新撰組・鬼の副長として有名な土方歳三について、またその波乱に満ちた生涯について、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!

土方歳三が晩年「最期を覚悟した戦い」の拠点となった五稜郭(北海道函館市)
今回も、土方歳三の話題
前回では、土方歳三の人物像や、出身・生い立ち・農民から武士に這い上がるまでのエピソードについて解説してきました。
まだ見ていない方は、是非前回の記事を参考にされてくださいね!

今回のシナリオ:戊辰戦争勃発→甲州勝沼の戦い→白河・会津→仙台
ちなみに、今回のシナリオは、
- 大政奉還
 - 新撰組の意義消失
 - 戊辰戦争勃発
 - 甲州勝沼の戦いでの敗北
 - 江戸の無血開城
 - 千葉・流山での包囲
 - 近藤勇の最期
 - 宇都宮・白河・会津の戦い
 - 仙台でまさかの攻撃を受ける
 - 榎本武揚との合流
 
ボリュームたっぷりでアツい歴史ドラマの連続なので、心して読んでみてくださいね!
幕末の当時は、世の中はどんな感じだった?
土方歳三が生きた、幕末の世
土方歳三が生きた幕末の世は、まさに200年以上続いた江戸時代が終わりを迎えようとする、大変に激動の時代でした。
すなわち、外国からの強い圧力、すなわち外圧によって日本は鎖国を解き、それによって社会全体が大きな混乱に陥っていたわけです。
すなわち、世の中は、
- 徳川幕府を倒して、新しい政治を目指そうとする勢力
 - 幕府を支えようとする勢力(→近藤勇・土方歳三らは、こちらの側についた)
 
が、激しく対立していました。
特に京都においては、思想がそれぞれ異なる人同士による争いなどが絶えず、非常に危険な状態だったわけです。
すなわち、土方歳三たちが所属した新選組は、この物騒な時代の京都の治安を守るという、重要な役割を担っていたわけですね!
近藤勇・土方歳三らの出世
前回も解説した通り、新選組は京都での池田屋事件などの活躍によって、幕府からもその功績が認められるようになりました。
また、前回も解説した通り、農民の出身で強くてもなかなか認められなかった近藤勇や土方歳三らにとって、この幕府からの高評価は、とてつもない嬉しいことだったのでした。
そして、新撰組は、強力な治安維持組織として京都で活動していくことになったのでした。
土方歳三ら新撰組の主な功績「池田屋事件」
ちなみに「池田屋事件」とは、前回も解説した通り、
- 京都における幕府側の人間を、
 - 尊王攘夷派が討伐しようとしていたところを、
 - 新撰組が事前に察知し、
 - 土方歳三らの活躍で、見事に取り締まった事件
 
となります。
またこの事件は、新撰組にとって、その名を一気に轟かせたことでも有名な事件となります。
江戸幕府滅亡 新撰組のピンチ
大政奉還で幕府消滅 新撰組の意義が消失
しかし、大政奉還や王政復古によって江戸幕府が倒れると、新撰組にとって事態は一変します。
大政奉還:徳川15代将軍・徳川慶喜が、朝廷へ政権を返した出来事。
元々、新撰組は幕府の味方をして守ることで、彼らに活躍の機会が与えられ、農民から武士に出世できたという経緯があります。
つまり、新撰組は「幕府を守る」ことで、彼らの存在意義が保たれていたのです。
幕府なき今 新撰組は、果たして何のために戦うべきなのか?
しかし「大政奉還」によって政権が朝廷に返され、また「王政復古の大号令」が発布されて江戸幕府の存在が正式に否定されると、新撰組はもはや誰のため・何のために働くべきなのかわからなくなります。
つまり新撰組はこの時点で、存在意義を消失してしまったわけです。
徳川慶喜の「政治パフォーマンス」大政奉還
また、その大政奉還は、徳川慶喜が本当に政権を返そうとしたわけではありませんでした。
軍事力で既に長州藩らに対して劣勢だった幕府の(徳川慶喜の)、あくまでパフォーマンスだったわけです。
↓↓徳川慶喜の本音
- どうせアンチ幕府軍(長州藩など)と戦っても勝てないだろう(事前に第二次長州征伐で、近代的・圧倒的な軍事力を持つ長州藩に敗れていたため)
 - ここで政権を返せば、おそらく「朝敵」認定はされず、アンチ幕府派は我々(徳川慶喜)を攻めて来ず、おとなしくなるだろう
 - とりあえず長州藩などのアンチ幕府をおとなしくさせておいて、その間に徳川家の威厳を回復する体制を整えておこう
 
