北海道・函館の立待岬について、その観光・地理・歴史および石川啄木・与謝野晶子のエピソードも合わせて、わかりやすく解説してゆきます!

立待岬(北海道函館市)
今回は、函館・立待岬の話題

立待岬(北海道函館市)
今回は、函館・立待岬の地理・歴史を学んでゆきましょう!
函館山のふもとにあるこの岬は石川啄木や与謝野晶子といった文豪たちにも愛された場所です。
したがって、この地の地理と歴史を知ることで、この場所がより一層輝いて見え、また立待岬の観光もより面白いものになるはずです!
まず函館市の基本的知識については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。


立待岬とは?どこにある?
立待岬は、北海道・函館市の南端に位置する岬です。
津軽海峡に突き出た形で、海抜約30メートルの断崖絶壁となっています。
すなわち、この岬からは、遠く下北半島や津軽半島まで見渡せる、壮大な景観が魅力となっています。

立待岬からの函館山(北海道函館市)
立待岬は、函館山のふもとにある、人気の観光スポットですよ!
絶景が広がっていて、とても気持ちが良い場所ですね!
立待岬へのアクセス(函館市電など)
立待岬へのアクセス方法は、主に函館市電とバス、またはタクシーとなります。
すなわち、函館市電(路面電車のことですね)の、谷地頭停留所が最寄駅となります。
函館市電の谷地頭停留所とは、函館駅からかなり南西に行ったところにあり、また函館山のほぼ東側のふもとにある、函館市電の南の駅のような場所です。
この谷地頭停留所からは、徒歩で約20分ほど坂道を登って向かうことになります。
少し距離がありますが、その途中の道中の景色も楽しむことができます。
立待岬の由来は?アイヌ民族との関係は?

