新庄(山形県新庄市)の歴史(新庄藩・戸沢氏・新庄まつり・昭和開墾の苦労など)について、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!
はじめに

新庄駅のやや北にある、明治時代のレンガ造りの機関庫(山形県新庄市)
今回も、新庄の地理・歴史を学んでゆきましょう!
江戸時代、新庄藩を襲った過酷な飢饉を救うために始まったのが、今も街を彩る新庄まつりです。
すなわち、このお祭りは単なる行事ではなく、絶望を希望に変えようとした人々の魂の記録なのですね!
さらに、戦後の開墾という「命がけの起業」を経て築かれた街の歩みを知ることで、あなたの探訪はより一層、深くて面白いものになりますよ。

↓新庄の、羽州街道の宿場町としての歴史

新庄の歴史:お城の始まり
新庄の歴史は、室町時代の15世紀に始まります。
はじめは「沼田」と呼ばれていた新庄
山形県の北部に位置する、広大な新庄盆地の真ん中に、土豪という地元の有力な武士によって、沼田城すなわち後の新庄城が築かれました。
用語解説コーナー
土豪:その土地に昔から根付いている(ずっと住んでいて影響力のある)、大きな力を持った武士たちのことです。
沼田城:山形県新庄市に、室町時代くらいの過去にあった新庄城の原型となるお城です。
もとは沼田と呼ばれた場所に築かれ、後に新庄城として整備されました。
はじめはまともに城も建てられない「湿地帯」だった
しかしながら、このお城が建った場所は、当時は湿地帯でした。
すなわち、まるでその辺にただ草が生い茂るような、しかも地面には水気の多い、建物を建てたり農地で作物も育てるのは難しいような土地だったわけです。
湿地帯:水分が非常に多く、ジメジメした土地のことです。
新庄もかつては地面に水が溜まりやすい場所でしたが、人々の開拓などの努力によって、豊かな田んぼへと変わってゆきました。
すなわち、元々あった新庄の地は、ジメジメ・草ボーボーの天然な不安定な場所であったため、地盤も安定していなく、城を屈強に建てるのには不向きな土地だったわけですね。
山の上に城を建てることで解決してきた
したがって、まともに城が建てられない土地である新庄市が属する最上地方では、山の上にある「山城」にすることで問題を解決し、地域の経営を行っていたのです。
山城:険しい山の上に造られたお城のことです。
まだ「お堀」などの技術が発達していなかった昔、敵に攻められにくい利点がありました。
しかし次第に城の技術が向上し、不便になったため、後に平らな場所へ移ることが増えました。
さらに戦国時代には、後に江戸時代の初代の山形藩主となる最上義光により、彼がトップとして支配する領地として組み込まれました。
用語解説コーナー
山形藩:江戸時代に山形城を拠点とした藩のことです。
最上家が治めた時期は57万石という超巨大な規模を誇り、東北の要でした。
最上義光:戦国時代の山形を治めた、偉大な大名です。
知略(頭を使って、うまく作戦を立てること)を駆使して領地を広げ、山形の街の基礎を築いた「出羽の驍将」として有名ですね!
出羽:昔の日本の地方区分で、今の山形県と秋田県を合わせた地域の呼び名です。
江戸時代:新庄藩の成立と新庄まつり
新庄市が最上地方の中心として発展し始めるのは、江戸時代になってからです。
- 新庄藩が作られたこと
- 当時の羽州街道沿いにあった沼田城の周辺が、城下町として開発・発展していったこと
がきっかけとなりました。
羽州街道:江戸時代に整備された、何日もかけて徒歩また馬などで進む、東北地方の道です。
福島の桑折から青森までを結び、参勤交代や一般の旅人たち、あるいは荷物・モノなどの移動で賑わいました。
「藩」という言葉の誕生
実は、江戸時代には「藩」という言葉は存在しませんでした。
また、公文書などでも一般的に使われていませんでした。
当時の新庄の呼び方としては、
- 「新庄の殿様(戸沢家)」
- 「戸沢家のお領分」
- 「戸沢さまのところ」
などのような呼び方が一般的でした。
戸沢家:江戸時代を通じて、新庄藩を治めたお殿様の一族です。
もとは秋田→茨城の領主でしたが、幕府の命令で山形・新庄へ移り、長く街を愛しました。
ちなみに「藩」という言葉が出てきたのは、明治時代の「廃藩置県」のときでした。
明治以降に、明治新政府がそれまでの「領地」を整理するために、「藩」という名称を正式に採用したわけです。
