【山形・新庄】宿場町としての歴史を、わかりやすく解説!

新庄(山形県新庄市)の羽州街道の宿場町としての歴史から、「雪の町」としての歴史についてまで、わかりやすく解説してゆきます!

  1. はじめに
  2. 羽州街道の宿場町・新庄
    1. 羽州街道の宿場町と、最上川水運
      1. 鉄道と水運の「対立と妨害」はあった?
      2. ​反対運動と、​歴史の皮肉
      3. 宿場町の鉄道への反対
      4. 蒸気機関車は「恐怖の対象」だった?
      5. 現代のAIと、当時の鉄道への危惧
      6. 古い世代と「リスキリング(学び直し)」の壁
  3. 松尾芭蕉と、新庄のかかわり
    1. あの「おくのほそ道」で、松尾芭蕉も新庄の町にやって来た?
      1. 松尾芭蕉はどこでも歓迎されたのか?
      2. 松尾芭蕉の「スパイ疑惑」は当時から存在した?
      3. 幕府が「仙台藩」を異常に警戒した理由
      4.  伊達政宗の「スゴさ」は徳川幕府に語り継がれた?
      5. 仙台藩を「秘密に報告」していた?
      6. 松尾芭蕉はなぜあんなに健脚だったのか?
      7. 伊賀の「凄まじいフットワーク」の秘密
  4. 新庄:雪崩の研究と、短すぎる日照時間
    1. 日本有数の豪雪地帯・新庄と雪の研究
      1. 世界最大級の「なだれ研究所」
      2. 新庄での雪の研究が、雪国の安全対策へ
      3. 日本一日照時間が短い町・新庄市
    2. なぜ新庄は、太陽がほとんど照らさないのか?
      1. 冬の間ずっと「雪の日だらけ」
      2. 高い山々に囲まれ、太陽がなかなか登らない・すぐ沈む地形
      3. 経度と「日照時間」の関係
      4. 太陽が当たりにくい条件が「3つも揃っている」
    3. ​日照時間が短いことの「逆転の発想」
      1. 世界的な雪氷(せっぴょう)研究
      2. 雪が溶けずに安定・一定 実験に適した新庄の雪
      3. その他の「新庄の雪」がもたらすメリット
  5. おわりに・まとめ

はじめに

山形新幹線・新庄駅(山形県新庄市)

山形新幹線・新庄駅(山形県新庄市)

今回は、新庄の地理・歴史を学んでゆきましょう!
かつて羽州街道うしゅうかいどうの宿場町や最上川もがみがわの水運で賑わったこの地は、鉄道の開通によって劇的な変化を遂げました。

すなわち、伝統的なレガシーと近代化が交差する、非常にドラマチックな街なのです。

厳しい雪国ならではの知恵や、日照時間の短さを補う人々の情熱を知ることで、あなたの探訪はより一層、深くて面白いものになりますよ!

ちなみに、「山形県新庄市ってどんな場所?」など基本的な知識については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

【山形・新庄】鉄道の町としての歴史を、わかりやすく解説!
新庄(山形県新庄市)の基本的な地理の知識から、「鉄道の町」「荘園の町」としての歴史についてまで、わかりやすく解説してゆきます!今回は、山形県新庄市の地理・歴史さて今回からは、山形県・新庄市しんじょうしの地理や歴史についての解説です!新庄市し...

羽州街道の宿場町・新庄

羽州街道の宿場町と、最上川水運

一方で、新庄市は、羽州街道宿場町としても栄えていました。

宿場町:江戸時代、何日も何日も歩いて(または馬などで)旅していた旅人たちが、休憩したり宿泊したりした場所。

羽州街道うしゅうかいどう:福島県の桑折こおりから始まり、山形・秋田を通って青森まで続くという、江戸時代旅人たちが(徒歩または馬などで)何日もかけて移動していた、東北のメインロードです。

また、参勤交代の大名行列も、羽州街道を経由して、新庄を通りました(ただし大名は、最高グレードの宿場に泊まる)。
したがって、新庄は江戸時代からずっと、この地域の「交通と経済の主要ルート」だったことが分かります。

最上川(陸羽西線の車窓より)(山形県)

鉄道と水運の「対立と妨害」はあった?

