土方歳三の壮絶な人生と、また彼の最期の舞台となった箱館戦争について、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!

土方歳三の戦いの最期・箱館戦争の舞台となった、函館の海(北海道函館市)
今回も、土方歳三の話題(全3回・最終話)
前回の記事では、
- 大政奉還、戊辰戦争のはじまり
- 甲州勝沼での敗北
- 千葉・流山での包囲
- 近藤勇の最期
- 土方歳三らの北への退却劇のはじまり
- 宇都宮・白河・会津などでの敗北
- 仙台に逃げ込むも攻撃される
- 榎本武揚との出会い・合流
まで解説してきました。
まだ見てない方は、以下の前回の記事を見てくださいね!
↓↓中編

↓↓前編(一番初め)

仙台から船出 榎本武揚とともに蝦夷・箱館へ
榎本武揚との合流
仙台で土方歳三と合流した榎本武揚は、
- 品川の港から軍艦を出して、新政府軍から逃亡し、
- ここ・仙台の港(だいたい松島・塩竈あたり)に到着していた
ということだったのでした。
榎本武揚が、品川の港から船出(脱出)していた理由
ではなぜ榎本武揚が、品川の港から軍艦を出して、新政府軍の追手から仙台まで逃げてきたのか。
それは、新政府軍が榎本武揚に対し、元々幕府が持っていた軍艦を全て差し出すように要求したのですが、幕府に対する忠誠心あふれる榎本武揚がこれを拒否したからです。
というのも、榎本武揚自身が元々、幕府の海軍における重要ポジションにいたからです。
旧幕府軍の艦隊を、そうやすやすと新政府軍に渡せなかった榎本武揚
たとえ大政奉還が終わって(さらには王政復古の大号令も出され)江戸幕府が消滅したからといって、榎本武揚にとっては大切な軍艦を、やすやすと新政府へと渡すわけにはいかなかったのでした。
そのため、新政府軍の追手から逃れるために、大量の食糧・水・医薬品などを積んで、品川の港から船を出して、仙台にまでやってきたのです。
そして、ここでまさか同じく新政府軍から逃亡中だった土方歳三と出会うなんて、ミラクルの中の奇跡だったというわけです。
土方歳三を非常に高く評価していた、榎本武揚
榎本武揚は、土方歳三のことを非常に高く評価していました。
ただし、元々榎本武揚は「武士」の出身であり、一方の土方歳三は前回も解説した通り、農民の出身でありながら、自力で武士にまで成り上がった実力者です。
そのため、2人はそもそも元々の生まれた身分が異なるわけであり、通常の江戸時代であれば、2人は決して交わることのない・関わることのない関係でした。
しかし幕末となり、「新政府軍」という共通の敵が出来たからこそ、2人はお互いに協力し合うことになったのでした。
なんという運命の巡り合わせだったのでしょう。
榎本武揚とともに、「蝦夷共和国」を作ることを決意
そして榎本武揚は、幕府が滅んだことで職を失った武士たちに活躍の機会を与えるため、北海道に「蝦夷共和国」を立ち上げるという構想を土方歳三に話し、土方歳三はこれに同意したのでした。
このように、土方歳三は榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流し、船で仙台から蝦夷地(現在の北海道)へ渡ったというわけです。
過酷そのものだった、仙台から蝦夷への船旅
しかし、彼らの仙台からの船旅は、非常に過酷なものでした。
10月の中旬から下旬にかけての船旅だったわけですが、この時期の東北地方の海は、もはや極寒・暴風以外の何者でもありません。
船は大きく揺れ、常に厳しい雨風が8隻の船と3000人にもおよぶ隊員に吹き付け、もはや命がけの航海でした。
東北地方の10月後半の海は、「極寒」の地獄だった
そんな過酷な航海の中、中には沈没してしまった船もあり(おそらく当時の技術では救出は不可能であり、やむを得ず海へ置き去りにされたものと思われます)、残った軍艦もあらかじめ大量に軍艦に備蓄してあった水・食糧・医薬品などで堪え忍んだのでした。
ちなみに、船にこれだけ備蓄があったのは、榎本武揚がかつてオランダへの留学経験があり、航海戦術を学んでいたからに他なりませんでした。
これほど有能だった榎本武揚 明治維新後も活躍
榎本武揚はこれだけ有能だったため、敗戦後・明示時代に入っても処刑されずに、政府に登用されたわけです。
このような厳しい航海にあっても、榎本武揚・土方歳三らは、蝦夷で新しい国を築き上げるために、絶対に航海を諦めなかったのでした。
蝦夷・箱館への上陸 五稜郭を占領
既に新政府軍による警備の厳しかった箱館には、あえて上陸せず