すなわち、私たちが使っている「新庄藩」という言葉は、後から歴史を整理するために定着した呼び方というわけですね。
常陸国(茨城県)から、戸沢氏が新庄の地へ
すなわち、江戸時代のはじめである1622年に、戸沢氏が常州松岡(現在の茨城県高萩市)から、転封されてきたのです。
用語解説コーナー
常州松岡:今の茨城県の高萩市にあった場所の名前です。常州とは、「常陸国」という意味です。
戸沢家が新庄へやってくる前に治めていた領地であり、戸沢一族にとってもゆかりの深い土地です。
茨城県高萩市:茨城県の北東部にある、海と山に囲まれた街です。
江戸時代には松岡藩が置かれ、山形県の新庄市とは今も深い友好関係にあります。
転封:幕府の命令によって、大名(お殿様)が別の領地へと引っ越し(人事異動)することです。
このように、戸沢氏がはるか茨城県から新庄の地へと転封によりやってきた時から約250年もの長い間、新庄では戸沢氏による安定した新庄藩の政治(藩政)が始まってゆくことになります。
そして、戸沢氏は江戸時代を通じて、自分の領地を治めていくことに、とても熱心な政治を行ってゆくことになりました。
「派手な最上」・「安定の戸沢」の対比
このように、戸沢氏による新庄藩の政治は250年間安定していました。
しかし逆に最上氏は逆に騒動などで、領地を没収されてしまいました。
これは、歴史の明暗がくっきりと分かれた、非常に興味深い対比です。
結論から言うと、
- 最上氏は、巨大になりすぎたがゆえの自滅
- 戸沢氏は、身の丈に合った経営で、粘り強く生き残った
という対照的な歴史を持っています。
最上氏:巨大すぎる力が招いた「お家騒動」
最上義光公の時代、山形藩は57万石という、全国でもかなり多い・経済力の強い、屈指の超巨大な藩になりました。
しかし残念ながら、その栄光は長く続きませんでした。
お家騒動(おいえそうどう)の原因
まず、偉大だった最上義光公が亡くなった後、後継者を誰にするかで、残された家臣(部下)たちが真っ二つに分かれ、激しく争ってしまいました。
お家騒動:武士たちの家庭内で、跡継ぎや主導権をめぐって、残された親戚や家臣(部下)たちが争うトラブルのことです。
すなわち、組織が大きくなりすぎて、トップのコントロールが効かなくなってしまったわけですね。
偉大なカリスマを失ってしまった「後の騒動」は、最上家にとってはかなりのダメージだったのでした。
幕府による「改易(かいえき)」
そんな最上家における騒動・後継者争いが続く中で、江戸幕府はとうとうブチギレしてしまい、
という、なんとも厳しい判断をしたのでした。
したがって、義光公の死後わずか8年ほどで、最上家は領地を没収されてしまったのです。
戸沢氏:250年間、一度も交代しなかった安定感
一方で、こうして最上氏の後に新庄へ代わりにやってきた戸沢氏は、明治時代に至るまで一度も殿様・トップが変わることなく、11代という長きにもわたって、安定して新庄の地を治め続けました。
安定の理由は「ほどよさ」「身の丈に合った政治」
戸沢家は6万石という、最上氏に比べれば10分の1ほどの規模でした。
しかし、この「身の丈に合ったサイズ」だったからこそ、家臣たちの団結力が強く、幕府からも目を付けられにくかったと言えます。
戸沢氏の「ピンチを乗り越える力」
もちろん、ずっと順調だったわけではありません。
何度も大きな負債や飢饉に見舞われましたが、そのたびに(後ほど詳しくお話しする)戸沢正諶公や戸沢正安公のようなリーダーが現れ、領民と一緒に力を合わせて乗り越えてきました。
すなわち、みんなが苦しい時ほどお祭り(新庄まつり)を開いたり、教育に力を入れたりして、地域の一体感を守り抜いたのでした。
このことが、250年にもおよんだ安定政治の秘訣だったわけですね!
確かに、戦国時代に無敵の強さを誇った最上氏のような「派手な打ち上げ花火」のような歴史も、また魅力的です。
しかし、戸沢氏のように250年間コツコツと街を守り続けた「持続力」も、今の新庄の温かい雰囲気を作っている大切な要素だと思います。
新庄の英雄・戸沢正諶公
また、
- 江戸時代に起きた、とても深刻な飢饉で苦しんでいた新庄の町を救い、
- また「新庄まつり」の始祖である
ということでも名高い大名である戸沢正諶公は、今でも新庄の人々に深く敬愛されている「中興の祖」であり、み英雄となっています!