そして​初期の鉄道については、舟や宿場町といったいわゆる既存サービスと、非常に激しい対立反対運動がありました。

まず鉄道が開通すれば、それまで舟でわざわざ数日間かけて運んでいた荷物がわずか数時間で届くようになります。
そのため、舟運しゅううんで生計を立てていた人たちにとっては、仕事がなくなるかもしれないという死活問題でした。

​反対運動と、​歴史の皮肉

また、鉄道への言い掛かりも酷いものだったといいます。中には、

  • 鉄道が通ると、火の粉で家が焼ける
  • 牛馬が驚いて死ぬ

といった反対理由を掲げ、ルートを町から遠ざけようとする動きもありました。

​しかし、結果として鉄道を遠ざけた町は衰退し、積極的に受け入れた新庄のような町が「鉄道の町」として発展したのでした。

宿場町の鉄道への反対

奥羽本線ができた時、やはり多くの宿場町は「旅人が泊まらなくなる」と、猛反対しました。
それはやはり、鉄道ができると何日も何日も宿場町に止まりながら徒歩で旅する人はいなくなってしまいます。
それは例えば、どこでもドアが出来ると誰も鉄道に乗ったりホテルに泊まらなくなるのと同じですね。

​しかし、多くの宿場町は鉄道に客を奪われることを恐れ反対したのにも関わらず、新庄はあえてそれを受け入れ、町は鉄道の拠点となりました。

​明治以降、新庄に鉄道が開通したことで、遠方からも新庄名物のお祭りである「新庄まつり(※次回解説)」にやって来る人が劇的に増えました。
したがって、「鉄道の町」として賑わったことが、新庄のお祭りをさらに豪華にし、今日まで守り抜く力になったのです!

蒸気機関車は「恐怖の対象」だった?

​また、当時の人々にとって、蒸気機関車はまさに「未知の怪物」でした。

​すなわち、現代の静かに走る電車とは違い、

  • 地面を揺らすような、まるで地鳴りのようなすさまじい音
  • 空を覆う、真っ黒ですさまじい煙
  • 巨大で黒い、えたいの知れない鉄のカタマリ

など、当時の蒸気機関車が走る様子は、人よっては恐怖を覚えさせるような威圧感もあったのです。

​また、仏教において地獄の迎えに来る「火の車」を連想してしまい、蒸気機関車を見てから本気で怖がって逃げ出す人もいたそうです。

​さらには、

  • 「煙で病気になる」
  • 「家が燃える」
  • 「牛の乳が出なくなる」

などといった噂が真剣に信じられていました。

このように、蒸気機関車のような当時としては新しい技術を受け入れるには、昔の人々にとっては相当な勇気と時間が必要だったのですね!

しかし時代とともに、電化が進んで(つまり「電車」になり、蒸気機関車は徐々に廃止)、煙が出なくなると、「汚い・うるさい」というマイナスイメージは、劇的に薄れてゆきました。
すなわち、鉄道の電化は鉄道が「迷惑な怪物」から「クリーンな近代の象徴」へ変わる転換点だったのです。

現代のAIと、当時の鉄道への危惧

​そして、

未知の新しい技術が、自分の仕事や生活を壊すのではないか

という恐怖は、実は今も昔も(当時も)全く同じです。

​まずは、既存の水運宿場町に携わってきた人々の、転職の難しさがあります。

確かに、船頭さんや宿場の人たちが

これからは鉄道の時代だ!

とすぐに転職できれば良かったのですが、現実は厳しかったようです。

まず、宿場町と「鉄道」では、そもそもの求められる​スキルが全く違います。
例えば、

  • 川で舟を操る技術
  • 宿場町でモノを売ったり食事を作ったり馬の手入れをする技術

などは、鉄道の分野で求められる運転スキル保線スキルなどとは、全く別物です。

​こうなると結局、若い世代は確かに柔軟に鉄道関連の仕事に移っていくことができました。
しかし、それまでの古い仕事をやってきた世代は、最後まで鉄道という新しいインフラに抵抗・反対してゆきました。
しかし、鉄道の発展はとどまるところを知らなかったため、宿場町を使う人は減ってゆき、次第にその仕事を奪われていきました。

すなわち、これらは今の私たちがまさにAIに対して抱いている

適応しなければ、AIに仕事を奪われて取り残される

という大きなプレッシャーを、当時の人たちも強烈に感じていたのですね。

古い世代と「リスキリング(学び直し)」の壁

そしてこれは、現代の私たちが直面している「リスキリングの難しさ」は、まさに当時の宿場町船運の人々が味わった絶望と同じでした。

リスキリング(Re-skill-ing)新しい知識・スキルを学び直すこと。

リスキリングは、ある意味ではそれまでの技術の完全な「断絶」「決別」を意味します。
例えば、川で舟をたくみに操る「勘」は、新しく出てきた蒸気機関車の「バルブ操作」には全く役に立ちませんでした。

また、古くからの職人たちの​アイデンティティの崩壊も軽視できませんでした。

そのため、

おれたちは、代々この川で生きてきたんだ!

