【函館】立待岬の観光・地理・歴史を、わかりやすく解説!

北海道・函館の立待岬について、その観光・地理・歴史および石川啄木・与謝野晶子のエピソードも合わせて、わかりやすく解説してゆきます!

立待岬(北海道函館市)

立待岬(北海道函館市)

​今回は、函館・立待岬の話題

立待岬(北海道函館市)

​今回は、函館はこだて立待岬たちまちみさきの地理・歴史を学んでゆきましょう!

函館山はこだてやまのふもとにあるこの岬は石川啄木いしかわたくぼく与謝野晶子よさのあきこといった文豪たちにも愛された場所です。

したがって、この地の地理歴史を知ることで、この場所がより一層輝いて見え、また立待岬観光もより面白いものになるはずです!

まず函館市基本的知識については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 北海道編 南の巻第3番 津軽海峡を経て函館へ
鉄道唱歌 北海道編を、小学生にもわかりやすく解説しています。鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説します。
鉄道唱歌 北海道編 南の巻第4番 函館市を観光!
鉄道唱歌 北海道編の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

立待岬とは?どこにある?

​​立待岬たちまちみさきは、北海道・函館市はこだてしの南端に位置する岬です。

津軽海峡つがるかいきょうに突き出た形で、海抜かいばつ約30メートルの断崖絶壁だんがいぜっぺきとなっています。
すなわち、この岬からは、遠く​下北半島しもきたはんとうや​津軽半島つがるはんとうまで見渡せる、壮大な景観が魅力となっています。

立待岬からの函館山(北海道函館市)

立待岬からの函館山(北海道函館市)

立待岬は、函館山はこだてやまのふもとにある、人気の観光スポットですよ!
絶景が広がっていて、とても気持ちが良い場所ですね!

​立待岬へのアクセス(函館市電など)

​​立待岬へのアクセス方法は、​主に函館市電はこだてしでんとバス、またはタクシーとなります。
すなわち、​函館市電(路面電車のことですね)の​、谷地頭やちがしら停留所が最寄駅となります。

函館市電の谷地頭やちがしら停留所とは、函館駅からかなり南西に行ったところにあり、また函館山のほぼ東側のふもとにある、函館市電の南の駅のような場所です。

この谷地頭やちがしら停留所からは、徒歩で約20分ほど坂道を登って向かうことになります。
少し距離がありますが、その途中の道中の景色も楽しむことができます。

​立待岬の由来は?アイヌ民族との関係は?

立待岬(北海道函館市)

立待岬(北海道函館市)

​​立待岬の名前の由来には、複数の説があります。

一つは、アイヌ語

  • ヒウシ」(岩の多い場所)

からきているという説があります。

これは、

  • 比布ぴっぷ(旭川市のやや北にある地名):ピピペッ→岩の多い場所にある川
  • 緋牛内ひうしない(北見市にある地名):ピウシナイ→岩の多い場所にある川

などと語源が似ています。

もちろん真相は闇の中であるため、これが正しい説とは限りません。

すなわち、この地域にはアイヌ民族が住んでおり、またアイヌの人々にとって重要な場所であったことがうかがえます。

アイヌ民族が「立って(魚や獲物を)待っていた岬」!?

また、

  • ここで獲物や魚を待つ
  • 帰る人を立って待つ

といった意味からついたという説もあります。

つまり、アイヌ民族が魚や獲物などを

  • 立って待っていた岬

という、シンプルなネーミングというわけです。
いや、冗談ダジャレなどでは決してなく、全国各地にはこのようなシンプルでそのまんまのネーミングの地名が数多く存在します。

​石川啄木との関係は?

