広島城の歴史(毛利氏・福島氏・浅野氏や、太田川などの広島の地理など)について、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!
はじめに

広島城(広島県広島市)
今回は、広島城の地理や歴史を一緒に学んでゆきましょう!
お城の成り立ちを知ることで、いつもの景色がガラリと変わって見えるはずです。
たとえば、なぜ広島にはあんなに川が多いのか、なぜ福島正則公は涙をのんで広島を去ったのか。
したがって、これらの背景を学ぶことで、実際の観光や旅行、探訪が何倍も面白くなります。
すなわち、歴史の足跡をたどる旅の始まりですね!
ワクワクする発見の連続を、ぜひ楽しんでください!
広島の基礎
広島とは?その地名はどこから来た?
広島という地名の由来は、街の真ん中を流れる大きな川である太田川という川と、深く関係があります。
- 戦国時代の武将であった毛利輝元が、
- 太田川の河口にお城(つまり広島城)を作ったときに、
- この場所を「広島」と名付けた
のだと言われています。
毛利輝元とは?
広島城を造った毛利輝元は、戦国時代に大活躍した名将・毛利元就の「孫」にあたります。
- 毛利元就(おじいちゃん): 「三本の矢(これがサンフレッチェ広島の由来)」で有名な、毛利家を中国地方の覇者へと登りつめさせた偉大なるリーダー。
- 毛利隆元(輝元のお父さん): 元就の長男。 非常に優秀でしたが、父の元就よりも先に亡くなってしまいました。
- 毛利輝元(本人): お父さんの隆元が早くに亡くなってしまったため、おじいちゃんの跡を継いで、広島城を築きました。
すなわち、おじいちゃんの元就が作った基盤を、孫の輝元さんがさらに大きな「都市」へとアップグレードさせたというというわけですね!
「広島」の由来 デルタの地形から来ているという説
広島の町は、太田川という川が海に注ぐ場所に広がっています。
「デルタ(三角州)」という言葉は、ギリシャ文字の「デルタの形(三角形のような形)」に似ていることからそう呼ばれています。
つまり、たくさんの川に囲まれた土地(昔はこれを「島」と呼んでいました)が、まるで三角形(デルタ)のような形をしているわけです。
広島の場合は、まさにこの「三角形」が(たくさんの川があるために)いくつも重なり合うという、世界でも珍しいほど美しいデルタ地形であるというわけですよ!
広島デルタの正体:川が作った「扇」
広島市の中心部は、太田川が運んできた砂や泥が積み重なってできた、平らで低い土地です。
川は山を流れるときは(急斜面を流れるため)勢いが強いですが、海に近づくと流れがゆっくりになります。
また、川は上流部ほど流れが速いため、地面をエグいくらい削りながら流れます。
このとき、削られた地面は「砂」となって一緒に流れます。
すると、川が運んできた砂を(川の水が)持ちきれなくなって(保てなすなって)、そこにポトポトと砂を落として(ばらまいて)いくわけです。
そうしてポトポト落とされた(ばらまかれた)砂たちは、どんどん貯まって(堆積して)ゆきます。
中洲(島)がたくさん出来ることで、川が「枝分かれ」していった
したがって、河口に砂が溜まって陸地となることで、「中州」という島ができます。
この中洲がたくさんできると、元々あった大きな川が「枝分かれ」していきます。
広島の場合は、この「枝分かれ」が繰り返された結果、実に6本の大きな川が流れるという、とても広大な平地が誕生しました。
たくさんあった平地(島)のうち、最も「広い島」に「城」を建てた
そこで、そんなたくさんの平地(島)から、「最も広い場所」を選んで、お城を作ったのでした。
昔は、川と川に囲まれた平地のことを「島」と呼んでいたのでした。
すなわち、最も「広い島」で、「広島」になったというというわけです(※諸説あり)。
たくさんの川が「自然のバリヤー」の役割を果たしてくれた
そして、毛利輝元公がいわゆるこの「広い島」の部分にお城を築いたのには、まさにデルタ地形ならではの理由がありました。
すなわち、枝分かれしたたくさんの川が、そのまま「巨大なお堀」「天然の要塞」の役目を果たしてくれたわけでした。
すなわち、今の広島の街は、実はかつて太田川が山から運んできた「砂」の上に立っているとも言えるというわけです!
