周防大島の歴史(ハワイ移住の歴史・「移住に人気な島」について・幕末の「四境の役」など)を、わかりやすく解説しています!
はじめに
今回は、周防大島の地理・歴史を学んでゆきましょう!
この島の背景を知ることで、いつもの観光や旅行、そして探訪がもっと面白くなります。
「瀬戸内のハワイ」と呼ばれるこの島には、実は幕末の激動を生き抜いた、熱いドラマが隠されているのですよ。
先人たちの勇気を感じつつ、ワクワクする島への理解を深めてゆきましょう!
周防大島とは?

周防大島(写真奥)(山口県)
周防大島は、山口県東部に浮かぶ、瀬戸内海で3番目に大きな島です。
周防大島の全体像を、歴史から現在まで
山口県における、周防大島の位置
周防大島は、瀬戸内海に浮かぶ島で、本州とは「大島大橋」でつながっています。
すなわち、本州と橋でつながっているため、車で気軽に渡ることができます。
そのため、とても便利で、昔から交通の要所として栄えてきました。
「周防国(すおうのくに)」とは?
周防国は、日本の律令制のもとで生まれた、昔の国の名前です。
今の山口県の東半分にあたります。
長門国や山口県との関係
山口県は、昔の「周防国」と「長門国」が合併して、できた県です。
山口県の東側が「周防国」、西側が「長門国」にあたります。
したがって、山口県は、二つの国の歴史と文化を受け継いでいるということになります。
長州藩の本拠地は、長門国の萩(現在の山口県萩市)にありました。
そのため、長門国は、幕末の明治維新において、中心的な役割を果たした場所でもあります。
山口県の歴史を知るためには、この二つの国の関係を理解することが大切というわけですね!
日本三大潮流の一つ「大畠瀬戸」

大畠瀬戸の海と、周防大島(写真奥)(山口県)
ちなみに、周防大島と本土(柳井市)を繋ぐ「大島大橋」の下を流れる大畠瀬戸は、海の難所として知られています。
まずは、まるで川のように速い流れというもながあります。
ここでは潮の流れが非常に速く、まるで巨大な川が流れているように見えます。
また、ここは日本三大潮流にも数えられています。
いわゆる鳴門海峡、来島海峡と並んで、日本でも有数の潮流の速さを誇ります。
橋の上から渦巻く潮を眺めるのは、かなりの迫力ですよ!
大畠瀬戸の流れが速くなる原理
大畠瀬戸のような速い海流になるのは、広い海域から狭い場所に大量の水が流れ込む、まるで
という現象と同じです。
専門的には「ベンチュリ効果」や「ベルヌーイの定理」に関連する現象ですね!
狭い場所で水が加速する仕組み
例えば、広い海(伊予灘や周防灘)にある大量の海水が、潮の満ち引きによって移動しようとするとき、大畠瀬戸のような極端に狭い場所に差し掛かると、逃げ場を失った水がギュッと圧縮されます。
すなわち、後ろから次々と押し寄せる水の量は変わらないため、狭い通路(水路)を通り抜けるためには、スピードを上げて一気に通り抜けるしかありません。
したがって、押し出される力がとても強くなるわけです。
この大畠瀬戸では、速いときには時速約13km(7ノット)を超えます。
これは、普通の人が早歩きするよりもずっと速く、海面が川のように波立ち、渦を巻くほどの凄まじい勢いです!
