函館・五稜郭の観光・地理・歴史などについて、わかりやすく解説してゆきます!
旅行初心者の方にも、やさしく解説してゆきます!
今回は、函館・五稜郭の話題

函館・五稜郭より(北海道函館市)
今回は、北海道の函館にある、星形の美しい要塞、五稜郭をテーマに学びを深めていきましょう!
要塞:敵の攻撃を防ぐために、頑丈に造られた施設や場所のことです。
北海道の函館市における基本的な知識については、以下の各記事でも解説していますので、ご覧ください。


函館の歴史・観光には欠かせない、五稜郭
五稜郭は、単なる観光地ではなく、幕末の動乱の舞台となった、歴史的にとても重要な場所です。
したがって、その地理的な特徴や、歴史的背景を知ることで、五稜郭がもっと面白くなるはずです。
ぜひ一緒に学んでいきましょう!
五稜郭とは?

北の大地・函館に刻まれた巨大な星形・五稜郭(北海道函館市)
五稜郭は、日本の北にある北海道の南西部、函館市の中心部に位置しています。
それはもう美しい星の形が特徴的な、日本で初めて造られた西洋式城郭になります。
西洋式城郭:ヨーロッパの技術を取り入れたお城の形のことですよ。
つまり、函館の観光の代名詞ともいえる有名な史跡ですね!
五稜郭タワー・五稜郭跡へのアクセス
五稜郭タワーや五稜郭跡へは、主に函館市電やバスで行けます。
特に函館市電の利用が便利ですよ!
函館市電:函館市内を走る路面電車のことです。
函館駅前から市電に乗って、「五稜郭公園前」で降りるのが一般的です。
そこから徒歩で約10分~18分で到着します。
五稜郭タワーシャトルバスを使うと、もっと早くたどり着けますよ!
五稜郭はなんのためにできた?

五稜郭はかつて函館防衛の拠点だった(北海道函館市)
五稜郭は、江戸幕府が蝦夷地(すなわち、今の北海道)の行政と防衛のために築きました。
1854年の箱館開港後、外国船から行政の中心地である箱館奉行所を守るため、海から少し離れた内陸に要塞として建設されたわけです。
要塞:敵の攻撃を防ぐために、頑丈に造られた施設や場所のことです。
したがって、蝦夷地の統治と、開港都市箱館(函館)の防衛拠点としての役割を担っていました。
箱館奉行所とは?
箱館奉行所は、江戸幕府が箱館(函館)と蝦夷地を治めるために置いた役所のことです。
外交・軍事・行政のすべてを担う、当時の北海道における最高行政機関でした。
五稜郭の中にあった建物であり、元々は函館山のふもとにありました。
しかし、後に防衛上の理由から、現在の五稜郭内の位置に移されたのでした。
箱館奉行所については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

しかし、箱館戦争後に解体され、現在は約140年ぶりに一部が復元されて、一般に公開されています。
箱館戦争:幕末の戊辰戦争のラストにおいて、1869年3月~5月に函館に(当時は箱館)おいて行われた戦いです。
土方歳三の率いる新撰組が新政府軍と戦いましたが、敗北。
稜堡式城郭とは?そのメリット・デメリットは?
稜堡式城郭は、15世紀のヨーロッパでの戦いにおける、大砲の出現に対応するために生まれた、星形(多角形)の要塞です。
五稜郭もまさに、この形式ですね!

冬の五稜郭(北海道函館市)
稜堡式の「メリット」防御・攻撃両方に適した形!
この稜堡式のメリットは、
- 角が突出した稜堡同士(つまり、ヒトデの足同士)が、
- それぞれお互いにうまく連携・サポートし合い、
- 死角をなくすことで、
- 攻めてくる敵を逃がすことなく、四方から滅多打ち・撃退できる
という点です。
「稜堡(りょうほ)」の意味と役割
- 稜:とがった角・突起・鋭い形状を意味する漢字
- 堡:砦・防御施設・土塁などを意味する漢字
稜堡=突き出した角の砦・防御構造
すなわち、この構造はまず死角を減らし、側面(横)からの射撃を可能にするための設計であるといえます。