立待岬(北海道函館市)
立待岬の名前の由来には、複数の説があります。
一つは、アイヌ語の
- 「ヒウシ」(岩の多い場所)
からきているという説があります。
これは、
- 比布(旭川市のやや北にある地名):ピピペッ→岩の多い場所にある川
- 緋牛内(北見市にある地名):ピウシナイ→岩の多い場所にある川
などと語源が似ています。
もちろん真相は闇の中であるため、これが正しい説とは限りません。
すなわち、この地域にはアイヌ民族が住んでおり、またアイヌの人々にとって重要な場所であったことがうかがえます。
アイヌ民族が「立って(魚や獲物を)待っていた岬」!?
また、
- 「ここで獲物や魚を待つ」
- 「帰る人を立って待つ」
といった意味からついたという説もあります。
つまり、アイヌ民族が魚や獲物などを
- 立って待っていた岬
という、シンプルなネーミングというわけです。
いや、冗談やダジャレなどでは決してなく、全国各地にはこのようなシンプルでそのまんまのネーミングの地名が数多く存在します。
石川啄木との関係は?
立待岬の近くには、詩人・歌人である石川啄木ゆかりの場所があります。
すなわち、立待岬へ向かう途中にある道沿いには、いわゆる彼の家族が眠る、石川啄木一族の墓があります。
したがって、立待岬は、石川啄木が故郷を離れて函館に滞在していた時期のエピソードなどと、深く関わっているたいうわけです。
立待岬に来ると、まるで彼の悲劇的な生涯を思い、そして感慨深い気持ちになってくるというわけです。
そして、その場所には、彼の歌碑も建てられています。
石川啄木:明治時代の詩人・歌人で、「一握の砂」などの歌集で知られています。
日本の短歌の文化に革命をもたらしたと言われる人物です。
歌碑:歌(和歌や短歌など)を刻んだ石碑のことです。
石川啄木の墓地が函館にある理由
石川啄木の墓地が函館の立待岬近くにあるのは、
- 彼が函館という土地を愛し、また人生においても深く関わったから
となります。
故郷の岩手県を離れた石川啄木は、明治40年頃(だいたい1907年)に函館において教員や新聞記者として、約5か月間暮らしました。
石川啄木は、なぜ函館にやってきたのか?
石川啄木といえば、太宰治らのような人間失格な文豪たちと並ぶ、ザ・スーパー社会不適合者として有名です。😄😄
彼は地元・盛岡の渋民の小学校で先生をしていたそうなのですが、なんと校長を排斥しようとすゆ運動を扇動してしまい、これがきっかけで辞職(というかクビ)になってしまいました。
なにやっとんねん・・って話ですが、それは彼には彼なりの使命感・正義感・信念があってこそのものだったのでしょう。
自分のクビや故郷に居づらくなるのを恐れずに校長を辞めさせる運動を起こすとか、もはや天才のやることはスゴすぎです。
函館での働きぶり 締切も守らずマイペースに文学に熱中!
このような問題を起こしたため、地元には居づらくなり、文学活動を続けるために新天地を求めて、逃げるように函館にやってきたのでした。
彼は当時既に周囲から才能を既に認められていたため、仲間から新聞社の仕事を紹介・斡旋してもらえたのでした。
しかし函館の新聞社での働きぶりも、
- 文学活動に熱中するあまり、仕事との両立が難しかった
- 締切を守らないことは日常茶飯事
- 勝手に記事の内容を自己流で書き換える
といったことはまだ序の口だったもようです。
たぶん個人的な予想ですが、彼は函館で勤務してるとき、
- 勤務時間中に居眠り・執筆
- 上司に直談判
- 遅刻
などといったことが日常茶飯事の、彼の姿が、容易に想像つきます😄😄
ー「一握の砂」より。1909年頃、東京で働いていた頃の台詞
私(筆者)も彼と同じ社会不適合者なので、こうした社会不適合者は大好きで、親近感沸くんですよね。😄😄
約132日ながらも、充実・波乱に満ちた函館生活
したがって、この函館での生活が、彼の創作活動に大きな影響を与えたと言われています。
しかし函館の家が火事で焼けてしまい、引っ越しを余儀なくされてしまいました。
ところが彼は絶望するどころか、むしろ、
と意気込んだようです。
まさに天才あるあるなエピソードですね!
啄木はその後、札幌→小樽→釧路と職を転々とし、最終的には東京へ戻ることになります。
函館への思い入れが強かった石川啄木
しかし残念ながら、その願いは叶うことはなく、彼は東京の自宅において亡くなりました。
石川啄木の死後、彼と親しかった友人が、彼の遺言(つまり、「死ぬなら函館で」というフレーズ)であり希望でもあった、函館への埋葬という彼の遺志を尊重して、実現させたというわけです。
すなわち、彼の魂は今も、この地(立待岬)において、海を見つめているというわけですね。
石川啄木については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
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立待岬の地理
立待岬は、北海道南部の函館市に位置し、函館山の南東端が津軽海峡に突き出した岬です。
すなわち、この岬は標高約30メートルの断崖絶壁から連なっています。
つまり、めっちゃ高い場所にあるわけです
そして立待岬は、眼下にはまるで荒々しい海が広がるような、非常にダイナミックな地形をしています。
したがって、晴れた日には、遠く対岸の青森県にある、
- 下北半島
- 津軽半島
までをも見渡すことができるという、また絶景のビューポイントとして知られています。
周囲の複雑な海岸線と、函館市街を見下ろす景観のコントラストが素晴らしいですね!
津軽半島の地理・観光などについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

立待岬と東尋坊(福井県) どっちが高い・怖い?
立待岬および福井県の東尋坊は、両方とも断崖絶壁の景勝地となります。
東尋坊については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

しかし、高さと“怖さ”の印象には、やや以下のような違いがあります。
高さの比較
まずは、シンプルに高さの比較です。
- 立待岬:約30メートル 。景色は絶景
- 東尋坊:約25メートル 。柱状節理の岩が連なる断崖。
高さだけで言えば、立待岬の方がやや高いです。
怖さの印象
立待岬は、景勝地として整備されており、柵もあり、比較的安全となります。
また、先述の通り、石川啄木の墓など文学的・歴史的な雰囲気が強くなっており、怖さよりもむしろ静けさや哀愁を感じる場所となっています。
一方、東尋坊は自殺の名所として知られており、そのためか心霊(👻)の噂も多くなっています。
また、崖には手すりのない場所もあり、人によっては断崖のスリルが強くなっています。
柱状節理の岩場は足元が不安定であり、自然の厳しさを感じる場面も多くなっています。
柱状節理:六角形の柱のような岩が、高く連なっているような景色です。
例えばマリオの土管ステージで、土管が円形→六角形になったようなイメージです。
したがって、“怖さ”という意味では、東尋坊の方が圧倒的に強い印象を持たれています。
その他、柱状節理で有名な兵庫県の玄武洞については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