萩藩による支配と、海の主要ルート
周防大島は、かつて「萩藩」の支配下にありました。
「萩藩」は、江戸時代に今の山口県を治めていた、とても大きな大名です。
周防大島は、江戸時代から瀬戸内海を航行する船にとって、非常に重要な場所でした。
船が安全に航行するために、なくてはならない「海の主要ルート」だったわけです。
周防大島とハワイの、深いつながり
周防大島の歴史を語る上で、ハワイとの関係は欠かせません。
明治時代に「官約移民」が始まると、周防大島からなんと3,900人以上の人々が、ハワイへと渡っていきました。
当時のハワイは、サトウキビ畑などで働く、たくさんの労働者を必要としていたからです。
周防大島は、ハワイへの移民を、日本で最も多く送り出した地域の一つでもあります。
この歴史的な背景から、周防大島とハワイ州のカウアイ島は、1963年に「姉妹島提携」を結んでいます。
周防大島における富裕層の増加と、町の変化
最近、周防大島は、「移住に人気の町」として注目されています。
橋によって本州とつながっている便利さと、温暖な気候、そして、古民家が多いことが、移住者を惹きつけているわけです。
特に、富裕層の移住者が増えていることが、町に大きな変化をもたらしています。
この富裕層の移住者が増えたことで、町の税収が、なんと約6.6倍にまで急増しました。
税収が増えると、町は道路を整備したり、住民サービスを向上させたりすることができます。
つまり、富裕層の移住が、町の財政を豊かにし、町民みんなの暮らしを、より良くしているということですね。
「リノベーション」を駆使した、移住のノウハウ・知恵
特に、古い民家をリノベーションしやすいため、富裕層の移住者も増えているわけです。
「リノベーション」とは、古くなった建物を、現代の暮らしに合わせて、新しく改修することです。
富裕層が、古い空き家をリノベーションして住むのには、いくつかの大きなメリットがあります。
まず、古い民家は、新築の住宅と比べて、土地や建物の価格が安いことが多いです。
そのため、広い土地や大きな家を、比較的安く手に入れることができます。
そうして浮いたお金を、リノベーションにかけられるわけです。
移住に人気の町・周防大島町
リゾート開発が進み、移住者が増えたことで、町全体に活気が生まれています。
そして、その結果、経済も活性化しているようです。
このような背景から、周防大島町は、今、「移住に人気の町」として、とても注目されています。
すなわち、富裕層の人たちもそして多くの人々も、近年になってこの町の魅力に気づき始めているということですね。
もはや、町がどんどん元気になっていく様子が思い浮かびます!
幕末の周防大島での戦い・四境の役(しきょうのえき)
周防大島の歴史を語る上で重要な「四境の役」とは
周防大島の歴史を語る上で欠かせない「四境の役」について、なぜ起きて、どんな結果になったのか、わかりやすく解説します!
歴史の教科書では「第二次長州征討」と習うことが多いです。
しかし、地元山口県では誇りを持って「四境の役」と呼んでいるわけです。
幕末の動乱については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
四境の役 なぜ起きたのか?(原因)
一言でいうと、
です。
当時の長州藩は、幕府を倒して新しい国を作ろうとする「倒幕」のリーダー格でした。
そのため、幕府は
という危機感を抱き、全国の藩に命令して、長州藩を四方から囲んで攻撃することにしたのです。
倒幕:江戸幕府を倒して、天皇を中心とした新しい政治の仕組みを作ろうとすることです。
なぜ「四境の役」という名前なの?(由来)
では、なぜ「四境の役」という名前なのか。
それは、長州藩(すなわち、今の山口県)の4つの国境(境目)が主な戦場になったからでした!
- 南:大島口(周防大島):海からの攻撃。
- 東:芸州口(広島県との境):小瀬川付近。
- 北:石州口(島根県との境):津和野方面。
- 西:小倉口(北九州との境):関門海峡を挟んだ戦い。
すなわち、幕府側は
という意味で呼びましたが、長州側はむしろ
という意味を込めて、「四境の役」あるいは「四境戦争」と呼びました。
すなわち、自分たちの土地を死守しようとしたという、まさに長州藩ならではのプライドが感じられる名前ですね!
結果はどうなった?(結末)
では、この「四境の役」の結果はどうなったのでしょうか。
結論から言うと、
に終わりました!