という誇りがあるほど、鉄道という「外来の怪物」を受け入れることは屈辱的でもありました。

​結局、彼らには

  • 反対して時間を稼ぐ」
  • 時代の波に飲み込まれ、衰退を余儀なくされる」

の、いずれかの二択の道しか残されていなかったのです。
これは、現代の私たちがAIに対して「自分の仕事の価値は何だろう?」と悩む姿と、驚くほど重なりますね。

新しい技術(鉄道AIなど)に対して、古い世代の人々が恐怖し、また反対するのは、ある意味で「人間として当たり前の反応」なのかもしれません。

松尾芭蕉と、新庄のかかわり

あの「おくのほそ道」で、松尾芭蕉も新庄の町にやって来た?

​そして、あの松尾芭蕉も「おくのほそ道」の旅で、新庄を訪れています!

​新庄での滞在は、江戸時代の1689年のことでした。
芭蕉は新庄に2泊ほど滞在し、地元の風流人たちと交流しました。

​有名な句としては、新庄の直後に下っていった最上川の迫力に圧倒された句が有名です。

したがって、松尾芭蕉も新庄を拠点にして、最上川を下る準備を整えたことになります。

松尾芭蕉はどこでも歓迎されたのか?

​実は、必ずしも全員に大歓迎されたわけではありません。

​まずは、スパイ疑惑です。
当時の幕府と地方の関係は緊張していました。
そのまめ、芭蕉は幕府の隠密(スパイ)ではないかと疑われ、ときには関所を通るのに苦労したり、または宿泊を断られそうになったりしたこともあったと言われています。

​そのため歓迎されたのは、主に俳句の弟子や、文化に理解のあった豪商の家などとなっていました。
すなわち、「コネ」があったような場所では手厚いもてなしを受けましたが、そうでない場所では冷たくあしらわれることもあったという、意外と過酷な旅だったのですね。

松尾芭蕉の「スパイ疑惑」は当時から存在した?

​驚くことに、松尾芭蕉は当時からかなりの怪しさを醸し出していました。

まず要因の一つとして、​驚異的な歩行スピードというものがありました。
芭蕉は当時50歳近かった(当時の感覚ではかなりの高齢)のにもかかわらず、なんと1日に40〜50km歩くこともありました。

そのため人々からは、

ただの老人が、そんなに速く移動できるはずがない!!
あいつはきっと忍者に違いない!

と噂されるようになったのです。

また、仙台藩での​不自然な滞在というものがありました。
仙台藩などの軍事的に重要な場所で長く滞在したり、また関所をスムーズに通過することができたりしたことも、疑いを深めてしまう要因になりました。

すなわち、「あまりにもタフすぎる旅」が、当時の人たちの目にはプロの隠密のように映ったのかもしれませんね!

幕府が「仙台藩」を異常に警戒した理由

では、幕府が「仙台藩」を異常に警戒した理由は何だったのか。

それは、当時とても強かった鹿児島の薩摩藩などと同じく、仙台藩きは

  • 圧倒的な経済力
  • 軍事的な潜在能力

があったからです。

​まず、仙台藩は実質100万石の経済力を持っていました。
すなわち、表向きの石高であった62万石よりも以上に、仙台藩ではさらに新田開発が進んでいました。
そのため、たくさんのお米の生産力を備えており、実質的には100万石を超える日本トップクラスの経済力がありました。

また、​伊達政宗野心も侮れませんでした。
初代の政宗公が「天下を狙っていた」というイメージが強く、幕府

いつか仙台藩は反乱を起こすのではないか

と、ずっと疑っていました。

さらに、仙台藩​海の守りは強力でした。
仙台藩は広い海岸線を持っており、塩釜港しおがまこう石巻港いしのまきこうなど、独自の軍備増強がしやすい環境にありました。

このように、江戸幕府は松尾芭蕉のような「隠密(スパイ)」を送り込んで、仙台藩におかしな動きがないか探らせる必要があったとも考えられているわけです。

 伊達政宗の「スゴさ」は徳川幕府に語り継がれた?