​​立待岬の近くには、詩人・歌人である​石川啄木いしかわたくぼくゆかりの場所があります。
すなわち、立待岬へ向かう途中にある道沿いには、いわゆる彼の家族が眠る、石川啄木一族の墓があります。

したがって、​立待岬は、​石川啄木が故郷を離れて函館はこだてに滞在していた時期のエピソードなどと、深く関わっているたいうわけです。

立待岬に来ると、まるで彼の悲劇的な生涯を思い、そして感慨深い気持ちになってくるというわけです。
そして、その場所には、彼の歌碑かひも建てられています。

​​石川啄木:明治時代の詩人しじん歌人かじんで、「一握いちあくすな」などの歌集かしゅうで知られています。
日本の短歌の文化に革命をもたらしたと言われる人物です。

​​歌碑かひ:歌(和歌や短歌など)を刻んだ石碑せきひのことです。

​石川啄木の墓地が函館にある理由

​​石川啄木いしかわたくぼく墓地ぼちが​函館の​立待岬近くにあるのは、

  • 彼が​函館という土地を愛し、また人生においても深く関わったから

となります。

故郷の岩手県を離れた​石川啄木は、明治40年頃(だいたい1907年)に​函館において教員新聞記者として、約5か月間暮らしました。

石川啄木は、なぜ函館にやってきたのか?

石川啄木といえば、太宰治らのような人間失格な文豪たちと並ぶ、ザ・スーパー社会不適合者として有名です。😄😄

彼は地元・盛岡の渋民しぶたみの小学校で先生をしていたそうなのですが、なんと校長を排斥しようとすゆ運動を扇動してしまい、これがきっかけで辞職(というかクビ)になってしまいました。
なにやっとんねん・・って話ですが、それは彼には彼なりの使命感・正義感・信念があってこそのものだったのでしょう。
自分のクビや故郷に居づらくなるのを恐れずに校長を辞めさせる運動を起こすとか、もはや天才のやることはスゴすぎです。

函館での働きぶり 締切も守らずマイペースに文学に熱中!

このような問題を起こしたため、地元には居づらくなり、文学活動を続けるために新天地を求めて、逃げるように函館にやってきたのでした。
彼は当時既に周囲から才能を既に認められていたため、仲間から新聞社の仕事を紹介・斡旋してもらえたのでした。

しかし函館の新聞社での働きぶりも、

  • 文学活動に熱中するあまり、仕事との両立が難しかった
  • 締切を守らないことは日常茶飯事
  • 勝手に記事の内容を自己流で書き換える

といったことはまだ序の口だったもようです。

たぶん個人的な予想ですが、彼は函館で勤務してるとき、

  • 勤務時間中に居眠り・執筆
  • 上司に直談判じかだんぱん
  • 遅刻

などといったことが日常茶飯事の、彼の姿が、容易に想像つきます😄😄

働けど働けど我が暮らし楽にならざり…
ー「一握の砂」より。1909年頃、東京で働いていた頃の台詞

私(筆者)も彼と同じ社会不適合者なので、こうした社会不適合者は大好きで、親近感沸くんですよね。😄😄

約132日ながらも、充実・波乱に満ちた函館生活

したがって、この​函館での生活が、彼の創作活動に大きな影響を与えたと言われています。

しかし函館の家が火事で焼けてしまい、引っ越しを余儀なくされてしまいました。
ところが彼は絶望するどころか、むしろ、

これでやっと執筆に集中できる!

と意気込んだようです。
まさに天才あるあるなエピソードですね!

啄木はその後、札幌→小樽→釧路と職を転々とし、最終的には東京へ戻ることになります。

函館への思い入れが強かった石川啄木

もし死ぬのなら、函館で

しかし残念ながら、その願いは叶うことはなく、彼は東京の自宅において亡くなりました。

石川啄木の死後、彼と親しかった友人が、彼の遺言(つまり、「死ぬなら函館で」というフレーズ)であり希望でもあった、​函館への埋葬という彼の遺志を尊重して、実現させたというわけです。
すなわち、彼の魂は今も、この地(立待岬)において、海を見つめているというわけですね。

石川啄木については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第36番 盛岡を出発し、岩手県北部へ 好摩・岩手川口・いわて沼宮内
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立待岬の地理

​​立待岬は、北海道南部の​函館市に位置し、​函館山の南東端が​津軽海峡つがるかいきょうに突き出した岬です。

すなわち、この岬は標高約30メートルの断崖絶壁だんがいぜっぺきから連なっています。
つまり、めっちゃ高い場所にあるわけです
そして立待岬は、眼下にはまるで荒々しい海が広がるような、非常にダイナミックな地形をしています。

したがって、晴れた日には、遠く対岸たいがんの​青森県にある、

  • 下北半島しもきたはんとう
  • 津軽半島つがるはんとう

までをも見渡すことができるという、また絶景のビューポイントとして知られています。

周囲の複雑な海岸線と、函館市街を見下ろす景観のコントラストが素晴らしいですね!