というものが実態でした。
しかし、もちろんこれらの徳川慶喜による「都合のいいシナリオ」は長州藩らに見抜かれてしまい、全て失敗に終わります。
「王政復古の大号令」で、徳川慶喜の策略はあっという間に瓦解
新政府側は、この徳川慶喜による「政権返しますよ」的なパフォーマンスを、完全に見抜いていたのでした。
そして、岩倉具視らが率いる新政府は、「王政復古の大号令」を出して、これからは天皇による世の中になることを明示的に公表したのでした。
また、この「王政復古の大号令」により、
- 江戸幕府の存在そのものを、完全に否定する
 - 徳川慶喜は、新政府のメンバーに加えない(排除する)
 
ということも決定したのでした。
すなわち、これでは徳川慶喜が思い描いていたシナリオとはまるで異なるため、たまったもんじゃないわけです。
徳川慶喜に旧幕府の領地・財産を差し出させる要求「辞官納地」
こうなると、本音では徳川家の威厳・権力を保ち続けたい徳川慶喜にとっては、大ピンチとなってしまいます。
やがて新政府は、徳川慶喜に対して、徳川家が全部持っていた700万石(=石川県・加賀藩の100万石をはるかに上回る、余裕で全国トップ)にもおよぶ領土・財産を、新政府に対して差し出せと要求してきました。
これは事実上の徳川家の領地・財産の没収であり、これを辞官納地といいます。
また、この辞官納地は、京都の小御所という場における会議である小御所会議において、岩倉具視らを中心に(徳川慶喜側に反論の余地も無く、ほぼ一方的に)決められました。
徳川慶喜、「辞官納地」を当然のように拒否
この理不尽な辞官納地という処分・命令に対して、なんとか徳川家の威厳や権力を保持させたいと考えていた徳川慶喜は、当然のことながら拒否しました。
しかしこれだと、新政府や薩長としては、ますます徳川慶喜を討伐せよという動きに変わってしまいます。
徳川家は700万石→70万石へ 静岡の支配に限定
また、この辞官納地の結果、徳川家の領土・財産は700万石から70万石に減らされました。
なんと10分の1も減らされたわけですが、逆に徳川家がどれだけ多くの領地・財産をもっていたのかもわかる話です。
さらに、徳川家には新たに駿府・静岡(実際には浜松~豊橋あたりまでの地域も含む)のみの支配が認められたのでした。
そして初代静岡藩知事に任命されたのが、本来ならば(幕府が消滅していなければ)徳川16代将軍になるはずだった徳川家達です。
戊辰戦争への第一歩
しかし、徳川慶喜が大政奉還というありがた迷惑なことをしてくれたことで、薩長などの倒幕派にとっては、幕府を倒す(というか江戸を攻める)口実が失われてしまいました。
もちろんこれ自体は、徳川慶喜側の狙いどおりだったわけです。
なんとか徳川慶喜を「朝敵」に!江戸を攻める口実を作りたい新政府
こうなると、新政府や薩長としては、何がなんでも江戸・徳川慶喜を攻撃する理由を作り、「朝敵認定」したいところです。
朝敵認定することで、「天皇を守るため」という口実ができ、また相手も「天皇に歯向かう敵」認定されるわけなので、戦いにくくなるためです。
江戸で、旧幕府を怒らせるための「自作自演」騒ぎ
そのため、薩長・新政府側は自作自演で、わざと江戸で大騒ぎを起こさせました。
これにまんまと乗せられる形で旧・幕府は怒り、薩摩藩の立派な邸宅を攻撃してしまったのでした。
これにより、ようやく薩長や新政府としては、江戸へ攻め込む口実が生まれたわけです。
ワナにまんまと乗せられ怒る徳川慶喜 京都に兵を向ける
また、この江戸での自作自演騒ぎが、大阪城にいた徳川慶喜に伝わると、怒った彼は、京都へと軍を仕向けました。
これが鳥羽・伏見の戦い、そして長きにわたる戊辰戦争の始まりです。
「錦の御旗」旧幕府軍、朝敵認定され動揺→敗北へ
この鳥羽・伏見の戦いにおいて、新政府軍側は、天皇側の軍であることを示す「錦の御旗」を掲げました。
これにより、新政府軍は「官軍」、旧幕府軍は「賊軍」とされたわけです。
- 官軍:天皇のために戦う、「正義」とされる側。
 - 賊軍:おそれ多くも天皇に歯向かう、「悪」とされる側。
 