広島の由来:人の名前から来ている(他の)説
また、「広島」の地名の由来には、以下のような別の由来もあります。
- 毛利さんのご先祖さまの名前である、大江広元の「広」
- お城を作るのに関わった、福島元長の「島」
の字をそれぞれ合わせて、名付けられたという説です。
つまり、どちらの説も、太田川と広島の地名が深く関係していることを示しています。
大田川が果たした役割
天然の堀としての防御力が優れていました。
まだ車もトラックも市電も無かった昔、舟で川を使っモノや人を運び、広島の城下町を大きく発展させることができました。
太田川は、広島市の中でいくつかの川に分かれています。
太田川は、
- 太田川放水路
- 旧太田川
という2つの川に分かれます。
さらに、旧太田川は、
- 京橋川
- 猿猴川
- 天満川
- 元安川
などの4つの川に分かれています。
このような大田川のたくさんの分流が城を囲むように流れていたため、古くから広島の土地は敵が攻めにくい構造になっていました。
広島城ができるまで

広島城(広島県広島市)
広島城は、戦国時代の終わりの1589年から10年かけて、毛利輝元によって築かれました。
それまでの毛利家は、山城の吉田郡山城を拠点にしていました。
吉田郡山城は、現在の広島県安芸高田市にあった日本の城です。
当時は「安芸の吉田」と呼ばれていた場所です。
安芸高田市は、石丸伸二さんが2020年8月から2024年6月にかけて市長をされていた市でもあります。
しかし、時代とともに天下統一が進んでいく中で、
と考え、海に近いデルタ地帯を選んだのです。
当時すでに、中国地方の7つの国を治めてまさ「覇者」となっていた毛利元就の孫であった毛利輝元は、かつてより毛利氏一族の本拠地だった吉田郡山城から、新しいお城を建てることにしたのでした。
豊臣秀吉の大坂城を参考に作られた、広島城
1589年から約10年かけて作られ、1599年に完成した広島城は、豊臣秀吉の大坂城を参考に作られました。
広島城は、太田川をお堀として使った、とても強いお城でした。
広島(デルタ)に拠点を移した理由
まずは、宇品などといった、海・大きな港に近いという交通の利便性こそが、最大の理由・メリットでした。
戦国時代までは、城を山の上に建てるのが主流だった
従来、戦国時代までは、先述の吉田郡山城のように「山に籠もって守る」というのが正解でした。
昔の山は、天然の要塞でした。
つまり、戦国時代の真っただ中においては、急な斜面を登らなければならなかった山城(山の上に築かれた城)こそが、最強の「盾」となっていたのでした。
したがって、毛利元就公の時代までは、山の上で守ることが最優先だったのです。
時代とともに、城は「山の上」から「平地」へ
しかし天下が落ち着き始めると、山の上ではもはや商売がしにくく、町や経済が思うように広がってゆきません。
また、時代が進むにつれ、
- 巨大な石垣を積み上げてゆく技術
- 深いお堀を掘る技術
などが発達し、お城もバージョンアップしてゆきました。
すなわち、わざわざ山に登らなくても「人工的な崖と池」で城を守れるようになったのでした。
これにより、時代は「山城」から「平城」へと変わっていったのです。
平城:山ではなく、平らな土地に築かれたお城のことです。
したがって、
- 建物も立てやすい、広い平地(=広島)がある
- (太田川などの川によって)船が直接乗り入れられる
という、広島特有のデルタ地帯が、従来の吉田郡山城に代わる新しいお城の「引っ越し先」として選ばれたのです。
巨大な城下町を作るため
吉田郡山城は険しい山の中にあり、家臣(家来・部下)たちや商人たちを住ませるための平地はとても限られていました。
これだと、思うように人口も増えないし商売もやりにくく、経済が発展していきにくいというわけです。
そこで、大田川の下流部にあたる河口を埋め立ててゆき、何万人単位の人々が住めるような巨大な都市を、まさにゼロから作っていったというわけですね!
当時の宇品周辺は、まだまだ島のような状態でした。
しかし、そこ(港)から瀬戸内海の「海のルート」を通じて、大阪や九州といった主要地域と繋がれるのは、当時としては大きなメリット・魅力だったはずです。
「鯉城(りじょう)」の由来とカープの絆
広島城の雅称である「鯉城」には、いくつかの素敵な説があります。
まず、お城があった場所が「己斐(現在の西広島駅あたり)」という地名に近かったことや、お城周辺が「鯉の里」と呼ばれていたという説があります。
また、お堀にたくさんの鯉が泳いでいたから、という親しみやすい説も有名ですね!