津軽半島の地理・観光などについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

東北・日本海側の旅2 五能線・川部→五所川原、津軽鉄道・津軽五所川原→嘉瀬・金木 太宰治のふるさとを巡る
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立待岬と東尋坊(福井県) どっちが高い・怖い?

立待岬および福井県東尋坊とうじんぼうは、両方とも断崖絶壁の景勝地となります。

東尋坊については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 北陸編 第62番 動橋・大聖寺(加賀市)を過ぎて、福井県へ 芦原温泉、東尋坊
鉄道唱歌 北陸編の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

しかし、高さと“怖さ”の印象には、やや以下のような違いがあります。

高さの比較

まずは、シンプルに高さの比較です。

  • 立待岬:約30メートル 。景色は絶景
  • 東尋坊:約25メートル 。柱状節理の岩が連なる断崖。

高さだけで言えば、立待岬の方がやや高いです。

怖さの印象

立待岬は、景勝地として整備されており、柵もあり、比較的安全となります。
また、先述の通り、石川啄木の墓など文学的・歴史的な雰囲気が強くなっており、怖さよりもむしろ静けさや哀愁あいしゅうを感じる場所となっています。

一方、東尋坊自殺の名所として知られており、そのためか心霊(👻)の噂も多くなっています。
また、崖には手すりのない場所もあり、人によっては断崖のスリルが強くなっています。
柱状節理ちゅうじょうせつりの岩場は足元が不安定であり、自然の厳しさを感じる場面も多くなっています。

柱状節理ちゅうじょうせつり六角形の柱のような岩が、高く連なっているような景色です。
例えばマリオの土管ステージで、土管が円形→六角形になったようなイメージです。

したがって、“怖さ”という意味では、東尋坊の方が圧倒的に強い印象を持たれています。

その他、柱状節理で有名な兵庫県の玄武洞げんぶどうについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

山陰鉄道唱歌 第10番 城崎温泉に到着!温泉での安らぎ さらに玄武洞も
山陰鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

どっちが怖い!?結論

  • 高さで勝るのは、立待岬
  • 怖さ・スリルで勝るのは、東尋坊

すなわち、どちらも絶景スポットにはなりますが、そこから感じる雰囲気は、それぞれまったく異なっています。
立待岬は文学静寂、東尋坊は自然の力と人間のドラマが交錯する場所。
あはたは、どちらに行ってみたいですか?それとも両方制覇してみる?

​函館山の地理・歴史

​​函館山は、​立待岬を含む、​函館市の南西部に位置する山です。

すなわち、その地理的な特徴は、陸繋島りくけいとうであったものが、砂州さすの発達により​函館市街と繋がったという点にあります。

函館山の山頂さんちょうからは、おうぎを広げたような独特の地形を持つ函館市街と、それを囲む​津軽海峡一望いちぼうできます。

歴史的には、古くから海上交通の目印となり、また幕末には砲台が設置されるなど、軍事的要衝ようしょうでもありました。

​​陸繋島りくけいとう:もとは島であったものが、砂やれき堆積たいせきした砂州さすによって本土とがった地形のことです。

​​要衝ようしょう:軍事上または交通上、重要な地点のことです。

​津軽海峡の地理・歴史

​​津軽海峡は、北海道の​函館市と、本州の​青森県へだてる海峡です。

すなわち、この海峡は古くから、日本海太平洋を結ぶための重要な航路(ルート)でとなってきました。
昔は日本海と太平洋をそれぞれ結ぶ海峡は、山口県・福岡県をそれぞれ結ぶ関門海峡かんもんかいきょうぐらいしか無いので、当然といえば当然ですよね。

関門海峡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 山陽・九州編 第27番 向かいの岸は下関 関門海峡は行き交う船にとっての要所
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また、津軽海峡は世界的に見ても有数の潮流ちょうりゅう、つまり潮の流れがとても速い海域として知られています。