やがて彼らは、津軽海峡を越え、目的地であるはずの箱館をあえて回避して、さらに船で北上してゆきました。
なぜ箱館への上陸をあえて避けたのかというと、箱館はこのとき既に新政府軍が先手を打って、「箱館府」を設置して予め箱館を占拠していたからです。
そのため、まんまと箱館に上陸してしまうと、船ごと沈められてしまうリスクもあったのでした。
船はさらに北上、現在の噴火湾・森町あたりに上陸
こうしたことから、彼らの軍艦は北海道の噴火湾から、箱館のやや北にある森町のやや北西にある、鷲ノ木という場所に上陸しました。
森町および噴火湾については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

その後は、榎本武揚・土方歳三の軍は七飯や現在の新函館北斗駅(北海道北斗市)あたりを経由して、陸路からどんどん箱館へと南進してゆきます。
当時まだ脆弱だった箱館 久々の快進撃で五稜郭を占領
箱館の町には先述の通り、既に「箱館府」と呼ばれる新政府軍の手先がスタンバイして待ち構えていました。
しかし、このときの箱館府の防御力はまだ手薄で脆弱だったため、榎本武揚・土方歳三の軍は次々に彼らを打ち払い、久々の快進撃で、箱館の街中にある五稜郭を目指してゆきました。
ここまでずっと負け続きだった彼らにとっては、久々の快進撃だったわけです。
そして無事に五稜郭を占拠して、新政府軍を青森にまで撃退したのでした。

箱館戦争・最後の舞台となった五稜郭(北海道函館市)
五稜郭については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

休む暇も無し すぐさま五稜郭で戦力体制を整える
こうして1868年の秋に箱館・五稜郭に落ち着いた彼らでしたが、彼らは休む暇もなく、文字通り「最後の戦い」に備えて、土方歳三は新撰組を再編するなど、五稜郭の中で着々と準備を進めていったのでした。
また、以下のように箱館の町の防御力を強化してゆきました。
- 箱館湾の周りに、たくさんの砲台の拠点(台場)を設置してゆく
- 現在の新函館北斗駅の西にある、二股口(後述)にもたくさんの台場・土塁などを作っていく
こうした土方歳三らによる用意周到な準備により、翌年春に箱館へ進軍してきた新政府軍は、大いに苦戦することになるのでした。
榎本武揚・土方歳三らが乗ってきた軍艦「開陽丸」とは?
ちなみに、榎本武揚・土方歳三らが蝦夷地まで乗ってきた軍艦「開陽丸」は、かつて江戸幕府がオランダから購入した、当時の日本としては、最新鋭の蒸気軍艦でした。
開陽丸は、戊辰戦争においては旧幕府軍の主力軍艦として、また「前編」でも解説した通り、あの徳川慶喜の大阪城脱出を手伝うなど活躍しました。
しかし、先述の蝦夷地に渡った直後に、西海岸の重要拠点である江差の町・港の防衛を固めるため、箱館の南を大きくU字の経路で(反対側の西海岸へ)移動したのでした。
しかし、そこで暴風雨に遭ってしまい座礁・沈没してしまったのでした。
彼らが目指した理想の国・蝦夷共和国
榎本武揚の構想「蝦夷共和国」とは?
ここで、榎本武揚らが構想した、蝦夷地(現在の北海道)に樹立した政権は「蝦夷島政府」または「蝦夷共和国」と呼ばれています。
蝦夷共和国の目的は、江戸幕府が滅んで職を失って困っていた武士達が、蝦夷の地を耕して、その作物で生計を立てるという「開墾」をさせることも一つの目的だったのでした。
つまり、旧幕府軍の残党が、箱館の五稜郭を拠点に、箱館戦争の間に樹立した、日本史上唯一の共和制的な組織だったのでした。
「選挙でリーダーを選ぶ」という、当時の日本としては非常に近代的な国家だった
というのも、当時の日本ではまだ存在しなかった「選挙」という方法でトップを選んだ国だったからです(榎本武揚は「選挙」で総裁に選ばれました)。
従来の江戸幕府は、徳川家による世襲制・封建国家だったため、「選挙」で選ぶような近代的な民主主義の国家というにはとても程遠いものでした。
そのため、この時点での江戸幕府は海外からみれば「時代遅れ」と見なされていただけに、この「蝦夷共和国」の「選挙」で選ぶ仕組みは、とても先進的であると海外からも高く評価されたのでした。
土方歳三は「陸軍奉行並」という重要ポジションに就任
したがって、この蝦夷島政府において、土方歳三は陸軍奉行並という重要な役職に就くことになったのでした。
そして彼は、軍事指揮官として活躍することとなりました。
土方歳三の「陸軍奉行並」とは?