これによって、徳川慶喜側・旧幕府側の兵たちは、正式に天皇の敵であることを示す「朝敵認定」されることになったのでした。
そのため、旧幕府軍は、とても怯える(動揺する)ことになりました。
日本の歴史において、神様の末裔であるとされる天皇の敵と認定されるほど、不名誉なことはないわけです。
「俺たちって、天皇に歯向かい、日本の平和を乱す悪い奴らなのか!?」
こうして、旧幕府軍の士気は一気に下がることとなり、次々に敗北していくようになりました。
そして、近代的な軍事力を備えた新政府軍に敗北してしまうことになりました。
朝敵認定の徳川慶喜 大阪城よりまさかの脱出→船で江戸へ
そして、大阪城にいた徳川慶喜も同じように朝敵認定されることになりました。
しかし、徳川慶喜はなんと大阪城を秘密のうちに脱出して、開陽丸と呼ばれる立派な軍艦で、海ルートで命からがら江戸に帰還したのでした。
新撰組の敗退(鳥羽・伏見の戦い)
改めて、「鳥羽伏見の戦い」とは?
ここで改めて鳥羽・伏見の戦いとは何かというと、これは慶応4年(1868年)に京都において起こった、戊辰戦争における最初の本格的な戦闘でした。
この戦いでは、
- 旧幕府軍
 - 薩摩藩・長州藩を中心とする、新政府
 
に分かれて戦いました。
新選組は、旧幕府側だった しかし敗北
ちなみに新選組は、ずっと一貫して徳川幕府に忠誠を誓い続けていたため、当然のことながら旧幕府軍について参戦しました。
しかしながら、新撰組は新政府軍の持つ新式銃などの火力の前に敗れてしまいました。
そして、近藤勇や土方歳三らは、江戸へと退却を余儀なくされました。
この大敗北は、まさにその後の新選組の運命を決定づけた、大きな転換点だったというわけです。
そもそも、近藤勇とは?
前回も解説しましたが、近藤勇は、土方歳三に武術を教えた恩師ともいうべき、新選組の局長を務めた人物です。
つまり彼はナンバー1ということであり、副長である土方歳三はナンバー2ということになります。
すなわち、近藤勇は土方歳三や沖田総司など、前回も解説した天然理心流のとよばれる流派の仲間(武士)たちを率いて、京都の治安維持に貢献したのでした。
近藤勇は、幕末に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍として新政府軍と戦い続けました。
すなわち、鳥羽・伏見の戦いで敗北した後も、武士としての信念を貫き、(後述する)甲州や流山といった場所において抵抗を続けたわけです。
彼こそがまさに、新選組の精神的支柱であったことは間違いないですね!
命からがら、江戸への帰還
鳥羽・伏見の戦いに敗れて、なんとか命からがら江戸に帰った近藤勇らですが、土方歳三含む彼らは、池田屋事件などにおける戦いぶりが評価され、幕府のかなり高いポジションにつくことになりました。
この時点で、彼らは武士になる夢どころか、幕府の相当な地位にまで登りつめ、彼らの人生の最絶頂期となったのでした。
しかし、ここが最絶頂期ということは、逆にいえば、ここから近藤勇らの人生は下り坂になっていくということを意味します。
近藤勇と土方歳三 新政府軍の前に苦戦
甲州勝沼の戦いへ
江戸でしばらく負傷した体を療養していた近藤勇らは、再び武士チームを整え、幕府によって甲州(山梨県甲府市)への出兵を命じられました。
- 既に悪名が新政府軍側に知れ渡っていた新撰組という名前ではなく、甲陽鎮撫隊という、別のグループという扱いにして発足させた。
 - 新政府軍を欺くため、近藤勇は「大久保」という偽名、土方歳三も「内藤隼人」という偽名で参加した。
 - 後述するように、実は彼らの存在は江戸では厄介者扱いだったため、わざと甲州(山梨県)へ向かわせたという説もある。
 - 甲州街道という、険しい峠道のある昔の古い道路を、大勢の軍で大々的に進軍していった。
 - 近藤勇は、「勝てば10万石」などと、甲府を占領してやるぞという「やる気マンマン」状態だった。
 