では、なぜこれほど幕府は仙台藩のことを恐れていたのでしょうか。

徳川将軍家にとって伊達家は、常に子孫代々にわたって

最も敬意を払いつつ、最も警戒すべき相手

として語り継がれました。

まず、伊達政宗​軍事の天才でした。
すなわち、 政宗公はあの家康公ですら一目置いていた人物です。
​そのため、「彼がもしあと20年早く生まれていたら(徳川に代わって)天下を取っていたかもしれない」という評価は、江戸時代を通じて定着していました。

すなわち、徳川家としては、伊達家がいつ「牙を剥くか」を常に意識し、代々の将軍が厳しい目を向け続けていたのです。

仙台藩を「秘密に報告」していた?

これこそが、まさに「芭蕉隠密説(スパイ説)」の最大の根拠となっています!

まず、​表の記録である「おくのほそ道」は、旅の芸術的な美しさや、また旅の感動などを綴った、いわゆる「旅日記」でした。
一方、​裏の報告(隠密活動)というのは、仙台藩の港の深さ・大きさ、城壁(防御力)の厚さ、さらには武士の訓練状況などを記した、より実務的報告書というものです。​

なぜこれらの情報が秘密なのかというと、もしスパイ活動が公に(世の中に)バレてしまえば、藩と幕府の戦争になりかねないわけです。

すなわち、彼がおくのほそ道に仙台藩のことをあえて「書かなかったこと」が、プロとしての仕事を全うした証拠だと考える歴史ファンは、非常に多いのです!

松尾芭蕉はなぜあんなに健脚だったのか?

​当時の50歳は現代の70〜80歳に近い感覚ですが(現代人は若返っている)、それでも芭蕉は1日に約40〜50km歩いた記録があります。

​すなわち、現代人が毎日デスクワークをするように、彼はもはや毎日歩くことが仕事のようなものでした。

​また、彼は三重県・伊賀いがの出身として、疲労回復のための薬草(今でいうエナジードリンクのようなもの)を、自ら作って調合していたという説もあります。

このように、松尾芭蕉はまさに「旅のプロフェッショナル」としての、並外れた体調管理術を持っていたのでしょうね!

伊賀の「凄まじいフットワーク」の秘密

松尾芭蕉の生まれた伊賀いが(現在の三重県伊賀市)は、彼らが幼少期から「超人的な脚力」をまさに育てるのに最適な、ある意味で過酷英才教育の場でした。

​まず、伊賀の地は険しい山だらけでした。
伊賀は盆地であり、また周りは全て急峻きゅうしゅんな山です。
こんな環境にあっては、もはや日常の移動そのものが長距離を歩くというトレーニングそのものでした。

​また、忍術の知恵である速く歩く、遠くまで走る」ための特別な歩法(ナンバ歩きなど)や、筋肉を疲れさせない呼吸法が、地域全体ノウハウとして伝わっていました。

したがって、芭蕉のような伊賀出身者にとって、1日50km歩くことは、現代の私たちが「ちょっと散歩する」くらいの感覚だったのかもしれません!

新庄:雪崩の研究と、短すぎる日照時間

日本有数の豪雪地帯・新庄と雪の研究

ご存知の通り、新庄市は日本でも有数の豪雪地帯です。
内陸部にあるため、とても雪の降りやすく、積もりやすい地域にあるということです。

したがって、新庄では雪の研究が盛んであり、また雪の研究がやりやすい好条件が揃っている場所でもあるわけです。

世界最大級の「なだれ研究所」

そのため、新庄では雪の研究をガチガチにやるための、

  • 独立行政法人防災科学技術研究所 雪氷防災研究センター新庄支所

という研究所が置かれています。

ここでは世界最大級造雪装置を使い、雪崩なだれ着雪(線路に雪がつくこと)を防ぐための、世界的な研究が行われています。

つまり、雪や氷の性質を徹底的に研究し、それを防災のために生かすための実験棟です。
ここでは、雪崩が発生する仕組みの解明などが行われているわけです。

新庄での雪の研究が、雪国の安全対策へ

このように新庄市では、かなり進んだ雪崩研究が進められおり、特に世界最先端の雪崩の研究が行われています。

このような新庄における雪崩の研究は、雪国で暮らす人々の安全確保にとっても不可欠なものとなっているわけです。

日本一日照時間が短い町・新庄市

さらに、新庄市はまわりを四方の山に囲まれているため、後述するようになんと日本一日照時間が短い町(日差しのある時間が短い町)とも言われています。

なぜ新庄は、太陽がほとんど照らさないのか?