また、陸軍奉行並とは、旧幕府軍が蝦夷島政府を樹立した際に設けられた、軍事的な役職の一つです。
すなわち、陸軍のトップである奉行に次ぐ、非常に重要な地位でした。
したがって、土方歳三はこの役職に就くことで、旧幕府軍の陸軍の実質的な指揮官として、箱館での戦いを最期まで率いていったのでした。
すなわち、武士としての能力を認められた、土方歳三のリーダーシップを示す役職であったわけです。
新政府軍の攻撃で、その理想国家は崩れ去る
そして彼らは新しい国家の形を目指しましたが、新政府軍の攻撃によって、わずか1年足らずで崩壊してしまいます。
しかしこの「蝦夷共和国」は、日本の歴史の中で、非常に珍しい試みだったと言えるでしょう。
箱館戦争、土方歳三の最期
そもそも「箱館戦争」とは?
箱館戦争は、既に日本が明治時代に突入していた1869年、蝦夷地(現在の北海道)の箱館を舞台に、旧幕府軍と新政府軍が繰り広げた、戊辰戦争の最後の戦いです。
現在の表記は「函館」ですが、ここからは(一部例外を除き)当時の表記である「箱館」に統一してゆします。
すなわち、土方歳三は旧幕府軍の陸軍奉行並として、最後まで最前線で戦いを指揮しました。
宮古湾の戦い
五稜郭に本拠地を構えた榎本武揚・土方歳三らは、まず南から迫ってくる新政府軍に対して、はるか南の岩手県・宮古湾にまで出撃してゆきました。
しかしここでは圧倒的な新政府軍の攻撃力に負けてしまい、多くの死傷者を出し、土方歳三らはやむを得ず箱館にまで撤退したのでした。
奥羽列藩同盟の滅亡 東北地方は、ほぼ新政府軍の支配下に
また、この時期(1868年末頃)には東北地方のほとんどは新政府軍によって敗北・降伏しており、東北地方の旧幕府側の藩によって結成されていたチーム・奥羽列藩同盟も降伏していました。
そのため、東北地方はほぼ新政府軍に制圧されており、新政府軍にとって残るは箱館に居座っている土方歳三らを倒すのみとなっていたのでした。
新政府軍の箱館上陸
1869年に入ると、いよいよ新政府軍が北海道(蝦夷地)への上陸を試みようとしてきます。
目的はもちろん、土方歳三らを倒すことと、五稜郭を降伏させ、この戊辰戦争を終わらせることでした。
しかし土方歳三の天才的な作戦手腕・妨害作戦などにより、新政府軍はなかなか箱館に近づくことができず、五稜郭の陥落には相当手こずったのでした。
手薄だったやや北西の海岸・乙部からの上陸
新政府軍が蝦夷地(北海道)に上陸してきたのは、箱館ではなく、なんとやや北西の乙部という海岸でした。
なぜ箱館に直接上陸しなかったのかというと、そこには土方歳三らによる軍の砲撃に遭う可能性が非常に高かったからでした。
まるで先述の通り、土方歳三らが箱館に来る前に新政府軍が既に箱館で待ち構えており、迂回して北の森町から上陸したのと似ていますね。
土方歳三による警備固し 新政府軍、なかなか松前城を落とせず
こうして警備が手薄だった乙部から難なく上陸した新政府軍は、その後に順調に陸路を進撃してゆきました。
一方、まんまと上陸を許してしまった土方歳三らは、裏をかかれた形となりました。
新政府軍が向かった先の一つは、箱館よりもさらに南にある松前城でした。
しかしここはあらかじめ土方歳三により非常に屈強な防御態勢が敷かれていたため、新政府軍でもなかなか落とせなかったのでした。
しかし結局は、松前城は新政府軍によって落とされてしまいました。
二股口の戦い 土方歳三の天才ぶりが発揮された作戦
土方歳三の天才的な軍事手腕が発揮されたのは、この「二股口の戦い」でした。
箱館への最短ルート「二股口」とは?