カープとの関係
もちろん大いに関係あります!
プロ野球チームの「広島東洋カープ」の名前は、この「鯉城」にちなんで命名されました。
したがって、広島の人にとって鯉は、お城の時代から現代まで続く「団結のシンボル」なというわけですね!
広島県庁と、お城の距離が近い理由
県庁がお城のすぐそばにあるのは、決して偶然ではありません。
江戸時代、お城は「政治のすべての中心」でした。
明治時代以降も、行政の拠点として、この「便利な立地」を使い続けたのです。
まさに、「政治をするために便利な」行政の拠点が、今に至るまでずっと継承され続けているというというわけですね。
戦国~江戸初期の広島・広島城
関ヶ原の戦いの後、毛利氏は遠くへ飛ばされることに
1600年、誰もが知っているあの関ヶ原の戦いが起きました。
毛利輝元は、当時豊臣秀吉の家来だった石田三成に頼まれて、西軍の大将として、徳川家康と敵対しました。
吉川広家の「助命嘆願」により、刑は免れる
この時代は、負けたら普通は極刑なのですが、そこをなんとか東軍に味方した従兄弟の吉川広家が、一生懸命頼んでくれたのでした(いわゆる助命嘆願)。
このおかげで、毛利さんはなんとか極刑になることは免れ、またすべての土地を取り上げられることまではなかったのでした。
刑罰と引き換えに、遠く長州・萩へと「左遷」
しかしながら、毛利さんは広島の地を追われることとなってしまい、現在の山口県にあたる周防と長門の2つの国(地域)へ強制的に移ることになりました。
つまり、毛利さんはせっかく出来たばかりの広島城を、後任の福島さんに渡すことになったのです。
福島正則が、広島にやってくる
そして毛利氏の一族が、はるか遠くの萩(現在の山口県萩市)へと引っ越した後は、
- 関ヶ原の戦いにおいて、(徳川家康の味方である)東軍として大活躍した福島正則が、
- 約49万石という、当時としてはとても大きな領地の殿様(つまり、県知事のようなお偉いさん)として、
- 広島に入ってきた
というわけです。
つまり、新しい広島県知事(=県で一番エラい人)が、政府によって派遣されてきたイメージです(もちろん現在は、きちんと選挙で知事を選びます)。
太田川の整備 精力的に広島を治めていく新リーダー・福島正則
こうして新しく広島のトップとして就任さた福島正則は、大雨による川の増水よる洪水を防ぐため、太田川の周りを整備してゆきました。
さらには広島城の周りでいずれ起きるかもしれない洪水に備え、全力で市民の安全を守るための政策を取ってゆきました。
福島さんの運命を狂わせた、台風による広島城の損壊
しかし1617年、広島を大きな台風が襲いました。
これにより、広島城の石垣や多聞櫓が壊れてしまったのです。
これに対し、
とリーダーの福島さんは焦ったことでしょう。
しかしこのことが、福島氏の一族の皆さんの運命を大きく狂わせてしまうきっかけになってしまいます。
「無断修築」という罠
当時、江戸幕府には「武家諸法度」という厳しいルールがありました。
武家諸法度:江戸幕府が大名たちをコントロールするために作った、武士が守るべき・武士に好き勝手させないための法律のことです。
つまり江戸時代は、農民や町人たちにだけでなく、一見したら華やかにみえる武士にも厳しいルールを課していたのです。
そして、この武家諸法度においては、
という決まりがあったからです。
城の無断改修が禁止だった理由
なぜこんな決まりがあるのかというと、
それは、
- 修理という名目で、勝手にお城を増強されてしまうことで、
- 幕府の脅威となること(幕府反乱のための軍事拠点とされること)
を幕府は恐れていたからです。
もし反乱とか起こされると、幕府にとっては甚大な労力や軍事費を強いられることになります。
もちろん福島さんは「修理していいですか」という届け出を出しました。
しかし、結局は幕府の返事を待たずに修理を始めてしまいました。
すなわち、これが「ルール違反」とみなされたのです。
なぜ福島さんは幕府から許可が降りなかった?