ちなみに甲府勝沼とは?
甲州勝沼は、山梨県・甲府盆地の東側、すなわち現在の山梨県甲州市にある、あたり一面がブドウ畑という場所となります。
この勝沼のうち、柏尾と呼ばれる険しい地形の場所が、まさにこの戊辰戦争初期における、近藤勇らが新政府軍とぶつかった、まさに重要な激戦地の一つとなります。
この「勝沼」は、中央本線の駅でいうと、だいたい勝沼ぶどう郷駅(山梨県甲州市)のあたりになります。
意気揚々と、江戸から甲州へ進軍する、近藤勇の軍
すなわち、近藤勇は新選組を改称し(新政府軍の目を欺くために)新たに部隊に見せかけた甲陽鎮撫隊を率いて、また先述の偽名を名乗り、この地で新政府軍と戦いました。
先述の通り、近藤勇が率いる軍は甲州街道を西へ進んでゆき、新政府軍が甲府から江戸へ侵攻しようとしてくるのを食い止めようとしたのでした。
しかし結果からいうと、後述するような戦力差や情報不足などの要因により、大敗してしまいました。
甲州勝沼に着くまでに疲弊しきっていた、近藤勇の軍
先述の通り、この甲州勝沼の戦いは、近藤勇は
- 「勝てば10万石」「土方歳三へは5万石」
 
などと豪語するほど、意気揚々と(土方歳三も合わせて)大勢の兵を率いながら甲州街道を西へ進んでゆきました。
しかし甲州街道は、笹子峠などの険しい峠道が多く、しかも多くの兵士たちはこの峠道などに足元を阻まれたせいで、勝沼に着くまでには既にみんな疲弊しきってしまいました。
甲府で準備万端だった、対する板垣退助(新政府)軍
一方の新政府軍は、あらかじめ近藤勇ら旧幕府軍が甲府へと攻めてくることを見越して、事前に素早く甲府入りしていたのでした。
すなわち、新政府軍はリーダーの板垣退助以下、兵士たちは長野県の諏訪湖などを経由して、近藤勇らよりも素早く事前に甲府城に入っていたのでした。
甲府城でバッチリ準備万端の板垣退助率いる新政府軍と、甲州街道の長旅で疲弊しきっていた近藤勇の軍。
どちらが勝つかは、もはや明白でした。
近藤勇らの敗北 ボロボロの体で江戸へ帰還
結果、地形を巧みに生かした板垣退助らの軍に翻弄され、近藤勇の軍は惨敗してしまいました。
こうして多くの兵を失った近藤勇は、負傷したボロボロの体で、土方歳三らとともに再び険しい甲州街道を通って、江戸へと帰ったのでした。
本来は甲府を占領して2人を中心とする王国(?)が出来るはずだったのに、完全に構想が狂った形となったのでした。
彼らは江戸へ帰る途中で、前回も解説した、八王子にほど近い(地元で仲間も多い)日野に立ち寄り、仲間からの手当てなどを受けています。
しかし、彼らが江戸に戻った頃には、勝海舟らによって、(彼らにとっては不本意な)江戸の無血開城がまさに行われようとしていました。
江戸の無血開城とは?
先述の通り、近藤勇らが甲州に遠征していて、江戸に不在のとき、江戸の無血開城が行われようとしていました(この時点では、まだ行われてはいない)。
この時期、新政府軍はまさに江戸へ攻撃して攻め込もうとしていたのでした。
しかし多くの市民を戦禍に巻き込まないようにするため、江戸の無血開城が行われようとしていたというわけです。
戦って血を流すことが無く「話し合い」で決まったため、「無血開城」というわけですね。
戦うことなく、「話し合い」で江戸を新政府に明け渡す
江戸の無血開城は、すなわち
- 新政府軍の司令官であった、西郷隆盛
 - 旧幕府側の、勝海舟
 