ここで二股口とは、現在の新函館北斗駅(北海道北斗市)からずっと西海岸の江差あたりへ続く、険しい山岳地帯における、函館平野への入口です。
もちろんここは、クマも出没するような、相当に険しい峠道となります。
この二股口は、西海岸の乙部・江差方面から箱館へと至る、最短ルートでした。
このことから、土方歳三からすれば新政府軍がここを通って箱館へ進軍してくることは容易に想像できたため、あらかじめここに砲台・土塁などを大量に築いておき、新政府軍の進攻に備えたのでした。
土方歳三による、地形を利用した巧みな新政府軍撃退作戦
ここで土方歳三は、この二股口の険しい地形を巧みに利用し、あちこちに砲台や土塁などを設置し、近づいてきた新政府軍に対してゲリラ的奇襲をかけるなど、約2週間にわたってことごとく妨害し続けたのでした。
この作戦は、土方歳三の生涯・キャリアにおいて、特に素晴らしい優秀な戦術であると評価されています。
これにより、新政府軍は箱館への入り口をことごとく封鎖されてしまいました。
しかし、先述の松前城が新政府軍の手に墜ちたことにより、土方歳三らはこの二股口からの撤退を余儀なくされてしまいました。
箱館湾の戦い
物量で不利ながらも、土方歳三の策略により新政府軍を圧倒
箱館の南西にあった弁天砲台では、新撰組のメンバーが最期の死力を尽くして、全力で戦っていました。
そして1869年に入って箱館湾に侵入してきた新政府軍の艦隊を迎え撃つために、砲撃を開始したのでした。
近代的な装備を持った薩長のメンバーからなる新政府軍の艦隊に対して、新撰組の側は、物量の差で圧倒的に負けていました。
しかし、リーダーの土方歳三による巧みな台場配置・仲間配置により、新政府軍はかなり苦しめられたのでした。
「土方(歳三)がいる限り、箱館は落ちない」新政府軍の苦戦
こうした箱館湾の戦いは、土方歳三の巧みな戦術により、新政府軍はなかなか箱館に上陸できず、
包囲された箱館・五稜郭の最期
五稜郭へ迫る新政府軍 新撰組は籠城体制へ
しかし、こうした土方歳三の巧みな戦術にも、新政府軍の艦隊の物量の差により、もはや限界が近づきつつありました。
ついには新政府軍に箱館への上陸を許してしまい、弁天台場にいた新撰組のメンバーは孤立してしまうことになりました。
やがて、現在の函館山のふもとにあたる十字街あたりで激しい市街戦が繰り広げられた後、現在の函館駅あたりを経由して、新政府軍はどんどん五稜郭へと攻め込まんとする勢いとなりました。
完全に包囲された箱館 北の札幌方面へはもう逃げられない
この時点で、箱館や五稜郭は、完全に新政府軍に包囲されました。
- 南は、新政府軍の艦隊が待ち受ける
- 東西は、当然ながら海が広がるだけ
- 北は、戦術の二股口が突破されたために封鎖されており、森町・長万部方面へは抜けられない
したがって、この時点でもはや札幌方面への退却は不可能となりました。
鉄道で例えると、土方歳三が「今から特急北斗で札幌まで逃げるぞ!」と言っても、新函館北斗駅が新政府軍に占領されてしまっているため、鉄道も使えない・・・といったイメージですね。
もはや籠城し、最期を待つしかなかった五稜郭
これにより五稜郭のメンバーは籠城体制に入ることが決定的となり、もはや土方歳三率いる新撰組は、最期の時を迎えつつあったのです。
やがて五稜郭は、1869年5月10日の夜を迎えようとしていました。
もう五稜郭に、明日は無いのでした。
土方歳三 箱館での最期の戦いへ
「籠城で死を待つより、前線で潔く散る」土方歳三の最期の覚悟
しかし5月10日の五稜郭での夜、土方歳三は、
ということを決意したのでした。
そして明日・5月11日に、現在の函館駅の南西にある弁天台場へ、孤立した新撰組の仲間達を助けるという名目で、出撃することを選んだのでした。
五稜郭での最期の夜「明日、あの月が照らすのは我が屍か」
そして五稜郭での最期の夜、彼は鉾の準備をしながら、夜空を照らす月を見て、こう言いました。
最期の出撃 現在の函館駅のやや北
そして夜が明け、運命の5月11日。
土方歳三は仲間に惜しまれながら五稜郭を出発し、孤立した弁天台場にいる新撰組の仲間を救うために出撃してゆきました。
そして、現在の函館駅のやや北にある、現在の若松町にあたる一本木関所という場所で、五稜郭へ迫り来る新政府軍とぶつかりました。
銃弾に倒れる 35年の激動の生涯に幕