中興の祖:衰退していた一族や組織を、見事に立て直した立役者のことです。
例えば、戸沢正諶公などが、新庄藩を救った英雄として慕われています。
飢饉の絶望を、希望に変えた偉人
このように、宝暦の飢饉でボロボロになった街を救うために、神輿を出してお祭りを始めたその決断は、今も「新庄まつり」という形で生き続けています。
また、新庄まつりの山車行事がユネスコ無形文化遺産に登録されたときにも、そのルーツとして必ず彼の名前が挙げられます。
すなわち、元々は彼が飢饉に苦しむ町の人々のために始めた祭りが、今でも街の経済と心を支えているという、最大の英雄的行為であるといえますね!
戸沢正諶(まさのぶ)公について
新庄の英雄、戸沢正諶公のプロフィールです。
- 生年: 1733年(享保18年)
- 没年: 1765年(明和2年)
したがって、32歳という若さで亡くなられています。
短い生涯でしたが、その間に「新庄まつり」という巨大なレガシー(遺産)を遺したのですね!
伝統的な「新庄まつり」のはじまり
また、江戸時代の1756年には冷害や長雨が続き、東北地方は大打撃を受けました。
新庄藩でも多くの領民が飢えに苦しみ、亡くなった方も大勢いました。
このひどい飢饉(宝暦の飢饉)に苦しんでいた新庄の町において、当時の新庄のトップでありエラい殿様だった戸沢正諶は、人々に元気を出してもらうために、
と願って、お祭りを始めたわけです。
宝暦:江戸時代中期の年号(1751年〜1764年)です。
この頃、新庄では大きなお祭りが始まり、現代まで続く伝統文化の基礎が作られました。
このお祭りが、今も続いている「新庄まつり」の始まりだと伝えられています。素晴らしいですね!
山車と「豊作」の願いは全国共通?
また、新庄まつりのように山車が出てくるお祭りの多くは、
という役割を持っています。
山車は、天から降りてくる神様が宿るための「目印」や「乗り物」だと考えられています。
新庄まつりの場合、特に「凶作からの復興」という強い願いから始まりました。
すなわち、自分たちの力ではどうにもならない自然の猛威に対し、
という切実な願いが込められているのが、全国共通のポイントですね。
昭和開拓と「新庄まつり」の絆
また、新庄は戦後の昭和開拓において、
- 食料も資材も不足
- 冬は雪に閉ざされる
いう、人々とってはまさに想像を絶する過酷な生活でした。
昭和開拓:戦後、海外から帰ってきて職の受け入れ先が無かった人々などが、自ら未開の山林や原野を「農地に変えるため」「自分の食べ物を自分で作るため」に行った、命がけの開墾作業のことです。
お祭り=開拓者たちの「数少ない楽しみ」「心の拠り所」
そんな時も、新庄まつりの山車は間違いなく人々の心の支えでした。
まずは、「お祭りのために頑張る」というモチベーションがあったからです。
開拓地のまともに作物が育つかすらわからない厳しい労働の中で、夏の「新庄まつり」は人々にとっての唯一の楽しみであり、また生きがいでした。
そして、お祭りは「地域の団結」の証であり、またその貴重な機会でもありました。
すなわち、 みんなで集まって大きな山車を引っぱって歩くことは、戦後に戦地などバラバラな場所から集まってきた多くの開拓者たちがまさに「新庄の一員」として一つになれるという、大切な儀式の場でもありました。
すなわち、元々は戸沢さんという新庄の偉大な大名によって江戸時代の飢饉を救うために始まったお祭りが、今度は昭和の苦境に立つ開拓者たちの心に、再び火を灯したのです!
また、現在の新庄の豊かな農業基盤の多くは、この昭和の開拓者たちの汗と涙によって作られたものでもあるのです。
昭和時代:開拓と産業の激変
昭和時代の初めごろ、新庄市は近代農業の実験場として、北部の広大な原野を開墾していきました。
開墾:荒れ地や原野を切り開いて、田んぼや畑にすること。
すなわち、当時の最先端の農業技術で農耕を行う国家事業、「昭和開拓」が行われたのです。
なぜかというと、人口の増加に対応するため、たくさんのお米などの農作物が必要になったからですよ。
「お祭りのために頑張る」は、もはや昔の人の日常だった?