がそれぞれ、お互いに敵同士であるにも関わらず喧嘩・戦闘にはならず、交渉を行ったのでした。
すなわち、どちらも有能・優秀で頭が良かった上、お互いの倫理観の高さを評価していたため、ケンカを交えず「話し合い」によって会議が進められたのでした。
その結果、大規模な戦闘を回避することができ、多くの江戸市民の命を巻き添えにすることを避けることができました。
したがって、この合意により、江戸の町や多くの人々の命が戦火から守られたわけです。
上野恩賜公園に西郷隆盛の銅像があるのは、「この大人っぽい賢い話し合い」により、多くの江戸市民の命が救われたからですね。
恐らく近藤勇らが江戸にいたら、無血開城は大いに揉めていた?
しかし、もし近藤勇らがこの場にいたら、
などと訴えることは、ほぼ明白でした(いやわかりませんが、もうそうなったら、幕府としては相当厄介)。
もしこうなると、幕府としては新政府を刺激することになり、またさらに揉めてしまい、面倒なことになってしまいます。
それを回避するため、近藤勇らに甲州出兵を命じた?
そのため、それを回避するために、表向きには
- 近藤勇に大がかりな部隊を組織させる
 - 甲府を占領したら、お前ら(近藤勇ら)に100万石の領地を保証してやるぞ
 
などと「花」を持たせて、本音は半ば
という意図のもと、先述の甲州(山梨県)への出兵を命じたのだと言われています。
甲州での予想外の敗北 再び江戸での「厄介者」に
しかし近藤勇・土方歳三らは、まさかの甲州敗北により、江戸の無血開城が行われる前に、彼らは江戸に帰還してしまいました。
江戸としてはせっかく彼らを甲州へ追い出そうとしたのに、これでは新政府との交渉をかき回されてしまう可能性があり、とても厄介でした。
江戸から会津へ向かう 途中・流山(千葉県)へ
結局、近藤勇・土方歳三らは江戸にいてもどうにもならず、また彼らの背後にはすぐ新政府軍が迫っていたのでした。
そのため、まずは東北・福島県の会津にいる仲間たちに会うため、近藤勇・土方歳三らは江戸を出発し、北を目指すことにしました。
そして、埼玉県に程近い、千葉県の流山という場所に兵士約200人を連れてたどり着き、滞在することになりました。
流山(千葉県)とは?
ちなみに流山とは、近藤勇がやがて新政府軍に投降することになった、千葉県にある場所です。
千葉県第2の都市・松戸市のやや北にあり、ほぼ埼玉県に近いです。
すなわち、彼らはこの流山において新選組の隊士らとともに、再起を図ろうとしたのでした。
新政府軍に包囲される リーダー・近藤勇の投降
しかし(土方歳三も含む)彼らは、ここでついに新政府軍に追い付かれ、流山で包囲されてしまうことになりました。
やがて、これ以上の戦闘は無意味だと判断した近藤勇は、土方歳三らメンバーの命を救うことを最優先し、「大久保大和」なる偽名のもと、自ら新政府軍に投降することを選んだのでした。
これに対して土方歳三は、当然のように何度も引き留めたそうです。
しかし、これは近藤勇による、リーダーの土方歳三ほか隊員たちの命を救うための、苦渋の決断だったのでした。
そしてこれが、近藤勇と土方歳三の、最後の別れとなったのでした。
偽名がバレ、近藤勇・板橋で処刑
先述の通り「大久保大和」という偽名を使って、自ら投降して捕らえられてしまった近藤勇でしたが、やがてすぐに偽名がバレてしまい、江戸(東京)のやや北西にある板橋という地において処刑されてしまったのでした。
しかしこれは、先述の通り、あくまで隊士たちの命を守るための、苦渋の決断だったわけです。
新たなリーダー・土方歳三 北へ東北へ
近藤勇の死後、土方歳三は仲間に会うため、東北・会津へ
土方歳三は、江戸の無血開城の後、近藤勇の死を知った後、福島県・会津にいる仲間たちと合流するため、北の宇都宮へ向かうことになるのです。
宇都宮:現在の栃木県宇都宮市。栃木県の県庁所在地。
トップの近藤勇がいなくなった今、新撰組のトップは実質的に、土方歳三へと引き継がれることとなりました。
それと同時に、これが土方歳三率いる新撰組の、北へ北へ逃れるという、相次ぐ退却劇が始まるのでした。
土方歳三らは、当然のように「無血開城」には反対・不服
また、先ほどの「無血開城」の決定に反対し、徹底抗戦を主張したのが、土方歳三などに代表される旧幕府軍の一部でした。
そこでやむを得ず、彼らは江戸を離れ、戦いを続ける道を選んだのでした。
そのため、先ほどの江戸の無血開城は、新選組の運命を大きく左右する、大きな出来事となったわけです。
「鬼の副長」から、「心優しいリーダー」へ変化
若い頃は「鬼の副長」と呼ばれ、たとえ仲間であっても違反者には切腹を命じるなど、非常に厳しいイメージのあった土方歳三でしたが、歳を重ねていくにつれ、段々と温和・穏やかで、父性あふれる、部下からはとても慕われる存在になっていったのでした。
つまり、「鬼の副長」から「心優しいリーダー」へと変わっていったため、たとえどれだけ負け続けても、部下たちは最後まで土方歳三についていったわけですね。
土方歳三の軍 北へ北への退避劇のはじまり
ここからは、本格的に土方歳三の軍は、最終的には北海道の函館へと至る、北へ北への退避劇が本格化してゆきます。
まず向かった先は栃木県の宇都宮でした。
宇都宮までは、新政府軍から逃れるため、東の茨城県を通る、大きな迂回ルートだった
ちなみに土方歳三らが江戸→宇都宮まで向かうときは、メインルートとなる奥州街道ではなく、東の茨城県から大きく迂回して宇都宮まで向かいました。
奥州街道:昔の人が、江戸から青森まで、徒歩または馬で約20日間かけて旅をしていた道です。
今はその役割は東北本線・東北新幹線・国道4号などに引き継がれています。
なぜなら、この時期の関東地方は、ほぼ新政府軍の手中にあり、厳戒態勢にあったからです。
そのため、土方歳三らは水戸街道などの迂回ルートを駆使して宇都宮まで向かったわけです。
これを鉄道で例えるなら、東北本線の線路が新政府軍に乗っ取られてしまったため、まだ警備の薄かった常磐線や車道などを駆使して、宇都宮まで向かうようなイメージですね。
東北地方での、相次ぐ敗北
その後、彼らは宇都宮(栃木県)や白河・会津(いずれも福島県)などの東北の地において、激しい戦いを繰り広げました。
白河口の戦い・会津戦争については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

