、危なくて乗れない

とまで語っていたようです。
そりゃ無茶というものでしょうね…。

明治天皇の時は、速度を落とし安全運行が行われた

しかし1904年に明治天皇が乗られた際には、安全を最優先して速度を落とし、しかも前後を先行列車が走るなど、様々な厳戒態勢が敷かれました。
ちなみに​先行列車とは、本命の列車(つまり天皇が乗られる列車など)が走る前に、線路の安全を確認したり、厳戒体制を取ったりするために、先に走らせる列車のことです。

沼田川(ぬたがわ)の水運と反対運動

沼田川ぬたがわとは、​広島県の三原市みはらしを流れる川で、まだ鉄道が無かった時代は船を使った荷物運び(貨物)のルートとなる川でした。

山陽鉄道は、競合する​沼田川ぬたがわ水運反対運動もあったようです。

​すなわち、それまで舟で荷物を運ぶことでお金を得て生活していた水運業者らが、鉄道が出来ることでそれまで利益奪われるために、鉄道建設へ猛反対したのでした。
これもあり、山陽鉄道では当初の計画ルートが変更されるなどの大きな影響がありました。

鉄道が出来ると水運が反対する理由などについては、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

​当時の鉄道建設がいかに壮絶で、人々の生活ともいかに密接に関わっていたかがよく分かりますね!

おわりに・まとめ

山陽鉄道の歴史を学んでみて、いかがだったでしょうか。
日清戦争という激動の時代に、わずか2週間で線路(宇品線)を通した驚きのスピード感や、山陽鉄道の山岳地帯における厳しい勾配こうばいとの戦いには、胸が熱くなりますね!
これらを学ぶことで、次に広島山口を訪れる際の観光・旅行・探訪が、より深く、充実したものになることでしょうす。

明治時代の​当時のエンジニアたちが苦労して敷いたカーブ坂道は、今も私たちの旅を支えてくれています。

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