江戸時代には、北前船のルート

津軽海峡は、歴史的には江戸時代から​北前船きたまえぶねなどの交易こうえきルートとして栄えてきました。
そのため、津軽海峡の周辺は、歴史的に多くの人々や文化、さらにはモノ(商品など)の交流の場となってきました。

​​北前船きたまえぶね:主に江戸時代、日本海側の港をグルっと左側を周り、下関の関門海峡から瀬戸内海せとないかいへと入り、大阪などを結んで商品を運んでいた商船しょうせんのことです。

また、北前船については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

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津軽海峡および青函トンネル

また、津軽海峡には青函せいかんトンネル(北海道と青森県を結ぶ海底トンネル)が通っています。

津軽海峡および青函トンネルについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第41番 津軽海峡と青函連絡船・青函トンネル 函館はすぐ近くに
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​立待岬の交通・軍事拠点としての歴史

​​立待岬の歴史は、古くから交通軍事の要所として重要視されてきました。
したがって、江戸時代末期には、立待岬においは外国船がいこくせんの接近に備えるため、​津軽海峡の怪しい船を見張るための台場だいば(砲台)が置かれていたのでした。

​​台場だいば:海岸や海に面した場所に、敵からの攻撃に備えて大砲を設置するために作られた場所や施設のことです。

函館山および、かつて函館山に置かれた軍事拠点である津軽要塞については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

冬の【東京→北海道】鉄道旅10 ロープウェイで函館山へ 函館夜景について、わかりやすく解説!
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立待岬と与謝野晶子の関係

​​立待岬は、実は歌人かじんの​与謝野晶子よさのあきこともゆかりがとても深い場所となっています。

すなわち、与謝野晶子と夫の​鉄幹てっかんは、大正時代に北海道を(仕事で)旅をしており、​そのときに函館にも滞在しています。
したがって、​このときに立待岬の美しい風景をんだ歌を残しているわけです。

与謝野晶子:明治から昭和にかけて活躍した、日本の代表的な歌人かじんであり、詩人です。
みだれがみ」などの歌集で知られています。

与謝野晶子の歌

現在、立待岬には、彼女が詠んだ

「​旅を旅してもなお旅の心かなし

という歌がきざまれた​歌碑かひ建立こんりゅうされています。

意味は、

  • 旅をしても、旅をしても、なんだかまだ心が寂しいなぁ。

となります。詳しくは後述します。

すなわち、立待岬は偉大な歌人たちに愛された場所なのですね!

​与謝野晶子が函館を訪れた理由

歌人かじんの​与謝野晶子よさのあきこが​函館の地を訪れたのは、大正10年(1921年)のことでした。
そのときは、夫の与謝野鉄幹よさのてっかんと共に、北海道をめぐるという旅の一環でした。

すなわち、この旅は、​晶子北海道から樺太からふとへ向かう旅行途上とじょうであったのでした。
当時、夫婦で各地を巡るという、文学紀行を行っていました。

したがって、​函館本州からの玄関口であるとともに、当時から独自の文化を持つ魅力的港町だったため、訪れることになったと考えられます。

つまり、たくさんの詩歌しいかを生み出す、大切な旅だったのですね!