五稜郭のまさに「北端のとんがり」にあたる部分(北海道函館市)
また、例えば五稜郭のような星形要塞や稜堡式城郭においては、それぞれの稜堡がお互いに援護・サポートし合うことができるように配置されています。
すなわち、このようにして防御力を上げているというわけですね。
稜堡式のデメリット 構造・設計が難しく、莫大なコストがかかる
ちなみに稜堡式のデメリットとしては、
- 建設に広大な土地が必要となる(たくさんの尖った部分が必要になるため)
- まだ当時の日本にはなかったような、高度な築城技術が求められる。(あんな正確な星形なんて、よほど頭が良くないと無理ですよ・・・)
- 莫大な費用(コスト)がかかる
などといったことでした。
稜堡:星の形に突き出た部分の防御施設のことです。
それぞれの稜堡から敵に側面から射撃できるように設計されています。
五稜郭のやや北にある「四稜郭」
ちなみに、五稜郭と同じ函館市の北(五稜郭の北)にある山に近いエリアには、五稜郭と同じ稜堡式の拠点である、四稜郭があります。
四稜郭とは?
この四稜郭は、1869年の箱館戦争の最中に、たった3日間の突貫工事によって築かれたのでした。
すなわち、この四稜郭は、本チャンである五稜郭に攻められる前に、なんとか敵を食い止めるための場所だったわけです。
なぜ四稜郭も稜堡式にしたのかというと、言うまでもなく既に存在していた五稜郭へのリスペクトがあったからだとされています。
突貫工事に資材不足・・・理想形とはほど遠かった四稜郭
しかし、
- わずか3日の突貫工事だったこと
- 戊辰戦争のほぼラストであり、戦局がほぼ「負け確定」だったこと
- 予算も資材も、ほぼ不足・枯渇していたこと
- 設計士が五稜郭を担当したような専門家ではなかったこともあり、簡素で粗末な作りになってしまったこと
- 本来は「手裏剣」みたいな4つの尖った形にしたかったのに、ほとんど正方形みたいな形になってしまったこと
- ほぼ正方形みたいになってしまったことで、稜堡式のメリットがほぼ生かせなかったこと
などの要因から、五稜郭のような立派な城にはならず、あっという間に新政府軍に包囲されてしまい、陥落してしまったのでした。
思うような戦果を挙げられなかった四稜郭
このように、四稜郭はほとんど戦果を挙げられず、五稜郭と比べるとどうしても存在の薄いものになってしまっています。
恐らくですが、四稜郭の突貫工事に駆り出されたメンバー・作業者たちも、
幕末の戊辰戦争と五稜郭
五稜郭は、戊辰戦争終盤において、新撰組の拠点となった