しかし、戦況は新政府軍に有利に進み、旧幕府軍は次第に北へ北へと追い詰められます。
負けの連続 仙台へ逃げ込む 土方歳三の軍
新政府軍の力に圧倒され、宇都宮・白河・会津などの戦いで連戦連敗となった土方歳三らは、味方であったはずの仙台へと逃げ込みました。
仙台へは「奥州街道」で逃げる
ちなみに、江戸→宇都宮へ逃げる時は、関東地方が既に新政府軍の掌握下にあったため、奥州街道などのメインルートは使えませんでした。
しかしここから仙台までのルートは、奥州街道を使っています。
なぜなら、当時の東北地方は、奥羽列藩同盟という、土方歳三や旧幕府側に味方をするチームの掌握下にあったからです。
しかしこの奥羽列藩同盟も、やがて新政府軍に降伏してしまい、最終的に東北地方はみな新政府軍の手中に墜ちてしまいます。
新政府側についた仙台藩 土方歳三らの助け願いを拒否
助けを求めて仙台まで来た土方歳三の軍でしたが、既に時代は新政府軍有利であり、逆らうことは負け(死ぬこと)を意味していました。
そのため仙台藩は、助けを求めに来た土方歳三らを却下するどころか、むしろ攻撃してきたのでした。土方歳三としては、非常に意表をつかれた形です。
この「土方歳三らに対する攻撃」によって、仙台藩は正式に
- 「新政府軍に味方をしますよ」
 
という意思をアピールする狙いもあったのでした。
これにより仙台藩は新政府側に(必然的に)降伏となり、その後には北の盛岡藩も新政府軍に降伏しています。
土方歳三、ここで万事休すか・・・と思うところですが、ここで強力な仲間と合流することになります。
そう、榎本武揚です。
おわりに:榎本武揚との合流(続きは次回)
次回からは、土方歳三が榎本武揚らとともに、蝦夷地(北海道)の箱館(函館)へ渡るシナリオとなります!
今回は長くなったので、続きは、次回!
  
  
  
  
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