実は、このときの幕府(特に二代目将軍・徳川秀忠)は、
という属性を持った福島さんのことを、少し怖がっていました。つまり脅威に感じていたわけです。
そのため、
と考えていたところに、幕府としてはまるで「これ幸い」と言わんばかりに、この修理問題が起きたというというわけです。
つまり、幕府にとっては、福島さんにあえてある種の「言い掛かり」をつけるチャンスでもあったのかもしれません。
遠く長野・「川中島」へと飛ばされることに
結局、福島さんはそれまでの安芸・備後50万石という広大な土地を取り上げられ、信濃の川中島(つまり、現在の長野県長野市あたり)へ4万5千石へと大幅にランクダウンさせされ、強制的に移されることになりました。
まるで大幅減給された懲戒措置・人事左遷みたいな感じですね。
安芸:広島県の中部~西部に至るエリア。
備後:広島県の東部にあたるエリア。
信濃:現在の長野県のことです。
つまりこれは実質的な「左遷」であり、福島さんにとってもとても厳しい処分だったと言えます。
福島さんが広島を去ったのは寂しいですが、その後に入った浅野長晟公から実に12代の長きにわたって、江戸時代の広島は浅野家がずっと治めていくことになります。
福島正則がお城の修理を急いだ「守るため」という理由
また、当時は「城が壊れている=隙がある」と見なされていたこともあり、略奪や混乱が起きてしまう可能性もあったのでした。
そういう意味では、とても仲間想いで、熱い人だったというわけですね!
福島さんのその後:広島への想いと長野での暮らし
意外かもしれませんが、福島さんは移転先の信州・長野でも、非常に熱心に領地を整えました。
例えば、長野を流れる大きな川である千曲川の氾濫を防ぐために堤防を築いていくなど、領民(住民)が安心して暮らしていけるような街づくりに励んでゆぎました。
これはかつて広島でも太田川を全力で整備していったのと似ています。
治水:川の流れを(工事などで)整えて、たとえ大雨が降っても洪水が起きないように工夫することです。
信濃(長野)でも、領民から愛された
浅野家の広島安定統治(江戸時代)
江戸時代、浅野氏の広島統治が安定・長く続いた理由
幕府との「絶妙な距離感」と信頼
したがって、幕府からも
領民を大切にする、徳のある政治
デルタ地形を活かした干拓を進め、さらには綿花や海苔、そしていまでも広島名物となっているカキなどの産業を奨励しました。
干拓:海を干上がらせて陸地を作ることです。
そこを農地にして、生産量を上げる狙いがあります。
広島は、西日本における防衛の要所でした。
すなわち、ここに強力で安定した浅野家を置いておくことは、徳川幕府にとっても好都合だったというわけですね!
明治時代以降の広島城
廃城令とは?広島城が残った理由
廃城令とは、1873年(明治6年)に明治政府が出した、まるて「お城の断捨離」のような命令のことです。
この廃城令においては、既存のお城が今後も(軍事的に)役に立つかどうかで、以下のように分別されてゆきました。
- 存城:軍事的に利用価値があるとして、陸軍が管理するお城。
- 廃城:利用価値がないとして、大蔵省へと引き渡され、建物が(民間などに)売られたり、壊されたりするお城。
広島城が残った理由
広島城は、上記の「存城」として残されました。
それは、広島の地が今後西日本を統ていくための「軍事の拠点」として、非常に優れていた場所だったからです。
すなわち、既存のお堀や広大な敷地が、そのまま陸軍(広島鎮台や第5師団)の基地・拠点として使えるため、最適だったというわけですね!
もし利用価値がなければ、他のお城のようにバラバラに解体されて、建売住宅の材料になっていたかもしれないというわけです。
広島鎮台:当時の陸軍の組織単位で、のちの「師団」にあたる重要な部隊のことです。
広島大本営:なぜ広島に置かれたのか?
1894年(明治27年)の日清戦争のとき、広島城内に「大本営」が置かれました。
つまり、明治天皇が東京から広島にやって来られて、ここで軍の指揮を行う拠点となったということです。
これは日本歴史上、東京以外に首都機能が移ったという、唯一の事例であると言われています。
広島大本営とは?については以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

なぜ広島だったのか?