​新庄の日照時間が極端に短い理由は、「気象」「地形」「経度」のトリプルパンチがあるからです。
これらの三つの要素が、とにかく「太陽の光を浴びる機会」を極端に減らしている要素になっているのです。

確かに私が新庄に行ったときも、太陽がしっかり照らす晴れの日はほとんど無かったような…

冬の間ずっと「雪の日だらけ」

まずは、「​冬の間ずっと雪だらけ」という点です。
つまり、新庄の冬はずっと「くもり」「雨」「雪」ばかりというわけですね。
これは、西の日本海側からたくさんの湿った空気が流れ込み、これが奥羽山脈にぶつかるとき、たくさんの雲が発生するからです。
このとき「新庄盆地」において、ぶ厚い雪雲が他へ逃げることなく停滞します。

これにより、新庄では冬の間、太陽が顔を出すいとまはほとんどないわけです。

高い山々に囲まれ、太陽がなかなか登らない・すぐ沈む地形

次に、盆地であるがゆえ、周りにある高い山々によって、「日影」ができやすいためです。
盆地であるため、周囲を高い山々に囲まれています。
すなわち、太陽が低い位置を通りやすくなる冬場は、東の山から太陽が出てくるのが遅くなりがちで、さらには西の山へ沈むのも早くなります。
このため、「物理的に光が届く時間」そのものが短いのです。

経度と「日照時間」の関係

​また、新庄市における「東にあること(経度が高いこと)」は日照時間の短さにさらに拍車をかけています。

​日本では、基本的に東へ行くほど、太陽が早く沈みます

そのため、新庄のように

  • 日本列島の中では「東に位置」している
  • 「西側に高い山出羽三山でわさんざんなど)」がある盆地

といった条件の地域では、夕方の太陽が驚くほど早く姿を消してしまいます。

太陽が当たりにくい条件が「3つも揃っている」

すなわち、​

  • 冬の雪雲が発生し、たまりやすい(気象)」→太陽が照らしにくい
  • 高い山々に囲まれた盆地(地形)」→太陽が登りにくい・沈みやすい
  • 東の位置(経度)」→太陽が早く日没する

といったトリプルパンチが見事なまでに組み合わさってしまう形で、あの日照時間の短さが生まれているのですね!

新庄の地は東にあるからこそ、西の山に沈む太陽を追いかける間もなく、あっという間に夜が来てしまう……。
その寂しさを、新庄の人たちは「山車」の灯りや熱気で、すなわち「お祭り(新庄まつり)」によって埋めようとしたのかもしれません。

新庄の名物「新庄まつり」については、次回改めて解説します!

​日照時間が短いことの「逆転の発想」

​このように、普通に考えればデメリットばかりの新庄の「暗さ」や「」ですが、それらを価値・メリットに変える動きがあります。

世界的な雪氷(せっぴょう)研究

新庄には「雪の最先端」が集まっています。

太陽が出ない=雪が溶けにくい・雪の質が安定している(実験しやすい)

という特性があるため、雪崩なだれメカニズム防雪ぼうせつ技術の研究をするには、新庄はまさに世界最高のフィールドなのです。

雪が溶けずに安定・一定 実験に適した新庄の雪

例えば、新庄よりも北にある北海道の方が、雪がたくさん降りそうで適していると思うかもしれません。

しかし、北海道だと冬でも陽当たりのよい日や地域があったりして、溶けたり再凍結したりするため、あまり雪の実験には適していないのです。
その点、新庄の雪は(陽当たりがよくない故に)溶けずにずっと一定のため、実験に向いているわけですね。

その他の「新庄の雪」がもたらすメリット

​また、太陽が照りつけない涼しい気候は、アスパラガス山菜などの作物を「柔らかく、甘く」育てます。

​また、お肌の美しさという点です。

強い紫外線が少ないため、肌へのダメージが少なく、「秋田美人」や「山形美人」のルーツの一つとも言われていますね!

おわりに・まとめ

新庄の地理・歴史を学んでみていかがだったでしょうか。

過酷な雪日照不足に耐えながら、水運から鉄道へと時代を繋いできた先人たちの足跡は、今も街の随所に息づいています。
したがって、歴史的背景を知ってから歩く新庄の道は、ただの景色ではなく、命の輝きを感じる特別な場所になるはずです。

これらを学ぶことで、あなたの観光旅行がもっと豊かで感動的なものになれば嬉しい限りです!

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