どっちが怖い!?結論
- 高さで勝るのは、立待岬
- 怖さ・スリルで勝るのは、東尋坊
すなわち、どちらも絶景スポットにはなりますが、そこから感じる雰囲気は、それぞれまったく異なっています。
立待岬は文学と静寂、東尋坊は自然の力と人間のドラマが交錯する場所。
あはたは、どちらに行ってみたいですか?それとも両方制覇してみる?
函館山の地理・歴史
函館山は、立待岬を含む、函館市の南西部に位置する山です。
すなわち、その地理的な特徴は、陸繋島であったものが、砂州の発達により函館市街と繋がったという点にあります。
函館山の山頂からは、扇を広げたような独特の地形を持つ函館市街と、それを囲む津軽海峡を一望できます。
歴史的には、古くから海上交通の目印となり、また幕末には砲台が設置されるなど、軍事的な要衝でもありました。
陸繋島:もとは島であったものが、砂や礫が堆積した砂州によって本土と繋がった地形のことです。
要衝:軍事上または交通上、重要な地点のことです。
津軽海峡の地理・歴史
津軽海峡は、北海道の函館市と、本州の青森県を隔てる海峡です。
すなわち、この海峡は古くから、日本海と太平洋を結ぶための重要な航路(ルート)でとなってきました。
昔は日本海と太平洋をそれぞれ結ぶ海峡は、山口県・福岡県をそれぞれ結ぶ関門海峡ぐらいしか無いので、当然といえば当然ですよね。
関門海峡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

また、津軽海峡は世界的に見ても有数の潮流、つまり潮の流れがとても速い海域として知られています。
江戸時代には、北前船のルート
津軽海峡は、歴史的には江戸時代から北前船などの交易ルートとして栄えてきました。
そのため、津軽海峡の周辺は、歴史的に多くの人々や文化、さらにはモノ(商品など)の交流の場となってきました。
北前船:主に江戸時代、日本海側の港をグルっと左側を周り、下関の関門海峡から瀬戸内海へと入り、大阪などを結んで商品を運んでいた商船のことです。
また、北前船については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

津軽海峡および青函トンネル
また、津軽海峡には青函トンネル(北海道と青森県を結ぶ海底トンネル)が通っています。
津軽海峡および青函トンネルについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

立待岬の交通・軍事拠点としての歴史
立待岬の歴史は、古くから交通や軍事の要所として重要視されてきました。
したがって、江戸時代末期には、立待岬においは外国船の接近に備えるため、津軽海峡の怪しい船を見張るための台場(砲台)が置かれていたのでした。
台場:海岸や海に面した場所に、敵からの攻撃に備えて大砲を設置するために作られた場所や施設のことです。
函館山および、かつて函館山に置かれた軍事拠点である津軽要塞については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

立待岬と与謝野晶子の関係
立待岬は、実は歌人の与謝野晶子ともゆかりがとても深い場所となっています。
すなわち、与謝野晶子と夫の鉄幹は、大正時代に北海道を(仕事で)旅をしており、そのときに函館にも滞在しています。
したがって、このときに立待岬の美しい風景を詠んだ歌を残しているわけです。
与謝野晶子:明治から昭和にかけて活躍した、日本の代表的な歌人であり、詩人です。
「みだれ髪」などの歌集で知られています。
与謝野晶子の歌
現在、立待岬には、彼女が詠んだ
という歌が刻まれた歌碑が建立されています。
意味は、
- 「旅をしても、旅をしても、なんだかまだ心が寂しいなぁ。」
となります。詳しくは後述します。
すなわち、立待岬は偉大な歌人たちに愛された場所なのですね!
与謝野晶子が函館を訪れた理由
歌人の与謝野晶子が函館の地を訪れたのは、大正10年(1921年)のことでした。
そのときは、夫の与謝野鉄幹と共に、北海道を巡るという旅の一環でした。
すなわち、この旅は、晶子の北海道から樺太へ向かう旅行の途上であったのでした。
当時、夫婦で各地を巡るという、文学紀行を行っていました。
したがって、函館は本州からの玄関口であるとともに、当時から独自の文化を持つ魅力的な港町だったため、訪れることになったと考えられます。
つまり、たくさんの詩歌を生み出す、大切な旅だったのですね!
「旅を旅しても尚旅の心かなし」の意味
立待岬にある与謝野晶子の歌碑に刻まれた
という歌は、
- 旅を続ける中で感じる寂しさや切なさ
- そして人生そのものへの感慨
を表現しています。
すなわち、
- 「物理的には旅を重ねていても、心の奥底にある旅への渇望や、満たされない思い、そして人生の寂寥感は消えない」
という意味に解釈されます。
したがって、この歌は、絶景である立待岬の壮大で、時に荒々しい景色と相まって、より深い感動を呼び起こしますね。
歌碑:和歌や短歌などを刻んだ石碑のことです。
寂寥感:物寂しい感じや、心が満たされない、わびしい気持ちのことです。
函館が文豪に愛される理由
函館が石川啄木や与謝野晶子をはじめとする、多くの文豪に愛される理由は、その独特な地理的・歴史的な背景にあります。
すなわち、開港によって早くから異国情緒あふれる文化が育まれ、
- 坂のある街並み
- 津軽海峡を見渡すような景観
などといった様々な要素が、まさしく彼らの詩的な感性を、見事に刺激したというわけです。
函館の異国情緒あふれる街並みについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