その理由として、まずは宇品港の存在がありました。
すなわち、戦争に必要な兵士や軍事物資を、大陸へ送り出すための巨大な港が近くにあったことが大きかったというわけです。
明治時代・山陽鉄道(現在の山陽本線)の開通
また、当時はちょうど山陽鉄道が広島まで開通したばかりでした。
つまり、兵庫・神戸からずっと西へ西へと建設して伸ばしてきた山陽鉄道が、1894年(明治27年)6月、まさに広島へと到達した時期だったのでした。
日清戦争が始まったのがその年の8月でしたから、まさにその2ヶ月前に、鉄道が広島へと達してきたというわけです。
明治天皇も、現在の東海道線・山陽本線を乗り継いで広島へ来られたというというわけですね(当時は新幹線や飛行機は無かったため)。
こうした事情から、当時の広島は輸送の便が最高に良かったのです。
軍都としての整備
また、広島城ではすでに第5師団の軍事拠点としての施設が整っていました。
そのため、明治天皇自らが指揮を執る場所としてふさわしいと判断されました。
このようにして、当時の広島は実質的な「日本の首都」だったというわけです。
1894年 明治天皇の東京→広島への鉄道旅
日清戦争のあった1894年(明治27年)の9月15日、明治天皇は広島に到着されました。
この移動は、当時の日本にとってまさに国家の命運を分けるような、非常に重みのある重要な意味のある旅だったのです。
明治天皇の鉄道での「広島行幸」ルート
当時の鉄道は、まだ(九州まで)全てが繋がっていたわけではありませんでした。
しかし、天皇陛下は当時の最新の技術であった鉄道を最大限に利用されました。
行幸:天皇が外出されること、特に遠くの場所へ出向かれることを指す言葉です。
まずは、新橋(東京)から神戸へ
まず明治天皇は、「官設鉄道(すなわち、現在のJR東海道本線)」で神戸を目指されました。
官設鉄道:当時、国(政府)が直接建設をし、また運営していた鉄道のことです。
もちろん現在ではJR社の線路となっています。
神戸駅(兵庫県神戸市)は、現在でも
- 東海道線の終点
- 山陽本線の起点
となっています。
また、もちろん当時は今のような豪華な特急列車はありませんでした。
しかし、そのときには天皇専用の特別な車両が用意されました。
神戸から広島へ
現在も山陽本線の起点となっている神戸からは、先ほどお話ししたばかりの「山陽鉄道」に乗り換えられました。
すなわち、明治天皇はまだ開通したばかりのピカピカの線路を走り、やがて広島駅へと降り立たれたのです。
したがって、もしも山陽鉄道の開通があと数ヶ月遅れていれば、この歴史的な大移動は不可能であったか、あるいは船で何日もかけて海を渡るという、過酷なものになっていたはずです。
広島駅での大熱狂
明治天皇が広島駅に到着されたとき、駅周辺は想像を絶するほどの熱気に包まれました。
このとは、もはや街中が祝賀ムードとなり、
という驚きと喜びで、広島市民は総出で天皇をお迎えしました。
そして駅から広島城までへと続く道は、もはや奉迎の人々によって埋め尽くされたといいます。
「日本の首都・広島」の始まり
天皇陛下が広島城内の大本営に入られたことで、広島は名実ともに、日本の政治・軍事の中心地となりました。
すなわち、この鉄道の旅こそが、まさに広島を「地方都市」から「臨時の首都」へと変えた瞬間だったというわけですね!
明治天皇が過ごした広島城での「とても質素な生活」
こうした広島へ来られた明治天皇は、広島城内にかつて存在した旧・第5師団司令部を「大本営」として、約7ヶ月間も滞在されました。
その生活は、とても質素な暮らしであったとされています。
天皇は、戦地で戦う兵士たちと苦労を共にするという想いから、非常に簡素な部屋で過ごされました。
豪華な食事も控え、また夜遅くまで書類に目を通されていたというエピソードが残っています。
すなわち、江戸時代の始めに福島正則さんが必死に守り、また浅野家が大切に受け継いできたこの広島城が、今度は「国の中心」として天皇を支えたと思うと、歴史の繋がりを感じますね!
明治天皇の広島でのご訪問先
厳島神社:宮島への参拝
広島に来られたからには、やはり安芸の宮島・厳島神社へも足を運ばれています。
1894年(明治27年)の10月、明治天皇は軍艦に乗って宮島へ渡られました。
ここは古くから平清盛など時の権力者が大切にしてきた場所ですが、明治天皇もここで日本の平和を祈願されたことでしょう。
また、当時の宮島の人々は、島に天皇が来られるということで、それはもう大変な騒ぎでお迎えしました。
すなわち、宮島もまた、軍都・広島を支える「神聖な祈りの場」としての役割を果たしたというわけですね!