四境の戦い 長州藩勝利の要因
最新兵器の力
幕府軍は、確かに数では勝っていました。
しかし、長州軍は高杉晋作や大村益次郎の指揮のもと、最新式の銃や戦術などを駆使して戦いました。
士気の差
幕府に命令されて、なかばイヤイヤ戦う他の藩の軍に対して、長州側は
と必死だったため、その団結力が段違いでした。
つまり、
- 長州藩の「絶対に負けない!」という意地
- イギリスから仕入れた、最新テクノロジー
が、旧態依然とした幕府軍を圧倒した瞬間でした。
長州藩の誇りを感じますね!
将軍の死
戦いの最中に、14代将軍の徳川家茂が大阪城で亡くなってしまいます。
これをきっかけに幕府軍は戦う理由を失ってしまい、撤退することになりました。
高杉晋作とは?
高杉晋作は、1839年に長州藩の本拠地である萩城下(現在の山口県萩市)で生まれました。
彼は萩のシンボルとしても有名で、 今でも萩市には「高杉晋作誕生地」が保存されています。
また、彼は松下村塾の門下生であり、あの有名な吉田松陰先生のの塾で学びとても優秀な生徒でもありました。
松下村塾:吉田松陰が主宰した私塾であり、高杉晋作や伊藤博文など、明治維新を支えた多くの人材を輩出しました。
高杉晋作はなぜ「偉人」と言われるの?(主な功績)
彼がいなければ、今の日本はなかったかもしれないと言われるほど、その功績は絶大です。
一つは、「奇兵隊」の創設:でした。
当時は「戦うのはあくまで武士の仕事」でしたが、彼は身分に関係なく、やる気のある農民や町人も参加できる奇兵隊(きへいたい)を作りました。
これが、後の日本軍の近代化の先駆けとなったわけです。
次に、「四境の役」で勝利したことです。
先述の通り、数倍の兵力を持つ幕府軍を相手に、最新の戦術と圧倒的なリーダーシップで勝利を収めました。
そして、長州藩を「倒幕」へ導くことにつながったわけです。
長州藩はなぜ「最新兵器」を持てたのか?
では、なぜ長州藩はこの幕府軍を圧倒できるような「最新兵器」を持てたのか。
実は、この戦いの直前に坂本龍馬の仲介により、それまでは宿敵だった薩摩藩の名義を借りて、なんとかイギリスから武器を買い付けたわけです。
これが有名な「薩長同盟」による大きなメリットの一つでした。
ミニエー銃の威力
当時、幕府軍の多くは古い火縄銃や、射程の短い銃を使っていました。
一方、長州軍が手に入れたミニエー銃は、射程距離も命中精度も格段に高く、遠くから狙い撃ちすることができたわけです。
ミニエー銃:銃身の中に溝(ライフリング)があり、弾を回転させて飛ばすことで、驚くほど遠くまで正確に飛ばせるようになった、当時のハイテク武器です。
当時、従来の銃の射程距離がおおよそ100メートル程度だったのに対して、ミニエー銃の場合はその3倍以上の、300〜500メートルもの先から狙い撃ちできました。
そのため、幕府側の兵士からすれば、
という異常事態だったというわけです。
なぜ周防大島が「最初のターゲット」になったのか
では、なぜ周防大島が幕府軍側の松山藩にとって「最初のターゲット」になったのか。
それは、幕府軍にとって周防大島を攻めるのは「合理的で絶好の足がかり」だったからです。
四国からの近さ
松山藩(愛媛県)にとっては、周防大島はまさに近い、いわゆる目と鼻の先にあります。
すなわち、地理的にも近い周防大島は、松山から海を渡ってすぐに攻撃を仕掛けられるという、手っ取り早い「玄関口」でした。
長州本土への橋頭堡(きょうとうほ)
また、まずは周防大島を占領して、ここを攻撃・防御のための基地にすることができれば、そこから岩国や広島方面(すなわち、芸州口)へ攻め込むのが非常に楽になるわけです。