​「旅を旅しても尚旅の心かなし」の意味

​​立待岬たちまちみさきにある​与謝野晶子歌碑かひに刻まれた

「​旅を旅してもなお旅の心かなし

という歌は、

  • 旅を続ける中で感じる​寂しさや​切なさ
  • そして人生そのものへの感慨かんがい

を表現しています。

すなわち、

  • 「物理的には旅を重ねていても、心の奥底にある旅への渇望かつぼうや、満たされない思い、そして人生の寂寥感せきりょうかんは消えない」

という意味に解釈されます。

したがって​この歌は、絶景である​立待岬の壮大で、時に荒々しい景色とあいまって、より深い感動を呼び起こしますね。

​​歌碑かひ:和歌や短歌などを刻んだ石碑せきひのことです。

​​寂寥感せきりょうかん物寂ものさびしい感じや、心が満たされない、わびしい気持ちのことです。

​函館が文豪に愛される理由

​​函館が​石川啄木いしかわたくぼくや​与謝野晶子をはじめとする、多くの文豪ぶんごうに愛される理由は、その独特な地理的・歴史的な背景にあります。

すなわち、開港かいこうによって早くから異国情緒いこくじょうちょあふれる文化が育まれ、

  • 坂のある街並み
  • 津軽海峡つがるかいきょうを見渡すような景観けいかん

などといった様々な要素が、まさしく彼らの詩的してき感性かんせいを、見事に刺激したというわけです。

函館の異国情緒あふれる街並みについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

冬の【東京→北海道】鉄道旅9 函館山エリア・西洋風の街並み 函館山の観光・歴史(開港・箱館奉行所)などを、わかりやすく解説!
函館山の観光や歴史を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

したがって、​函館は、本州との結びつきや、新しいものと古いものが混在こんざいする、ドラマチックな舞台として、作家たちの創作意欲そうさくいよくをかきたてたのでしょう。

確かに、この街にはどこか哀愁あいしゅうただよっていますよね!

​​文豪ぶんごう:偉大な作家や、文学的な才能に優れた人物のことを指します。

​​異国情緒いこくじょうちょ:外国のような雰囲気おもむきのことです。

現在の「旅行系YouTuber」のようだった与謝野晶子

大正時代は、今と違って庶民がなかなか旅行に行けないような時代でした。
しかしそんな中、仕事でお金をもらいながら全国を廻る旅だなんて、うらやましい限りですね。
すなわち、まるで現在の旅行系YouTuberみたいで羨ましい限りですね。

それにしても、旅しても旅しても寂寥感だなんて、なんだかちょっと贅沢な悩みですね。

​与謝野晶子の旅と現代YouTuberの類似点

また、このときの​​与謝野晶子の旅は、現代の​旅行系YouTuberの活動に似ていると言えます。

すなわち、​大正時代に庶民がなかなか旅行できない中、​晶子原稿料をもらいながら全国を巡り、その体験を詩歌しいか紀行文きこうぶんとして発表していました。

したがって、これは、

「旅をコンテンツ(内容)にして収入を得る」

という、現代の​インフルエンサーのような、ちょっと一般人からすらば​贅沢な生き方だったと言えるでしょう。

そして、その旅のさなかに「​寂寥感せきりょうかん」を感じてしまうのは、なかなか普段思うように旅行に行けない一般人からすれば、ちょっと​贅沢な悩みのようにも感じちゃいますよね。(^^;

​​旅行系YouTuber:旅行の様子や旅先の紹介などを動画にして、インターネット上の動画共有サービス(YouTubeなど)に投稿している人たちのことです。

インフルエンサー:人々の思考や行動に大きな影響力を持つ人のことです。

原稿料をもらいながら旅に出られた理由 それは才能を認められたから

与謝野晶子が出版社などから原稿料を得て旅に出られたのは、その才能人気が世間に広く認められていたからです。
すなわち、彼女は、当時の文壇ぶんだんにおいて、既にトップクラスの歌人・詩人として確固たる地位を築いていました。

したがって、彼女の旅の体験は、読者にとって非常に魅力的なコンテンツであり、それを文章詩歌にすれば、雑誌や新聞が高額で買い取る(つまり、売れる、みんなが買ってくれるという)ほどの価値があったというわけです。
まさに、晶子の才能が、彼女の旅を支えていたのですね!

文壇ぶんだん:文学に関わる人々社会や世界のことです。

おわりに・まとめ

函館・立待岬の地理・歴史を学んでみていかがだったでしょうか。

立待岬が、単なる絶景の地ではなく、津軽海峡を見つめてきた歴史や、多くの文豪の思いが重なる、深い場所だと知ることができたのではないでしょうか。

すなわち、函館山の地形から啄木のエピソードや、与謝野晶子が味わった寂寥感まで、多角的に学べたことは、とても有意義でしたね。
したがって、次にこの地を訪れる際は、きっと違った景色に見えるはずですよ!

この知識が、旅の楽しみを深める手助けになれば嬉しい限りです!

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