冬の五稜郭と、五稜郭タワー(北海道函館市)
五稜郭は、戊辰戦争の最後の戦いである箱館戦争の舞台となりました。
江戸幕府に忠義を尽くした新撰組の副長、土方歳三らは、榎本武揚率いる旧幕府軍と合流し、蝦夷地(今の北海道)へ渡りました。
すなわち、彼らは五稜郭を本拠地とし、新政府軍と最後まで戦ったのです。
土方歳三は、この箱館戦争において命を落としてしまいましたが、それでも彼の激しい活躍もあり、五稜郭はまさに旧幕府軍最後の牙城となったわけですね。
榎本武揚と五稜郭の関係
榎本武揚は、旧幕府軍の海軍副総裁として、戊辰戦争終盤に旧幕臣たちを率いて蝦夷地へ向かいました。
彼らは五稜郭を占領し、ここを本拠地として、独自の政権である「蝦夷共和国」を樹立したわけです。
榎本は、この政権の「総裁」に選挙で選ばれました。
しかし、新政府軍の総攻撃により、五稜郭は陥落し、彼は降伏することになります。
したがって、五稜郭は彼らが理想とした「新しい国」の中心地であり、その夢が潰えた最後の地でもあったわけですね!
榎本武揚が「蝦夷共和国」を作ろうとした理由
榎本武揚が「蝦夷共和国を作ろうとした最大の理由は、江戸幕府が滅亡したことで職を失った武士(旧幕臣)たちを救済するためでした。
すなわち、
- 俸禄(つまり、武士達の給料)を失った、元幕府の家臣(部下)たちを、
- 蝦夷地へと入植(つまり移住)させることで、
- 元々何も無かった土地を開拓していくことによって、
- そこから得られ作物で食べていけるようにする
などといった、生活の場を与えようと考えたわけです。
幕末から明治にかけては、職や特権を失った元・武士たちの転職活動や起業失敗の事例が、後を絶たないんですよね。
旧幕臣:かつて江戸幕府に仕えていた家臣(部下)たちのことです。
大政奉還で江戸幕府が滅ぶと同時に、彼らは職を失い、新たな職を探す必要に迫られていたのでした。
入植:未開の土地に移り住み、開墾して生活を始めることです。
すなわち、先述の職を失った旧幕臣たちが、北海道へ移住してきて、自ら畑を耕し(開墾)、食い扶持を見つけようとしたわけです。
榎本武揚が「総裁」に選ばれた選挙とは?
また、蝦夷共和国のトップを選び出すための首脳人事というものは、まだ当時の日本にはなかった選挙という、極めて民主的な方法で決められました。
すなわちそれは、士官以上の幹部たちによる入札、つまり選挙・人気投票です!
入札:ここでは、いわゆる「投票」のことです。
この「選挙」の結果、榎本武揚(えのもとたけあき)が晴れて蝦夷共和国の初代「総裁」に選ばれることとなりました。
また、土方歳三も陸軍奉行並という要職に選出されています。
海外からも「まともな政府」として認められた蝦夷共和国
したがって、これはまだ当時の日本としては珍し過ぎ・先進的過ぎた、近代国家の形態を取り入れたものとなったのでした。
これはとても画期的な試みであり、また外国からも「事実上の政府」(デ・ファクト・ガバメント)と認められる要因にもなったのでした。
しかしこれは、逆にいえば、江戸幕府は外国からまともな近代的な政府として認められなかった証左でもあります。
そのため欧米諸国とは対等な関係を結ばせてもらえず、不平等条約を結ばされることにもなりました。
そう考えると、榎本武揚や土方歳三らが目指した「蝦夷共和国」が、いかに当時の世界のトレンドを「先取り」していたのかがわかりますね!
榎本武揚が戊辰戦争後に、負けたにも関わらず、処刑されなかった理由
また、榎本武揚が処刑を免れ、後に明治政府の要人となったのは、
- 彼の持つ優れた才能が、新政府にとっても必要になる
と判断されたからです。
彼はオランダへの留学経験があり、さらにら国際法や科学技術、特に海軍に関する知識が豊富でした。
すなわち、北海道を開拓し、ロシアの南下を防ぐ上で、彼の力がどうしても欲しかったのですね!
また戦後(戊辰戦争の後)、敵ながら榎本武揚の才能が無くなることを惜しんだ黒田清隆が、榎本の助命に奔走したという熱いエピソードも、大きな理由の一つでしたよ!
五稜郭のヒーロー・土方歳三について
土方歳三は、新撰組の「鬼の副長」として恐れられた、幕末のカリスマ的な人物です。
つまり、リーダーの近藤勇についで、2番目(ナンバー2)の立場にあったというわけです。
彼は、新撰組で最も偉く尊敬する局長の近藤勇が刑死した後も、彼は旧幕府軍の指揮官として戊辰戦争を戦い抜きました。
榎本武揚と共に蝦夷地(今の北海道)へ渡り、蝦夷共和国では「陸軍奉行並」として軍事を統括しました。
つまり、彼は最後まで武士の誇りを貫き通し、五稜郭における攻衛戦の最前線で指揮を執ったという、まさに旧幕府軍最後のヒーローといえますね!
土方歳三の最期と、新撰組の降伏について
土方歳三は、箱館戦争終盤、新政府軍が箱館(函館)へ総攻撃をかけた明治2年(1869年)5月11日に、銃弾に倒れてしまい戦死したのでした。
