新撰組・鬼の副長として有名な土方歳三について、またその波乱に満ちた生涯について、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!
今回から全2回、土方歳三の話題

土方歳三が榎本武揚らとともに「蝦夷共和国」を樹立した五稜郭(北海道函館市)
今回から、計2回にわたって、幕末の激動の時代を生きた、新選組の副長である土方歳三について、一緒に学んでいきましょう!
彼は「鬼の副長」と恐れられた厳しさと、武士としての信念を最期まで貫いた熱い心の持ち主です。
今回は、主に彼の生まれから、新選組での活躍、そして箱館(函館)での壮絶な最期まで、その魅力的な生き様をじっくりと探っていきましょう。
どんなドラマが待っているか、今から楽しみですね!
土方歳三の人物像
土方歳三(1835年~1869年)は、江戸時代末期(幕末)に活躍した、新選組の副長としてとてもよく知られる人物です。
彼は、当時まだ全国からの「ならず者集団」に過ぎなかった新選組を、持ち前の威厳・剣の腕・カリスマ性によって、とても規律の厳しい、強力な組織へと育て上げました。
「鬼の副長」土方歳三
土方歳三はしばしば、新撰組における「鬼の副長」として形容されます。
- 当時は単なる各地からの寄せ集め(後述)であった新撰組のメンバーを、厳しく叱った
- 特に、遅刻に関してはとりわけ厳しかった
- 乱暴や脱走した者にも、厳しい刑罰を課した
- たとえ仲間であっても、違反者には切腹を命じることがあった
などなど、とにかく厳しいエピソードが知られています。
自分に対しても非常に厳しかった努力家・土方歳三
また、彼は部下に厳しいだけでなく、まずは自分を律するという、自分にも非常に厳しい努力家でした。
- (後述するように)武士ではなく農家に生まれたという(当時ならではの)コンプレックスから、武術を徹底的に磨き上げた
- 武術だけでなく学問においても広く学び、特に戦術に長けていた
- 新撰組の厳しいルールは、まずは自分が徹底的に守り、部下の手本となるように努めた
- 副長でありながら、戦場においては常に自身が先頭に立ち、部下を鼓舞し続けた
- 函館における最期の最期まで、仲間の激励のために、先頭に立って指揮を続けた
武士としての組織を守るための厳しさ
このように、彼のその(自分・他人関係なき)厳しさは、武士としての道を全うし、まともな組織としての規律を守るためという、まさに強い決意の表れだったわけです。
すなわち、彼は非常に冷徹に見えながらも、武士道にとてもあつく、
という、まさに非常に心熱い人物だったといえます。
そもそも、新選組とは?
新選組は、幕末の当時に尊皇攘夷運動のために荒れまくっていた京都において、少しでも反乱を沈めるための治安維持のために活動した、幕府側に味方する武装組織です。
しかし幕府側の味方ということは、新政府側の敵でもあるということですね(結果的に、新政府側に敗北)。
幕末、徳川将軍の京都行きを守るために募集された武士たちがはじまり
すなわち、彼らは江戸幕府の徳川将軍を警護する目的で集められた、いわゆる浪士と呼ばれる、当時の「血の気あふれる、荒れ狂っていた武士たち」を母体として結成されました。
なぜかというと、当時は
- アンチ幕府軍に味方する倒幕派らによって、
- 徳川将軍の命が、いつ狙われてもおかしくない
というような時期だったからです。
土方歳三(ナンバー2)と、近藤勇(ナンバー1)からなる新撰組
新撰組は、
- 近藤勇が局長(ナンバー1):新撰組の顔、政治的なことや、対外的な交渉などを担当。土方歳三に武術を教えた恩師的存在。
- 土方歳三が副長(ナンバー2):実質的な現場指揮官。全部で10の細かいチームに分かれていた新撰組を、全て現場において指揮・統括。
として、組織を率いてきました。
また、先述の通り、京都で暴れまくっていた尊王攘夷派の取り締まりのために、また(当時ピンチに陥っていた)江戸幕府を守るという名目で活躍しました。
したがって、彼らは厳しい規律と剣の強さで知られ、幕末のヒーローとして今も人々に愛されているわけですよ!
生年と出身地
土方歳三は、江戸時代の終わりごろにあたる、天保6年5月5日(西暦1835年5月31日)に生まれました。
出身地は、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都・日野市)です。
彼は、農家の三男として育ち、また幼い頃に両親を亡くすという苦労を経験しています。
こうした若い頃の苦労や経験が、彼を非常にたくましく、自立心を強く成長させていったことがうかがえますね。
日野市の「土方さん」
東京都日野市には、「土方」という苗字の方が、現在でも非常に多いことで知られています。
これは、土方歳三の実家である土方家が、この地域に長く続く旧家だったからです。
そして、この地に暮らす多くの方が、土方家にゆかりのある人々や、その分家筋にあたることが理由であると言われています。
すなわち、日野市にとって土方歳三は、まさに「地元の偉人」であり、その繋がりが今も深く残っているのですね!