饒津神社:浅野家への敬意
また、明治天皇は広島城の北側にある饒津神社にも参拝されています。
ここは、江戸時代に広島を長く治めた浅野家の殿様たちを祀る神社です。
明治天皇は、広島という土地を長く代々守ってきた浅野家への敬意を表すために、この場所を訪れたのでした。
宇品港:兵士への激励・視察
また、明治天皇は頻繁に宇品港(現在の広島港)の様子を気にかけられ、また視察も行われました。
すなわち、兵士たちへの激励でした。
明治天皇は、自身の命令一つで戦地へ向かっていく兵士たちが、宇品から船に乗っていく様子を、どのような気持ちで見つめていたのでしょうか。
宇品港は、当時の天皇にとって
であったと言えます。
明治天皇と、広島の人々との絆
こうして明治天皇が約7ヶ月もの間、広島に住まわれたことで、広島の人々は
という強い誇りを持つようになりました。
今でも広島のあちこちに「明治天皇駐蹕之所」といった石碑が残っているのは、その時の驚きと喜びが大きかった証拠ですね。
現代の広島城
戦後の復元と貴重な資料
現在の広島城は、戦後に復元されたものです。
かつての広島城の天守閣は国宝に指定されていましたが、1945年の原爆投下による衝撃で倒壊してしまいました。
これは本当に悲しい出来事ですね。
現在の広島城の姿は、広島復興大博覧会に合わせて、1958年に復元・再建されたものです。
というのも、幸いなことに、
- 明治時代に撮影された古い写真
- 非常に精密に描かれた図面
- 測量データ
など、復元のために不可欠なデータが残っていました。
復元:壊れてしまったものを、元の姿や形に作り直すことです。
ちなみに想像だけで復元することは出来ず、復元には必ず昔の正確な根拠・データなどが必要です。
したがって、こうした根拠が高い精度で残っていたため、広島城外観をかなり忠実な姿で蘇らせることができたのです!
ただし、現在はコンクリート造りなので、さらに詳しく調査をして、より本来の姿に近い「木造」で再建しようという熱い計画も進んでいるというわけです。
広島の力強さ
お城が復元されたことは、戦争で荒廃・疲弊していた広島の人々にとっては、まさに「復興の象徴」でもありました。
すなわち、ボロボロになった街の中で、再びお城が立ち上がる姿を見て、当時の人々はどれほど勇気づけられたことでしょう。
お城の復元:資料がないとできない?
そして先述の通り、お城の復元(特に、木造での忠実な再現)のためには、非常に厳しいルールがあります。
現在の基準では、当時の図面や写真などの「確実な根拠」がないと、史跡内での復元は認められません。
すなわち、
という程度の、単なる想像だけでの建築では、なかなか文化財としては認められにくいのです。
しかし広島城の場合は、明治時代に精密な測量が行われており、天守の内部までもがわかるような、非常に詳細な図面が残っていました。
また、古い写真もたくさん残っているというわけです。
すなわち、広島城は「日本でもトップクラスに復元資料が揃っているお城」だったというわけです!
だからこそ今、より過去に忠実に再現するために「コンクリート製から木造へ」という議論が、現実味を帯びて進んでいるというわけですよ。
最後に:形を変えて生き続けるお城
広島城は、
- 江戸時代は「政治の場」
- 明治・大正・昭和初期は「軍事と国の中心」
- そして今は「歴史を伝える場所」
として形を変えてきました。
資料が残っているからこそ、私たちは将来、毛利さんや福島さんが見ていたのと同じ「木のぬくもりがある天守」を再び見ることができるかもしれません。
その日が来るのが、今から楽しみですね!
おわりに・まとめ
広島城の地理や歴史を学んでみて、いかがだったでしょうか。
巨大なデルタを作り上げた大田川の力と、そこに情熱を注いだ武将たちの物語は、今の広島の街にしっかりと受け継がれています。
したがって、これらを学ぶことで、ただお城を見るだけでなく、当時の人々の暮らしまで感じられるようになり、観光や探訪がより深くて面白いものになります。
すなわち、歴史を知ることは、街への愛着を育むことなのですね!
さあ、学んだ知識をふまえ、新しい発見に出かけましょう!
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