橋頭堡敵地へ攻め込むための、第一歩となる拠点のことです。
守りの薄さ
当時、長州藩の主力部隊は、他の境界(すなわち、下関や芸州口:広島方面など)に集中していました。
しかし周防大島の場合は、当時はまだ比較的(長州藩の)守りが手薄だと見なされていたのでした。
そのため、松山藩(幕府軍)としては
という作戦だったのです。
幕府軍の「やる気のなさ」は深刻だった
幕府軍は、なんと総勢15万人とも言われる、普通に考えれば圧倒的有利なはずの大軍でしたが、中身はボロボロでした。
そもそも「なんで戦うの?」という疑問
この戦いにおいて、幕府側の武士たちは、
という理由で来ているだけであり、長州藩に対して何らかの恨みがあるわけではありませんでした。
逃げ出す藩が続出
特に、お隣の津和野藩などは「自分の土地を戦場にしたくない」と、長州軍が通るのを黙認したり、戦いを避けたりしていました。 「戦いたくない者たち」が「必死の者たち」に勝つのは、やはり難しかったのですね。
周防大島(大島口)での劇的な逆転劇
実は、この四境の役で一番最初に攻撃を受けたのが、周防大島でした。
すなわち、周防大島は最初は幕府軍(松山藩)に占領されてしまい、家を焼かれてしまうなど、大きな被害が出てしまいました。
しかし、ここであの高杉晋作が登場します!
夜襲の天才・高杉晋作
高杉晋作は、まさに夜襲の天才でした。
つまり、敵が油断している夜中に攻撃をするのがとても上手かったのです。
彼はたった一隻の軍艦「丙寅丸」を率いて、夜の海から、幕府艦隊に対して奇襲をかけました。
そして、暗闇から突然大砲を撃ち込まれた幕府軍は大パニックになり、結果として長州藩は周防大島を奪還することができたわけです。
まさに、映画のような大逆転劇ですね!
真夜中、突然の至近距離射撃
幕府側(松山藩側)が
と油断し、なんと軍艦でどんちゃん騒ぎや飲み会を開いていたという説もあります。
しかもかなり明るく『灯り』をともしていたため、これは夜中に船で仕掛けてくる高杉晋作にとっては、『狙ってくれ』といっているようなものでした。
そこへ突如、暗闇から巨大な大砲の火が噴き、もう幕府軍は何が起きたのか全くわけが分からず、大パニックに陥りました。
夜中の急な攻撃 パニックになる松山藩兵たち
高杉晋作の奇襲は、なんと「夜中」でした。
真っ暗な中、突然、海から大砲を撃ち込まれたため、松山藩の兵たちはほとんど寝巻きも同然の姿で、急にびっくりして飛び出したと言われています。
船の奪い合い
そして次に起こったのは、船の奪い合いでした。
という恐怖から、港に停めてあった船に対して兵士たちが殺到しました。
そして、定員オーバーで船は沈みそうになったり、あるいは我先にと仲間を突き飛ばして乗り込んだりと、武士のプライドなど微塵もない惨状だったようです。
置き去りにされた人々
当然、逃げ遅れた兵士もたくさんいました。
彼らは島の山の中に逃げ込み、怯えながらもなんとか隠れていましたが、最終的には長州軍や、幕府軍の横暴に怒っていた島の住民たちに捕まってしまったのです。
阿鼻叫喚:むごたらしい状況に陥り、泣き叫んだり救いを求めたりするような、悲惨な様子のことです。
その後の歴史への影響
この長州藩の圧倒的勝利によって、
ということが日本中に知れ渡りました。
その結果、長州藩は薩摩藩などと協力して、一気に「明治維新」へと突き進むことになったわけです。
つまり、周防大島を含む4つの場所での戦いが、日本の夜明けを早めたと言っても過言ではありません。
長州軍が数倍の敵を相手に、最新のミニエー銃を使ってバタバタと幕府軍を退けたというシーンを想像すると、まるで当時の緊張感が伝わってきますね。