現在の表記は「函館」ですが、当時の表記は「箱館」でした。
「函館(箱館)」という地名の由来については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
味方の援軍に向かう途中、無念にも戦死
彼の率いる新撰組は、この箱館戦争の時点で、既に劣勢に立たされていたのでした。
そして、新政府軍の箱館への進攻をなんとか食い止めるために、一本木関門の近くにおいて、馬の上に乗って指揮を執っていたときに、銃弾を受けてしまい、落命したとされています。
新撰組の一部隊は、弁天台場という場所において、最後まで抵抗を続けました。
しかし、リーダーである土方歳三の戦死によって、彼らは致命傷ともいえる大きな痛手を受けます。
こうした土方歳三というリーダーの戦死は、メンバーの士気(やる気)を下げるには十分すぎたのです。
そして、彼が亡くなった一週間後の5月18日に、榎本武揚が降伏文書に調印することとなりました。
これをもって、旧幕府軍の敗北、新政府軍の勝利が確定し、戊辰戦争は終止符を打つこととなりました。
また、これをもって五稜郭は、新政府軍へと明け渡されたのでした。
土方歳三は、たとえ銃弾に倒れていなくても、どのみち処刑されていた?
ちなみに、土方歳三が、もし銃弾に倒れず降伏(彼のプライドからして降伏はまずあり得ないでしょうが)していたとしても、どのみち処刑されていた可能性は非常に高かったと考えられます。
その理由は、彼の盟友である新撰組局長の近藤勇が、新政府軍に捕らえられた後に斬首されていたという「前例」があったからです。
新政府軍をとことんまで苦しめた土方歳三
また、土方歳三は、旧幕府軍の中でも特に重要ポジションである幹部(蝦夷共和国の陸軍奉行並という役職)として、最後まで新政府に徹底抗戦したのでした。
すなわちこれは(彼の存在は)、新政府軍にとっては、もはや忌まわしい存在以外の何者でもありません。
そのため、土方歳三は朝敵として、もし負けたら「厳しく裁かれる立場」にあることは、誰でも十分に予想できたのでした。
朝敵:天皇や朝廷といった、非常に権威ある存在に対して敵対する者のことをいいます。
もし朝敵認定されてしまったら、天皇の名のもとに処刑・討伐されることとなります。
榎本武揚は、その有能さを評価され、処刑は免れた
一方の榎本武揚は、黒田清隆の助命・サポートによって、なんとか処刑されるのを許されました。
おそらく、彼の能力は新政府樹立後も、とても役に立つ存在と考えられたのでしょう。
しかし、土方歳三の場合は、あれだけ散々新政府軍に対して損害を与え続けたため(もちろんこれは、新撰組にとっては『大活躍』と言うべき偉業になります)、戦後になってもどのみち処刑されていた可能性は、非常に高かったというわけです。
したがって彼は、
- 「あくまで武士として戦死した」
ということによって、逆にその信念と誇りを貫き通したことを、自ら証明したとも言えますね!
したがって、彼はまさしく潔い最期を選んだ、という見方もできるでしょう。
最期まで武士の矜持を貫いた土方歳三 生き様もカッコいい
土方歳三は、その「イケメン」と称される容姿(ルックス)の美しさだけでなく、その生き様が本当にカッコいいですよね!
新撰組の「鬼の副長」として、彼はとても部下に対する厳しさを持っていました。
また、近藤勇亡き後は、旧幕臣たちのために、北の大地・函館に追い詰められるまで、最後の最後まで戦い抜きました。
矜持:自分の能力や立場に対して確固たる自信を持ち、また堂々としているさまや誇りのことです。
すなわち、彼は新政府への降伏を選ばず、五稜郭の地で武士の矜持を貫いて散りました。
その潔い最期は、現代に生きる私たちにも、大切な何かを教えてくれますね!
五稜郭で、土方歳三・新撰組の戦いの跡を訪ねよう

五稜郭における、ほぼ「星形」の先端部分より。左側のとんがった部分が、まさにそれ。(北海道函館市)
さあ、私たちも五稜郭を訪れて、土方歳三たちが繰り広げた熱い戦いの跡を巡りましょう!
星形の五稜郭の土塁を歩けば、彼らが守ろうとした蝦夷共和国の夢や、当時の緊迫した空気が感じられるはずです。
土塁:敵の攻撃から守るために、土を盛り上げて作った壁のことです。
特に、土方が最期を迎えたとされる一本木関門の碑を訪ねると、彼の強烈な信念が伝わってきて、感動的ですよ!
歴史を肌で感じる、素晴らしい旅になりますね!
おわりに・まとめ
今回の学習で、五稜郭の地理と歴史を深く知ることができましたね。
日本には珍しい星形要塞が、なぜ、どのようにして、この函館の地に造られたのかが分かると、五稜郭が単なる観光地ではなく、歴史の証人に見えてきませんか?
特に、土方歳三や榎本武揚たちの熱い志が、この地に刻まれていると感じると、感動しますよね!
また、別のテーマで一緒に学びましょう!
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