そして彼は、馬の上で指揮をしている最中に、新政府軍からの銃弾に倒れ、壮絶な最期を遂げました。
明治2年(1869年)5月11日、土方歳三は一本木関門(現在の函館市)付近で、35歳という激動の人生に幕を閉じたのでした。
「最後のサムライ」に恥じない、その生きざま
幼いころから武術に長けて強かったものの、農民であることを理由にまともに認められなかった土方歳三。
しかしそのコンプレックスをはねのけ、絶対に武士になるという強い信念の元に自らを貫き通し、彼の人生は北の大地・函館にて散ったのでした。
したがって、彼は新選組副長として、また武士として、信念を貫き通したわけです。
明治時代以降は四民平等により、武士はいなくなりました。
最後の武士だった土方歳三は、まさにラストサムライと呼ぶにふさわしい、見事な生きざまだったのでした。
箱館戦争の終わり 明治維新へ
新選組の降伏
土方歳三が戦死した後、旧幕府軍の戦意は、大きく低下してしまいました。
すなわち、中心人物を失った新選組を含めた蝦夷共和国の幹部たちは、これ以上の抵抗は無意味だと判断したのでした。
したがって、榎本武揚らが新政府軍に投降したことで、明治2年(1869年)5月18日に五稜郭が開城され、箱館戦争は終結しました。
新選組の隊士たちも、この降伏により戦闘の歴史に終止符を打ちました。
彼らの夢は破れましたが、最後まで武士として戦い抜いた誇りは、永遠に残ることでしょう。
明治維新のはじまり
明治維新とは、江戸時代から明治時代へと、日本の社会や政治が大きく変わった一連の大変革のことです。
すなわち、鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争を経て、土方歳三らを最後とする旧幕府軍および徳川幕府は倒れました。
その後の日本は、明治天皇を中心とする新政府が誕生し、欧米の制度を取り入れた近代国家への道を進み始めたのでした。
この大変革によって、また土方歳三らの最期をもって、平安時代の終わり頃から約700年も続いた武士による支配の歴史に、終わりを告げたというわけです。
自分の生き様を最期まで全うした土方歳三
土方歳三は、前編でも解説した通り、農民の出身でありながら「武士」になるという信念を貫き通しました。
彼は新選組副長として京都の治安を守り、また戊辰戦争では旧幕府のために、最後の最後まで戦い続けたのでした。
江戸幕府が滅んでも最後の最後まで「武士」の信念を捨てず
したがって、江戸が無血開城した際にも、彼は新政府に降らず、武士としての節義を重んじて戦いの道を選びました。
箱館の地で潔くも戦死した土方歳三の姿は、まさに武士道(Japanese Chivalry)の美しさを、最期まで体現していたと言ってよいでしょう。
彼の生き様は、今でも多くの人々の心に深く刻まれています。
モテたけど、生涯独身だった
土方歳三はイケメンでモテたにも関わらず、結婚歴は無く、生涯独身でした。
ただ結婚歴は無いものの、何人かの婚約者や、妾の女性がいたとは言われています。
土方歳三は、自分に送られてきた恋文(ラブレター)だけで、一冊の本ができるほどのモテぶりでした。
しかし彼ほどのイケメンの心は、どれだけ美人に言い寄られようと、微動だにしなかったのです。
彼が生涯独身だった理由は?
ではなぜ、彼は生涯独身だったのでしょうか。
理由として、以下のことが考えられます。
- イケメン過ぎて、美人というだけでは決して心奪われることもなかった(いわゆる、「モテ慣れ」)
- いつ死ぬかわからない、リスクだらけの人生だったため、安易に結婚などできなかったから
- 恋愛や結婚よりも、自身の武術や理想・信念を優先した
もちろん真相のほどはわかりませんが、いずれにせよ、外見も中身もイケメン過ぎた土方歳三だったからこその、カッコいい人生の選択だったのかもしれませんね!
おわりに
土方歳三の生涯について全3回にわたって学んでみて、いかがだったでしょうか。
彼は農民の出身でありながら、武士の信念を誰よりも強く持ち、激しい時代を生き抜いたということが伝わったかと思います。
また、新選組の副長として、また旧幕府軍の指揮官として、最後まで節義を貫き通した彼の生き様は、本当に格好いいですよね。
彼の誇り高い精神は、現代の私たちにも、大きな感動と勇気を与えてくれますね!
コメント