松山藩は「嫌々」だったのか、それとも「やる気満々」だったのか
さて、負けた松山藩は「イヤイヤ」だったのか、それとも「やる気満々」だったのか。
まず松山藩はトップだけは幕府に忠実で、他の多くの藩が「戦いたくない」と渋る中、松山藩は真っ先に準備を整え、意欲的に出撃したという記録があります。
しかし、肝心の現場の兵士は、まるでダメでした。
藩の上層部はやる気満々でしたが、いざ戦いが始まると、長州軍の最新兵器(ミニエー銃など)の威力に圧倒されてしまいました。
結果として、夜中に高杉晋作の奇襲を受けた際にはパニックになり、多くの兵が戦意喪失して、島から逃げ帰ることになったのです。
「最新鋭の武器」というチート性能
また、幕府軍(松山藩)と長州藩では、武器の差は決定的一因でした。
長州藩は、イギリス製の最新式ミニエー銃を装備していました。
弾が回転しながら凄まじい速さで飛んでいくため、たとえ遠くからでも面白いように命中しました。
一方、幕府・松山軍は、まだ古いタイプの銃や、中には刀や槍といった時代遅れの武器を持った装備の部隊も混ざっていました。
すなわち、それくらいの性能差があったため、たとえ数では勝っていても、幕府軍(松山藩)は長州藩の軍に近づくことすら難しかったのです。
もし松山藩が周防大島を占領できていたら?
もしも、松山藩が周防大島を完全に制圧し、防衛線を築いていたら、長州藩にとって周防大島は、もう恐ろしい要塞になっていたはずです。
瀬戸内海の制海権を握れる
周防大島は、九州や四国、そして大阪をそれぞれ結ぶ、まるで海路ルートの「関所」のような位置にあります。
すなわち、ここを幕府軍が握り続ければ、長州藩の船はもはや一歩も動けなくなります。
本土への砲撃基地、まさに「天然の要害」
また、周防大島から対岸の本土(今の柳井市など)は非常に近いため、もしそこに大砲などを並べられれば、長州藩の領地は常に火の海にさらされる危険すらありました。
また、周防大島は山がとても険しく、しかも海岸線も複雑です。
こんな複雑な地形の場所に、もし一度立てこもられてしまうと、攻める側(長州軍)は海から上陸しなければならず、多大な犠牲が出たことは間違いありません。
要害:地形が険しく、敵を防ぐのに適した場所、つまり「天然の砦」のことです。
今も受け継がれる、幕末のスピリット
この「大島口の戦い」での大逆転劇は、島の人々のアイデンティティに深く刻まれ、また自信につながりました。
「やればできる」 国を守ったという自信
自分たちが暮らす周防大島が戦場になり、一度は占領されながらも、知恵と勇気で取り返したという経験は、
という強い自信(自己効力感)を生みました。
この、幕末の動乱を、最新の考え方で勝ち抜いたという経験こそが、まさに
という大きな決断を後押ししたと言われています。
すなわち、「瀬戸内のハワイ」という言葉は、その背景には「幕末の激戦」を勝ち抜いた誇りと、海を越えていった先人たちの「覚悟」が詰まっているわけですね!
おわりに・まとめ
周防大島の地理・歴史を学んでみて、いかがだったでしょうか。
激しい潮流を活かした高杉晋作の奇襲や、ハワイへと繋がる不屈の精神など、本当に魅力が詰まった島ですね!
そして現代では、移住によって、新しい町づくりが進んでいます。
周防大島の歴史を知ることは、日本の歴史や移住の意義について、改めて考える良い機会になると思います。
こうした知識を学ぶことで、次に島を訪れるときは、より深く観光や探訪を楽しめるようになることでしょう!
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