東京都日野市とは?どこにある?
東京都日野市は、東京の多摩地域にある市の一つです。
すなわち、東京の西側、都心からは少し離れた場所に位置しています。
八王子市や立川市などに隣接しているわけですよ。
多摩地域:東京都の特別区部(23区)を除いた、西側の地域の総称です。
日野市については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

したがって、土方歳三さんや新選組の主要メンバーの出身地として有名で、「新選組のふるさと」として知られています。
自然も豊かで、歴史を感じられる魅力的な場所です!
「イケメン」土方歳三
類稀(たぐいまれ)な容姿と人気
土方歳三は、当時の記録や、唯一残されている写真から、非常に整った顔立ちをしていたと伝わっています。
すなわち、現代でいうところの「イケメン」であったわけです。
そのため、当然ながら女性にも大変人気があり、モテたという逸話・エピソードがいくつも残っています。
彼の整った容姿は、現代の感覚でも美男子とされるほどだったようです。
非常にモテた「鬼の副長」
すなわち、新選組副長という立派な肩書きも加わり、京都では多くの芸者や舞妓から好意を寄せられていたわけです。
また、彼は親戚への手紙にモテ自慢を書き送るほどだったという話もあるほどでした。
厳しい鬼の副長の顔と、風流人としてのイケメンな素顔のギャップが、また魅力的ですよね!
すなわち、その華やかな容姿と、武士としてのカリスマ性が、多くの女性を魅了したのは間違いないでしょうね!
土方歳三 「武士」を目指すまでのキャリア
農民から、念願の武士への道のり
土方歳三は、元々は農民の家に生まれましたが、若い頃から武士になることを強く願っていました。
まだ若かりし頃の彼は、家伝の薬の行商をしながら、各地の道場において剣術を学び、そして腕を磨いたわけです。
行商:特定のお店・店舗をもたず、商品をリヤカー・手押し車などに載せて各地に持ち運んで売っていたという、昔によくみられた販売スタイルです。
先述の通り、彼は家業の傍ら、天然理心流という剣術を学びました。
農民出身であるが故に、どれだけ強くても認めてもらえず
しかしながら、彼は農民出身のため、まだまだ士農工商の身分制が厳しかった江戸時代において、土方歳三の武術の腕は、なかなか認められなかったのです。
弱い武士「おのれ・・農家の癖に!」
仲間「おいトシ、お前は農民生まれなんだから、武士になるなんて無理だって!」
土方歳三「嫌だ!俺は武士になる!!」
彼の言葉には、まるで社会のルールや常識に縛られない、とてつもない信念の強さが伺い知れますね。
このため、彼は農民でありながらも、武士の精神である節義のために生きるという、強い信念を持っていたのでした。
節義:固い節操と正しい道理を守ることを意味します。
道場・試衛館における、近藤勇からの剣術の学び
若かりし頃の土方歳三は、江戸にあった試衛館という道場に通い、同じく農村出身の近藤勇らから剣術を学んだのでした。
試衛館とは?
ちなみに試衛館とは、近藤勇が江戸に開いていた、天然理心流のという武術の流派の道場のことです。
天然理心流:江戸時代に体系化された、剣術における流派の一つです。
すなわち、近藤勇がこの道場において、若き土方歳三に対して剣術を教えていったのでした。
そして、この試衛館は、若かりし頃の土方歳三が、門弟たちと共に生活を送っていた場所ということになります。
門弟:ある師匠のもとで学ぶ、弟子や門人のことをいいます。
そしてこの道場には土方歳三をはじめ、沖田総司など、後の新選組の中心メンバーとなるツワモノたちが集まっていました。
つまり試衛館という場所は、彼らにとっては、青春時代を過ごし、武士の夢を育んだ、かけがえのない場所だったと言えるでしょう!
近藤勇とは、どこでどのように、何がきっかけで出会った?
また、土方歳三は、姉であるのぶの嫁ぎ先であった、日野の佐藤家に出入りしていた頃に、後に新選組局長となる、同じ農民出身の近藤勇と(そこで)出会うことになりました。
その場所(すなわち近藤勇と出会った場所)は、日野の農村の出身者が集まり、剣術を習得するための稽古をしていた、佐藤家の道場などが考えられています。
すなわち、その日野の農村中心の道場に、近藤勇が天然理心流という剣術を教えるための出稽古(つまり、稽古をつけに来ること)に来ていたことがきっかけというわけです。
したがって、彼らは剣術を通じて意気投合し、土方歳三は先述の近藤勇が江戸で営む道場である試衛館に入門したのでした。
この出会いが、日本の歴史を動かす新選組誕生へと繋がっていくのですね!