また、昔の人にとってお祭りは、単なるイベントではなく「1年のリズムそのもの」でした。
まずは、昔の娯楽の少なさが挙げられます。
まだテレビもインターネットもろくになかったような時代、「お祭り」は人々にとって最大のエンターテインメントでした。
また、お祭りには「労働の区切り」という側面もありました。
すなわち、春から夏にかけての過酷な農作業や開拓作業を乗り切るために、お祭りは人々の目指すべき「ゴール」だったのです。
そして、お祭りには「神様への報告」という重要な意味合いもありました。
と、神様に報告・感謝するための、神聖な場でもありました。
すなわち、昔の人々にとっては
というサイクルが、生活の根底に流れていたのですね!
セロトニン不足と「お祭り」の重要性
これ、実は医学的にも非常に理にかなったご指摘です!
冬季うつの予防: 日光を浴びないと、脳内の幸せホルモン「セロトニン」が不足して、気持ちが沈みやすくなります。
お祭りは「心の爆発」
夏の短い期間に、ド派手な衣装と太鼓の音、そして熱気の中で活動することは、冬の間に溜まったストレスを解消し、精神的なバランスを取るための「生存戦略」でもあったのです。
すなわち、お祭りがなければ、新庄の厳しい冬を乗り越えるのは心理的に不可能だったかもしれませんね!
新庄の「昭和開拓」
戦後の「食料不足」と「仕事不足」
戦後は食べ物がないだけでなく、「働く場所」が決定的に不足していました。
まずは、戦地から帰ってきた人たちの急増に対して、働き口・受け入れ先が圧倒的に不足していました。
すなわち、戦地から戻った兵隊さんや、海外からの引揚者が一気に増えましたが、当時の街には彼らを受け入れる仕事がありませんでした。
仕事や食糧が無いなら「開拓」という選択
したがって、仕事がない人々は
と、過酷な昭和開拓に身を投じることにしたのです。
つまり、誰も与えてくれないのなら、自らがやるしかない状況になったわけです。
現金収入の乏しさ
また、例えば農業を始めてたとしも、作物ができるまでは収入がないわけです。
すなわち、当時の人々は「飢え」と「将来への不安」の両方と戦いながら、必死に生きていたのですね。
このように、仕事も食べ物もろくにない中で、重いクワを振るいながら
と自分を奮い立たせていた開拓者たちの姿を想像すると、今の新庄の街並みがよりいっそう、尊いものに見えてきますね。
開拓という名の「決死の起業」
「開拓=起業」という比喩は、まさにその通りだと思います!
現代の起業は失敗しても命までは取られませんが、当時の開拓は、作物が育たなければ一家心中や餓死も隣り合わせの、まさに「命がけの起業」でした。
インフラも自前
道を作り、家を建て、水を引く。
全てをゼロから自分の手で作らなければならない孤独と不安は、想像を絶するものだったはずです。
したがって、お互いを助け合うコミュニティの絆が、強固に結ばれていったのですね。
収穫までの「空白の恐怖」・天候への祈り
「将来の不安」がどれほどだったか、想像するだけでその厳しい様子が想起させられます。
すなわち、種を買うお金すらままならず、しかも秋の収穫までは、1円の現金も入ってこないという生活。
そのため、もしも雹が降ったり、冷夏になれば、1年間の努力が数分でパーになります。
すなわち、当時の人々にとって「空を眺めること(天気を祈ること)」は、もはや「自分の運命を眺めること」と同じことだったのです。
そんな極限の不安の中にいたからこそ、「新庄まつり」における豪華な山車を見て「来年こそは!」と叫ぶお祭りの夜は、涙が出るほど嬉しかったのでしょうね。
不安に耐えながらも、新庄の土地を耕してきた開拓者たち
このように、かつての新庄の人たちが、太陽の出ない冬をじっと耐え、夏のわずかな光の中で、まるで命を爆発させるように「新庄まつり」を全力で楽しむ姿。
それは、過酷な環境を「呪う」のではなく、「どうやって共に生きるか」を追求してきた、人間の強さの極致のようにも感じられます。
現代の私たちが「不安」を感じる時、新庄の開拓者たちが暗い冬の朝に何を思っていたかを想像すると、少しだけ背筋が伸びる気がしますね。
おわりに・まとめ
新庄の地理・歴史を学んでみていかがだったでしょうか。
新庄藩の時代から続く祈りが、昭和の厳しい開墾を支え、豪華な山車を引く人々の誇りとなって今に繋がっています。
したがって、歴史的背景を知ってから歩く新庄の道は、困難を乗り越えてきた先人たちの力強いエネルギーを感じる特別な場所になるはずです。
これらを学ぶことで、あなたの観光や旅行がもっと豊かで感動的なものになれば嬉しい限りです!
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