したがって、函館は、本州との結びつきや、新しいものと古いものが混在する、ドラマチックな舞台として、作家たちの創作意欲をかきたてたのでしょう。
確かに、この街にはどこか哀愁が漂っていますよね!
文豪:偉大な作家や、文学的な才能に優れた人物のことを指します。
異国情緒:外国のような雰囲気や趣のことです。
現在の「旅行系YouTuber」のようだった与謝野晶子
大正時代は、今と違って庶民がなかなか旅行に行けないような時代でした。
しかしそんな中、仕事でお金をもらいながら全国を廻る旅だなんて、うらやましい限りですね。
すなわち、まるで現在の旅行系YouTuberみたいというわけですね!
それにしても、旅しても旅しても寂寥感だなんて、なんだかちょっと贅沢な悩みですね。
与謝野晶子の旅と現代YouTuberの類似点
すなわち、このときの与謝野晶子の旅は、現代の旅行系YouTuberの活動に似ていると言えます。
すなわち、大正時代に庶民がなかなか旅行できない中、与謝野晶子は原稿料をもらいながら全国を巡り、その体験を詩歌や紀行文として発表していました。
したがって、これは、
という、現代のインフルエンサーのような、ちょっと一般人からすらば贅沢な生き方だったと言えるでしょう。
そして、その旅のさなかに「寂寥感」を感じてしまうのは、なかなか普段思うように旅行に行けない一般人からすれば、ちょっと贅沢な悩みのようにも感じちゃいますよね。(^^;
旅行系YouTuber:旅行の様子や旅先の紹介などを動画にして、インターネット上の動画共有サービス(YouTubeなど)に投稿している人たちのことです。
インフルエンサー:人々の思考や行動に大きな影響力を持つ人のことです。
原稿料をもらいながら旅に出られた理由 それは才能を認められたから
与謝野晶子が出版社などから原稿料を得て旅に出られたのは、その才能と人気が世間に広く認められていたからです。
すなわち、彼女は、当時の文壇において、既にトップクラスの歌人・詩人として確固たる地位を築いていました。
したがって、彼女の旅の体験は、読者にとって非常に魅力的なコンテンツであり、それを文章や詩歌にすれば、雑誌や新聞が高額で買い取る(つまり、売れる、みんなが買ってくれるという)ほどの価値があったというわけです。
まさに、晶子の才能が、彼女の旅を支えていたのですね!
文壇:文学に関わる人々の社会や世界のことです。
おわりに・まとめ
函館・立待岬の地理・歴史を学んでみていかがだったでしょうか。
立待岬が、単なる絶景の地ではなく、津軽海峡を見つめてきた歴史や、多くの文豪の思いが重なる、深い場所だと知ることができたのではないでしょうか。
すなわち、函館山の地形から啄木のエピソードや、与謝野晶子が味わった寂寥感まで、多角的に学べたことは、とても有意義でしたね。
したがって、次にこの地を訪れる際は、きっと違った景色に見えるはずですよ!
この知識が、旅の楽しみを深める手助けになれば嬉しい限りです!
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