近藤勇との出会いをきっかけに、京都の治安を守る「浪士組」の一員となった経緯は?
こうして若かりし頃の土方歳三は、先述の通り、盟友の近藤勇とともに、江戸の道場・試衛館において、天然理心流の剣術を熱心に学んでいきました。
すなわち、彼らは同じ農民でありながら「武士になりたい」という、まさしく共通の強い夢を持っていたわけですね!
江戸幕府による、「武士」の募集に応じる
やがて文久3年(1863年)、彼が28歳になったとき、江戸幕府は将軍の上洛警護のために、全国からその将軍を護衛するための武士となるべき浪士を募集していたのでした。
上洛:ここでは、将軍などが、京都の朝廷へ行くことを意味します。
そこで近藤勇たちは、すかさずこの募集に応じました。
つまりこれは、夢を叶えるためのまたとないチャンスだと考えたわけです。
そして、土方歳三とともに京都へ向かい、幕府の将軍さまを守るための武士チームである「浪士組」の一員となったというわけです。
しかし、この浪士組が分裂(理由は後述)した後も、
- 近藤勇・土方歳三らは京都に残り、
- 新たに新選組を結成して、京都の治安を守る
という、まさしく「武士」としての道を選んだわけです。
しかしこの浪士組の募集は、後述するように、清河八郎という人物による、「尊皇攘夷派に味方をして、幕府討伐をする」ためのメンバー集めをするためのワナだったのでした。
土方歳三 念願の「武士」へ
徳川将軍を守る味方として、武士チームに参加
先述の通り、1863年(文久3年)、土方歳三が28歳になった歳に、第14代将軍である徳川家茂が上洛しました。
これこそがまさに、土方歳三が武士へのキャリアをスタートさせる、最初のきっかけとなりました。
それは先述の通り、この徳川将軍を守るための武士チームの一員として参加したからです。
徳川将軍が上洛した理由は?
なぜ徳川将軍自らが、わざわざ京都の天皇のところまで赴いたのか。
それは、
- 朝廷に政治の状況を報告し、攘夷の実施方針について話し合うため
- 相次ぐ政治失策により、威厳が弱まっていた幕府の権威を回復するため
- むしろ、逆に威厳が強まっていた天皇や朝廷から、権威を奪還するため
などなど、さまざまな目的があったのでした。
したがって、幕府は朝廷との関係を修復し、高まっていた尊王攘夷の世論を抑えたいと考えていたというわけですね。
当時は、徳川将軍が京都に行くのは、実に200年以上ぶりのことだったのでした。
そのため、世の中にとってはそれだけで大変な出来事であったというわけです。
浪士とは?
ちなみに浪士とは、本来は主君・リーダーを持たない武士のことです。
主君:自分が仕えている君主・主人・リーダーなどのことです。
つまり、江戸幕府の支配体制の外にいる、身分や所属が定まっていない武芸者を指す場合が多かったというわけです。
したがって、彼らは当時の混乱した世の中におい、尊王攘夷といった特定の政治思想に傾倒し、京都などで活動する人々のことを指すこともありました。
すなわち、彼らは自由で強いイメージがある存在であるということになります。
武士が支配者を失って「浪士」になった理由は?
ちなみに、武士が自らのリーダー・主君を失い「浪士」となる理由は、主に以下のように2つあります。
一つは、リーダー(主君)が、改易やお家断絶によって、大名の地位を失った場合です。
すなわち、仕えていた藩がなくなってしまうわけですね。
改易:江戸時代に、大名や旗本の身分・領地を、罰として取り上げることです。
もう一つは、武士が自らの意思で主君のもとを離れた場合です。
幕末の混乱期には、先述の尊王攘夷などの思想に傾倒してゆき、あえて所属(リーダーの武士)を捨てて、浪士となる者も多くいました。
なんだか、自分探しのような一面もあったのかもしれませんね。
なぜ浪士の募集が、近藤勇・土方歳三にとってチャンスだったのか?
近藤勇や土方歳三たちは、農民の出身でありながら、「武士」になることを強く望んでいました。
すなわち、彼らにとって、幕府が正式に募集した将軍警護の「浪士組」に参加することは、長年の夢を叶える最大のチャンスだったわけです!
したがって、近藤たちは天然理心流の仲間を引き連れて上京し、この機会を逃すまいと、京都へ向かったのでした。
夢を掴むために、行動を起こした彼らはすごいですね!
なぜ浪士組は分裂したのか?清河八郎の「裏切り」行為
それは、浪士組が京都に到着した直後、計画の発起人であった清河八郎が、突如として方針を変えたからです。
すなわち、清河は浪士組を、将軍警護のためではなく、むしろ近藤勇や土方歳三とは考え方が異なる
- 「尊王攘夷のための道具」
などのように利用してやろうと画策していたのでした。
つまり彼(清河八郎)は、はじめから裏切るつもりで、江戸幕府の味方を集めるフリをして、実際には尊皇攘夷派として江戸幕府を倒すためのメンバーを集めていた(それを計画していた)というわけです(ただし、これには諸説あり)。
幕府に武士以外からもメンバー募集のメリットを説明 清河八郎の策略
また、土方歳三や近藤勇らのような、元・農民であって武士出身でないものも浪士組のメンバーとして例外的に迎えるというのも、彼(清河八郎)の策略だったのでした。
つまり、彼はうまく幕府にその(武士出身以外からメンバーを集めてくる)メリットを説明したわけです。
この「裏切り」に、土方歳三・近藤勇は反発 新撰組結成、京都に残る
したがって、当然ながらこれに反発したのが、あくまで幕府のために働きたいと願っていた、他ならぬ近藤勇や土方歳三たちでした。
彼らは、裏切った清河八郎たちとは袂を分かち、京都に残ることを選んだわけです。
そしてそこから、新選組の道が始まったわけです。
清河八郎とは?
清河八郎は、幕末の志士であり、また将軍警護のために浪士を募集した、いわゆる先述の「浪士組」を結成した発起人です。
すなわち、近藤勇や土方歳三らがまさに(治安維持のために)京都へ行くきっかけを作った人物、といえわけです。
しかし彼は、京都に到着した後、浪士組のことを幕府のためではなく、敵対側の尊王攘夷のために利用しようと企てました。
このまるで裏切りのような行動により、浪士組は分裂してしまいました。
そして、近藤勇らが新たに「新選組」を結成するという遠因となったのでした。
京都に残った、土方歳三ら新撰組の活躍
清河八郎のワナを回避・江戸に帰らず京都に残る
近藤勇・土方歳三をはじめとする新撰組は、清河八郎のワナにハメられることもなく、あくまで京都に残り、尊皇攘夷派と戦い、幕府の味方をするという道を選択しました。
もし江戸に帰ったところで、彼らは再び農民として、不遇な生活をするだけになることは明白でした。
しかし京都に残っていれば、幕府に敵対する尊皇攘夷派と戦って勝てば手柄を挙げることができます。
すると、幕府に正式に武士として認めてもらい、出世するチャンスがあったからです。
池田屋事件に勝利し、新撰組は手柄
そして、京都において
- 尊皇攘夷派が、幕府側の人間を襲撃しようという計画を、
- 新撰組が事前に察知し、
- 土方歳三がその剣の腕をふるって勝利する
という、池田屋事件において手柄をおさめました。
こうした活躍により、新撰組は非常に高く評価され、幕府から正式に武士として認められることとなったのでした。
幼い頃から武士になることを夢見ていた近藤勇・土方歳三らにとっては、まさに夢が叶った瞬間だったわけです。
大政奉還 江戸幕府の滅亡 土方歳三・新撰組の危機迫る
しかし1867年に、徳川15代将軍の徳川慶喜が、政権を幕府から朝廷に返すという、大政奉還を行いました。
そして、岩倉具視らをはじめとする新政府側の人達が、王政復古の大号令を出しました。
これによって、江戸幕府が滅び、新しい政府が出来ると、土方歳三をはじめとする新撰組は、新政府にとって「単なる邪魔者・敵」となってしまったのでした。
また、土方歳三らにとっても、江戸幕府が滅びたことで、もはや「守るべきもの」「戦う意味」が無くなってしまいました。
「武士の誇り」を守るため、新政府軍と戦う覚悟をした土方歳三
しかし、土方歳三や近藤勇らにとっては、自分達が武士であることは、もはや絶対的なアイデンティティー(自分達の存在意義)であるわけです。
そうなると彼らはもはや「武士である自分達の矜持」を守るためだけに、新政府軍を敵に回して戦うことになるのです。
そして、その先にあるものは「敗北」「死」あるのみだったわけですが、特に土方歳三は、それを覚悟してまで、天皇や新政府を敵に回して戦うことを選んだというわけです。
そして、時代はやがて戊辰戦争へと突入していくのです。
今回はここまで 続きは次回
おわりに:今回は長くなったため、続きは次回解説します!
次回は、戊辰戦争のはじまりから、そのラストである箱館戦争に至るまでを解説してゆきます!
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